星ヶ嶺、斬られて候
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『錦木塚』を訪ねて(前編)

大相撲の錦木という力士をご存知でしょうか?

伊勢ノ海部屋に所属する幕内力士で、岩手県盛岡市出身にして最高位は小結。

力の強さと腰の重さが持ち味で、土俵を降りれば分厚いレンズのメガネがトレードマーク。

いわゆる「気は優しくて力持ち」を地で行くような、朴訥な好青年です。

 

この錦木は大相撲では伝統的な四股名といってよい。

 

‹伊勢ノ海部屋の錦木(右)と京の里(左)。いずれも南部藩ゆかりの四股名›

 

 

古きを訪ねれば寛政元年(1789)に伊勢ノ海(4代→5代)の門人であった滝ノ上が錦木塚右衛門を名乗ったのがその初めです。

この初代・錦木は現在の岩手県北上市の出身で南部藩のお抱え力士であり、1場所のみながら大関の地位に登り、引退後は二所ノ関(初代)として南部藩の相撲頭取になりました。

 

次いで文化7年(1810)にその二所ノ関の弟子である岩手県花巻市出身の三ツ鱗が錦木塚五郎を襲名、かなりの実力者でしたが、小結に昇進した文化10年正月限り引退。

一説に巡業中の取組で鶴ヶ峰(大関・鉞より改名)を殺してしまったのを負い目に感じたためと言われています。

 

3人目の錦木繁之助はやや複雑で、出身からして下総(武蔵?)の葛飾郡であり、師匠は元泉崎の4代・音羽山。

四股名は泉崎→宮城野→倶利伽羅→宮城野→錦木→宮城野→音羽山(5代)→雲井川→江戸ヶ浦と目まぐるしく変わっており、錦木を名乗っていたのは文政2年(1819)~3年の間で、この期間のみ南部藩のお抱えであったやうです(最高位は関脇)。

 

4人目は2代・二所ノ関の弟子で江戸相撲では伊勢ノ海門下にあった錦木塚五郎で、先代の塚五郎と同じ花巻市の出身(お抱えは南部藩だが、一時は八戸藩抱え)。

稲荷山→三ツ鱗から天保11年(1840)に錦木と改名、小結を務めました。

 

5人目の錦木塚右衛門は3代・二所ノ関の門人で北上市の出身ですが、当初はなぜか逆鉾亀之助を名乗っており、その後、玉川を経て安政3年(1856)に錦木と改名しました。

最高位は前頭筆頭。

 

ちなみに逆鉾亀之助の名乗りは一時、南部藩の抱えであった三ツ鱗(前頭5、後に大淀)が用いていたものでしたが、引退後は竹縄(5代)を襲名して大坂相撲の頭取となり、明治に入ってその門下から錦木繁之助(香川県出身)が出ています。

当初、大淀の四股名でしたが、明治4年に南部家の出入りを許され錦木と改め、7年に大淀に戻って後に片男波(4代)を襲名します。

最高位は十両筆頭、長く二段目上位を務めながら入幕は叶いませんでした。

 

なお明治42年には序ノ口8枚目に錦木徳二の名がありますが1場所限り。

昭和53年3月には前相撲で錦木(佐渡ヶ嶽部屋)が登場していますが、翌場所より琴東に改名しています。

昭和の錦木は本名が鈴木なので、恐らくは届け出の際の登録ミスでせう。

 

平成24年に至り伊勢ノ海部屋の幕下・熊谷が錦木徹也と改名して旧南部藩領から久々に錦木が再来。

これが現役の錦木で、念願の三役に昇進して名だたる先達と肩を並べました。

 

 

かくの如く、錦木は二所ノ関部屋、あるいは南部家と結びつきの強い四股名と言えますが、そもそも二所ノ関は初代の軍右衛門(初代・錦木)が南部藩の相撲頭取となった縁で、初代及び2代は南部藩所属の相撲頭取の立場にあり、3代以降、江戸の大相撲の年寄に加入することになったという名跡。

錦木の四股名は南部藩及びその支藩である八戸藩に受け継がれた四股名と言えます。

 

実は岩手県ではなく、この南部藩というのがミソな訳で、そもそも錦木の四股名の由来である「錦木塚」は現在の秋田県鹿角市に所在しています。

江戸時代、ここ鹿角は南部藩領であり、すぐ西の現・大館市が佐竹氏の久保田藩領。

尤も南部藩は明治の戊辰戦争において新政府に徹底抗戦したために廃藩置県を待たずして藩は旧仙台藩領(宮城県)に移されて藩領は瓦解しており、その後、南部家が盛岡の地に復帰した際も鹿角郡は除外されたまま曲折を経て秋田県へと移行しました。

とはいえ秋田県となっているのは旧鹿角郡のみであり、こと四股名という点ではやはり岩手県のイメージがあるのもまたむべなることでせう。

 

さて、このあたりで錦木塚についてもご説明したいところではありますが、話すと長くなりますのでまた後編にて―。

 

 

 

再び年寄再雇用制度について

大相撲で65歳の停年後に希望すれば70歳まで再雇用される、いわゆる「年寄再雇用制度」が導入されてより今年で丸10年。

この問題に関しましては制度の導入時(2014年)にすでに弊ブログでも問題点を指摘しているのですが、改めてこの制度の抱える問題について取り上げたいと思います。

 

まずこの制度に関して、2021年の高年齢者雇用安定法の改正に伴い政府や厚労省が各企業に対し70歳までの雇用の機会確保を求めている点から鑑みて、先駆的な制度の導入であったと評価できる点があるのは間違いないでせう。

一方で制度の導入10年を迎え、弊害が目立ってきたのもまた事実と言えます。

とりわけ問題となっているのが空き名跡の不足によって現役力士が引退しても親方として残るのが難しい状況が続いている点で、2024年7月現在、参与の肩書で再雇用されている親方は8人にのぼり、全体の1割近くを占める事態となっています。

 

実は制度が導入された2014年当時は空き名跡がそれなりにあった時期で、再雇用に伴う影響は暫くは大きくはないと見なされた時期でもありました。

ただ、この時期に空き名跡が少なからずあったのは理由があり、八百長問題などによって本来であれば協会に親方として残っていたであろう力士等が相当数、退職や引退した上に外国籍の力士が多く、この頃はまだ日本に帰化して協会に残る事例が少なかったという事情があります。

ところがこの10年ほどの間にトレンドも変化しており、再雇用の親方が増加する一方で外国出身の力士が帰化して親方となるケースが増えており、今や三役経験者はおろか、横綱・大関であってもすんなりと名跡を取得できない事例が出てくるようになってしまいました。

 

もう一点の問題は部屋の継承に関わることで、まずは再雇用の親方は嘱託職員という任期付きの雇用である故に部屋を経営することが出来ません。

以前であれば師匠の停年と同時に後継者となる力士が引退して即、部屋を継承出来ていたものが、まず後継者たるべき者は事前に年寄名跡を確保する必要性が高まったのです(荒汐部屋などの例外はあるが)。

例えば横綱特権で現役名のまま5年という期限付きで親方となっていた白鵬なども中々空き名跡がなく、危うく名門の宮城野部屋が消滅しようかという所、某親方の不祥事があって間垣の名跡を確保し、先代の停年に間に合わせることが出来ました(結局は閉鎖に追い込まれたが)。

 

このような事態に対し世間の論調としては停年後の元親方に関しては年寄名跡とは切り離し、再雇用後は四股名、もしくは本名で業務に当たればよいという意見があります。

私も基本的にはこの意見に賛成で、そもそも再雇用後の親方は正規雇用ではないわけですから年寄名跡が必要であるとは思いません(理事候補選挙での投票権も撤廃)。

昨今では余りに名跡が不足しているがために参与の親方に70を待たずして退職してもらって名跡を工面する事例も増えていますが、これでは70歳まで雇用を確保するという趣旨に反している上に現役力士への負担が高くなってしまい、解決法としては評価できるものではありません。

 

さらに近年では本来であれば親方として相撲協会に残るべき三役を経験したような面々が協会を離れてしまう例も多く、年寄名跡を取得する負担ほどの魅力を見出せていないのも事実でせう。

相撲協会に残ることに対して不当に高いハードルがある現状は結果として人材の流出を招き、とりわけ他の道を切り開くくらいのポテンシャルのある力士ほど協会を去ってゆく傾向すら見出せます(この点に関しては年寄株の価値が将来的にどのように変動するか見通せないという問題もある)。

 

しかるに再雇用後の親方を年寄名跡より切り離せば本人の意志によって70歳までの雇用が維持されるわけですから、現状において老齢の親方衆にとっても悪い話ではなさそうですが、おそらく相撲協会としては人件費の負担増を懸念しているのでせう。

尤も人件費の増加は制度の導入によってあらかじめ予想しうるものであるし、さらにいえばこの段階で負担増を嘆いていては親方以外~すなわち行司や呼出しといった裏方から協会職員に至るまで~の再雇用を進めることは到底かないません。

 

協会員の増加分の仕事の捻出も課題ながら、例えば協会職員などは労基署から是正勧告が出るほどに超過勤務が多い職場となっており、こうした負担を減らす効果は期待できるし、負担が減ればその分を他方へ振り向ける余地も生まれようというもの。

また、行司や呼出しなどは主に若手の指導を行う他、現役時代とは異なる分野の仕事を任せてもよろしいかと思います。

 

勿論、再雇用は任意ですから体力に不安があったり、業務の内容に齟齬があれば身を引くのは本人の自由。

あくまで希望すれば親方衆に限らず、行司、呼出し、床山、若者頭、世話人、協会職員のいずれもが70歳となるその日まで相撲協会の雇用を受けられることこそ理想の姿であるはずです。

同時にそのことが後進の負担となるのではなく、むしろそれを支えるための制度であるべきであり、相撲協会の正規職員の枠(例えば親方ならば105の名跡)とは別枠にて任用されるのが望ましいでしょう。

そのための第一歩として、まずは親方の再雇用組を速やかに年寄名跡より切り離し、現役から親方へ移行する門戸を現状よりもう少し広く開放されんことが求められているのです。

 

 

 

 

 

 

 

六富士の時代~幷に七若と七琴(後編)

前編では直近の伊勢ケ濱部屋と武蔵川部屋の事例を見てまいりましたが、それ以前はどうでしょうか。

まずは時計の針を昭和30年へと巻き戻してみてみませう。

昭和30年代といえば土俵の上では栃若から柏鵬へと時代が変革を迎える時期。

時は昭和36年9月場所、その若乃花の所属する花籠部屋から7人が幕内に顔を揃えました。

その顔触れは御大の横綱・若乃花にベテランの若ノ海、若手の若三杉、若秩父、若乃國と続いて、この場所、新入幕の若天龍、若駒。

いわゆる‘七若‘であり、この体制は37年1月までの3場所続きました。

実はこの場所数は若駒の幕内在位場所数とイコールであり、若駒の十両陥落によって体制が崩れると5月には若乃花が引退し、時代の終焉を迎えました。

花籠部屋ではその後、52年1月場所にも6人の幕内力士が居並ぶ第2次黄金期を迎えましたが、輪島、魁傑、荒勢、大豪、大ノ海、若ノ海と四股名はまちまちでした。

 

ところで昭和36年9月の番付をよく見ると出羽海部屋も7人の幕内を揃えています。

ただ、出羽海といえばかつては片屋の一方を占めるほどの大部屋であり、同様に時津風や立浪といった一門の総帥クラスの部屋も多数の関取が犇めいていた時期が少なからずありました。

昭和34年以前ですと幕内力士が50人以上とあって特定の部屋の幕内力士が多数いる例はなお多くの事例が見られます。

 

同一部屋での幕内力士が多いと有利となる状況が生まれるのは何といっても部屋別総当たり制であればこそ。

それまでの一門・系統別よりなお対戦相手が絞り込まれる状態であり、その恩恵は無視できぬものでした、

そこで部屋別総当たり制へ移行した昭和40年1月場所以降を見てみるとその当初においては出羽海、時津風、立浪といった部屋が6人以上の幕内力士を揃えていることがありましたが、42年3月場所に幕内の定員が40人から34人に削減されると、以後、しばらくは6人以上の幕内を並べる部屋はありませんでした。

 

昭和50年5月場所、久しぶりにその一線を越えたのがかつての横綱・若乃花率いる二子山部屋(貴ノ花、若三杉、大旺、二子岳、若獅子、隆ノ里)。

次いで前述のとおり52年の花籠部屋を挟んで、56年7月、11月~57年3月にも二子山部屋が6人以上の幕内力士を揃えて阿佐谷勢の春を謳歌しています。

56年~の二子山部屋の顔触れは横綱・若乃花(2代目)を筆頭に隆ノ里、大寿山(後の太寿山)、若島津(後の若嶋津)、飛騨乃花、隆三杉、若獅子で、56年7月のみが7人、他の3場所は6人の布陣でした。

 

平成に入ってからは元年3月で井筒部屋が達成したのが最初の例。

逆鉾、寺尾、陣岳、霧島、薩洲洋、貴ノ嶺と、四股名に共通性はないものの鹿児島県出身者5人を含む全員が九州出身といふのも特筆されます。

 

平成4年5月場所には藤島部屋から6人の幕内が並ぶ若貴ブームの真っ盛り。

貴乃花、若乃花、貴ノ浪、安芸乃島、貴闘力、豊ノ海に加え、5年3月からは師匠が停年となる二子山部屋を引き受けてシン・二子山部屋となって三杉里、隆三杉、若翔洋、浪之花が合流、ここに幕内に実に10人の力士を擁する事態となりました。

以降、二子山部屋は9年3月まで常に6人以上の幕内力士を擁し、かつその内実たるや横綱2人、大関1人、関脇3人、小結3人の充実ぶりで、とりわけ幕内上位にあって同部屋のメリットを最大限、享受したと言えさうです。

 

一方、この二子山部屋の有力な対抗馬として名乗りを上げたのが佐渡ヶ嶽部屋。

平成3年7月場所にて琴錦、琴ケ梅、琴ノ若、琴富士、琴稲妻、琴椿と6人の幕内を揃えましたが、いずれも四股名に‘琴‘がついて‘六琴‘。

4年11月、5年1月にはここに琴別府が加わる‘七琴‘となり、なお合併以前の藤島部屋を上回る勢威を示しました。

七琴体制は2場所のみながら六琴は6年9月まで断続的に続いており、こちらも4関脇、1小結と全盛期に違いはあれ上位に躍進する力士が多く、同部屋力士が多数であることによるボトムアップがあったと言えるかもしれません。

 

これに続いたのが前編で取り上げた武蔵川部屋であり、さらに今回の伊勢ヶ濱部屋の‘六富士‘までの間には境川、追手風、木瀬などが多くの幕内力士を擁した時期がありましたが、6人揃えることもできなかったし、四股名に統一性があった訳でもありません(追手風部屋は翔が多いが・・・)。

最も惜しい事例が九重部屋で、幕内にコンスタントに3、4人を揃えた上に四股名も千代~。

令和2年11月場所及び3年1月場所には十両も含めると7人が轡を並べる‘七千代‘体制が整いつつありましたが、幕内の壁に阻まれました(幕内=千代の国、千代大龍、千代翔馬、十両=千代ノ皇、千代丸、千代鳳、千代ノ海)。

 

以上、同一部屋による6人以上の同時幕内在位について四股名をからめてご紹介いたしました。

今後の展望から七若、七琴、六富士に続きさうな部屋を探してみると、追手風(翔)、佐渡ヶ嶽(琴)、九重(千代)、高砂(朝)あたりは力士数も多く、四股名の同一性が高いので期待できそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六富士の時代~幷に七若と七琴~(前編)

大の里の歴史的快挙に沸いた令和6年の五月・夏場所。

初土俵より所要7場所での栄冠はまことに新時代の幕開けをも予感させるものでしたが、何といってもその2か月前―、春場所の尊富士の新入幕Vもまた世の人々の度肝を抜く偉業でした。

もとより相撲処の青森県で小学生時代から相撲に打ち込み、大学までキャリアも十分とは言え大きなタイトルとは不思議と無縁であった尊富士がなぜ、これほどの進化を遂げたのか―?

その裏には伊勢ヶ濱部屋といふ角界有数の豊富な稽古量と稽古相手の存在を抜きには語れないでせう。

 

伊勢ヶ濱部屋とくればまずは何といっても大将の横綱・照ノ富士。

度重なる怪我に苦しみながらも1月の初場所ではきっちり優勝してみせる第一人者の存在は精神的にも大きな柱として若武者を支えていたことは想像に難くない。

続いて小兵ながら押しの圧力と技の冴えを見せる翠冨士、錦富士の近大・同期生コンビ、若手の成長株として心境著しい熱海富士と幕内に並んでいたのですから、稽古相手にも事欠かないでしょうし、本場所ではこれらの力士との対戦がないといふ点も有利に働きます。

さらに五月場所では37歳といふ角界でもデラックス(別格)な存在となりつつある元関脇の宝富士が幕内に返り咲き、ここに同一部屋の力士が幕内に6人そろい踏みしたのです。

 

番付を振り返ってみると幕内に同一部屋の力士が6人揃ったのはこの前では平成16年3月場所の武蔵川部屋。

大関・武双山を筆頭に小結・垣添、平幕で雅山(元大関)、出島(元大関)、武雄山、和歌乃山(元小結)と居並んだ。

武蔵川勢の6人衆体制は武雄山が新入幕を果たした平成13年11月場所以降、横綱の武蔵丸を中心に断続的に続いており、15年の9月には垣添の新入幕により1場所限りながら7人が揃いました(翌場所は和歌乃山が十両に陥落、武蔵丸は11月場所で引退)。

 

ただ今回の伊勢ケ濱部屋が当時と違うのは皆が皆、師匠(元横綱・旭富士)より四股名の一部を譲られて‘~富士‘を名乗っている点であり、前回の武蔵川部屋では比較的、「武」の字が含まれるのが多かったものの、過半以上の例外がありました。

かくの如く、同一部屋の幕内力士が6人以上で、かつ共通の四股名の傾向が認められるのは過去においては花籠部屋の‘七若‘、佐渡ヶ嶽部屋の‘七琴‘であり、ここに‘六富士‘というべき体制が構築されたのです。

 

伊勢ケ濱部屋の力士が‘~富士‘を名乗るのは師匠の四股名である旭富士に因むのは言わずもがなのですが、ここへ至るまではいささかの曲折もあったので少しご説明いたしませう。

現在の伊勢ケ濱部屋はかつて安治川部屋と称し、元々、宮城野部屋の関脇・陸奥嵐によって創設された部屋を大島部屋の横綱・旭富士が平成5年に継承したものです。

安治川とあって当初、親方が弟子たちにつけた四股名は‘安美錦‘など「安」の字を用いる例が多く、次いで‘安壮富士など‘安○富士‘と両の字を用いる者も数名。

ところが19年に名跡変更により伊勢ケ濱となって部屋名も改めると‘~富士‘を用いる事例が増え、従来の‘安‘の字のみを外す力士さえ現れました(安聡富士→聡ノ富士など)。

これにより、なお安美錦や照強の例外こそあれ大半が‘~富士‘を名乗るに至った伊勢ヶ濱部屋は横綱・日馬富士らを擁しつつ勢力を蓄えておりましたが、ここについに幕内に6人の関取を擁する一大勢力へと飛躍したのです。

 

幕下以下を見渡せばすでに上位へと進出してきた聖富士の存在があり、遠からず‘七富士‘が揃う可能性も出てきている。

一方で満身創痍の照ノ富士やベテランの宝富士の踏ん張りも重要な所で、まずはきっちりと六富士体制を固めたいところでせう。

 

さて、先の5月・夏場所―。

番付上では6人が揃ったものの2人が休場し、うち尊富士は十両への陥落が濃厚となっていて‘六富士‘体制は1場所限りとなってしまいさうです。

伊勢ケ濱部屋全体に目を転じると旧宮城野部屋の合流で、幕内・十両への躍進をとげそうな力士が少なからず出てきそうな情勢で、将来的には伊勢ケ濱部屋の勢力も大きく伸長するであろうことは想像に難くない。

宮城野部屋が再興されるタイミングにもよるのでせうが、10名近い関取を擁するようになるのは時間の問題。

ことによると‘○富士Δ鵬‘の一時代が遠からずやってくるのかもしれません。

 

後編では七若、七琴など、昭和戦後から平成の事例を訪ねます。

 

 

 

 

 

 

ウィアン=環濠都市から見るチェンマイの成立(後編・タイ王国チェンマイ県)

さて、前編ではウィアン・ジェット・リン、ウィアン・クム・カームといふ二つの環濠都市からチェンマイ成立の前史を概覧してまいりました。

これより述べるチェンマイの成立は1296年のことですが、それ以前より一帯にはラワ族、そしてモン族といった人々の足跡があり、そこへ北方よりタイ族が進出、モン族主体の国々を打倒してスコータイ王国やラーンナー王国が成立します。

ご存知のように‘北のバラ‘と称されるチェンマイはラーンナー王国の王都ですが、元はラワ族によって開かれたウィアン・ノッブリー(ノッパブリー)があった場所。

チェンマイを巡るウィアンの掉尾を飾って、このウィアン・ノッブリーを取り上げてまいります。

 

 

◎ウィアン・ノッブリー(Wiang Nopburi)

ラーンナー王国の王・メンラーイ王がウィアン・クム・カームより北方の地にあったワット・チェン・マンに動座し、新都の造営に取りかかったのは1296年のこと。

ビン川の西岸に位置し、ドイ・ステープ山からの豊富な湧水を有する一帯は古くラワ族によって開発されていた場所でした。

同時代にはウィアン・ノッブリ―と呼ばれており、時として洪水をももたらしかねない水を本来は環濠であったと見られるメーカー運河に導水して安定化させ、かつ耕作に必要な分量の水を確保しました。

 

‹メーカー運河のうち南西部。市街中心近くながらわりと落ち着いたゾーン›

 

 

この頃、ラワ族は既に鉄器を盛んに製造し、稲作などの耕作を広く展開していたことが知られており、ウィアン・ノッブリーは、完全に近い円形で観念的な都市プランを持ち、精神的な色合いの強いウィアン・ミサンコーン(ウィアン・ジェット・リン)に対し、生産や交易のための拠点としての性格があったものと思われます。

想定されるウィアン・ノッブリーの範囲は南北2.8km、東西1.7km程度の楕円形。

後年のチェンマイの城壁がその内部に収まってしまう巨大さですが、都市プランとしてはドヴァーラヴァティーの環濠集落とよく似ており、あるいはモン族によって完成されたのかもしれません。

 

‹チェンマイ都城概略図。方形の内郭と楕円の外郭の組み合わせ›

 

ノッブリーの‘ブリー‘は城壁の巡る都市を意味していて、タイの南部にはよく見られる地名ですが、北部ではほとんどお見掛けしないこともその証左。

ウィアン・ノッブリーの歴史については多分に伝承的であり、その成立に関してはなお再考の余地があるとも言えます。

1296年にはタイ族のメンラーイ王によって新たな都城が構築されますが、1.5km四方の方形の都市プランの西辺はメーカー運河を転用したものと思はれ、かつメーカー運河を外堀として利用するものでした。

新しい都を意味する「チェンマイ」と命名された王都はその中心にラック・ムアン(都市の柱)と称される祠堂を配して須弥山に仮託し、その北に王宮を配置するといふ構造はアンコール・トムやスコータイと同じくインドの世界観を具現化したものです。

 

‹ウェットトン王家の王宮跡。写真は芸術文化センター›

 

 

なお、チェンマイに限らずタイ北部に見られるチェンライ、チェンセーンなどの‘チェン~‘とは漢語における城(城壁の巡る都市)に由来する語であり、同様の意味を持つウィアン、ブリーを含めてまさに三役そろい踏み。

在来のウィアンにインド世界のブリー、中国世界のチェンと、民族・文化が交差し、蓄積された重層的な歴史の厚みを感じさせてくれます。

チェンマイはまた、王都として「頭のウィアン」を意味するファ・ウィアンとも称されました。

ラーンナー王国は15世紀の繁栄を経て1588年にビルマ(タウングー朝→コンバウン朝)の支配下に入って独立国としての歴史は終焉。

以後はチェンマイ周辺を統治する国主が擁立され、旧ラーンナー諸都市を束ねる要に―。

1774年に至りタイ南部に勃興したタイ族のトンブリー王朝によって奪還され、次いで王権がチャックリー王朝(シャム)に代わった後の1796年にランパーン王家のカーウィラが地方王家として入城、チェンマイ復興に力を注ぎ、城壁や堡塁もレンガ造りの強固なものへと改修しています。

カーウィラの後裔はチェットトン王家としてチェンマイを中心とするラーンナー地域を半ば独立的に支配し、1939年まで存続しました。

王家の終焉よりほどなく、レンガの城壁はその多くが解体されて道路等の建設資材として持ち去られ、今日においては四隅に配された堡塁などが残るのみとなっています。

 

 

‹北西隅のシープーム砦。胸牆も含め最もよく残る›

 

 

 

―以上、前後編に渡ってラワ族、モン族、タイ族と支配を変えつつ北部タイに燦然と輝いたチェンマイの歴史を環濠都市・ウィアンを通して概覧してまいりました。

今日なお北部タイの経済の要であり、観光の拠点としても多くの人を惹きつける北のバラ・チェンマイ。

かつての城壁はその多くが失われてしまいましたが、旧市街を巡る環濠はほぼ従前のまま残存し、城門や堡塁の跡にレンガの城壁をたどることが出来ます。

さらに外堀たるメーカー運河の内外はかなり雑多なエリアで、堀の景観なども保全されているとは言い難い所ですが、運河自体はほぼ残っておりますし、一部には高い版築土塁の城壁も残っていて見応えのある遺構です。

近年には運河自体も整備されて、その一部は観光客の注目を集めるエリアになっているとか―。

チェンマイのウィアンをたどることで見えてくるそこに交錯した人々の物語。

そして今でもチェンマイ周辺に住まうラワ族やモン族の息吹を感じ、その遺跡からかつての繁栄のよすがに思いを馳せてみてはいかがでせうか。

 

 

‹わずかに残る内郭内の城壁›

‹北西隅のクーファン砦。最も城壁がよく残っているエリア›

 

‹メーカー運河沿いの外郭土塁。高さもあり、一部はレンガが残っている›

 

 

‹東側のメーカー運河。この辺りは城壁は撤去され、住宅となっている。›

 

 

 

 

 

 

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