(フランク王国の分裂)
カール大帝の領土は広大であったが分割相続であったので国内は分裂の危機があった。カール大帝が亡くなると相続争いが起こった。
(詳説 世界史 山川出版社)
830年からカロリング家の争乱が起こり、カール大帝の子ルートヴィヒ1世の死(840)後、かれの長男ロタール1世は次男ルートヴィヒ2世と異母弟シャルル2世と対立し、長ロタール1世が敗北して、843年のヴェルダン条約でロタール1世は帝位と中部フランク、北イタリアを領有し、ルートヴィヒ2世は東フランク、シャルル2世は西フランクを領有した。
その後も3人の争いは続いた。フランク王国が分裂したこともあって、このころノルマン人の大陸への侵入も激化した。ノルマン人はスカンジナヴィア半島、ユトランド半島を原住地とするゲルマン人で航海に長じて商業活動や略奪行為を行いヨーロッパ各地に侵略してヴァイキングとして恐れられた。
855年に長兄ロタールが没するとロタールの遺領をめぐって争い、中部フランク(ロタール領)を東フランクのルードウィヒ2世と西フランクのシャルル2世が分割した。そしてイタリアをロタールの子ルートヴィヒが相続した。これが870年のメルセン条約である。この条約の結果、これがのちのイタリア・フランス・ドイツのもとになった。9世紀末には3国ともカロリング王家は断絶した。
(詳説 世界史 山川出版社)
(東フランク)ードイツ
東フランクでは10世紀初めカロリング朝が断絶(911)して、諸侯の選挙で王が選ばれた。ザクセン家のオットー1世(在位936−973)は東北部のマジャール人やスラヴ人を撃退して北イタリアを支配して962年ローマ教皇ヨハネス12世によってローマ皇帝の位を授けられた。これが神聖ローマ帝国(962−1806)である。
神聖ローマ帝国の起源については教皇レオ3世による800年のカール戴冠、または教皇ヨハネス12世による962年のオットー大帝への戴冠の2つがある。
神聖ローマ帝国はドイツ王が神聖ローマ皇帝として統轄した地域で現在のドイツ•オーストリアを中心とした中央ヨーロッパの多民族連合国家である。
それは古代ローマ帝国の復興を意味する。
神聖ローマ皇帝は政治的分裂が進み14世紀ごろから帝国は分裂いて諸侯が分立した。歴代の皇帝はイタリア政策(教会を統治に利用するためにイタリアへの介入した)のため国内を留守にしがちだったので統一はできなかった。皇帝が不在の大空位時代(1256−73)もあった。カール4世は金印勅書(1356)を発布してドイツの皇帝選出権を7人の選帝侯に認めたほどであった。
カトリック派と新教派(ルター派・カルヴァン派など)が対立したの三年戦争(1618ー48)後には帝国内には約300の王国、公国、都市など領邦国家が分立した。
15世紀前半以降には皇帝はオーストリアのハプスブルク家から選出されて帝国の統一が進められたが、多くの諸侯や都市が分立していたことや、帝国内にマジャール人など多くの民族が住んでいたため統一はますます困難であった。
神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世によって解体させられて、ライン同盟が組織された。
(アカデミア世界 浜島書店)
(西フランク)
西フランク(フランス)はカロリング朝が断絶(987)後、パリ伯ユーグ・カペーが王位についてカペー朝(987ー1328)を創始したが王権は弱体で諸侯が分立した。
(イタリア)
カロリング朝が断絶(875)すると、神聖ローマ帝国の介入、イスラム教徒の侵入などで国内は教皇領、ヴェネツィアなどの都市が分立した。
西フランク・イタリアについては次回