星ヶ嶺、斬られて候
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角界の怪物たち(後編)

前編では三人の「怪物」を紹介しましたがと、そのいずれもが学生相撲出身といふ共通点がありました。

野球における「怪物」の例を見ると大体、甲子園やその予選での活躍からかく称されることが多いように思ひますが、これを角界の「怪物」と比較するとプロ入りする前にすでに十分に実績を積んでいる点が通底します。

高校生にしてアマチュア横綱という久嶋啓太(久島海)などは野球の怪物の事例とよく似ていますが、平成の武双山、雅山はプロ入り後の破竹の勢いからネーミングされた点では野球の事例とは相違していると言えるでせう。

 

さて、話は戻って平成16年―。

旧ソ連圏のエストニアからはるばる海を越えて規格外の新人が角界の門を叩きました。

後に把瑠都を名乗るカイド少年は入門時にはすでにして2m近い身長に体重は140kg、骨太で固太りの体格に周囲は驚嘆と羨望の目を注ぎます。

三保ヶ関部屋(後に尾上部屋)から初土俵を踏むと下馬評通り8場所で十両に昇進するなど順調に出世し、世に「エストニアの怪人」と称されました。

 

この時、すでに土俵には平成の怪物が二人いたために把瑠都は怪人と冠せられたのでせうか。

怪人というと20面相ではないが、怪しく正体の知れない人のことで怪物とはニュアンスが違うようです。

ただ、この「怪人」にも先輩格があり、プロレスラーの「蒙古の怪人」キラー・カーン、球界では「サモアの怪人」と言われたトニー・ソレイタと出て、昭和60年代には角界でも西サモア出身の幕内力士・南海龍(高砂部屋)が「サモアの怪人」と称されました。

仮面ライダーのショッカーの皆さんなども怪人と呼ばれるがごとく、どこか怪人の呼称にはヒールとしての側面がつきまとう一方で、スポーツの世界に関して言うと外国人(※キラー・カーンは日本人)というくくりがあるようにも思えます。

 

把瑠都は大関に昇進するも大味な取り口から優勝は1回に留まり、横綱には届きませんでした。

 

 

把瑠都に続いて世の中をあっと言わせた怪物はモンゴルの出身の新星です。

高校卒業後、社会人となって実業団横綱のタイトルを獲得し、湊部屋に入門した逸ノ城は所要5場所で新入幕。

十両の2場所を優勝、優勝同点で通過して迎えた平成26年9月場所は新入幕ながら1横綱2大関を破り最後まで白鵬と優勝を争っての13勝の大活躍で「モンスター」と称されました。

 

このモンスターも語感としてはインパクトが強いやうですが、2000年代以降はゲームやアニメでキャラクター化が進み、どこか親しみやすさを感じる言葉ですらある。

当時は190cm、200kgの体格ながら反応もよく大関を期待されながら、その後は太りすぎの影響か、体のキレもなくなり一進一退。

しかし、どこか底の知れぬ大物感を漂わせ、好角家をやきもきさせています。

 

こうしてみると怪童→怪物→怪人→モンスターと次第に表現がオーバーになっているようですが、これは繰り返し同じ言葉が使われることで程度が低くなるせいでしょうか―。

特別急行が特別でなくなり、緊急事態が緊急でなくなったのと同じ原理です。

 

次なる規格外の新人は「令和の怪物」になる可能性が高いが、気になるのは高校相撲界で圧倒的強さを誇っている鳥取城北高校の落合哲也選手だ。

今年(令和3年)の元日、昨年、中止となったインターハイの代替大会として開催された元日相撲で優勝した落合選手の言が振るっている。

 

「もっと強くなってバケモノと呼ばれるよう、近づけるようになりたい」

 

これには解説のアナウンサーも「すごいことを言った」と舌を巻いた一言ですが、その後も落合選手の快進撃は続いています。

バケモノという語もアニメ映画のタイトルに使われるなどおどろおどろしいイメージから脱却しつつはあるものの、怪物、モンスターに比べるとまだ身構えてしまうような語感の強さを感じてしまいます。

今後、落合選手が順当に実績を残し、大相撲でのスタートダッシュにも成功すれば、案外、「バケモノ」の枕詞が定着するかもしれません。

 

角界の怪物たち(前編)

『稲生物怪録』ではありませんが、世間では妖怪や心霊にまつわる怪談がいつの世でも花盛りです。

そうといえば相撲の歴史を俯瞰してみると時折、怪物が現れることがある。

今回はそんな角界の怪物にまつわる話です。

 

角界に怪物譚が流布するのはそう古いことではありません。

昭和58年、高校生にして並み居る社会人や大学生をなぎ倒してアマチュア横綱に輝いた久嶋啓太(後の久島海)が「怪物」の名をほしいままにしたというのがその事始めです。

 

ただ、怪物・久嶋には先輩格がいて、それが「怪童」の系譜。

昭和30年代には19歳にして小結に昇進した花籠部屋の若秩父(後に関脇)が「秩父の怪童」と称されて人気を博しました。

 

下って昭和40年代に怪童といわれたのが後の横綱・北の湖(三保ヶ関部屋)。

北の湖が角界の門を叩いた昭和42年の頃は中学生でも力士になれたということもあって15歳にして早くも幕下に昇進していたという稀に見るスピード出世。

その後もトントン拍子で出世を重ね、21歳で横綱に昇進しました。

 

北の湖と同じ昭和28年生まれの大錦(出羽海部屋)も「佐渡の怪童」と称され、新入幕48年9月場所で三賞を総なめにする活躍をしましたが、三役在位は翌場所の小結を1場所にとどまりました。

 

その後、相撲の世界に衝撃をもたらしたのは冒頭の久嶋啓太の存在でしょう。

高校一年生にして高校横綱、高校三年生から3年連続でアマチュア横綱という圧倒的強さはもはや怪童の域に収まらない存在。

規格外の高校生という意味では久嶋に先立つこと10年ほど前に甲子園を沸かせた「怪物」江川卓選手の存在が大きかったと思われ、怪物の称号もここに着想を得たものと推察される。

 

大学では28ものタイトルを獲得して鳴り物入りで出羽海部屋に入門した、後の久島海こと久嶋青年。

ところがプロの水の厳しさか、幕下60枚目格付出しデビューから関取昇進まで所要7場所と苦戦し、十両は2場所連続優勝で突破したものの最高位は前頭筆頭とついに三役に昇進することはできませんでした。

 

その久島海が幕内で活躍していた平成5年、鮮烈なデビューを果たしたのが「平成の怪物」こと武双山です。

アマチュア横綱のタイトルを引っさげて専修大学から武蔵川部屋に入門した尾曽改め武双山。

幕下付出しから4場所で幕内昇進を果たすと3場所連続勝ち越しで早くも関脇に躍進し、入門2年たらずで大関目前に迫る勢いを見せました。

圧倒的な馬力で当たるが早いか相手を一気に持っていく快進撃はしかし、大関目前での相次ぐケガで足踏みを強いられ、ようやく大関に昇進したのは入幕から41場所目の平成12年5月のことでした。

 

武双山にとってある意味で発奮材料となったのが同郷の弟弟子の雅山の存在でせう。

平成10年、明治大学から武蔵川部屋に入門すると幕下・十両で4場所連続優勝して幕内に昇進、重い腰で突き上げる「平成の新怪物」は平成12年1月に小結に昇進するやそのまま3場所連続の2桁勝ち星で、同年7月には早くも大関に昇進して武双山、出島と轡を並べました。

ただ雅山が苦しんだのはむしろこの後で、横綱を狙うどころか8場所で大関の座を明け渡すことになってしまうのです。

それでも大関陥落後も長く幕内を務めあげ、一度は再昇進、優勝のチャンスを掴みかけたのは立派といえるでせう。

 

昭和30~40年代には江戸時代の少年力士の系譜を引く怪童の呼称が使われていた角界でしたが、50年代以降は3人の怪物が出現しました。

この3人に共通するのはいずれも大学で十分に実績を積んでの入門であり、その前の怪童たちとの決定的な相違です。

武双山、雅山はともに大学を中退しての入門でしたが、20歳超の青年に対して怪童の冠はややそぐわない雰囲気があったのでしょうか。

 

なお、怪物の呼称に関しては前述の如く高校野球で活躍した江川選手が相撲に先駆けて怪物を名乗っており、以後、折々に甲子園の舞台から怪物を生み出しました。

そもそも怪物と言うと「フランケンシュタインの怪物」の如くおどろおどろしいイメージがありましたが、昭和40年代の人気漫画でアニメにもなった藤子不二夫Ⓐ作品の「怪物くん」によってイメージが変革され、ユカイ痛快な印象を与えるものとなりました。

江川選手が怪物と言われたのはまさにその後のこと。

 

ちなみにこの球界に追随する形で怪物と称された久島海でしたが、一方では別のイメージに怪物とも結びつきます。

それが昭和40年代後半から目撃例が相次いだ北海道・屈斜路湖に生息するというネッシー型UMAのクッシーで、久島海も怪物・クッシーの愛称を冠せられました。

 

不思議と若秩父以外は出羽海一門に偏在して出現した角界の怪童・怪物たち―。

世も21世紀となった平成後期以降はさらに進化した怪物が登場しますが、その話はまた次回といたしませう。

 

 

 

 

 

 

『稲生物怪録』と力士・三ツ井権八

2回に渡って広島県三次市の城を紹介してまいりましたが、前回記事の比熊山城と関連する江戸時代の怪談に「稲生物怪録」という話があります。

土台、城にまつわる怪談はあまねくあるんですが、この「稲生物怪録」のスケールは群を抜いている。

江戸時代後期、国学者の平田篤胤によって紹介されたこともあって人々の間に相当、流布したらしく、現在に多くの写本が伝わっているのもその証左。

2019年には三次市に「もののけミュージアム」が開館し、心霊スポットならぬホットスポットとして注目を集めています。

では、「稲生物怪録」とはどのような話なのでせうか―。

 

時は寛延2年(1749)のことといふ。

三次に在住していた芸州藩士の子で16歳の少年・稲生平太郎はひょんなことから肝試しに夜中、比熊山に登り、その山頂にある、触ると祟りをなすという旧城主の古塚(背後の天狗杉とも)に証をつけて下山した。

その後、暫くして平太郎の身辺で次々に怪異が起こるが、平太郎は豪胆にもさして騒ぐでもなく屋敷に居座り続けること30日―。

ついに妖怪の首領・山ン本(さんもと)五郎左衛門が姿を現し、他所へ動座することを告げ、平太郎に木槌を授けて天空へ飛び去ったとさ、どんどはれ。

 

 

 ‹稲生邸推定地に立つ石碑›

 

 

この話は後に稲生武太夫と名を改めた平太郎から直接、話を聞いたという同輩の柏正甫がまとめた記録が出所とされ、武太夫本人が記したという記録も伝来しています。

武太夫は他の文献にも記録が残る実在の人物で、話の内容は一見、荒唐無稽とも思えるのですが、武太夫の話にブレがなく、内容が一貫している上に細部の記述にリアリティがあること、妖怪変化の類がキャラクター化されたものではなく、オリジナリティーが高いことから一笑に付せない側面があります。

惜しむらくは怪異の噂に稲生邸前に人だかりまでできたといふのに、裏付けとなる同時代史料がないのが泣き所でせう。

 

とまれ、今回の記事の主眼は肝試しの発端を造った三ツ井権八という人物についてです。

実はこの権八、生まれは三次近在の布野村(現・三次市内)であったが幼少より並外れて相撲が強く、長じて紀州藩お抱えの力士となって三ツ井(三井、三津井)を四股名とした。

その後、大坂相撲から江戸相撲に転じて名を挙げたものの、どうやら増長して素行が悪くなり、相撲を破門。

芸州藩の平田五左衛門に仕える機会を得て故郷へ帰り、三次を中心に広島表でも相撲の指導にあたった、とあります。

権八は三次にあっては地元の力士や藩士の子弟相手に相撲の稽古をつけていましたが、その稽古仲間には平太郎の姿もありました。

ところが権八が「どんな武芸もこの怪力にはかなわない」などと自慢するのに腹を据えかねた平太郎が権八と衝突し、では、肝試しをしよう、となったわけなのです。

 

この権八について相撲側の記録から追えないだろうか―と思い調べてはみたものの、番付等に名前を見出すことはできない。

ただ、「物怪録」の記述を信用するのであれば、権八は江戸において平田の知遇を得ており、その屋敷において江戸等における様々な体験談を吹聴しているので、一応は江戸に出て、相撲稼業に身をおいていたことはあったのでせう。

ちなみに権八が江戸に出る前に所属したといふ紀州藩は当時、相撲の雄藩と言ふべき存在で、、柔の術を相撲に取り入れたという鏡山沖之右衛門、待ったの開祖・八角楯之助らが在籍し、さらに化粧まわしの源流を造ったとも言われるなど独自の存在感を放っていました。

 

「物怪録」における権八の役割は重要である。

まず「物怪録」の冒頭、権八が華々しく登場し、その経歴が語られてより物語の幕が開ける。

最初は弟子でもある平太郎少年と意地を張りあっているのだが、その豪胆さを知ってからは肝胆相照らすが如き絆を結び、怪異を聞きつけて稲生邸に集まる平太郎の友人たちが恐れおののいて尻尾をまく中で、権八は頻繁に屋敷を訪れ、平太郎を気遣っています。

時に豪気に怪異に対峙するあたりは流石に昔取った杵柄ながら、全体を通じてみると平太郎の引き立て役としての印象が強いと感じます。

 

「物怪録」は多くの写本がある中でもいくつかの系統があるのですが、そのうち成立が早いといわれている柏本での伝える権八の消息は残念な次第です。

怪異が起きてよりこの方、稲生邸を度々訪ねていた権八は発熱が続き、その後、いよいよ大病となって九月に還らぬ人となってしまったというのです。

時に30代後半の若さでした。

比熊山で百物語をした二人の身辺をいずれも怪異が襲ったのはまさにたたり石のなせる業であったが、怪異を撃退した平太郎に対し、権八の方は毒気にあてられるような結果になり、大きく明暗が分かれてしまいました。

 

ところで「物怪録」にはもう一人、力士が登場しています。

十日市町に住むという周防屋貞八で、年齢50歳ほどで赤面をした大男だそうですが、柏本には登場しません。

権八の下には近在から多くの若い力士が教えを請いに集まったというから、その一人でしょうか(ただし、貞八の方が年上)。

周防屋といふ名に町人町である十日市町に住んでいるとのことで本業は何か商売をしているのでせう。

 

この貞八、稲生邸に現れた時点で様子がおかしいと思っていたら、頭が二つに割れる

が早いか、中から10人ほどの血まみれの赤子が出てきて、あちこち這いまわった挙句、最後は一つに集まって大きな目玉になったという。

このシュールな情景に平太郎もフハッと驚いてはみたものの結局は寝てしまう。

度重なる怪異に平太郎がいかに立ち向かったのか、というと大抵、最後は寝るというのが常套手段。

大して騒ぐでもなく、肝の据わった対応に、読んでいる方が驚かされます。

 

さて、昨今売り出し中の三次であるが、ミュージアム以外にも稲生邸の石碑や権八が若き日に相撲の稽古をしたという魚の棚など「物怪録」ゆかりの場所が存在します。

その中で白眉といえるのは三吉若狭守の墓と伝わるたたり石(神籠石)。

 

 

 ‹今に残るたたり石。かつては指をさしただけで災いをなしたという›

 

 

若狭守は比熊山城主とされていますが、天正19年(1591)の築城より10年ほどしか存続しなかった比熊山城主は三吉広高(安房守)をおいて他にはいない。

どうやら若狭守は広高の弟・隆勝のことらしく、兄と不和になって出奔の後、若くして卒去した人物であるようです。

一方で広高は後見役であった叔父の粟屋隆信を殺し、その祟りに苛まれて居城を比叡尾山から比熊山に移したという話もあります。

戦国末期、三吉氏を巡る闇が妖怪の跳梁を招く原点になったということでしょうか。

今も鬱蒼たる林の中にある比熊山城の景観は、どこか来訪者を拒んでいるかのようでもある。

 

 

 

 

 

 

 

比熊山城(広島県三次市)

 

 

江の川、馬洗川、西城川の三つの河川が合流する中州のやうな場所を中心市街とする三次。

ただし、その立地は中州ではなく、三角形に形成された沖積地であり、その後背は標高331mの比熊山によって閉塞されています。

 

JRの三次駅方面から馬洗川を渡る橋上から見ると、比熊山は三次の街に覆いかぶさるやうな巨大なマウンテンであり、三次のシンボルというような存在感がある。

天正19年(1591)、三吉広高によってここに居城が築かれたのが今の三次市街地の始まり。

それまで長く東の比叡尾山城を居城としていた三吉氏ですが、河川を利用した流通を重視し、従来、河川に囲まれた孤島の如き比熊山南麓に城下としての将来性を見出したのでせう。

同じ頃、盟主・毛利輝元もまた己斐川河口のデルタ地帯に広島城と城下を建設していました。

 

しかし新城下・三次における三吉氏の統治は長くは続かず、慶長5年(1600)、関が原合戦の責めを負って毛利氏が防長二か国を除く中国一円の支配権を失うと備後の三吉氏もまた所領を失いました。

その後、浪人した三吉広高は出家をするも奇縁をもって広島藩主の浅野氏に仕え、芸備に復活しています。

 

さて三吉氏去りし後の三次であるが、芸備を治める福島、浅野氏はいずれもこの地を重視し、比熊山城こそ廃されたものの、その出城であった尾関山城、その廃絶後は三次陣屋を築いて藩域北部の行政の要とし、浅野氏の分家が藩屏を構えたこともありました。

無論、その城下たる三次町もまた賑わいを見せ、三吉広高の読み通りに三次の町は発展したと言えます。

 

かくの如く、10年と存続しなかった短命な城であったが、築城年代がはっきりしているという意味ではこの城の存在は貴重である。

城の中心は当然、比高170mの山頂を中心としていますが、尾根が広く緩やかであることから曲輪もまた広く造られています。

主郭といふべき曲輪及びその西の曲輪は千畳敷の異名に相応しく、山上にもかかわらず長辺は100m以上の広さがあり、主郭は両翼に土塁を設けていたずらに広がる曲輪空間を閉塞している。

主郭東は段々と下って東端で南北に長く曲輪群が広がり、とりわけ北は土塁で囲まれた曲輪。

現在は登山道はこの東端曲輪群に達しますが、本来はこれより西の谷間が大手であり、ここに東西両翼に土塁のある枡形状の区画が開かれています。

 

 

 <枡形内より見た大手門址>

 

 

 

主郭西の曲輪から北は鞍部を堀として分離させしめ、比較的広いピークから東西に曲輪を展開、西下に西、南に土塁のある曲輪を配し、その西の堀切をもって城域を区切っています。

この土塁のある曲輪の南は緩斜面の谷間となっていますが、10条ほどの畝状阻塞をもって弱点の克服を図ります。

 

 

 <緩斜面に波打つ畝状阻塞>

 

 

当城は広い山上空間を利しての広大な曲輪が特徴と言ってよく、反面、周囲の天嶮もあって内部の防御施設は乏しく、戦国末期と言う世相から壮大な殿舎の建造が想定されたのではないだろうか。

この城に先行する比叡尾山城でも石垣が築かれていたとあって当城でも石垣の痕跡がありますが、石材の確保に難があったのか、あくまで一部にとどまっています。

 

 

 <主郭東下の曲輪に見られる石列>

 

 

 

麓に目を転ずれば居館の跡という鳳源寺に、出城があったという尾関山公園なども見どころ。

 

ところでこの城を語る上で外せないのが「稲生物怪録」の存在である。

三次と言えば近年、「もののけミュージアム」が開館し、妖怪の町として売り出し中ですが、その発端はなんといっても稲生平太郎少年が比熊山にあったたたり石の前で知人と百物語をしたことに始まる。

以後、30日に渡って妖怪変化と平太郎が対峙するのが物語のミソですが、たたり石とは三吉若狭守の墓と伝わる立石のこと。

この石は今もあって、かの水木しげる翁は怪異見たさに大胆にも放尿をしてきたという曰くつきのもの。

 

ちなみにこの比熊山は物怪録関連で三次市も登山道の整備に力を入れているようなのですが、道が整備されているのは城跡の主郭の手前にあるたたり石までで、その先は踏み跡があるくらい。

私どものやうなシロ屋ならいざしらん、一般の人が先に進もうとは思わないやうなシロモノです。

我々としてはそれでも一向に構わないといいたい所なれど、例えば主郭内が雑木に覆われ、くまなく歩くのもままならないのはいただけない。

比叡尾山城が地元の人の手でよく手入れされているのと対照的であるのは残念な所です。

 

 

 ‹やや荒れ美味の主郭内›

 

 

 <主郭東の切岸。一部に石積みが見られる>

 

 

 

 <畝状阻塞のある緩斜面にのみ土塁を持つ北尾根西の曲輪>

 

 

 <城域を限る北西の堀切>

 

 

 ‹東尾根曲輪群の虎口。奥が大手›

 

 

 <辺縁に土塁が見られる城域東端の東尾根北の平場>

比叡尾山城(広島県三次市)

 

 

広島県北部にある山間の町・三次市。

広島駅より鉄道で1時間ほどの所にあり、地図で確認すると広島方面からの芸備線の他、岡山県の新見市から同じく芸備線、福山市からは福塩線が交わり、さらに数年前までは島根県の江津市との間に三江線が通じていました。

鉄道における要衝と言うことは取りも直さず交通の要衝であるに他ならず、陸路はもとより、江の川や馬洗川など河川を利用した舟運も活発でした。

 

中世、この三次一円を治めていたのが藤原氏から派生したといわれる三吉氏であり、鎌倉以来、長く山陰陽も結節点であるこの地に立脚して営々と続いた家柄である。

 

この比叡尾(ひえび)山城は鎌倉以来の三吉氏の居城と言われ、建久3年(1192)に近江より下向した佐々木秀綱が築いたとも、承久3年(1221)に藤原兼範が築いたともいわれていますが、比高200m超のこの険峻な山上に城は築かれたのはもっと後の世であると考えるべきでせう。

三吉氏は前述、藤原兼範の後裔とされていますが、一説には佐々木氏の流れとも。

いずれにせよ南北朝期には当地を拠点とした三吉氏の活動が確認され、この頃には比叡尾山城が築かれていたのかもしれません。

岩屋寺のある山などが連なる険峻な山塊の南には畠敷の集落が広がり、平時はここを城下としていたものと思われます。

 

中世後期においては山名、大内、尼子と時々の地域権力の趨勢に応じて盟主を替えており、一時は南の毛利氏とも干戈を交えましたが、天文22年(1553)、当主の隆亮と父・致高は毛利元就に起請文を送って、以後はその傘下として各地に出陣しています。

さらに隆亮の妹(一族の娘とも)は元就の側室となって男子をもうけるなど毛利体制下における立場も安定。

天正19年(1591)、隆亮の跡を継いだ広高は西方の比熊山に新城を築いて移り、比叡尾山城は廃城となりました。

 

件の比叡尾山城は南に馬洗川を見下ろす標高420m(比高220m)の山上を中心に築かれた山城である。

 

 

 ‹縄張図。熊野神社前にある案内板より›

 

 

山頂の本丸から主に南尾根へ曲輪を展開。

まず最高所の本丸は上・下段の二段構えで、北下に北曲輪を半円形に配置し、北面に低い土塁を構えています。

本丸から南に下ると二の丸、次いで南北に長い三の丸があり、さらに南には堀切があって南の曲輪との間を隔絶する。

ここから南下にも数段の削平地が続く一方、東の谷間にも段々と平場が展開し、恐らく屋敷が置かれていたのでせう。

 

 

 <本丸上段内。写真奥(北)に土塁あり>

 

 

この城で注目されたいのは本丸内の段差で、例えば上段と南西の一段低い下段の段差に小規模ながら石垣が見られます。

最も目を見張るのが本丸東面の下の北曲輪であり、相当数の石材が一面に散開するサマから往時の景観が偲ばれる所。

すでに積まれた状態の石垣が見られないの破却された結果であらんや。

 

 

 ‹本丸東下におびただしく散乱する石›

 

 

もう一点、注目したいのは三の丸南の堀切について。

この南の曲輪には虎口が開かれ、今は杉林となっている中を進むと左手に上段へ誘うスロープ状の土塁があります。

ここを登って上段へ達したと思うとすぐ目の前が堀切で、対岸から狙い撃ちされてしまうというトリックになっている。

これと似た構造を滋賀県甲賀市の山中城で見たことがありますが、なまじ高台に登ってしまったがために堀切の深さが増して難渋すること必至です。

ちなみに私もうっかりこちらに進んで引き返す羽目になりました。

 

 

 <この土塁、登るべからず>

 

 

山麓に鎮座する熊野神社は室町後期に建立されたといふ校倉造の宝蔵など三吉氏ゆかりの文物を伝える古社で、比叡尾山城の案内板や駐車場があって城址巡りの起点となっています。

険阻な城址ではあるが、北後背には間近まで林道が達し、地元の住民によってよく手入れもなされているので主要部を巡るには難儀しません。

 

 

 <石垣の痕跡がある本丸上段―下段間の段差>

 

 

 ‹本丸にわずかに残る石垣›

 

 

 <二の丸内。後方の切岸の上は本丸>

 

 

 <三の丸南の堀切.。件の土塁の先にある>

 

 

 <堀切南の曲輪の虎口>

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