ウィアン=環濠都市から見るチェンマイの成立(後編・タイ王国チェンマイ県) | 星ヶ嶺、斬られて候

ウィアン=環濠都市から見るチェンマイの成立(後編・タイ王国チェンマイ県)

さて、前編ではウィアン・ジェット・リン、ウィアン・クム・カームといふ二つの環濠都市からチェンマイ成立の前史を概覧してまいりました。

これより述べるチェンマイの成立は1296年のことですが、それ以前より一帯にはラワ族、そしてモン族といった人々の足跡があり、そこへ北方よりタイ族が進出、モン族主体の国々を打倒してスコータイ王国やラーンナー王国が成立します。

ご存知のように‘北のバラ‘と称されるチェンマイはラーンナー王国の王都ですが、元はラワ族によって開かれたウィアン・ノッブリー(ノッパブリー)があった場所。

チェンマイを巡るウィアンの掉尾を飾って、このウィアン・ノッブリーを取り上げてまいります。

 

 

◎ウィアン・ノッブリー(Wiang Nopburi)

ラーンナー王国の王・メンラーイ王がウィアン・クム・カームより北方の地にあったワット・チェン・マンに動座し、新都の造営に取りかかったのは1296年のこと。

ビン川の西岸に位置し、ドイ・ステープ山からの豊富な湧水を有する一帯は古くラワ族によって開発されていた場所でした。

同時代にはウィアン・ノッブリ―と呼ばれており、時として洪水をももたらしかねない水を本来は環濠であったと見られるメーカー運河に導水して安定化させ、かつ耕作に必要な分量の水を確保しました。

 

‹メーカー運河のうち南西部。市街中心近くながらわりと落ち着いたゾーン›

 

 

この頃、ラワ族は既に鉄器を盛んに製造し、稲作などの耕作を広く展開していたことが知られており、ウィアン・ノッブリーは、完全に近い円形で観念的な都市プランを持ち、精神的な色合いの強いウィアン・ミサンコーン(ウィアン・ジェット・リン)に対し、生産や交易のための拠点としての性格があったものと思われます。

想定されるウィアン・ノッブリーの範囲は南北2.8km、東西1.7km程度の楕円形。

後年のチェンマイの城壁がその内部に収まってしまう巨大さですが、都市プランとしてはドヴァーラヴァティーの環濠集落とよく似ており、あるいはモン族によって完成されたのかもしれません。

 

‹チェンマイ都城概略図。方形の内郭と楕円の外郭の組み合わせ›

 

ノッブリーの‘ブリー‘は城壁の巡る都市を意味していて、タイの南部にはよく見られる地名ですが、北部ではほとんどお見掛けしないこともその証左。

ウィアン・ノッブリーの歴史については多分に伝承的であり、その成立に関してはなお再考の余地があるとも言えます。

1296年にはタイ族のメンラーイ王によって新たな都城が構築されますが、1.5km四方の方形の都市プランの西辺はメーカー運河を転用したものと思はれ、かつメーカー運河を外堀として利用するものでした。

新しい都を意味する「チェンマイ」と命名された王都はその中心にラック・ムアン(都市の柱)と称される祠堂を配して須弥山に仮託し、その北に王宮を配置するといふ構造はアンコール・トムやスコータイと同じくインドの世界観を具現化したものです。

 

‹ウェットトン王家の王宮跡。写真は芸術文化センター›

 

 

なお、チェンマイに限らずタイ北部に見られるチェンライ、チェンセーンなどの‘チェン~‘とは漢語における城(城壁の巡る都市)に由来する語であり、同様の意味を持つウィアン、ブリーを含めてまさに三役そろい踏み。

在来のウィアンにインド世界のブリー、中国世界のチェンと、民族・文化が交差し、蓄積された重層的な歴史の厚みを感じさせてくれます。

チェンマイはまた、王都として「頭のウィアン」を意味するファ・ウィアンとも称されました。

ラーンナー王国は15世紀の繁栄を経て1588年にビルマ(タウングー朝→コンバウン朝)の支配下に入って独立国としての歴史は終焉。

以後はチェンマイ周辺を統治する国主が擁立され、旧ラーンナー諸都市を束ねる要に―。

1774年に至りタイ南部に勃興したタイ族のトンブリー王朝によって奪還され、次いで王権がチャックリー王朝(シャム)に代わった後の1796年にランパーン王家のカーウィラが地方王家として入城、チェンマイ復興に力を注ぎ、城壁や堡塁もレンガ造りの強固なものへと改修しています。

カーウィラの後裔はチェットトン王家としてチェンマイを中心とするラーンナー地域を半ば独立的に支配し、1939年まで存続しました。

王家の終焉よりほどなく、レンガの城壁はその多くが解体されて道路等の建設資材として持ち去られ、今日においては四隅に配された堡塁などが残るのみとなっています。

 

 

‹北西隅のシープーム砦。胸牆も含め最もよく残る›

 

 

 

―以上、前後編に渡ってラワ族、モン族、タイ族と支配を変えつつ北部タイに燦然と輝いたチェンマイの歴史を環濠都市・ウィアンを通して概覧してまいりました。

今日なお北部タイの経済の要であり、観光の拠点としても多くの人を惹きつける北のバラ・チェンマイ。

かつての城壁はその多くが失われてしまいましたが、旧市街を巡る環濠はほぼ従前のまま残存し、城門や堡塁の跡にレンガの城壁をたどることが出来ます。

さらに外堀たるメーカー運河の内外はかなり雑多なエリアで、堀の景観なども保全されているとは言い難い所ですが、運河自体はほぼ残っておりますし、一部には高い版築土塁の城壁も残っていて見応えのある遺構です。

近年には運河自体も整備されて、その一部は観光客の注目を集めるエリアになっているとか―。

チェンマイのウィアンをたどることで見えてくるそこに交錯した人々の物語。

そして今でもチェンマイ周辺に住まうラワ族やモン族の息吹を感じ、その遺跡からかつての繁栄のよすがに思いを馳せてみてはいかがでせうか。

 

 

‹わずかに残る内郭内の城壁›

‹北西隅のクーファン砦。最も城壁がよく残っているエリア›

 

‹メーカー運河沿いの外郭土塁。高さもあり、一部はレンガが残っている›

 

 

‹東側のメーカー運河。この辺りは城壁は撤去され、住宅となっている。›