赤尾木城(鹿児島県西之表市)
九州の南端、鹿児島県大隅半島の南に浮かぶ種子島。
北方領土を除く日本の離島としては8番目の面積を誇り、一時ではあるが古代には多禰国といふ独立した分国が置かれ、国分寺も造営されたといひます。
島内の人口は2万7千万人ほどであり、自治体は北の西之表市、中央の中種子町、南の南種子町の3市町。
鉄砲伝来と宇宙センターで知られた離島であり、近年では宇宙を目指すロケットの発射日になると多くの人が集まり、その様子を見守る様がニュースにも取り上げられています。
かたや種子島の古くから代名詞といえば鉄砲伝来であり、時に天文12年(1543)、漂着船に乗っていたポルトガル商人より火縄銃を買い受け、後に国産化に成功。
火縄銃の別名を種子島というやうにもなりました。
この時、鉄砲を買い受けたのが、種子島を治めていた種子島時堯であり、平行盛の子・信基に始まるとされる種子島家の14代目に位置付けられる人物です。
種子島氏の発祥に関しましては諸説ありますが、中世には種子島島主と呼ばれるほどの勢力を持ち、島津氏に従属しながらも琉球王国とも誼を通じて独自の貿易を行うなどその立地を存分に生かした活動を見せていました。
<赤尾木城の登丸に相当する赤尾木城内城の搦手(西面)。門址の脇に種子島時堯の像がある>
戦国期にあっては種子島の他、屋久島と口永良部島をも領域化していましたが、文禄4年(1595)に豊臣秀吉の命で薩摩知覧へと移り、慶長4年(1599)、種子島に復領するも両島の支配は島津氏に移管されて回復することはありませんでした。
種子島氏の知行は概ね1万石。
島津氏の下にあって入来院氏などごく少数を除いて在来の諸豪族は本来の知行地より切り離され、他所へ移される中で、種子島氏は旧領を維持して明治まで存続。
薩摩藩の家臣といふ立場ながら藩中藩を形成する一方で、江戸時代の10代の当主の中には薩摩藩家老を務めた者も出るなど、藩の重臣として重きをなされる存在でした。
種子島氏の居館の変遷を追っていくと極めて煩雑になるので詳細は次回記事に回すとして、近世においては西之表、赤尾木両港を見下ろす丘陵上にある赤尾木城がその居館でした。
尤も赤尾木城とはいふものの近世においては公式に城として認められた存在ではなく、‘麓‘と通称される薩摩藩外城の一としてその政庁たる地頭仮屋といふのが表向きの位置づけ。
ただし種子島氏の系図などには赤尾木城とあるので島内では「城」で通用していたのでせう。
赤尾木(アコウギ)とはガジュマルのことであり、当時は周辺に多く見られたのだそうです。
赤尾木城の構成は本丸に相当する上の屋地とその西、二の丸に相当する内城といふ二連の方形館を中心とした構え。
上の屋地は現在のヨウ城小学校(ヨウ=木ヘンに容)の敷地であり、南北150m、東西100mほどの敷地で、南西角のみ石垣を築いて西面に正門を開いた。
<上の屋地南西に開かれた正門の跡>
西の内城との間は土塁に挟まれた堀底道状の通路となり、その西が約100m四方の土塁に囲まれた内城ですが、現在では西の土塁のみが残っています。
虎口は西辺北寄りに搦手を開き、大手は上の屋地側の東面。
かつてはヨウ城中学校の敷地でしたが、今は廃校となり、建物はそのままに市の施設として利用されています。
内城の西側はかなりの高低差があって鉄砲館や熊毛郡支庁舎などが建っていますが、ここは中世には石峯城とか坂之上城と称された種子島氏の居館の一つとされる場所で、近世には家臣の屋敷地でした。
一方、内城の南側の道路は対面にも土塁があり、この間の堀底道になっている直線道路は犬の馬場と呼ばれ、犬追物などが行われていたのだとか―。
上の屋地北東には城内の最高点があり、字(あざな)と呼ばれていましたが、琉球のグスクにおいてアザナといへば物見台などの高台を指す語であり、両者の交流をうかがわせる名称といえませう。
<城内最高所のアザナ。現在は空き地になっている>
家臣団の屋敷地は谷によって仕切られた周辺の丘陵上に散在しており、丘陵下には町屋や二十家と呼ばれた船頭集団の屋敷地がありました。
城内などは道がT字になるなど直進の道路が少なく、これを山鹿流兵法の影響としているのですが、さて、どんなものでありますやら。
赤尾木城の中心である上の屋地の築城が寛永元年(1624)のことであり、山鹿素行が生まれたのはその2年後。
時代の観点から言っても後々、大々的な改修があったとも思えませんから山鹿流が入り込む余地はないように思ひます。
山鹿流の築城といって思い浮かぶのは赤穂城(兵庫県)、平戸城(長崎県)、広瀬城(宮崎県)の三ケ城ですが、いずれも塁線を執拗に屈折させ、ともすれば西洋の稜堡式を思わせるやうな結構なのですが、方形を基調とした赤尾木城にその片鱗はありません。
なお近世、種子島氏の居所、政庁の施設は上の屋地に置かれ、内城には妙泉寺、射場、焔硝蔵、郷校(幕末)などが置かれていたさうです。
アクセスはフェリー、ジェットフォイルが発着する西之表港より徒歩10分ほど。
<上の屋地―内城間の堀底道>
<上の屋地正門脇の石垣。未加工の丸石を多用している>
<内城西の高く重厚な土塁>
<内城南の犬の馬場>
<赤尾木城の南方丘陵上の小牧地区(家臣の屋敷地)に見られる鉤の手の道>
井筒部屋の四股名・番外編③ 種子ヶ島・薩摩洋の巻
前回記事にて種子島と相撲について取り上げましたが、今回取り上げますのはその種子島を四股名とした力士たち。
前回登場の横綱・西ノ海(2代)とその孫弟子たる鶴ヶ嶺(道芳)が最初に名乗った四股名であり、井筒部屋としては3人の種子島(種子ヶ島)が出ています。
ちなみに江戸時代にまで遡ると種子島・種ヶ島を名乗った力士は多く、ざっと20例近くもある。
ところが明確に種子島出身というのがはっきりしている例はなく、唯一、大坂相撲の明和8年(1771)8月に幕下筆頭で見える種ヶ島与作が九州を頭書としているくらい。
その他は大坂や江戸ですが、下位力士の頭書は具体的に記されることはなく、江戸や大坂で一括りにされるパターンが多いので、出身地としては余りアテにはなりません。
江戸時代に種ヶ島を名乗った力士で特筆されるのは種ヶ島吉平が3人おり、2代(現役は1750~60年代)は大坂の幕内格(上取り)で頭取(年寄)にもなっており、3代(現役は1780年代)も大坂で幕内格、江戸でも十両に相当する二段目4枚目に名を顕しています。
1840~50年代の種ヶ島金蔵は大坂の幕内格、1860年代の種ヶ島虎吉は大坂の関脇で、いずれも頭書は尼(尼崎?)。
なお、この時期はほとんどの場合で種子島ではなく種ヶ島としているのは当時としてはこちらも一般的な表記だったといふことでせう。
では、ここからは明治以降の種子島(種子ヶ島)について―。
①種子ヶ島 休八(後の西ノ海)・・・現役:明治33~大正7年。鹿児島県西之表市出身。
元西ノ海(横綱)の8代・井筒の弟子。
明治33年1月に種子ヶ島の四股名で初土俵を踏み、翌場所より番付に就いて星甲と改名、さらに翌34年1月より錦洋と改名し、この四股名で関脇まで昇進。
41年11月に師匠の死去に伴い関ノ戸(元関脇・逆鉾)預かりとなり、翌42年6月に二枚鑑札で井筒(9代)を襲名すると共に西ノ海と改名し、部屋を再興。43年1月に大関、大正5年1月に優勝し、場所後、横綱(第25代)に推挙される。
7年5月に引退してからは弟子の育成に努め、門下から横綱・西ノ海(3代)、大関・豊国らが出た。また協会取締(今の理事長)として腕を振るうも昭和6年1月に自殺。
②種子ヶ島 道義(後の鶴ヶ嶺)・・・現役:昭和6~22年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
同郷の9代・井筒が死去した直後の昭和6年5月が初土俵で、師匠は元星甲(前頭2)の10代・井筒。
先代も名乗った種子ヶ島を四股名として順調に昇進し、9年1月に十両昇進を機に星甲と改名、入幕後の13年1月より鶴ヶ嶺に。長身で、吊りや櫓投げといった豪快な技を得意として最高位は前頭2枚目。弟は十両の薩摩洋。
19年9月に師匠の死去により双葉山道場→時津風部屋の預かりとなり、22年6月に引退して井筒(11代)を襲名して部屋を再興。関脇・鶴ヶ嶺らを育てた。
昭和47年3月に死去。
③種子ヶ島 孝志・・・現役:昭和32~36年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
同郷の11代・井筒(元前頭2・鶴ヶ嶺)の弟子で、昭和32年1月に初土俵。師匠の初名と同じ種子ヶ島を四股名として三段目に昇進した。
34年7月に本名の町田に改名して幕下に昇進、36年3月に谷の川と改名するも同年9月に引退。最高位は幕下45枚目。
※種子島 万来(後の玉正鳳)・・・現役:平成23年~。モンゴル出身。
モンゴルより来日後、高島部屋に入門するも、新弟子検査前に部屋が閉鎖となり、春日山部屋所属として平成23年9月、高春日の四股名で初土俵。
その後、幕下までは順調に番付を上げたが28年10月に春日山部屋が閉鎖となり、追手風部屋預かりを経て29年1月より中川部屋の所属となり、同年5月に種子島と改名。しかし11月には旭蒼天に改名しており、種子島の期間は3場所、いずれも幕下だった。
令和2年7月に中川部屋が閉鎖となると姉が玉鷲と結婚していた縁で片男波部屋の所属に転じ、9月より玉正鳳と改名。長身ながら肉がつかず足踏みをしていたが右四つの地力を磨き、5年3月に十両に昇進、7年1月には新入幕を果たした。最高位は前頭16枚目。
井筒部屋の種子ヶ島は以上の3人ですが、うち2人が井筒部屋を継承しており、重要な四股名であるといえます。
現役の玉正鳳の場合は世話になっている後援者の名をもらって種子島と名乗ったとのことで、直接、鹿児島県の種子島や井筒部屋との関係はありませんが、実は高春日を名乗っていた時分に井筒部屋の大関(当時)・鶴竜の付け人をしていたことがあります。
続いて本稿では2代目の種子ヶ島こと鶴ヶ嶺の弟が名乗った薩摩洋についても取り上げます。
薩摩洋を名乗った力士は2人のみと伝統の四股名といふには弱いのですが、いずれも十両に昇進している点で特筆してもよかろうかと―。
①薩摩洋 時久・・・現役:大正12~昭和19年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
10代・井筒(元星甲)の弟子で、兄は鶴ヶ嶺(前頭筆頭)。
大正12年5月に薩摩洋の四股名で初土俵を踏み、以後、改名なし。
長身を利した左四つ、吊りを得意とし、昭和17年1月に十両に昇進も負け越し、関取在位は1場所のみ。
昭和19年5月に引退。最高位は十両13枚目。
②薩摩洋 重昭(後の大寛)・・・現役:昭和37~51年。鹿児島県熊毛郡中種子町出身。
師匠は同郷中種子町出身の11代・井筒(元鶴ヶ嶺)。
昭和37年3月に渕上の四股名で初土俵(本名は淵上)、その後、薩摩海(39年9月~)を経て、40年1月より薩摩洋と改名。翌3月に幕下に昇進し、44年11月に大寛と改名し、45年3月に新十両。右四つからの寄りを武器に十両に在位すること21場所、最高位は十両4枚目だった。
47年3月に11代・井筒の死去に伴い、師匠は元星甲の12代・井筒に―。しかし49年7月に先代遺族との関係から12代・井筒は陸奥に名跡を変更し、所属も陸奥部屋となった。
これに先立ってすでに幕下に陥落していた大寛は一時、西ノ島(49年5月~9月)を名乗っていたが、再度、大寛に改名し、51年1月に引退。
2人の薩摩洋はいずれも種子島の出身であり、11代・井筒としても思い入れのある四股名だったのでせうが、種子島の旧分国が薩摩ではなく大隅であるのはご愛敬。
なお14代・井筒(元関脇・鶴ヶ嶺)の弟子に薩洲洋(前頭筆頭、吉崎→薩州洋→薩洲洋)がおりますが、14代・井筒の伝統の四股名に対する志向からすると多分に薩摩洋を意識した四股名ではなかったかと思はれます。
後の薩洲洋こと吉崎が入門したのは昭和51年1月場所ですが、奇しくもこの場所は薩摩洋を名乗っていた大寛最後の場所であり、その1月の29日には初代・薩摩洋の下家時久氏が死去。
3人の運命が不思議と交錯した瞬間でした。
種子ヶ島、薩摩洋は井筒部屋とゆかりの深い四股名ではありますが、伝統の四股名として囲い込むには弱く、現役の玉正鳳の事例がある如く、今後、他部屋の鹿児島県出身力士が四股名とする場合があるかもしれません。
種子島と相撲
「南海の黒豹」と呼ばれ、優勝2回、横綱まであと一歩に迫った昭和の名大関・若嶋津。
日焼けした引き締まった肉体に精悍な風貌、アイドル歌手の高田みづえさんとの結婚でも話題をさらった人気力士であり、親方としても松ケ根→二所ノ関部屋を率いて小結・松鳳山らを育てた他、協会理事の要職を歴任しましたが、去る3月15日に69歳にて永眠いたしました。
まずは故人のご冥福をお祈りいたします。
この若嶋津、鹿児島県の中でも大隅半島の南方に浮かぶ種子島は中種子町の出身です。
種子島といえば鉄砲と宇宙センターといふイメージがあり、こと相撲の点では近年は奄美に押されている感もありますが、毎年、全島を挙げて種子島相撲大会が開催されて熱戦が展開されるほど相撲が盛んな土地柄でもあります。
種子島と相撲―といふ点では何といっても第25代横綱・西ノ海(2代)の存在を忘れるわけにはまいりません。
明治13年、現在の西之表市の生まれで少年時代には島一番の大男として早くも話題をさらい、同じ鹿児島県出身の西ノ海(第19代横綱)の井筒部屋に入門して名乗った四股名が種子ケ島。
この四股名を名乗ったのは前相撲の時のみで、番付に載ってからは星甲→錦洋と改名、41年に師匠の井筒が亡くなると二枚鑑札で部屋を継承し、四股名も西ノ海に―。
後に大関→横綱と昇進し、現役引退後は協会理事の要職を務める一方、横綱・西ノ海(3代)や大関・豊国らを育てました。
西ノ海の出身地である西之表市下西川迎の近くにある日典寺は法華宗の高僧にして地元出身の日典上人ゆかりの寺として知られていますが、本堂の東には「横綱西ノ海嘉次郎顕彰碑」(原文ママ)と刻まれた立派な石碑が建てられています。
<日典寺の西ノ海顕彰碑。揮毫は21代・木村庄之助(年寄・立田川)>
また、西ノ海と直接のかかわりはないものの、日典寺西方の塰泊(あまどまり)の安徳川には多くの河童が住んでいてしばしば相撲を取ろう、とせがんだのだとかー。
安徳川の由来は壇ノ浦の戦いで入水したとされる安徳天皇がひそかにこの地に逃れた―とする伝承によるもので、あるいは河童も水底から生還した幼き天皇の眷属であったのだらうか?
安徳天皇、河童、西ノ海にはそれぞれの相関性があるとは言えないながら、どこか通底するものを感じます。
<安徳川の景観。今も河童が棲んでいそうな雰囲気?>
この西ノ海の孫弟子(師匠は元星甲)として井筒部屋に入門したのが中種子町増田出身の鶴ヶ嶺であり、初土俵時(昭和6年)の四股名が先代師匠と同じ種子島。
その後、星甲を経て鹿児島城後背の城山の別名に因んだ鶴ヶ嶺と改名して前頭筆頭まで進むと同時に、昭和17年1月には弟の薩摩洋(十両13)も十両に昇進し、兄弟関取としても知られました。
引退後は一旦途絶えていた井筒部屋を復興し、もろ差しの技能派関脇・鶴ヶ嶺らを輩出、同じ中種子町の大寛も昭和45年に十両に昇進しています(最高位は4枚目、後に陸奥部屋)。
かくの如く、西ノ海以来の流れから種子島の出身者は井筒部屋へ入門するケースが多かったのですが、昭和47年に元鶴ヶ嶺の井筒親方が死去した後、井筒部屋の跡目を巡って混乱があったせいか、この後は井筒路線を外れる力士が多くなってきます。
冒頭の二子山部屋の大関・若嶋津は昭和50年に入門し、55年に十両に昇進しており、続いて西之表市出身の西乃龍改め常の山(出羽海部屋・前頭12)が昭和63年に十両に昇進。
平成に入ってからは南種子町出身の若隼人(十両3)と中種子町出身の光法(前頭9)の2人が宮城野部屋を牽引しました。
現役では若嶋津の二所ノ関親方の弟子で現在は放駒部屋の島津海(西之表市出身・前頭12)が活躍する他、大阪出身ではあるが常の山の息子の西ノ龍(境川部屋)が十両で健闘しています(最高位は4枚目)。
かくの如く明治の2代・西ノ海以来、陸続と関取を送り出し、その中から横綱、大関を1名ずつ輩出した種子島の存在感は鹿児島県の相撲史においても決して小さいものではないでせう。
そして大相撲の力士ではないものの、もう一人、種子島と相撲を語る上で外せないのが「相撲の神様」河野又四郎です。
又四郎は15世紀後期の人で島内にあっては当代随一の相撲の強豪。
加えて美男と来ているから安城村(現・西之表市)の地頭の羽生右京能房の娘・安姫と恋仲になったのですが、又四郎は士族とはいえ地頭の娘とでは身分が違う。
それでも密会を続けているうちに父・右京の知る所となり、右京は安姫に別れるよう諭すも姫はこれに応じず、右京はやむを得ず家臣に命じ安姫を殺してしまったのでした。
残された又四郎も姫が死んだ翌年の長享3年(1488)、その墓前で自害。
後にこの悲劇をはかなんだ安城の村人は善政を布いて領民に慕われた羽生右京とその妻、安姫、又四郎の4人を祭神に祀って岡山神社を建立し、これが又四郎の事績から相撲の神様と称されているのです。
岡山神社の境内にはやはり安城の生まれで幕末期に島寄せの相撲で7回連続で優勝した無敵の大関・川原嘉助ゆかりの力石もあります。
他にも西之表市洲之崎では女性が相撲取り節やはんや節に合わせて踊る「どすこい」
といふ行事もあり、相撲が文化として島の暮らしに根付いていることが実感されるのではないでしょうか。
ジャンボと呼ばれた力士たち
去る令和7年12月23日、「ジャンボ」の愛称で絶大な人気を博したプロゴルファーの尾崎将司氏が78歳で亡くなりました。
大柄の体から繰り出す力強いプレースタイルに豪快な人柄で日本のゴルフ界を牽引した巨人であり、まさに押しも押されもせぬ、唯一無二の「ジャンボ」な存在でした。
ちなみにこの「ジャンボ」の愛称はジャンボジェット(ボーイング747旅客機)にちなんで昭和45年に新聞社が用いた表現が定着したもの。
現在では「ジャンボ」といえばジャンボ宝くじに代表されるように‘大きい‘‘ビッグな‘といふような意味として一般でも使われる言葉ですが、本来は北アフリカで使われるスワヒリ語の挨拶であったといわれています。
その後、19世紀後半にロンドンで飼育されていたアフリカゾウの名前として採用され、その宣伝文句からジャンボ≒巨大という意味が付帯しつやうになったのだといいます。
さらに1969年(昭和44年)にUSAのボーイング社によって開発・製造された大型の旅客機「ボーイング747」の愛称としてジャンボジェットの名が採用され、世界各地の空を雄飛するようになると日本でも「ジャンボ」の語が知れ渡るようになりました。
ジャンボジェットの搭乗から1年後に「ジャンボ」の名を冠された尾崎選手はその後、世界にはばたく活躍を見せて日本ゴルフ界に数々の金字塔を打ち立て、「ジャンボ」の名に相応しい存在としてゴルフ人気を牽引したのでした。
そしてもう一人、この時期に同じく「ジャンボ」な存在として注目を集めたのがプロレスのジャンボ鶴田です。
昭和47年、全日本プロレスに入団、デビューした鶴田選手は大学時代にレスリングで鳴らし、オリンピックの代表(グレコローマン100kg超級)にもなった本格派で、身長が2m近い(全盛時に196cm)といふ大型新人。
将来を嘱望されて48年よりジャンボ鶴田をリングネームとすると、以後、期待通りの活躍を見せ、ジャイアント、アントニオといふ半ば神格化した世代の次代を担う存在として大いに存在感を発揮します。
実はこのジャンボ鶴田、大相撲とはいささか因縁がありまして・・・。
といいますのはまず父方の叔父に幕内力士で二所ノ関部屋に在籍していた甲斐錦(最高位は前頭12)がおり、本人もその紹介で中学2年生の時に朝日山部屋に体験入門をしました。
ところがどこをどう間違えたものか、新弟子検査を受けて合格してしまい、慌てて紹介者の元・甲斐錦が取り下げたという一幕があり、そのためジャンボ鶴田を元力士(見習い)として扱っている相撲関連の本もあります。
いずれにせよ、ジャンボ尾崎選手とジャンボ鶴田選手が騎虎の勢いで存在感を高めたのは昭和40年代の後半であり、54年にはジャンボ宝くじの販売が開始されているので、まさに両選手の活躍と足並みを揃えて「ジャンボ」の語が世間に認知されたとも言えるでせう。
前置きが長くなりましたが、ここからは角界のジャンボの話。
もとより相撲の世界は大きいことが貴ばれるといふ傾向からジャンボとの親和性の高い業界といえるかと思ひます。
歴史を紐解けば「ジャンボ」の冠したい力士がゴマンといるのですが、とにかくも大相撲において初めて「ジャンボ」の愛称をもって呼ばれたのが時津風部屋の尾形こと天ノ山です。
佐賀県に生まれた天ノ山は駒澤大学で3年時に学生横綱に輝いた大器で、昭和51年3月に幕下付け出しデビュー。
これだけでも当時としては話題十分ですが、身長も190cm、体重も全盛期には180kg近い巨体で、これに伍するといえばベテランの高見山くらいという大型新人であり、53年3月に本名の尾形のままの四股名で入幕を果たすと11勝を挙げる期待通りの活躍で敢闘賞を受賞し、将来を嘱望されました。
この時、そのスケールの大きさから「ジャンボ」といわれたのは尾形でしたが、この場所、もう一人の新入幕だったのが佐渡ヶ嶽部屋の琴若で、こちらも196cmの長身とあって「コンコルド」と呼ばれました。
ジャンボがUSAのボーイング社製の旅客機の愛称ならば、コンコルドは欧州で開発された超音速旅客機で、運用開始は1976年(昭和51)。
かつてその卓越した出世ぶりから「ヒコーキ」と呼ばれたのが昭和初期に横綱となった武蔵山であり、そうした飛行機系の愛称を得た二人ではありましたが、その後は揃って飛躍とは中々行きませんでした。
鋭い出足ともろ手突きに威力のあった尾形は54年3月より天ノ山と改名、前頭筆頭まで進みますが、下半身のもろさがあって上位定着はならず、幕内在位30場所で三賞は新入幕時の1度きりに終わりました。
一方の琴若は幕内在位12場所で最高位は前頭4枚目、「コンコルド」の愛称もいつしか廃れ、「電信柱」と呼ばれるようになっていました。
昭和の「ジャンボ」天ノ山は61年に引退。
平成に入ってから「ジャンボ」と呼ばれたのが出羽海部屋の鳥羽の山と玉ノ井部屋の芳東です。
平成5年入門の鳥羽の山は東京都の出身で、身長190cm、体重は200kgを越える巨体。
11年の十両昇進後も4場所で幕下に陥落するなどやや苦労はしましたが、14年3月に入幕を果たしました。
ところが初日朝の稽古で膝を負傷、結局、幕内では1番の相撲を取らずに1敗14休で十両に陥落し、その後も幕内へは復帰できぬまま、27年に引退しました(最高位は前頭13枚目)。
現在は調剤事務の仕事に従事する傍ら、相撲タレントとしても活躍しています。
もう一人の「ジャンボ」芳東は平成8年の入門。
熊本県の出身で、197cm、160kgとかつての大関・貴ノ浪を彷彿とさせるやうな体格で期待されるも幕下上位で足踏みし、30歳を過ぎてようやく十両に昇進、23年9月に悲願の入幕を果たした時には34歳で、戦後2番目の高齢昇進でした。
幕内には3場所在位するも勝ち越しはなく、その後、十両からも陥落していますが、46歳(令和8年4月現在)の今なお現役です。
昭和の天ノ山・琴若コンビになぞらえるならば、さしづめ芳東はコンコルドタイプですが、コンコルドはこの時、すでに運航を停止しており、かつ開発時にすでに採算が合わない状態になっていた故に「コンコルド効果」といふありがたくない言葉の語源になったとあって、その後、角界ではこの愛称は用いられておりません。
ちなみに芳東の弟弟子で、福島県出身の巨東(おおあずま、現役:平成18~令和4)はやはり196cmの長身(体重は120kg程度)を誇り、「小ジャンボ」と呼ばれることがありましたが、幕下30枚目を最高位に引退しました。
平成10年に武蔵川部屋に入門した神奈川県出身の尾崎も2m近い長身で注目された力士で、有力な「ジャンボ」候補の一人でしたが、体重が100kg程度と細身で腰が高く、序二段下位に終わってしまいました(平成13年引退)。
かくの如く、「ジャンボ」の語が一般化してよりその名を冠した力士は複数名おりましたものの、ジャンボの語のイメージからするとそこまでビッグになりきれていない印象が強く、一応、元力士見習いとされることもあるジャンボ鶴田に迫るほどの力士は出ていません。
今なお現役の芳東の他、体格だけならば「ジャンボ」といえさうな力士もおりますが、過去の「ジャンボ」たちが名前負けしてしまった感もあってか、有力な「ジャンボ」候補が出てきていないのはいささか残念なことであり、「令和のジャンボ」の誕生が待たれる所です。
幕末維新力士伝(50) 嘉永事件と秀ノ山の専横
大相撲の歴史の中でもいわゆる労働争議というべき力士が団結して協会(会所)に要求を突きつけるといふ事件は何度か起きています。
曰く中村楼事件(明治28年)、曰く新橋倶楽部事件(明治44年)、曰く三河島事件(大正12年)、曰く春秋園事件(昭和7年)・・・。
早い時期のものですと前回取り上げた明治6年の高砂浦五郎の事例なども挙げられませう。
これらは大体において幕内力士が中心となって待遇改善や組織の改編を訴えるものでした。
では、こうした騒動の最も古い事例は―といいますと嘉永4年(1851)に遡る。
時はその年の2月28日より始まった春場所も五日目のこと。
百名以上の本中の力士が回向院の念仏堂に立て籠もり、場所への出場を拒むといふ前代未聞の出来事が発生したのです。
今日の大相撲では番付最下位の序ノ口の前段階として前相撲がありますが、この当時は番付外の見習いに相当する力士の競争は苛烈なもので、前相撲と序ノ口の間に相中、本中という階梯を設けられておりました。
現在でも番付の末尾近くに「此外中前相撲東西ニ御座候」という文言がありまして、ここでいう中相撲というのが相中、本中のこと。
この頃は序ノ口まであと一歩の本中の力士だけで百名以上いた訳ですから、番付に四股名が載るだけでも大変な苦労であり、番付に名が載らないままに何年も過ごして辞めてしまう力士も少なくありませんでした。
この前・中相撲の勝ち星や昇格のシステムは時期により若干の相違がありますが、概ねは2連勝をもって星一つと数え、星二つをもって上位の格へと上がっていくといいますから、今日の如く前相撲で勝ち負けに関わらず1番でも相撲を取れば番付に名が載るのとは大違い。
しかも各地位での人数が多いものですから通常は1日おきに取組がある所、2日おき、ひどいと3日おきという場合があってそれだけ上へと上がるチャンスが減退してしまう。
何せ当時は年2場所、各10日間しか興行がないのです。
ところが本中でも赤沼と萩ノ森だけはきっちり1日おきに相撲を取っているではないか―と本中の力士が騒ぎ出したのがことの発端。
実は二人の師匠はかつての横綱免許にして当時、中改め(勝負審判)の任にあった秀ノ山(3代、秀の山)であり、その権限をもって自らに弟子を優遇していたといふわけなのです。
当然、他の本中連中はこのことへの不満を訴えるも取り合ってもらえないので、ついに決起して集団でのストライキに踏み切ったのが五日目のことでした。
そんな本中力士をよそに会所や秀ノ山は前相撲や相中を本中に繰り上げて取り組みを進めたものだから決起した本中力士たちがさらに激昂したのはいふを待たない。
もはや秀ノ山を殺したうえで脱走しようと各々、旅支度を整えて竹槍を持ち寄るという事態になるに及んで、下っ端力士の何するものぞとばかりに事態を楽観視していた会所の首脳陣も流石に剣呑な空気を察して慌てだしたのです。
若手の年寄や力士たちを動員すれば本中の力士連を制圧することは可能としても多大なる混乱の上に流血の大惨事を招くことは避けられない。
そうとなっては回向院はもとより監督官庁である寺社奉行からのきつい責め、場合によって興行の認可が取り消されてしまうとも限らないとなれば、もはや秀ノ山に非を認めさせて詫びを入れる他、解決する手段はありませんでした。
とはいえ、秀ノ山の鼻っ柱の強さは折り紙付きで、勿論、簡単に首を縦に振ろうとはいたしません。
<現役時代の秀の山雷五郎。相撲協会の見解では第9代の横綱とされている>
この時、秀ノ山は前年に現役を退いたばかりの数え43歳。
現在の宮城県出身の秀ノ山は全盛期でも身長が164cm程度(体重は130kgほど)といふほど上背のない力士で、そのために入門当初は周囲から軽く見られるなど公私において大いに辛酸を舐めたのですが、数多の苦難を跳ね返して出世を遂げ、ついに横綱を許されたほどの力士です。
幕内では112勝に対して21敗、勝率.842の好成績を残し、優勝相当成績を6度も果たした強豪であり、生来の負けん気や芯の強さに加えて、相応の自信もあって取組編成でもごり押しを辞さないような驕慢なふるまいが目立っていました。
その強固な自負心をして下位力士の要求に膝を屈するなどという屈辱は到底受け入れがたいものでしたが、会所の重鎮たちがなだめすかしつつ言葉を尽くしたのでありませう。
ついに秀ノ山も白旗を挙げて念仏堂へと出向き、今後、身贔屓はしないと頭を下げたので本中の力士たちも納得して解散し、曲がりなりにも角界初の労働争議は成功裏のうちに幕を閉じたのでした。
これが世に嘉永事件、あるいは嘉永の紛擾といわれた騒動の顛末です。
幕末における世情の混乱や気風の影響もあってか、従来の秩序が崩壊へと向かう前奏曲(プレリュード)となったと見るべきか、名もなき力士たちの行動が角界のおける労働争議の扉を開き、以後、散発的に力士サイドの要求が行動の形で表出するやうになったのです。
ところがこの場所はもう一つの難題がありまして、雨天続きで2月28日に始まった場所が3月28日になってようやく五日目を終えただけ。
その後も雨が続いて4月の半ばになっても六日目開催の目途が立たずに興行は取り止めとなってしまいました。
あるいは嘉永事件を巡る混乱も影響したのかもしれません。
さて、取組編成を私し、角界を混乱に陥れるという失点のあった秀ノ山ですが、事務能力に長け、色々な事案も手早く処理して余すところがないといった具合でしたから、会所内では順当にその立場を固め、幹部候補として頭角を現しておりました。
一方では陣幕(後に横綱免許)、鹿島灘、達ノ森(後の大関・綾瀬川)といった有望な弟子たちも育ちつつあって、将来の展望も明るいかと思われていたのですが、これからという文久2年(1862)、55歳にして世を去ってしまいます。
巡業中に急逝したとされる一方、弟子を引き連れ駕籠に乗って移動している際に大名行列と行き違ってトラブルとなり、乱闘の末、相手方の侍に斬られたといふ、いかにも傲岸不遜、向こうっ気の強い秀ノ山らしい最期を伝える異説もあります。
なお、騒動の発火点となった赤沼と萩ノ森はその後、嘉永7年になってようやく番付に名を現しますが、いずれも出世するでもなく、短期間で姿を消してしまいました(※)。
※赤沼久介・・・最高位は序ノ口4枚目
萩ノ森与介・・・最高位は四段目(序二段)筆頭











