世界史(1 )人類の出現

 

(旧石器時代)

 人類がはじめて地球上に出現したのは約400万年前である。これは1924年に発見されアウストラロピテクス類(南部の猿の意味)という。猿人類に属し、身長140cm〜160cmぐらいで脳の容積はチンパンジーと同じくらいであるが人類の特色である「直立二足歩行」して自然石などの簡単な打製石器(礫石器)を使用していた。 

 

 やがて約150万年前に原人類が出現した。約50万年前に出現した北京原人、ジャワ原人がその代表である。

北京原人は北京郊外約50kmの周口店で発見された。学名はホモ・エレクトゥス・ペキネンシスである(現在はホモ・エレクトゥスの亜種)。北京原人は改良された打製石器(ハンドアックス)を使用し、火と言語を使用し狩猟・採集生活を行った

 同時期にジャワ原人がいた。1891年ジャワのトリニールでオランダ人デュボアによって発見された。かつてはピテカントロプス・エレクトゥス(直立猿人)と言われたが現在ではジャワ原人という。

 原人は氷河期の厳しい環境を生き抜きアジア・ヨーロッパ・南アジアに広がった。

 さらに20万年前になると旧人類が出現した。ネアンデルタール人がその代表である。人類学的に脳の容積は現代の人類とほぼかわらない。死者を埋葬する風習があり精神文化の発達を見ることができる。彼らはヨーロッパから南アジアにかけて居住し剥片石器(はくはんせっき)ー原石を打ち欠いてつくった薄いかけらから製作した石器)を使用した。

 氷河期が終わりに近づく3万年前には新人が出現した。我々と同じ現生人類である。

 フランスのクロマニヨン人、中国の周口店上洞人などである。彼らはより精巧な剥片石器、骨角器を使用し、スペインのアルタミラやフランスのラスコーに馬やイノシシ、鹿などを描いて洞穴壁画を残した。これらは多産を願う呪術的なものであると考えられている。

 このように打製石器を使用し狩猟・採集(獲得経済)を行った時代を旧石器時代という。

 

(新石器時代・青銅器時代・鉄器時代)

 約1万年前になると氷河時代が終わり、地球は温暖化して地球環境は変化した。

 西アジアでは麦の栽培と山羊・羊・牛などが飼育された。アジアでは米・粟、メソアメリカ(中南米)ではとうもろこし・じゃがいもなどが栽培された。

 農耕・牧畜の開始である。旧石器時代の狩猟・採集を中心とした獲得経済から農耕・牧畜の生産経済に移行していった。

 農耕・牧畜が進むと人々は定住生活をして村落が形成し織物や土器などを製作するようになった。また打製石器に代って磨製石器(石斧・石臼など)の使用と農耕・牧畜を特色とした時代を新石器時代という。

 この時代の農耕は雨水にたよる乾地農法で肥料を用いない略奪農法であった。しかしメソポタミアで大河を利用した灌漑農業が始まると、食料生産が行なわれると人口も増加して定住生活が行われて村落が成立した。

(アカデミア 世界史 浜島書店)

 

(古代オリエント)

 オリエントとは「東方、日の昇るところ」を意味し、ギリシア・ローマからみて東方、メソポタミア(現在のイラン・イラク)・シリア・エジプト方面である。この地域は雨が少なく乾燥していて砂漠・草原・岩山などが多い。上の地図にあるようにメソポタミア、シリア、エジプトに至る地域は

「肥沃な三日月地帯」と言われている。

 ここでは羊・ラクダを飼育する遊牧生活が行われたり、各地に点在するオアシスで麦・豆・オリーブなどが栽培された。

 メソポタミアのティグリス・ユーフラテス川流域やエジプトのナイル川流域では川の定期的氾濫を利用して灌漑農業がおこなれて都市文明が発達した。

 

①メソポタミア文明

 メソポタミアとは「両河の間」という意味で、ティグリス・ユーフラテス川の間の地域である。

前4000年ころシュメール人がメソポタミア地方に定着して神殿を中心に都市を作り、前3000年ごろにはウル・ウルク・ラガシュなどの都市国家を形成した。

 シュメール人は楔形文字を使用して粘土に記録した。文字が使用されるようになってからの時代を歴史時代、それ以前を先史時代という。

 このころ青銅器、もちには鉄器が使用された。都市国家では壮大な神殿や王墓が造られ、王を中心に神官・役人・戦士・商人・職人などの階級社会が成立した。

 小麦などが栽培され、山羊・豚・牛が飼育されて農耕が始まると人口も増えて、農業生産物などの交易が行われて都市国家が繁栄した。しかし絶え間ない戦争によって都市国家は衰退した。

 都市国家にはジッグラト(聖塔)が築かれてその上に神殿が建てられた。

 

 

(ジッグラト。シュメール人の都市国家ウルの煉瓦造りの塔。王や神官は正面かと側面から階段をのぼったところにある祭壇で都市の神をまつった)

(詳説 世界史 山川出版社)

 

 

 旧約聖の「創世記」にありバベルの塔はバビロンにあったジッグラトが伝説化されたという説もある。

 これは旧約聖書に書かれている「バベルの塔」である。聖書にはこう書かれている。

 

「全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので、彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである」

— 「創世記」11章1-9節[5]

 

 神をおそれない人間が天に届こうとする塔を建てるのをやめさせるために従来1つであった言語を乱して(バベルー乱す)言葉を通じさせなくしたという。これが世界の言語の始まりでる。

 

 (アッカド王朝)

セム語族に属するアッカド人はシュメール人の国家を滅ぼして、前2400年ころメソポタミア全域をサルゴン1世(在位前2371〜前2316ころ)が初めて統一した。

 

(バビロン第1王朝)

 アッカド王国滅亡後、代ってセム系のアムル人がバビロン第1王朝(古バビロニア王国)をおこしてハンムラビ王(在位1792年ころー前1750年ころ)は再びメソポタミアを統一した。王は運河の大工事をおこなって「ハンムラビ法典を発布して法にもとづく強力な政治をおこなった。

 法典には「眼には目を、歯には歯を」という同害報復の復讐法にたっていたが身分によって刑罰は異なった(身分法)。

 

ハンムラビ法典

1条 人がもし他人を死刑に値するとして告

訴し、しかもこれを立証できない 

時は、告訴人は死刑に処せられる。

53条 自己の堤防を強固にすることを怠り、

彼の堤防において崩壊が起こり、 

水が耕地を流し去った時は、崩壊した 

個所の堤防の所有者は、彼が消失

させた穀物をつぐなわなけれならない

195条 子がその父を打ったときは、その手

を切られる。

196条 他人の目をつぶした者はその目をつ

ぶされる。

199条 他人の奴隷を目をつぶしたり骨を折

ったりした者は、その奴隷の価

の半分を支払えばそれでよい。

(詳説世界史 山川出版社)

 

そのころ小アジアでは鉄製の武器を使用しいたインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人は前17世紀なかばに強力な統一国家を形成してバビロン第1王朝を滅ぼした。

 また同じ語族のカッシート人は南メソポタミアに進出してカッシート王国を建設した。

 ミタンニ王国は北メソポタミアからシリアにかけて領土を拡大した

前15〜14世紀にかけてオリエント地方は諸王国が並立して混乱した。

( アカデミア世界史 浜島書店)