千本城(千葉県君津市)
千葉県南部内陸を走る久留里線は内房線の木更津駅から上総亀山駅までの35kmを結ぶ路線です。
全線に渡ってローカル色が強い路線ですが、わけても乗客が少ない久留里~上総亀山間に関しては令和9年3月いっぱいで廃線となることが決まっています。
木更津~久留里間においても列車の運行間隔は1時間に1本程度と少ないですが、久留里より先では半減しており、例えば下り列車では8時台に出てしまうと次は13時台とかなり扱いにくいダイヤ。
実は私がこの久留里線に乗って上総亀山まで行った時にはまだ久留里以遠の廃線が決まる前ではありましたが、すでに近い将来の廃線が噂されてもいた訳で、なるべく早めに乗らねば、と思っていたのでした。
シロ屋の身空としてせっかく行くのだから駅周辺に城はないかと探してみたものの見当たらず、さらに視野を広げて周辺を見てみると上総亀山駅の一つ手前、上総松丘駅近くに千本城なる城址があるのを発見。
千本城といへば栃木県にも同名の城がありますが読みはいずれも‘せんぼん‘です。
千葉県の千本城の歴史をたどってまいりますと房総半島の南部といふことで、やはり里見氏との関わりが深い城である。
天文の初年頃(元年≒1532)に里見義堯が真里谷武田氏の持ち城である久留里城を奪取し、その後、自らの居城としていることから、千本城はその支城となったのではなかろうか。
但し久留里城の南方である点を顧慮すると元は武田方の前衛であったかも知れないし、里見方が北進するべく築城したのかもわかりません。
いずれにせよ今日みるやうな巨大な城としたのはやはり里見氏によるものと思はれ、とりわけ、天文末年(1550年頃)以降、しばしば半島にも襲来した北条勢に対する備えとして拡充された、とも考えられます。
とはいえ、里見氏にとっての敵は西方、北方ばかりでなく、南にも存在していた。
天正6年(1578)、当主の義弘(義堯の子)が死去すると、義弘の弟・義頼と義弘の遺児・梅王丸(義重)との間で抗争が起こり、この際、梅王丸方が拠点としたのが久留里城と千本城であったらしい。
といいますのは『里見系図』の中で梅王丸の母を千本住民・東平安房守の娘とするものがある(延命寺本)からで、千本城主と見られる東平氏などが梅王丸の有力な支持者となって主に南に展開する義頼方と対峙していたのでせう。
結果として梅王丸は敗れて出家しており、一連の戦いで千本城も落城、接収されたものと思はれます。
新たに当主となった義頼は岡本城(南房総市富浦町)を居城としますが、久留里城も有力な支城として存続しており、千本城もそのまた支城として存続したかもしれないが、天正19年(1591)、北条氏が没落して徳川家康が関東に入国すると上総もその領国となり(里見氏は安房のみを安堵)、この頃、千本城も廃城となったのでせう。
千本城が立地するのは上総松丘駅東方の谷間の奥、標高150mほどの丘陵上に展開し、麓からの比高は70mほどといった所。
城の縄張は大きく4つに大別され、北野神社のある主郭を中心とする主城域、その東後背を守るがごとくに配された用替、その北に広がる一の台、二の台と呼ばれる広い削平地群、さらに東に堀切を挟んで存する新曲輪と呼ばれるほぼ単一の広い曲輪からなっています。
<主郭の北野神社。里見義実の創建と伝わる>
主城域は北野神社のある主郭を中心に南北に展開、とりわけ主郭から南に続く尾根を4連続で堀切っており、最も前衛の堀切は岩盤を大きく掘りこんでいてかなりの落差があります。
ただ主城域だけで言ふと面積が狭く、東にやや下った用替や一の台といった広い曲輪群に兵を駐屯させていたのでせうか。
一の台の削平地群は主城域からするとやや独立的で、西の北野神社側に三方を直線的な土塁で囲んだ曲輪があり、その東は一旦下ってまた高くなった所(二の台)で南北にやや長く穿たれた堀切があり、その先が新曲輪。
<広いが土塁等もなく、特色に乏しい新曲輪>
現状では新曲輪の南に延びる2本の尾根の間に貯水池があり、無論、中世の産物ではありますまいが、水源地を抑える目的はあったのではないでせうか。
北野神社を中心とする主城域は標高こそ高いものの、むしろ一の台の前衛のやうでもある。
このあたりは各曲輪群の築造の年代差があると見た方がよく、故に各曲輪群相互のまとまりがないともいえます。
現在は北野神社へ至る道は整備されているものの、他の3地区は山林。
鉄塔があることもあってそれなりに手入れはされていますが、倒木も多く、新曲輪まで足を延ばすのは骨が折れます。
最前まで鹿児島県の城郭を取り上げていてシラス台地に穿たれた空堀の直立ぶりに圧倒されていたものですが、千葉県南部の岩盤を掘りこんで直立する城壁、堀切もまた圧巻です。
<主郭から見て最も南の堀切。岩盤を10m以上も掘り下げた強固なもの>
<主郭南2本目の堀切。ここも開削された岩盤が露出している>
<主郭西の堀切。写真手前は主郭西下を巡る腰曲輪>
<北野神社より北の後背地は段々と下る>
<一の台から見た用替。かなり荒れていて踏査出来ず>
<土塁が巡る一の台。ここまでは手入れがよくなされている>
<一の台地区と新曲輪地区の間の堀切。南には湧水があるが、冬場は枯れている>
米本城(千葉県八千代市)
千葉県の西船橋駅と東葉勝田台駅を結ぶ東葉高速鉄道。
船橋市と八千代市にまたがる全長16.2kmの第三セクターの路線ですが、全列車が東京メトロ東西線に乗り入れており、同線の末端区間のやうな印象を与える路線といえます。
終点である東葉勝田台駅の一つ手前に村上駅といふ駅があり、駅名は所在する八千代市の地名に基づくものなのですが、元をただせば中世において一帯を治めていた村上氏に由来する地名であり、駅北方2.5kmほどの所に同氏が居城とした米本城があります。
城主の村上氏については不明な点が多いのですが、その祖は信濃の村上氏より出て中世前期には守護となった足利氏に従って上総に入ったものと思はれ、一時は守護代を務めたといひます。
この時、村上氏の居城であったのが市原市の村上城。
いわゆる苗字が地名に由来するパターンが圧倒的に多い中で、八千代市にせよ市原市にせよ人名が地名となっているのは中々に珍しい。
新潟県の村上市もさうですが、こと村上に関しては人名が地名となる傾向があるのでせうか。
福島県南相馬市の村上城も後村上天皇に由来するといひますが、流石にこれは怪しい。
上総の村上氏がいかなる経緯をもって米本に入ったかは依然不明な点も多いのですが、戦国期の米本城主として知られる村上綱清は上総の妙泉寺(木更津市)に対して文書を発給しているので、この綱清の段階において上総から米本へと移ったものらしい。
米本城はその位置関係から東にある臼井城の支城といってもよく、綱清が属していた千葉氏家宰の原氏が元亀元年(1570)に小弓城から臼井城に移ったことが関係しているものと推測されます。
その原因も里見勢力の北上で小弓付近で北条氏との合戦が増えていたといふ事情があり、いわんや、より南の村上氏の領域も安穏ではなかったのでせう。
伝承では永禄元年(1558)、綱清は太田道灌の攻撃を受けて敗退し、城の南で700人余りの家臣と共に自刃したというのですが、文明18年(1486)に誅殺された太田道灌とは年代が合わず、どうも文明11年(1479)の太田資忠(道灌の弟)が臼井城を攻めたのと話が混同しているやうです。
米本城北方にある長福寺は村上氏の菩提寺として建立され、綱清のものと伝わる五輪塔もありますが、年代の記載はなく、五輪塔自体も後年の供養墓である可能性が高いのだそうな。
<城址の北の谷間にある長福寺>
綱清は天正3年(1575)の土気城攻撃に参じたのを最後に史料から消え、同5年初出の子の胤遠が跡を継いだと見られます。
しかし胤遠のその後については史料がなく、天正18年(1590)に千葉、原氏が所領を失い、関東一円が徳川領となるに及んで米本城も廃城になったと思はれます。
さて、城の立地、縄張について説明すると、南流する新川を西に臨む台地上、その西面に位置しており、新川を挟んだ西側では麦丸の台地と対峙している。
台地の西側といえ北と南から南東にかけては谷が入り込んでいるので、自立性の強い立地であり、その谷が入り込む南に主郭( I の曲輪)を置き、北側に対して直線的に曲輪を配置しています。
<城址の現況図。現地案内板より>
南端の I の曲輪は三角形の形をなし、北に虎口を開いており、その先に空堀を隔てて東西に長い長方形のⅡの曲輪もやはり北に虎口。
空堀を隔てた北には西にⅢの曲輪、東にⅣの曲輪が並立しますが、Ⅲの曲輪が南面にさえも土塁を巡らせているのに対し、Ⅳの曲輪はやや東へ下がっており、その優劣は明らかでせう。
現在も城址への入り口であるⅣの曲輪北東が大手とされ、入口脇には土塁があります。
またⅢの曲輪北にも虎口、空堀があって、その北、今は住宅となっている所も城域に含まれている可能性があり、西下の根小屋から上がってくる道を抑える位置にあります。
さらに北の谷間にある長福寺は元は城主の居館があった場所であるとも―。
<Ⅲの曲輪東の空堀。右手がⅢの曲輪の土塁>
かくのごとき米本城ですが、誠に残念なことに戦後の高度成長期の採土のため I の曲輪とⅡの曲輪がほとんど消滅している有様。
かろうじて I の曲輪東の土塁とⅡの曲輪の北土塁の東半及び曲輪面の東の一部だけが残されているといふ状況なのです。
Ⅲの曲輪とⅣの曲輪及びその南、Ⅱの曲輪との間の空堀も残っていて、Ⅲの曲輪南土塁上には元々、 I の曲輪にあったあんば様とⅡの曲輪にあった咳の神(塞の神)と呼ばれている石造物があり、今でも地元の人の祈りの場として機能しています。
城址周辺には伝・太田道灌攻撃時に城主以下700人が自刃した場所に建つ七百餘所神社や城の鎮護の妙見神社、郷土博物館などがあります。
<かろうじて残る I の曲輪東の土塁。郭内は狭く、崖が迫るのでいささか危険>
< I の曲輪とⅡの曲輪間の空堀。思いの外、浅い>
<Ⅱの曲輪北の土塁(郭内より)>
<こちらは深いⅡの曲輪とⅣの曲輪間の空堀>
<あんば様や咳の神を祀る祠が並ぶⅢの曲輪の」南土塁>
勝目城(山田城・鹿児島県南九州市)
鹿児島県に南九州市といふ自治体があるのをご存じでせうか?
平成の大合併としてはかなり後発の平成19年に川辺町、知覧町、頴娃町の3町が合併して発足したもので、元々は3町がそれぞれ別の合併協議会に属していたものの離脱の末に合流し、南九州市なる新市名を持ち出してきたのです。
旧郡名では川辺町、知覧町が川辺郡、頴娃町が揖宿郡とあってまとまりがたく、有力候補であった南薩摩も西隣の加世田市等による新自治体が先行して「南さつま市」を採用していたとあって、南部九州の都市であればどこでも名乗れそうで名乗れなかった「南九州」なる新市名が採用されたのでした(やや安直だが、有力な候補としては南鹿児島もあり得た)。
勝目城が所在するのはその南九州市の中でも旧川辺(かわなべ)町。
かつては鹿児島交通知覧線といふ鉄道も通っていましたが、現状における主要な公共交通機関は路線バスであり、鹿児島市と枕崎市を結ぶ系統があって鹿児島市からのアクセスもさほど悪くはない。
鹿児島駅方面からゆくと川辺町の中心部を過ぎた所に勝目麓なるバス停が勝目城址への最寄りであり、その名の通り、近世には薩摩藩の外城が置かれていました。
ただし中~近世における一帯の村名は山田村であり、外城の名称も本来は山田麓といふのが一般的ですが、城址に関しては『三国名勝図会』などに勝目ヶ城として紹介されており、一名に山田城とするというスタンスのやう。
<僅かながら外城の面影を残す山田麓>
その勝目城の城主は大野氏といい、島津氏の一門です。
島津氏の中でも薩州家と呼ばれた出水を拠点とした家の分家で、島津国久の次男・忠綱に始まる。
時に文明8年(1480)頃のことだといい、大野の由来は山田郷とともに領有していた田布施郷内の大野村(南さつま市)に由来するさうです。
ただし、忠綱の代においてはなお大野と名乗ることはなく、4代・忠宗の代より、大野を苗字とするやうになりました。
大野氏の本家筋である島津薩州家は島津氏8代・久豊の次男・用久より始まる家系で、国久はその2代目。
用久は兄の忠国から一度は家督と守護職を譲られたといふ経緯もあって、後々まで島津本家と対立して守護の座をうかがう立場にあり、後に大野氏となる勝目島津氏もその麾下にあったのですが、天文6年(1537)、薩州家5代の実久が同じく島津家の有力な分家で相州家の島津忠良(後の守護・島津貴久の父)に加世田城(南さつま市)において敗れた頃より島津本家に臣従したのではなかったらうか。
さて、大野を名乗った忠宗は樺山忠助の子・久高(忠高)を婿養子に迎えていたのですが、天正19年(1591)に理由は不明ながら島津本家の義久によって誅殺されてしまい、養子の久高も樺山姓に戻って大野氏は断絶の憂き目に―。
あるいは島津本家と薩州家の確執に起因するとも言ひますが憶測の域を出ません。
空城となった勝目城には本田氏が入るも近世初頭には廃城となり、後に薩摩藩の外城である山田麓が大谷川の対岸に設けられています。
ちなみに断絶した大野家は樺山久高の妻となっていた忠宗の娘・妙春の尽力で、三原久行に久高の孫娘を娶せて復興せられ、後にこの復興大野氏によって勝目城址に大野累代の供養碑等が建てられました。
<Ⅲの郭にある大野氏の供養塔>
そんな勝目城は山田の集落が大谷川の西にあるのに反して、その対岸の東にあります。
東から延びる舌状の丘陵の突端に位置し、概ね4ヶの曲輪から構成される。
うち北端の2曲輪は南が高くなる上下段式で曲輪が分かれており、その南から3重の堀切が穿たれて残る二つの曲輪がそれぞれ堀切の間にあるのです。
すなわち4ヶの曲輪が直線に配置されるといふシンプル、かつ南のⅠの郭(仮称)を軸とした縄張であり、南部九州にありがちな群郭式のプランを採用していない。
ただし、道路を挟んで西側に北を睨む平坦な区画があり、この部分がかつての城域であったか否か―。
現在の城への進入路は北のⅣの郭へ屈折が多く堀底道のやうな導線を登って入る形となっていますが、Ⅰ,Ⅱの郭間の堀切内へと入ってゆく通路があったやうで、ここが本来の大手であったとも。
なお、現在のメインルートからⅣの郭へと入るとすぐ左手に井戸と思しき巨大な竪坑があるのですが、近年の見解では井戸との見方が疑問視されて、どうやら降雨の際などに水をこの坑に逃がし、外の直立した城壁への圧を減らして崩壊を防ぐ目的があったと見られています。
<Ⅳの郭にある巨大な竪坑。抜け穴説もある>
現在、城址内で整備されているのは北側のⅢ、Ⅳの郭のみで、Ⅲの郭も北端の大野氏の供養塔などがある一角より南は余り手入れがなされず、南辺の土塁を越えた先の堀切から先は荒れている状態。
とりわけⅠ、Ⅱの郭内は藪となっていて、内部まで入ってゆくのが六ツヶ敷き状態です。
なお、Ⅰの郭南の堀切のさらに南は土取りによって大きく切り崩されているのですが、ここも本来は曲輪であったとも―。
とすれば、5連の曲輪が直線的に配置されていたといふのが本来の姿であった―といふことになるのでせう。
かくの如く城址内の探索は簡単ではありませんが、シラス台地特有の切り立った城壁と堀切の迫力は中々のもの―。
縄張そのものは単調ですが、見どころのある城址です。
<Ⅰの郭南の堀切>
<Ⅰ―Ⅱの郭間の堀切。倒れた竹が行く手を阻む>
<Ⅱ―Ⅲ郭間の堀切>
<Ⅳの郭より見たⅢの郭。中央の立て札は大野氏供養塔について解説>
<西下よりⅣの郭へ入るルート。右手がⅢの郭で堀底を進むよう>
<城址の概略図。南(図の下)よりⅠ→Ⅳの郭と仮称>
弓張城(鹿児島県肝属郡肝付町)
中世、大隅半島において最大の勢力を誇った肝付氏の居城は肝付町にある高山(こうやま)城です。
その肝付町の町役場が所在する町の中心部もまた高山地区であり、平成17年に内之浦町と合併して肝付町となるまでは高山町といふ独立した自治体でもあった所。
ただしこの高山の中心部から高山城まではかなり離れていて、概ね南に3kmほど。
高山城への公共交通機関としては町役場のある中心部から事前予約性の乗合タクシーが比較的近くまで行きますが、1日2往復で日曜日は運休と便は余りよろしくない。
古く高山といふのは郷の名前で肝付町の中心部を含む広い範囲を指しており、その中でも新富(新留・にいとめ)といふ地域には江戸時代には薩摩藩外城の一として高山麓が置かれており、今も郷士の武家屋敷の名残が随所に残っています。
新富の高山麓の素地ができたのは天正8年(1580)に肝付氏が当地を去り、高山城が廃城となって後のこと。
山間部に位置していた高山城下から改めて平地の続く新富の北部に武士の居住地と町屋を移し、地頭仮屋を今の高山小学校の位置に構えました。
<流鏑馬が行われる宮の馬場と高山麓の家々>
その高山麓の南を閉塞して横たわる標高100mほどの城山はその名の通りの城址であり、弓張(ゆんばり、きゅうちょう)城といふ城がありました。
位置の点から肝付氏関連の城と思いきや築城したのは南北朝期の武将で元は信濃源氏の出とされる楡井頼仲。
頼仲は南九州における南朝勢力の拡大を目論み日向・大隅に入り、志布志城(志布志市)などを拠点に活動。
一方、この時期は肝付氏当主の兼重も南朝方として頼仲とは協調関係にあり、弓張城の築城に際しても肝付氏が場所を提供したのだとか―。
頼仲は志布志城の他、より西方に位置する大姶良城や加瀬田城(いずれも鹿屋市)を傘下に収めており、一帯における南朝勢力を糾合していたのですが、兼重の死後、肝付氏が北朝方に転じるなど次第に劣勢となり、正平12年(1357)に志布志の大慈寺で自刃したのでした。
弓張城はその後、肝付氏の支城となったやうで、高山城北方の防衛線を形成したといひますが、詳しいことはわかりません。
<弓張城の縄張概略図。細尾根に曲輪が連なっている>
さて、弓張城の構造を見てみると城山の中でもやや東に偏した標高103mのピークを中心としていたやうで、ここを楡井丸と称し、東西に細長く、露岩の多い地形。
西の尾根続きには数条の堀切を入れた先のピークを茶臼丸と称したさうですが、造成の跡が明瞭ではなく、堀切と思しき窪みもさほど彫り込んでいるようには見えず、自然地形か迷うようなレベルでしかない。
<城山の山頂の曲輪。楡井丸と呼ばれた城の主郭で、岩場が多い>
むしろ城の中核施設は楡井丸より南方にあり、楡井丸後背に2段の小段があってその先は尾根を削平した平場が南へ長く伸びていて、その東に長く土塁が巡らされているのは中々に見もの。
平場の南は堀切が穿たれ、その先にも楕円形の平場があって南に土塁が構えられ、平場はその下方の西へと続いてゆきます。
全体としては谷を中央に置いたU字型をなし、これが弓張城の名の由来。
さらに楡井丸の南下には数段の平場とその西を遮断する竪堀があり、周辺でも類を見ない遺構です。
<山頂南斜面に見られる竪堀と段曲輪。写真だとわかりにくい>
強いて言えばやはり楡井頼仲ゆかりの加瀬田城の縄張図を見ていると竪堀と段々と下る平場がある模様で、築城当初の遺構かもしれないが、後年、肝付氏の改修もそれなり行われてきたのでせう。
かくの如く縄張を見ていると尾根に囲まれた西へ開口する谷に重要な施設があったとも思はれ、その前面に郷士の二階堂家の住宅があるのも何やら示唆的ではありますが、踏査はしていないので遺構の有無は分かりません。
<山頂南東下の曲輪とと長大に続く土塁>
<上掲写真の南の堀切。最も顕著な遺構で、東下からの道はここに集う>
<南尾根の曲輪と外縁の土塁>
<楡井丸西下の堀切>
<楡井丸の西のピーク(茶臼丸)の東下の堀切?>
鹿屋城(亀鶴城・鹿児島県鹿屋市)
鹿児島県は今日、しばしば薩摩と称されることがあるが、本来、薩摩とは県域の中でも西部に相当する地域であり、一方の東部は大隅に属していました。
錦江湾と桜島を挟んで東西に向かい合う半島は旧分国そのままに西が薩摩半島、東が大隅半島であり、その大隅半島のほぼ中央に位置しているのが鹿屋市です。
鹿屋といっても国立の体育大学といふ点で異彩を放つ鹿屋体育大学が知る人ぞ知るといったぐらいで全国的にはその知名度が高いとは言えませんが、約9万5千人の人口は大隅地域で最大の都市といってよく、名実ともに大隅半島のセンターを占める存在であるのです。
市の中心部は薩摩藩下ではご多分に漏れず、外城として鹿屋麓が置かれ、地頭仮屋がかつての市役所、現在のイベント広場に置かれていましたが、その中心部を見下ろす西側の丘陵上に鹿屋城が築かれていました。
中世における大隅半島中原の中心勢力であったのは何といっても高山城を居城としていた肝付氏である。
鹿屋一帯は鹿屋院と呼ばれ萩原氏が弁済使として統治に当たっていたやうですが、鎌倉時代後期には肝付氏5代の兼石の三男・宗兼が鹿屋院弁済使として当地に入って鹿屋氏を称しており、その鹿屋氏が居城としたのが鹿屋城でした。
なお、現地案内板によると『古城主由来記』といふ資料に鎌倉期の城主として津野四郎兵衛が紹介されていますが、それ以上の詳細は不明。
いずれにしても当該期以降は肝付氏の勢力下にあったと見るべきで、その肝付氏の下にあった鹿屋氏は室町期に薩摩の島津氏の勢力の伸長を受けてその麾下に転じたこともあって、応永18年(1411)に鹿屋城は肝付氏の攻撃を受けており、その後は再度、肝付方にあったやうです。
戦国期に入っても肝付氏の勢威はなお優勢であり、16代の兼続は当初、島津氏と良好な関係を結んで勢力を拡大、永禄元年(1558)以降は島津氏と対立に転じながらも志布志城を攻略するなど意気盛んでしたが、同9年には高山城が落城し、兼続は自刃。
跡を継いだ良兼―兼亮'(良兼の弟)は一度は体勢を挽回するも、天正2年(1574)に島津氏に降り、以降、高山城のみを安堵されたので、この時、鹿屋も肝付氏の手を離れ、天正8年には伊集院忠棟の管理下に入って城や城下が整備されました。
なお、これに先立ち鹿屋氏は、弘治2年(1556)に肝付氏と都城の北原氏が国合之原で合戦に及んだ際、当主の兼豊とその子・兼任が討死したことから勢威が衰え、高山城の落城を待たずに日向の伊東氏を頼って志布志に退転したのだとかー。
文禄4年(1595)には垂水島津家領となり、正保2年(1645)以降は藩直轄領となって地頭と称された代官が交代して統治に当たりました。
なお城自体は江戸時代に入ってより廃され、鹿屋麓として地頭仮屋が置かれたのは前述のとおりであり、郷士らは仮屋東の古前城や北方の打馬に居住しています。
<古前城地区の武家屋敷。石積が威容を誇る他、門構えが残る所も>
鹿屋城は火山灰の堆積したシラス台地に深く空堀を穿ち、半ば独立した曲輪を並べた南九州らしい群郭式の城郭です。
中心となる最高所を本郭とし、深い空堀を挟んで南に高城、東に今城が展開、今城の北東に二の郭があって、ここから南へと下る道が大手道で、東麓の大手町へと続いています。
以上が鹿屋城の中核であり、全体としては公園となってはいるのですが、本郭などは木が繁茂して立ち入りが困難になりつつあります。
上下2段からなる南の高城は本郭よりは整備されているとはいえ山林。
北が3段に造成された今城と二の郭は公園の中核としてよく整備されており、今城の北の平場には展望台が立っています。
<整備されている今城。かなり改変もされている模様>
この中核より城域はさらに広く、西には道路を挟んで公園となっている中城とその南は一段高く松尾と呼ばれる平場。
さらにそれらの西や北の文化会館のある一帯も外郭とされる範囲です。
一方の南側は駐車場の位置にあった池や道路を隔てて主城域とは切り離された台地上に大明城を中心とする曲輪群が形成され、主城域との間の鞍部を通る道や台地が続く南方ににらみを利かせるやうな存在でした。
ここは以前は耕作地だったのですが、現在は人の出入りもないようで薮化が進んでおり、立ち入ることは困難です。
城は伊集院氏によって大きく改修されたといいますが、肝付氏の勢力圏の中でも北方の重要拠点であり、鹿屋氏の時代にはある程度の骨格ができていたものと思はれます。
<やや荒れている本郭内>
<本郭(右)―高城間の深く絶壁をなす空堀。堀底道としても利用されたようだ>
<.高城内。西の辺縁には土塁がある>
<本郭(右)―今城間の空堀。鞍部より南北は竪堀となって斜面を下る>
<北から城址公園への入口となる切通>
<東の麓から二の郭へ至る大手道>
<南の出城である大明城北の空堀。郭内の畑址へのアクセスは困難>
<かなりアバウトな現地案内板の縄張図>

















































