野坂昭如 『新編「終戦日記」を読む』を読む  (その1) | 橘民義オフィシャルブログ

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作家野坂昭如(のさか あきゆき)が亡くなってからもう5年目に入った。14歳の時に神戸で空襲に遭い、1歳の妹を背中に負って両親とバラバラになり、飢えと闘うも妹は餓死、野坂はそのまま8月15日を迎えた。

 

まずは野坂の言葉を引いておきたい。

「毎年8月になると言いたい,戦争は天変地異ではなく人災だ」  

「B 29が神戸の西から東方向へ飛んだ,美しい飛行機雲が尾を引いた、5月22日川西航空機の爆弾攻撃。西宮、芦屋、御影、灘がやられた。電線に女の髪の毛が絡まり、足が入ったままの靴が転がり、子供の手を握ったままの母親が黒焦げになっていた。ここは戦場ではなく、味噌汁を沸かし、布団を敷いて活きている生活の場だ。それが一瞬にして悪夢の形相になった。殺された人は軍人ではなく一般市民だった」 

 

おおざっぱな数字ではあるが、この戦争で300万人以上の日本人が亡くなったという。そしてそのうち50万人は空襲によって焼かれた一般市民だった。中でも一番ひどい目にあったのは子供だ。中学生だった昭如少年は妹を飢えで死なせてしまった。その責任と後ろめたさが後の『火垂るの墓』となり、この作品は直木賞を受賞し、アニメにもなる。

 

戦争体験のない私たちにできることは何か、野坂昭如が言い続けたことをどうやって引き継ぐことができるのか。そして、それだけではない、私たちには新たに大きな問題が起きた。 

それはフクシマ。                                          

福島第1原発の事故を、そうだ、私たちは現実に知っているのだ。多くの大人はその時期を生きていた体験者なのだ。もう二度と戦争をしてはいけないという思いと同じ重さで、二度とこんな事故を起こしていけないという意志を、どうしたら言い残せるのだろうか。

 

いや、そもそもあの事故の深刻さを、まさに自分のこととして知っている人がどのくらいいるのだろうか。もう少し運が悪ければ、もし爆発した4号機の燃料プールにひびが入って水が抜けていたら、福島第一原発には人が近づくことができず、第二原発まで全滅しただろう。巨大量の放射能がまき散らされ、半径250キロまで、すなわち東京を含む首都圏まで人が住めなくなる大惨事の一歩手前だったという事実を認識している人が、はたしてどれだけいるのだろうか。

東京まで人が住めないとなると日本は存続し得ない。そんな事態に至らなかったのはただ運だけ、偶然だけ、それこそ神風だったのかもしれない。建屋は爆発して骨の部分がむき出しになったのに、一番大切なそこの部分はあたかも恥部であるかのように奇跡的にぎりぎりセーフだったのだ。

 

それでも皆が知っているように被害は甚大であり、地域にいた動物は全部見殺しにされ、放出した放射能は大地に染みこみ海を伝って世界に流れた。何万年も使えない土地だけでなく、捨てられない汚染水、どう処理することもできないメルトダウンした原子炉が残された。避難した4万人は故郷に帰れない。

 

来年の3月であっという間の10年がたつ。多くのメディアはフクシマ特集を組むだろう。しかし私は、それで終わりと変に区切りを付けられて、さあ後は忘れてくださいと言わんばかりの日本国になってしまいそうな不安を抱かずにはいられないのだ。

 

脱原発などといえばダサイと言われ、その言葉は形骸化した政治課題になって、フクシマと聞いたらまるで猫がいやなときに耳を後ろに向けるように聞きたくない言葉になっていくのだろうか。

 

日本大学芸術学部の村上玄一教授は、

「野坂昭如における責任のとりかた」と題する『新編「終戦日記」を読む』の解説を、

「野坂は最後の最後まで85歳の死の当日までめげることなく語り続けた。戦争の無意味さ怖さ、そして、見せかけだけの繁栄に忍び寄る危険性を。誰も言わないけど野坂昭如は敗戦後の日本が生んだ優れた思想家でもあった。その言葉を大切に守りたい」

と締めくくっている。

 

3.11を、原発事故を現役世代として経験した私たちは、多くの人が忘れかかった記憶をより鮮明に、より強く次世代に伝えることが本当にできるだろうか。

 

それでも私たちは、子供や孫にははっきりもう一回言っておこう。酒を飲みながら、冗談で手を叩きながら、楽しさが満ちあふれている人間関係の中で、夏に一回くらいはマジな話をしてみよう、昨日のNHKスペシャルはすごかったなあという切り出しで沖縄の惨事を語ってみよう、おいしいものばっかり載せていないで、時にはフェイスブックにシリアスな投稿をしてみよう、そして、選挙があったら原爆や原発に反対する人や政党に投票しよう。

 

コロナの夏はコロナ生活の中で、何ができるか考え直してみたいと思うのである。