西フランク

フランク王国は東フランク、西フランク、イタリアに分裂したが、西フランク(フランス)では10世紀末、カロリング朝が断絶し、パリ伯ユーグカペー(在位987−996)が王位についてカペー朝を創始した。

王権は弱体でパリ周辺を支配して諸侯が分立していた。

しかし、12世紀末に即位したフィリップ2(在位11801223)はイギリスのジョン王(在位11991216)と戦ってフランス国内のイギリス領の大半を奪った。

 当時のイギリスはフランス国内に多くの領土を持っていた。なぜなら、ノルマン人の移動で北フランスにあったノルマンディー公国のノルマンディー公ウィリアムがイングランドに上陸して(ノルマンコンクゥエスト)ノルマン王朝(10661154)を建国してイギリスを統一したからイギリスはフラン領内に領土を所有していたからである。

 ルイ9世(在位1226−70)は南フランスの諸侯と結びついたキリスト教の異端派のアルビジョワ派を平定してここにも領土を広げた。

 さらにフィリップ4世(在位1268−1314)は教皇ボニファティウス8世と聖職者への課税をめぐって争い、教皇を捕らえた。これをアナーニ事件という。その後、まもなくして教皇は屈辱のうちに死んだ(アナーニの屈辱)

フィリップ4世は以後、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し教皇はフランス王の支配下におかれた。これを教皇のバビロン捕囚という(130977)。その後、ローマにも教皇が立ったので、ローマとアヴィニョンの2人の教皇が対立した。これが教会大分裂(

13781417)である。

 こうして教皇の権威は失墜していった。


 それまでの教皇は国王や皇帝と同等の力を持ち、教皇の下には大司教、司教、司祭というピラミッド型の頂点にいて、11世紀には教皇は皇帝をも屈服させた。これを象徴する事件がカノッサ事件(1077年カノッサの屈辱)である。これは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4(在位10531105)ローマ教皇グレゴリウス7世は聖職者叙任権問題で対立してハインリヒは敗れてカノッサで教皇に謝罪した事件(カノッサの屈辱)である。

 そして13世紀には教皇インノケンティウス3世のときは教皇権の全盛期であった。

 しかし、先述したように、フランスでは王権が強化されて、教皇権は衰退していった。

 また教皇権の失墜の原因のひとつに十字軍の遠征の失敗があげられる。

 十字軍の遠征はキリスト教の聖地イェルサレムがイスラム教徒の国、セルジューク・トルコに占領されたことを理由に1095年ローマ教皇ウルヴァヌス2世がクレルモン公会議で聖地回復の十字軍の遠征を提唱して、翌96年から大きなものでも7回の遠征がおこなわれたが、聖地に回復には失敗した。

 十字軍の遠征については次回。