(ノルマン人のヨーロッパ侵入)


 ゲルマン人の大移動によってヨーロッパ各地にノルマン人の国が建国されたが、スカンジナヴィア半島やユトランド半島を原住地とするゲルマン人の一派ノルマン人(北方の人)が住んでいた。

 ノルマン人にはノール人(ノウルウェー)・デーン人(デンマーク)・スウェード人(スェーデン)の3部族がいた。

 ノルマン人が住んでいた地域は陸地が深く入り込んだ狭い湾であるフィヨルド海岸があって、農業に適していなかったので彼らは漁業・狩猟・牧畜・商業交易活動に従事していた。


(アカデミア 世界史 浜島書店)

 外洋航海だけでなく、水深1mほどの河川をさかのぼって、内陸部にも進出して商業活動や略奪を行った。


 ノルマン人の一部は8世紀後半から11世紀にかけて西ヨーロッパ各地に移動して建国した。ノルマン人は航海が得意で、底の浅い細長い舟にのって河川をさかのぼってヨーロッパ内陸部に侵入して商業活動や掠奪や海賊行為を行なってヴァイキング(入江の民という意味。ノルマン人の自称。フィヨルド海岸の入江に住んでいた)ともよばれていた。

 北フランスにノルマンディー公国、イタリアやシチリア島に両シチリア王国、ヨーロッパ東方のロシア方面にノヴゴロド公国やキーウ(キエフ)公国を建国して一部は1000年ごろ北アメリカ海岸にも到達した


 またノルマン人のほかにマジャール人(ハンガリーを建国)イスラム教徒も西ヨーロッパ人に侵入を繰り返した。


(アカデミア世界史 浜島書店)

 ノルマン人が侵入した時のヨーロッパはゲルマン人の国、フランク王国が分裂して東フランク、西フランク、イタリアが成立していた。東ヨーロッパには古代ローマ帝国が東西に分裂して(395)、東ローマ(ビザンツ)帝国が成立していた。


(北フランス・イングランド)

 10世紀初め(911)首長ロロが率いるノルマン人の一派は北フランス(西フランク)に上陸して、フランスのカペー朝シャルル3世からキリスト教へ改宗することを条件に領土の所有を認められてノルマンディー公国を建国した。

 そのノルマンディー公ウィリアムは1066年イングランドのゲルマン人でアングロサクソンの王、ハロルド2世をへースチングスの戦いで破り、イングランドを征服してノルマン王朝(1066〜1154)を建国した。これをノルマン・コンクェスト(ノルマンの征服)という。これによってイングランドはアングロ・サクソンにの支配層は一掃されてノルマン人による強力な王権が成立した。それと同時にフランスにはイギリス領が拡大された。


(南イタリア・シチリア)

 11世紀ごろからノルマン人は地中海方面にも活発に進出した。その結果、

ノルマンディー公国の騎士の一部はイタリア方面に進出した。

 南イタリアからシチリア島一帯はイスラム教勢力が侵入したので、ローマ教皇の意図のもと、1130年ルッジェーロ2世の時、イタリア半島南部とシチリア島を合わせて両シチリア王国(1130〜1860)を建国した。


(イングランド)

 ゲルマン民族の大移動の時イングランドにはアングロ・サクソン七王国が成立していたがやがてウェセックス王エグバートが統一した(829)。

 しかしこの頃からノルマン人の一派デーン人がイングランドに侵入繰り返した。

 アングロサクソン王国のウェセックス王のアルフレッド大王(在位871〜899)はデーン人の侵入を撃退して法律や行政制度、騎士軍の編成・海軍の創設などの軍制改革や学芸の保護を行った。

 10世紀になると再びイングランドにデーン人の侵入が続き、1016年にはデンマーク王クヌートによって征服されてデーン朝(1016〜42)が成立した。

クヌートはデンマーク王を継承してノルウェーをも支配して大海上帝国を建設した。しかしクヌートの後、帝国は崩壊して、イングランドには再びアングロ・サクソンの王国が復活した。

 その王エドワード(懺悔王)はノルマンディーで育ったこともあってノルマン人貴族を重用してイギリスの国内貴族と対立した。

 1066年イングランド王国のエドワードが後継者を定めず死去したので有力諸侯間で王位継承争いが起こった。アングロサクソンのハロルド2世が即位したが、ノルマンディー公ウィリアム(ギョーム)がエドワードの従兄弟であったので王位継承を主張してイングランドに侵入した。ウィリアムは軍隊を率いてへースチングスの戦いでハロルドの軍を破った。これがノルマン・コンクウェストである。


(アカデミア世界史 浜島書店)


 その結果イングランドにはノルマン朝が成立してノルマンディー公ウィリアムはウィリアム1世(在位1066〜87)として即位した。

 ウィリアムはイギリス王であったがフランスのノルマンディー公としてはフランス王の家臣であった。そのため彼はイギリスとフランス領の両方を支配することになった

 イギリス王としてはウィリアム1世(在位1066〜1087)。ノルマンディー公としてはギョーム2世(在位1035〜1087)であった。

 ウィリアムは数年のうちに北部のアングロ・サクソン貴族の反乱を抑えて全イングランドの支配権を確立してフランスから封建制度を導入して彼らを支配した。検地を行いドムズディ・ブックとよばれる土地台帳を作成した。

 フランスではウィリアムの死後、長子ロベールがノルマンディー公となったが、イギリス王ウィリアム2世(在位1087〜1100)と対立し、ヘンリ1世(在位1100〜1135)の時の時、再びイギリスに併合された。

 このようにイギリスはフランスに多くの領土を所有していたのでフランス王とイギリス王と領土を巡って長い間戦争を起こすことになる。


(ノルマンディー公国以後のフランス、カペー朝)

 フランスではカロリング朝が断絶して(987)西フランクは滅んだ。そのあと、パリ付近を支配していたパリ伯ユーグ・カペーがカペー朝(987〜1328)を創始してフランス国王となった。しかし封建諸侯の勢力が強くて王権は弱く、王陵領もフランス北部のみで狭かった。

 このころイギリスではノルマン朝に代わってプランタジネット朝が成立するとフランスの国土の半分を領有した。

 フランスカペー朝のフィリップ2世(在位1180〜1223)が即位すると官僚制を整備し 封建諸侯を押さえ王権を強化した。フィリップ2世は第3回十字軍に参加したがイギリス王リチャード1世(在位1157〜99)対立して戦った。さらにフィリップはリチャードの死後、即位したジョン王(在位1199〜1216)と戦ってかれが所有したいたフランス国内の領土を奪って王権を強化して王領を拡大した。

 このジョン王はフィリップ2世との戦いに敗北してフランスにあったイギリス領の大半を失い、カンタベリー大司教の任命問題で教皇インノケンティウス3世に破門された。貴族から失政を非難されて大憲章(マグナ・カルタ)を承認させられた。その内容は封建的特権を国王に承認させて国王の権力の濫用を禁止したものである。

 一方、フランスはぺー朝のルイ9世(在位1226〜70)、フィリップ4世(在位1286〜1314)の時代に王権が強化された。


(ロシア方面に進出したノルマン人)

 一方リューリクを首長とするノルマン人の一派はロシア方面に9世紀ノヴゴロド国を建国し(862)かれらの一部が南にオレーグがキエフ王国を建国した。これがロシアの起源である。

キエフ公国はウラディミル1世(在位980頃〜1015)はビザンツ皇帝の妹と結婚したのをきっかけにギリシア正教に改宗して国教として国家と宗教を統一してキエフ公国の権威を高めた。またかれはノルマン人の植民政策を進めた。

しかし13世紀になるとモンゴル民族が侵入してモンゴル人のキプチャク・ハン国の支配下に入った。 

 15世紀モスクワ大公イヴァン3世(在位1462〜1505)はモンゴル人の支配から独立してビザンツ皇帝の姪と結婚してツアーリ(皇帝)の称号を用いて

ビザンツ帝国の後継者、ギリシア正教の擁護者となり「モスクワは第三のローマ」とよばれた。(第一はローマ、第二はコンスタンティノープル、第三はモスクワ)

  ノルマン人の原住地であるユトランド方面にはスカンジナヴィア半島、ユトランド半島方面にはデンマーク・ノルウェー・スウェーデンなどが建国された。


 ノルマン人以外のスラヴ人、イスラム教徒、マジャール人などもヨロッパ各地にに侵入したのでヨーロッパは混乱期をむかえた。

この混乱期の時代に封建制度が成立した