(フランク王国の分裂)


フランク王国のカール大帝は地方の有力豪族を伯に任命したがカール大帝の死後、内紛がおこった。

 フランク王国は成立当初から分割相続が慣習として行われていたため分裂しがちであった。カール大帝が814年死ぬと彼の子ルートヴィヒ1世(敬虔王)が領土と帝位を相続した。ルートヴィヒ1世にはロタール1世・ピピン1世・ルートヴィヒ2世の他に、2度目の后との子シャルル2世(のちの禿頭王)がいたが、ルートヴィヒ1世がこの末っ子を偏愛したことから、3人の兄たちの反乱を招いた(829年〜833年)。こうした混乱の中で、838年にピピン1世、840年に父帝ルートヴィヒ1世が相次ぎ亡くなると、長兄ロタール1世は弟の領土も奪おうとしたため、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が連合してロタールと戦い、勝利して843年のヴェルダン条約で帝国はロタール1世は中部フランクと帝位、イタリアを領有し、ルートヴィヒ2世は東フランク、シャルル2世は西フランクを領有した。

 しかし、855年にロタール1世が亡くなると、ロタール1世の子(ルートヴィヒ2)はと東フランクのルートヴィヒ2世、西フランクのシャルル2世の間で争いが再燃し、結局870年のメルセン条約で、東フランクに(.後のドイツ)をルートヴィヒ2世、西フランク(後のフランス)をシャルル2世、イタリアと帝位をロタール1世の子ルートヴィヒ2世が獲得した。



(東フランク)

 東フランク(ドイツ)ではカロリング家が断絶(911)したあと、諸侯が各部族を支配していた。諸侯は選挙で選ばれ、ザクセン家のオットー1(在位936937)はマジャール人(のちのハンガリー人)やスラブ人(ロシア人など)を撃退して北イタリアを征服して962年には教皇からローマ皇帝の帝冠が授けられた。ドイツ皇帝によるローマ帝国の復興である。これが神聖ローマ帝国(9621806)の始まりである。

  ドイツ王が神聖ローマ皇帝を兼ねた。古代ローマ帝国を再興したカール大帝の西ローマ帝国を引き継いでローマ・カトリック教会の守護者ということから神聖ローマ帝国といった。

 歴代の皇帝はイタリア政策(イタリアに介入して教会を政治に利用しようとした)に熱中したためドイツ国内は大諸侯の勢力が分裂しがちであった。

シュタウフェン朝(11381208.121554)

朝が断絶したあと、政治的混乱が続いて皇帝がいなかったので大空位時代(125673)とよばれた。

 皇帝カール4(在住134778)は金印勅書を発布して(1356)ドイツ皇帝は7人の選帝侯

(マインツケルントリール大司教ファルツ伯ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯・ベーメン王)に委ねることを定めた。

14世紀以降は大諸侯の領地(領邦)が分立して地方の権力を握った。

 15世紀以降、皇帝はオーストリアのハプスブルク家から選出されるようになったが

各地に領邦があったため統一は難しく、17世紀の三十年戦争(16181648)によりドイツの分裂はすすみ、ハプスブルク家の支配は失われ、19世紀ナポレオンによるヨーロッパ支配によるライン同盟結成により神聖ローマ帝国は消滅した(1806)



(西フランクーのちのフランス)

  西フランク(フランス)では10世紀末カロリング家が断絶(987)してパリ伯ユーグ・カペーがカペー王朝(9871328)を創始した。初め王権はパリは周辺の一部を領有するだけで勢力は弱く、大諸侯が多数分立していた。

しかし、12世紀末に即位した国王フィリップ2(在位11801223)はイギリス王ジョン王と戦ってフランス国内にあるイギリス領を奪った(当時のフランスはほとんどイギリスが領有していた。これについてはまた後述する)

 またルイ9(在住122670)は南フランスの異端のアルビジョワ派を平定して、王権を南フランスに拡大した。

 さらにフィリップ4(在住12851314)はローマ教皇ボニファティウス8世と聖職者への課税をめぐって対立してアナーニで教皇を捕らえた(アナーニの屈辱)。以後教皇庁はローマから南フランスのアヴィニョンに移されてフランス王の支配下に入った。これを教皇のバビロン捕囚という(130977)  これは古代にユダヤ人が新バビロニアに征服されてバビロンに捕虜となったことにもとづく。以後ローマ教皇庁はアヴィニョンに移された。

 やがてローマにも教皇が立ったので教会はローマとアヴィニヨン分裂した(教会大分裂・シスマ)。この結果、教皇権は衰退して王権が強まった。


(イタリア)

イタリアではカロリング家が断絶したあと、  神聖ローマ(ドイツ)皇帝の侵入(イタリア政策)により国内は分裂した。ローマ教皇領、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどの都市が分立した。