星ヶ嶺、斬られて候
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角界の牛若丸たち

さて、前回まで坂東武者と相撲の関わりについて見てまいりましたが、この時代のヒーローと言って忘れてはならぬ存在が何といっても九郎ホーガンこと源義経です。

鎌倉幕府の将軍となる源頼朝の弟として華々しく歴史の舞台に登場すると雌伏した時期を取り戻すかの如き獅子奮迅の活躍ぶり、そして不遇の最期―。

その高い人気は生存願望を呼び起こすのか、最期の地とされる奥州平泉を脱し、北方の地から果ては大陸にまでその足跡を残したとまことしやかに語る人さえいるほどです。

 

一方で謎多き世を忍ぶ仮の姿の少年時代は牛若丸として昔話の主人公にもなっており、老若男女から善男善女に至るまで国民的人気を誇るスターといっても過言ではないでせう。

屋島における弓流しの逸話からもわかる通り、相撲自慢の御家人が居並ぶ中では非力、小兵のイメージがあり、史実としても相撲との接点のない義経ですが、不思議と相撲の世界ではこの義経のイメージを力士とオーバーラップさせる場合が少なくない。

 

 

最も有名なのが‘平成の牛若丸‘といわれた舞の海秀平(出羽海部屋)。

曙や武蔵丸といった大型力士が全盛の平成もひとケタの頃、100kgに満たない体格で変幻自在に渡り合い、技能賞を5回獲得、小結にも昇進した‘技のデパート‘です。

相撲処の青森から日大に進学するなど少年期から相撲に打ち込んでいたものの、身長が足りない故に頭部にシリコンを注入して新弟子検査に合格する奇策を敢行し、その後の新弟子検査の基準(※幕下付出限定)を変える一因を作るといふ入門時から伝説の人でした。

 

得意手は左下手を取ってからの投げなどでしたが、立ち合いで相手を飛び越してしまうのではないかというくらい大きく横に飛ぶ変化は大いに観衆の度肝を抜いた。

その超人的な跳躍力ゆえに九郎ホーガンが壇ノ浦で披露したという「八艘飛び」が以後、この技の名称として定着したあたりは牛若丸の面目躍如であったでせう。

平成18年にベースボールマガジン社が企画した「大相撲80年の80人」では小結以下からは後に理事長となる出羽ノ花(前頭筆頭)と共に選出されるなど、まさに大相撲の歴史を作った一人といえます。

 

 

この舞の海の後継者として目下、‘令和の牛若丸‘として売り出し中なのが宮城野部屋の炎鵬晃(前頭4)です。

こちらも相撲処の石川県に生まれ、地元・金沢学院大学に進学、大相撲入門後は横綱・白鵬の薫陶を受けて力を伸ばし、やはり100kg未満の体で幕内にまで上がって注目を浴びました。

しかし幕内定着には至らず、現在は十両に後退、‘牛若丸‘のニックネームを浸透させるにはやはり幕内定着が求められるところでせう。

 

以上、近年の二人の牛若丸をご紹介しましたが、その先達ともいうべき存在が昭和40年代、‘今牛若‘の異名で鳴らした藤ノ川秀豪(伊勢ノ海部屋)です。

生まれは九郎ホーガンともゆかりの深い北海道。

身長178㎝、体重108kgと後代の牛若丸にくらべて大柄ですが、フットワークの軽さで突き、押しを交えつつ動き回る取り口で、関脇を最高位に三役、三賞の常連でした。

しかし足の負傷もあって十両に下がるなど持ち前の相撲が取れないとあって26歳の若さで引退、後に伊勢ノ海部屋を継承し、協会理事の要職を務めました(現在は評議員)。

 

 

ここまで三人は小兵で身軽という相撲ぶりから牛若丸に仮託された力士たちですが、過去には牛若丸という四股名の力士もおりまして…。

 

まず紹介するのが昭和50年代に十両になった牛若丸悟嘉(伊勢ヶ濱部屋・埼玉県)。

元は本名に因む若江口の四股名でしたが、心機一転、牛若丸と改名するや幕下で優勝して十両への足掛かりとしました。

身長は低かったが色白、童顔のぽっちゃり型で、牛若丸の四股名がアナウンスされると客席から笑いが漏れたとか―。

四股名の由来は牛のような相撲と若さということで、激しい押し相撲を信条としていましたが、網膜剥離のため21歳で引退してしまいました。

 

同じ伊勢ヶ濱部屋からはこの先代にあやかってか、平成の初年にも牛若丸飛之助(福岡県出身)なる力士が登場します。

元は橋本→不動國と名乗り、また後には闘将と改名、最高位は幕下32枚目の力士ですが、時期としては舞の海が平成の牛若丸として売り出していた頃と重なっているのがニクイところです。

 

牛若丸がいればその陰に弁慶あり―。

熊野の荒法師であった武蔵坊弁慶は大兵、剛力とあって牛若丸以上に力士との親和性が高いのかもしれません。

 

昭和62年11月場所、その名も武蔵坊弁慶(武蔵川部屋)という力士が序の口優勝を遂げ、鮮烈なデビューを果たします。

ハワイ出身の18歳で、188cm、151kgの堂々たる体格。

末は関取間違いなしと言われながら郷里へ一時帰国したきり戻ってこず、そのまま廃業となってしまいました。

 

現役ではなんといっても高砂部屋の朝弁慶大吉を忘れるわけにはいかない。

平成27年に十両に昇進し、大きな体を丸めて一気に相手を持っていく相撲ぶりから、出身地の平塚市とも絡めて‘湘南の重戦車‘と言われましたが十両定着に至らず、中々、ニックネームも浸透していない状況です。

先の武蔵坊弁慶同様の大型力士であり、けだし弁慶の持つイメージの反映なのでせう。

まずは十両復帰、そして是非、牛若丸の炎鵬との対戦を見てみたい力士です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂東武者と相撲(後編)

前編では鎌倉期の相撲に関して概説いたしましたが、鎌倉幕府成立の前後には相撲で名を挙げた剛の者が少なからずおりますので、以下、個別にご紹介いたしませう。

 

 

◎俣野景久(?~1183)

相模の豪族・大庭景宗の子で、大庭景親は兄。通称は五郎。

若き頃は京に出仕して相撲の技量を磨いたらしく、安元2年(1176)、まだ流人であった源頼朝の御前での相撲で31人を抜く剛勇ぶりを発揮するも、河津祐泰に敗れた(『曾我物語』)。

頼朝の挙兵後は兄・大庭景親に従い石橋山等で頼朝軍と交戦、兄の死後も北陸へ走り、反源氏の戦いを貫いた末、加賀篠原における木曾義仲との戦で討死した(異説あり)。

 

 

 

◎河津祐泰(1146?~1176)

伊豆の豪族・伊東祐親の子で、通称は三郎。

『曾我物語』によれば源頼朝御前の相撲で俣野景久を破ったとされ、その時、河津掛けを用いたとされているがこじつけであろう。

この頃、父の伊東祐親と工藤祐経の間に所領を巡る相論があり、祐泰は祐経によって殺されてしまいます。

祐泰の遺児が曾我祐成(十郎)、時致(五郎)兄弟であり、健久4年(1193)に祐経に対し仇討ちを敢行、本懐を遂げた。

 

 

◎佐奈田義忠(1156~80)

相模の豪族・岡崎義実の子で、真田郷(平塚市)に本拠を置いた。通称は与一。

父の義実は三浦義明の子なので、三浦氏の一族である。

治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると父と共に参陣し、石橋山合戦では剛勇の士である俣野景久を組み伏せるも、俣野の救援に駆け付けた長尾新五、新六兄弟によって討たれました。

この時、痰が絡んで助けを呼べなかったことから、義忠を祀る佐奈田神社(小田原市)は咳や痰に霊験を発揮するといふ。

近世、力士の墓がしばしば咳取り=関取に効果あり、とされたことを思うにこの義忠こそ元祖・咳取り(関取)といえませう。

 

 

 ‹真田城址(平塚市)の与一尊も咳取りの霊験あり›

 

 

◎畠山重忠(1164~1205)

言わずと知れた有力御家人であり、武蔵北部を基盤とした。

治承・寿永の合戦では各地で戦功を挙げるなど武勇に優れた人であったが、一方で人望も高く、「坂東武者の鏡」といわれた。

「昔聞け秩父殿さへすまふとり」と後世、松尾芭蕉に謳われた剛力の相撲好きで、鵯越えの逆落としでは愛馬を背負って急坂を駆け下りたといわれるほど。

『古今著聞集』によればある時、源頼朝の御前に罷り出でた相撲の大剛・長居と立ち合い、いとも簡単に組み伏せて肩を砕いてしまったといふ。

これらの話が史実であるかは不明であるが、『吾妻鑑』にも畠山の剛力ぶりを示す格好のエピソードが掲載されている。

それは正治2年(1200)2月のこと、源頼家の近習に勝木則宗というものがおりましたが、梶原景時の郎党であったため、景時が失脚すると捕縛の命が下されました。

波多野盛通が捕り手として対峙するも捕縛に難渋している所、たまたま居合わせた重忠が座った姿勢のままで則宗の腕をねじり上げるとそのままへし折ってしまったのです。

ちなみに則宗も‘相撲の達者‘と注意書きがなされるほどの猛者だったのですが、それを鎧袖一触にあしらってしまった重忠の並々ならぬ怪力ぶりに驚嘆するほかはありません。

鎌倉御家人の中で声望を集め、地歩を築いた重忠でしたが、北条時政との対立から反乱に追い込まれ、元久2年(1205)、二俣川で非業の死を遂げました。

 

 

 ‹埼玉県深谷市の畠山重忠館跡に建つ馬を背負う重忠像›

 

 

 

◎朝比奈義秀(1176~?)

侍所別当・和田義盛の三男で、通称は三郎。

東方から鎌倉へ抜ける主要道である朝比奈切通を一夜にして切り開いたといふ伝説が残る。

正治2年(1200)9月、奥州産の名馬を巡って源頼家の御前で兄の和田常盛と相撲を取り、引き分けとなったが、終始、義秀が優勢であったといふ。

またこの時、海中から三匹の鮫を抱きかかえてきたというから尋常ではない。

建暦3年(1213)の和田合戦では獅子奮迅の働きを見せるも敗北、義秀は逃げ延びて命を長らえるがその最期は不明である。

 

 

 ‹朝比奈三郎が一夜で切り開いたとされる朝比奈の切通›

 

 

 

その他にも相撲にまつわるエピソードが少なくない鎌倉時代。

馬を担いだとか、一夜で切通を開通させたとか到底、信じられないような話がある一方で、正史である『吾妻鑑』にも瞠目するようなエピソードが載せられ、怪力譚の中には確固たる史実もあることがわかります。

 

これらの人物よりかなり上の世代ではありますが、武家の都・鎌倉の基礎を築いた鎌倉景政(1069~?)も剛力で名を馳せた一人―。

権五郎の通称で知られ、その御霊を祀った鎌倉の御霊神社の門前で売られる‘権五郎の力餅‘は鎌倉土産の定番の一つです。

 

いよいよ大河ドラマはクライマックス。

ここで挙げた剛勇のつわものたちのうち、河津、畠山、朝比奈は作中にも登場しました。

1年に渡って繰り広げられた個性豊かな坂東武者たちの活躍が見納めとなってしまうのはいささか寂しい。

 

 

 <鎌倉の御霊神社の境内には鎌倉景政の力石がある

坂東武者と相撲(前編)

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がいよいよ大詰めを迎えています。

鎌倉幕府成立前後を北条義時を中心とした御家人の視点から描いた群像劇は大いに好評で、従来は余り知られていない人物にもスポットがあてられているのが魅力的です。

劇中でも何度か御家人らが相撲に興じている場面がありますが、鎌倉幕府の基幹史料といえる『吾妻鑑』にも多くの相撲に関する記述があり、この時代は実は大いに相撲が隆盛を誇った時期でもあったことが知られています。

 

鎌倉武士たちが相撲を好んだ理由の一つとしてそれが実戦における組討ちの技術であったことが大きい。

当時の戦いは刀によって切り結ぶ白兵戦を主流とし、最終的には相手の首級を挙げることを目的としていましたから、相手を組み伏せるうえで相撲の技術が重要視されたのです。

なお、当時の相撲は現在の如く土俵があるわけではなく、勝敗は相手を投げる、倒すことによって成立する。

当時の武士たちにとって生死に直結し、かつ手柄を立てるための重要なツールでありましたから誰しも相撲に励んだことは至極、当然のことでした。

 

一方、当時の相撲は奈良・平安の相撲節の流れを汲む様式化された面もあって、すでに現在のプロに当たる専業の力士(相撲人)が登場していました。

こちらは戦場の組討ちにくらべると規制が多く、実戦の技術とはやや乖離していた面もあったかと思ひますが、当時の武士たちは普段はこうした様式化した相撲の稽古にも励みつつより実践的な相撲の技を習得していたのでせう。

 

さて、先に『吾妻鑑』に相撲の記述が多く見られると書きましたが、その多くは鶴岡八幡宮の祭礼に関するもので、将軍の御覧にも供されました。

この相撲を取った主体は四股名を持った専業の力士と思はれる場合がある一方で、将軍の近習や神官、時には有力御家人本人が相撲を取ったとの記述があり、やはり武士たちにとっても必修の技量であったことがうかがえます。

 

 

‹鎌倉における相撲の定場所・鶴岡八幡宮›

 

 

祭礼の場ではありませんが当時の貴族にも相撲を自ら取ることを好んだものがいて、首を痛めて死んでしまった人の話が『吾妻鑑』にも出ていますから、この時代の武士以外の人々にとっても相撲は身近で一定の人気を集めていたのでせう。

なお鶴岡八幡宮の祭礼では相撲と並んで競馬、流鏑馬が催されたとの記述も多い。

この三種の競技が今日、モンゴルで行われているナーダムにおける競技と近似しているのは単なる偶然ではなかったものと思われます。

 

かくの如く、相撲に関する記録はあまたありますが、幕府の開祖・源頼朝も相撲の観戦を好んだことが知られています。

 

頼朝と相撲とのかかわりで最も有名なものの一つはまだ幕府が成立する前の安元2年(1176)のこと。

未だ世に隠れて伊豆の蛭が小島に逼塞しているさなか、周囲の武士たちが頼朝をもてなすべく巻狩りを行い、その後の宴野中で余興的に相撲が行われたというのです。

これは『曾我物語』などに記されたもので、史実であるかどうかは不分明なんですが、ここで大いに気を吐いたのが相模の豪族・俣野景久。

京にいた時分に培ったといふ相撲の技を存分に披露して31人を抜くという独り舞台。

もはや敵する者もあるまいと思はれた時に進み出た地元・伊豆の河津祐泰によって軽々と膝をつかされ、片手で持ち上げられてしまう不覚を取りました。

この時、俣野が持ち上げられた苦し紛れに河津に足を絡めたのが今も相撲の決まり手にある河津掛けの由来とされますが、実際の語源は‘蛙(カワヅ)掛け‘であったとか―。

 

かくて大いに名を挙げた河津でしたが、宴の帰路、かねて所領の件で対立していた工藤祐経の闇討ちで落命、後にその遺児である曾我兄弟(十郎・五郎)によって仇討が敢行され、鎌倉幕府を混乱の渦に巻き込むこととなります。

この工藤の闇討ちと相撲一件との直接の関わりはないんですが、工藤としてみれば河津が相撲で名声を挙げたのが面白いはずもなく、かつ宴帰りの隙を見て凶行に及んだのでせう。

 

それでは後編では相撲で知られた坂東の荒武者づれの銘々伝をお送りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大島部屋の遺伝子

令和4年2月、元旭天鵬の友綱親方と元魁輝の大島親方が名跡を交換、これに伴い元旭天鵬が師匠を務めていた友綱部屋も大島部屋と改称しました。

これは先代の大島親方である元大関・旭國が停年退職となり、当時、現役であった旭天鵬らが友綱部屋に移籍して以来、9年ぶりのこと。

なお、平成29年に元魁輝の友綱親方が停年退職となり、引退して大島親方を襲名していた元旭天鵬がその跡目を継承、爾来、伝統ある友綱部屋の看板を守ってきたものでした。

 

さて、この度、復活した大島部屋といえば‘相撲博士‘‘ピラニア‘の異名を取った大関・旭國が昭和55年に立浪部屋より独立して創設された部屋です。

まさに旭國一代の部屋であり、新興の部屋の一つと言えましたが、横綱の旭富士を輩出した他、モンゴルより初めて若者を迎え入れて、その中から小結・旭鷲山、関脇・旭天鵬が出るなど独自の存在感を発揮した部屋でした。

平成24年の親方の停年後は旭天鵬による継承が既定路線と言われていましたが、レジェンドと言われた旭天鵬がなお現役であったため友綱部屋に合流する形となり、さらに元旭天鵬がそのまま友綱部屋を引き継ぐこととなったため大島部屋はしばし途絶えていたのです。

 

 

‹今も旭國時代の旧大島部屋には旭國の手形が―›

 

 

元々、旭國が無類の稽古熱心として知られたこともあって大島部屋といえば稽古の厳しい部屋として知られていましたが、その甲斐もあって部屋からは多くの関取が育ちました。

先に名前を挙げた力士の他では後に国会議員となる小結・旭道山に旭豊、平幕では旭里、旭豪山、旭南海、旭秀鵬、旭日松、旭大星(十両昇進時は友綱)といった面々です。

こうした弟子の中から他の部屋を継ぐこととなった力士が多いといふのも大島部屋の特徴のひとつでせう。

 

 

大島部屋出身力士の中で、もっとも早く部屋を持ったのが旭富士です。

平成5年、同郷青森の元関脇・陸奥嵐の安治川部屋を継承して部屋持ちに―。

従来は十両・陸奥北海(十両昇進は旭富士の継承直後)がいたくらいでしたが、自らの甥・安美錦(関脇・従兄弟の子)が牽引するがごとく以後は多くの関取を輩出しています。

19年には伊勢ヶ濱に名跡を変更して一門の総帥的な立場となり、協会の要職にも就任。

主な弟子は関脇・宝富士、平幕の安壮富士、誉富士、照強、翠冨士、錦富士―。

また間垣部屋より加入した照ノ富士を横綱に育てました。

 

 

続いて平成11年には元小結の旭豊も名門・立浪部屋を継承。
かつて双葉山や羽黒山、双羽黒を産んだ一門の筆頭格でしたが、貴乃花一門へと移ったため立浪一門は伊勢ケ濱一門と名を変えることとなりました(後に出羽海一門へ)。
門下ではモンゴル出身の猛虎浪、飛天龍の後は一時、関取が不在でしたが、明生(関脇)、天空海、力真が立て続けに関取となり、さらに朝青龍の甥の豊昇龍も関脇に昇進、幕下以下にも勢いのある若手を擁する気鋭の部屋として注目を集めています。


また、すでに述べた通り、平成29年には元関脇・旭天鵬が友綱部屋を継承。
こちらは大正の大横綱・太刀山を輩出した名門であり、常に小部屋の苦労にさいなまれていましたが、平成以後も大関・魁皇を出しており、ブラジル出身の魁聖も関脇となりました。
元旭天鵬はこの度、大島部屋を復興させ、友綱の名跡は先代・魁輝の愛弟子であった魁聖が継承、将来の名門復活が待たれます。


元前頭・旭里も一時、旧春日山部屋を継承していました。
春日山部屋は立浪部屋の大関・名寄岩によって興され、弟子の大昇が継承、一時の断絶を経て安治川部屋に移籍していた春日富士が部屋を復興しました。


平成24年、元春日富士は追手風部屋の濵錦に部屋を譲り、自らは雷として協会理事を務めましたが、トラブルによってこの雷親方、濵錦の春日山親方があいついで退職したため28年より部屋付きの中川親方が部屋を引き受けることなったのです。

しかしこの中川部屋も師匠の指導に問題ありとして令和2年に閉鎖となり、弟子らは宮城野や時津風など複数の部屋に分かれて移籍。

中川部屋時代には関取は不在でしたが、中には旭蒼天(現・玉正鳳)や吉井といった有望な力士も育ちつつあっただけに閉鎖は惜しまれます。

 

 

かくのごとく中川部屋が存在した平成28年~令和2年には大島部屋こそなかったものの実に4つの部屋で大島部屋出身力士が師匠を務めるといふ稀有なる事例が出現したのです。

共通する特徴としては部屋を新設するでなく既存の部屋を継承したといふ点。

しかも中には立浪、友綱といった名門やほぼ一代にして一門の総帥になった例など角界の中でも独自の存在感を放つものでした。

 

そしていよいよ本家の大島部屋が復活しました。

旭大星以後、新たな関取は出ていませんが、これからも大島グループの本家としての矜持を胸に先代以来の伝統を受け継いでほしいと願っています。





 

 

 


 

ポンカンカンチャシ、シラッセチャシ(北海道沙流郡平取町)

 ‹川の合流部に突き出たポンカンカンチャシ›

 

 

今回の北海道旅行の目的と致しましては既に述べたとおり、廃線が決まった函館本線のうちのいわゆる‘山線‘小樽~長万部間に乗車することもありましたが、実はもう一つ、大きな動機となる出来事がありました。

それはウポポイこと民族共生象徴空間の開館(令和2年)―。

色々な評判はありますが、アイヌの歴史や文化を知る上では避けては通れないだらうと思い、さて、いつ行こうかと思案を巡らせておりました。

 

コロナ禍の間隙を縫って概ねの日程を定めてからはアイヌ関係の本などを何冊か読んでいた所、国会議員にもなった故・萱野茂さんの著作を読む機会がありまして・・・。

以前にも神話(ユカラ)関係の本は読んでいたものの、今回手に取ったのは自らの来し方を綴った自伝的な作品。

萱野さんの郷里は日高地方は平取(ビラトリ)町にある二風谷(ニブタニ)という村落で、作中にはその二風谷の景観や人々が情感豊かに描かれていました。

二風谷のことは以前から知ってはいたのですが、やや幹線から外れた場所とあって

行く機会があるだろうか―と思っていた折節、作品を読むごとにどうしても行ってみたい衝動に駆られてしまう始末で、さらに調べてみるとチャシもあるという。

今回は公共交通機関利用とあって中々行きにくい場所ではありましたが、苫小牧からバスの便があり、ついでながら日高本線(苫小牧~鵡川)にも乗車してしまおうと二風谷を訪ねることと致しました。

 

今も、鉄路が失われた日高本線の橋梁が残る沙流川河口の富川(門別町)から川を遡行することしばし―。

平取町の中心市街を抜けてさらに国道を進むとアイヌの英雄・オキクルミの抽象的な巨像があって、これより二風谷へ入ります。

 

 

 ‹南より見た二風谷コタン。大の字で立つのがオキクルミ像›

 

 

 

萱野さん曰く、二風谷の住民にはアイヌ系の人々が多くを占めるそうで、二風谷アイヌ文化博物館や二風谷アイヌ資料館を中心に置く村落では今なおアイヌの人々が様々な生業をもって生活している様を伺うことが出来ます。

観光名所でもある資料館群の説明は他に譲り、ここでは二風谷のチャシについて取り上げてまいりませう。

 

二風谷のチャシといえば二風谷ダム建設に先立って発掘調査が実施されたユオイチャシ、ポロモイチャシがありますが、ポロモイは湮滅し、ユオイチャシは幸いにもダム工事の範域から外れて保全され、現在は公園の中にあって嵩上げの上、二重堀が復元されています。

 

 ‹復元されたユオイチャシの二重堀›

 

 

一方、博物館エリアより北、集落を外れて看看川を渡った北側にポンカンカンチャシとシラッセチャシという二つのチャシがあります。

ポンカンカンチャシといふ変わった名称のチャシは看看川に架かる橋を渡ってすぐ左手(西)、沙流川、看看川の合流点を見下ろす舌状の地形の突端に位置しています。

このチャシが特筆されるのは何も名前のせいばかりではありません。

舌状に突き出す岬のような地形の付け根近くから先端にかけ、実に4重の堀切が連続しているのです。

チャシの中にはユオイチャシのやうに二重の堀を持つものは実は少なくないのですが、流石に4重といふ例は他に聞いたことがない。

 

この4重の堀切を便宜上、先端側から1号堀切~4号堀切と仮称するとして、付け根側の3号と4号の間は南北100mほどの城域のうち70mほどを占める平坦地。

2号堀切と3号堀切は間に土塁を挟む連続した2条の堀切で、南方に狭いながらも平場を付随しています。

さらに1号堀切より先は沙流川へも下って行ける自然地形の尾根であり、ここはむしろ城外と言っていいやうに思はれます。

以上を踏まえると付け根側の北の平坦地がチャシにおける主要なエリアであったと考えられるのですが、チャシの目的については沙流川の監視(サケの遡上を見張る)や祭祀などが考えられます。

 

 

 <チャシの内外を分かつ4号堀切>

 

 

一方で4重に渡る堀切は強い遮断性を想起させ、あるいは防御的な意味合いもあったものか―。

但し砦としての役割を考える場合、当該チャシからの展望の問題を考えなければならないわけで…。

実はこのチャシからは看看川を挟んだ対岸の二風谷をさほど見通すことはできませんし、沙流川に関してもさほど遠方まで視界が開けているわけではないのです。

 

 

ここでもう一つのチャシであるシラッセチャシへと河岸をかえませう。

ポンカンカンチャシより国道を渡り、まずは東に見える鉄塔を目指します。

鉄塔から裏手の尾根伝いに踏み跡があるのでここをたどってゆけば程なく山地の突端にある小ピークに至りますが、ここがチャシの跡(尾根の真下は看看川に面した断崖絶壁)。

こうした尾根突端の円丘はチャシが置かれやすい要件を備えていると言えます。

 

 

 <ポンカンカンチャシ側から見たシラッセチャシ> 

 

 

実はシラッセチャシに関してはインターネット上に実際に訪ねた人の記録がなかったのですが、かくのごとくアクセスは比較的容易。

遺構でもあるまいかとピークの上から北方の山地へ続く尾根を覗くとすぐ下に人工的な凹凸があるではないか―。

外土塁を持つ空堀であり、情報が少ない中で現在地がシラッセチャシだと確信したのはまさにこの時でありました。

北側尾根続きに対する遮断性を思ふにこのチャシもまた砦としての役割を期待されたのかもしれない。

実はこのチャシからはポンカンカンチャシの内部が丸見えであり、かつ遠方への展望も開けているのです。

 

―とすれば極めて近接しつつ大きく形態の異なる両チャシはお互いを補完しあっていたようにも見えてくる。

それは防御上もそうですが、祭祀という点でも二つのチャシがそれぞれ別の目的で用いられたと思われるのです。

 

 

私はこれより後にウポポイを訪ねることになりますが、その展示内容等を二風谷の資料館群と引き比べて云々することをこの場でしようとは思ひません。

ただアイヌの人々が今も地に足をつけ共同体を維持し、かつ周辺にチャシを含む豊富な遺跡群が展開する二風谷の景観は、他に比類なき貴重で魅力に富んだ財産であると強く感じた1日でありました。

 

 

 ‹笹が繁茂するポンカンカンチャシ内。3~4号堀切間の平場›

 

 

 ‹3号堀切と中土塁(左)›

 

 

 ‹こちらは2、3号堀切間の中土塁。右が3号堀切›

 

 

 ‹河床へ下る尾根を遮断する1号堀切›

 

 

 <北の尾根より見たシラッセチャシ。いわゆるお供え山型> 

 

 

 ‹チャシの北裾を巡る空堀。かなり浅くなっていますが―›

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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