封建社会の成立

 4世紀末のゲルマン民族の大移動、さらに8世紀から10世紀にかけてスラヴ民族、イスラム教徒、ノルマン人などがヨーロッパへの侵入した混乱期には商業や都市は衰退し、農業を主とする自給自足経済がおこなわれた。この時期、外敵の侵入から土地や財産を守るため有力者に保護を求めた。ここから主君が家臣に封土(領地)を与える代わりに家臣は主君に忠誠を誓って軍事奉仕や貢納(税)の義務を負った。このような土地をなかだちとした主従関係を封建制度という。

 これは古代ローマ帝国の恩貸地制(土地所有者が自分の土地を有力者に献上してその保護を受けた制度)とゲルマンの従士制(貴族や自由民の子弟がほかの有力者に忠誠を誓ってその従者になる制度)が結合したものである(古代ローマ帝国はゲルマン民族の侵入によって滅亡した)

 国王、諸侯、騎士の領地を荘園という。彼らは荘園領主として農民に耕作させた。荘園は領主直営地、農民保有地、共有地に分かれていた。農民は農奴といわれて土地に縛られていて移動の自由はなく、領主に賦役(労働地代。領主直営地の労役)や貢納(生産物地代)の義務があった。

 領主は国王の役人が荘園に立ち入ることを禁ずる不入の権、課税を拒否する不輸の権を保有していた。

(不輸・不入の権)。王国は分裂していて王権は相対的に弱体で、諸侯たちが分立していた(地方分権)

 

ゲルマン民族の大移動後、ノルマン人、スラヴ人、マジャール人、イスラム教徒のヨーロッパ侵入が開始された。このような民族大移動の時期に外敵の侵入から自分の土地・財産を守ため土地をなかだちとする主従関係である封建制度が成立した。

 

(教会の権威の高まり)

 封建社会ではローマ・カトリック教会の権威が高く、教皇を頂点に大司教・修道院長・司教・司祭という階級組織がつくられた。大司教や修道院などは国王や諸侯から荘園を寄進されて大領主となり、農民から十分の一税を徴収した。やがて国王・皇帝・諸侯(世俗諸侯)と教皇・大司教・修道院長(聖俗諸侯)が対立するようになった。国王や皇帝が聖職者でない人物を聖職者に任命するなど教会に介入するようになった。このように教会が世俗化すると聖職売買や聖職者の妻帯など広まり、教会は堕落していった。

 6世紀にはベネディクトゥスが中部イタリアにモンテカシノ修道院を設立して「祈り、働け」をモットーに「清貧・貞潔・服従」を思想とする禁欲生活をおくり、修道士を育成して教会の権威も高まったが、9世紀半ばからフランク王国が分裂し衰退するとノルマン人の侵入やイスラム教徒の侵入によりモンテ・カシノ侵略された。この危機の中で教会も修道院も封建領主化して俗人の支配を受けるようになり、修道院も荒廃していった、ベネディクト派の戒律を復興させようとして10世紀にクリュニー修道院による改革運動が起こった。教皇グレゴリウス7世(在位1056−1106)は聖職売買・聖職者の臍帯を禁じた。さらに聖職者を任命する権利をめぐってドイツ皇帝ハインリヒ4世と争って彼をカノッサで謝罪させた(カノッサの屈辱1077年)。以後も教皇と皇帝は聖職者の任命をめぐって争った。これを聖職者叙任権闘争という。

そして13世紀の教皇員のインノケンティウス3世(在位1198−1216)のときが教皇権の最盛期であった。彼は「教皇は太陽、皇帝は月」と語り、イギリス王ジョン王などを屈服ささた。

 

(封建社会の衰退、国王・騎士の没落、王権の伸長)

 しかし1300年頃から封建社会のしくみは崩れていった。

 十字軍の遠征(11世紀ー13世紀)などによって交通や都市の発達によって封建社会の基盤である荘園経済(自給自足経済)に代わって貨幣経済が広まると、領主は貨幣を手に入れるため直営地を農民に分与し、賦役(労働地代)をやめ、農民は生産物や貨幣で地代を支払うようになった(生産物地代・貨幣地代)。

 14世紀には黒死病(ペスト)によってヨーロッパの人口の三分の一が失われ、農業人口も減少したため領主は労働力を確保するために農民の地位の向上に努めた。イギリス・フランスなどでは農民が農奴度身分から解放されて自営農民に成長していった。イギリスでは独立自営農民(ヨーマン)が生まれた。

 経済的の困窮した領主が再び農民を束縛しようとすると農民たちは反抗した。イギリスのワット・タイラーの乱(1381)、フランスのジャクリーの乱(1358)である。

 領主層はますます困窮化し、中小領主の騎士たちは大諸侯や国王に土地を没収されることが多かった。

また14世紀には火砲も発明されて戦術が変化すると重い鎧を身につけて戦っていた騎士は没落していった。

 教皇権もまた衰退していった。フランス国王フィリップ4世(在位1285−1314)は教皇ボニファティウス8世(在位1294−1303)と聖職者への課税をめぐて争い、ボニファティウスをアナーニで捕えた(1303ねアナーニの屈辱・アナーニ事件)。以後、フィリップ4世は教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し以後約70年間フランスは教皇を支配した。これを教皇のバビロン捕囚(1309-77)という。これは古代ユダヤ人が新バビロニアに捕虜となったバビロン捕囚(前586ー前538)の事件にちなんでいる。

 

 諸侯・騎士・教会が衰退するにつれて国王の権限が強まった。

  商業圏が拡大すると商人たちは市場を統一する国王による中央集権的的支配を望んだ。一方諸侯や騎士たちは国王に仕える廷臣となった。やがて国王の絶対主義国家が成立する。

 スペイン・ポルトガル・イギリス・フランスなどである。

  17世紀にはローマ・カトリック教会の腐敗・堕落にたいしてルターやカルヴァンによる宗教改革が行われてプロテスタント(新教)が生まれたこと、ガリレオやコペルニクスの地球体説、コロンブスやマゼランなどの新航路の発見などによって神中心の世界観が揺らいできた。

 

 (日本と中国の封建制度)

 日本では鎌倉時代から江戸時代(13世紀末から19世紀後半にかけて土地をなかだちとして主従関係が結ばれて封建制度が成立した。

 鎌倉時代では将軍は家臣(御家人)に土地を与えて(御恩)、家臣は将軍に対して軍役などの忠誠を誓った(奉公)。幕府に一大事があれば「いざ鎌倉へ」と武士たちは馳せ参じた。

 

 古代中国では周(西周ー前11世紀から前8世紀)の時代に封建制度が成立した。周王は一族・功臣・土着の首長らに領土を与えて世襲の諸侯とし、周王への祭祀の参加と軍役と貢納を義務付けた。諸侯も家臣に土地を与えて忠誠の義務を課した。ヨーロッパの封建制は契約関係であるのに対して中国は血縁関係に基づく主従関係であった。
 中国では周王と同じく諸侯も領地を持っていたので諸侯たちはやがて抗争して戦国時代となった(前770ー前221)。この戦国時代を統一したのが秦の始皇帝である(前221)。