河野 通有(こうのみちあり) | ぬるま湯に浸かった状態

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前回から始まった、河野氏の人物紹介。今回は一旦衰えた河野氏の中興の祖を紹介します。

 
河野通有(?~1311)

 

主役は赤太字。関係人物は青太字。主役に関係のある出来事(戦いなど)には緑太字。主役に関係ある場所には黒太字で記します。

 

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河野通信(こうのみちのぶ)の子、河野通久(こうのみちひさ)の孫。父は河野通継(こうのみちつぐ)です。久米郡石井郷を領有し、縦淵城を本拠としていました。

 

文永の役(1274)の後、鎌倉幕府は元の再来襲が予想されたので、西海の将卒を動員して、九州の防衛にあたらせます。通有は幕府の指示に従い、九州博多湾に出動します。

 

弘安4年(1281)、弘安の役が勃発。元軍が再び来襲。筑前の海岸に迫りますが、堅固な石塁によって上陸を阻止します。通有は石塁を背にして、その前に陣を張ったので、将卒らは『河野の後築地』と呼んで、彼の豪胆さに驚愕します。ついで、通有は志賀島の戦においては小舟を操り元軍を奇襲。敵将を捕えて戦果を挙げますが、残念ながらこの戦いで負傷してしまいます。その後彼は帰郷します。尚、この戦功で、伊予郡山崎庄や、肥前神崎庄小崎郷などを与えられ、承久の乱以後衰えていた河野氏は昔日の勢いを取り戻します。

 

その後通久は幕府から西国及び海賊追補を命じられその鎮圧に努力します。

 

応長元年(1311)7月14日に逝去。その遺骸は通有が元寇戦没者の菩提の為に建立した周布郡北条郷長福寺に葬られました。

 

ちなみに通有は、竹崎季長(たけさきすえなが)の『蒙古襲来絵詞』に、季長が負傷した通有を慰問する姿が描かれています。

 

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河野氏を再び歴史の表舞台に立たせた人物ですね。3代前の河野通信が承久の乱で敗れて以降、肩身の狭い思いをしていたのを、彼の武功のお陰で再び日の当たる場所に戻ってきたと言えるでしょう。元寇以降、御家人が恩賞を与えられないなど不満が溜まっていたとのいう事を勉強しましたが、そんな中恩賞を与えられているのを見ると、それだけ大暴れしたと言えるでしょう。

 

しかしその後河野氏は再び揺れ始めます。その辺りはこの後の人物で紹介するとしましょう。

 

元寇の頃の河野氏についてはこちら を参考にしてください。

 

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