(キリスト教の成立)


 (イエスによるユダヤ教の批判)


 ユダヤ人(自らはイスラエル人と称し、他からはヘブライ人とよばれた)は唯一神ヤハウェを信じ、彼らは神とから選ばれた特別な民族であり(選民思想)神から与えられた律法を厳守することで救われる(律法主義・戒律主義)を説いたが、これらをイエスは批判した。

 選民思想は旧約聖書のどこで扱われているだろうか。


「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである(出エジプト)。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」(申命記7・6‐9)

 この選民思想に対して、イエスは全ての人は神に愛される資格を持ってると言っている。「天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上(のぼ)らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ6・11)と言ってユダヤ人だけでなく貧しい人や病気で苦しんでいる人にも神を愛を説いた。

 また律法主義・戒律主義についてのイエスの批判について、ユダヤ教は「モーセの十戒」を厳守することを求めているが、イエスはこれを批判した。そのうち安息日について十戒のなかに「安息日を覚えてこれを聖とせよ。主は6日のうちに、天と地と海とその中の全てのものを造って7日目に休まれたからである」とあるが、イエスは戒律主義・形式主義を批判した。

 「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると弟子たちは道々穂を摘みはじめた。するとパリサイ人(ユダヤ人の律法主義者)たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは安息日なのに、してはならないことをするのですか」イエスは彼らに言われた。「ダビデ(ユダヤ人の王)とその連れの者たちが、食がなくてひもじかったとき、ダビデは何をしたか読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを自分も食べ、また、ともにいた者たちにも与えたではありませんか」、また言われた「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」(マルコ2・23ー27)

 「キリスト教」は,「イエス」を「キリスト(救世主)」であるとする宗教である。「新約聖書」によると「イエス」は,紀元前7年,もしくは紀元前4年頃,イェルサレム郊外のベツレヘムの馬小屋で母「マリア」から誕生したいう。

30歳頃に洗礼者ヨハネの教えに共感した「イエス」は,ヨハネから洗礼を受けた後,ガリラヤ地方(パレスチナの北部)で伝道を開始したという。

 当時のパレスチナは,ローマの属州であったので「ユダヤ人」の間には「メシア(救世主)」が出現して自分たちを救ってくれると思っていた。

 このころ、イエス」は,「神の絶対愛」(神の無差別の愛)や「隣人愛」(自己を愛するように他人を愛する愛)を説き,弟子たちとパレスチナの地を旅しながら,病気の人々を治療するなど様々な奇跡を行い、イエスを支持する人が増えていった。

 このようなイエスの教えがユダヤ人だけが救われるという「選民思想」と相反するとして「ユダヤ教」の指導者であるパリサイ派やサドカイ派がイエスを批判した。

 パリサイ派は「モーセの律法」を厳格に守るべきであるとしたのでイエスに批判されたのである。パリサイ派は祭司層であるサドカイ派と手を結んで「イエス」をローマに対する反逆者として,当時のローマ領ユダヤ総督ピラトに訴えた。イエスの12人の弟子ユダの裏切りによって捕えられて反逆者としてイェルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられた(紀元後30年ころ)

 その前日の「最後の晩餐」はレオナルド・ダ・ヴィンチよってに描かれている。

 イエスは処刑されたあと、3日後に復活したという。このイエスの復活を信じて,彼こそが「メシア(救世主)」(ギリシア語のキリスト)であるとして,「イエス」の示した「福音」に救いを求める信仰が「キリスト教」として生まれた。

 キリスト教は,ペテロやパウロなどの使徒の布教によってローマ帝国内の下層市民を中心に広まった。

 しかしキリスト教は1世紀のネロ帝や3世紀のディオクレティアヌス帝の迫害された。キリスト教徒が皇帝崇拝を拒否したからである。しかしキリスト教徒は地下墓所「カタコンベ」で信仰を守り続けた。

 3世紀以降のローマ帝国の混乱の時代になると上層市民にもキリスト教の信者が増加して各地に信者の共同体が組織されて教会が設立された。

 4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認したため(313年ミラノ勅令)キリスト教はローマ帝国内に広まった。

 キリスト教が拡大するにつれてキリスト教の異端派も現れるようになったのでニケーア公会議が開催されて「父なる神とその子キリストと聖霊は三位一体説を正統としてキリストの人間性を認めたアリウス派を異端とした。

 キリスト教の特色は特定の民族、人種、身分、社会階層のためのものではなく、多くの民族やさまざまな人々に信仰されてきた世界宗教であり、キリスト教団や組織に維持されてきた。

 現在はロシアなどの広まっている正教会とローマ教皇を首長とするローマカトリック教会、ルター・カルヴァンによる宗教改革の結果、生まれたプロテスタントなどの宗派がある。