星ヶ嶺、斬られて候 -4ページ目

アンコールに見る相撲の摂理~横綱土俵入り編~

前回は土俵とアンコールの世界観の共通性を縷々として述べてまいりましたが、遺跡内を巡っていてもう一つ、相撲を想起させるものがあることに気がつきました。

それはアンコール・ワット内の回廊に刻まれた精緻な浮彫を見て独り言ちていた時のこと―。

私は二つの陣営が多頭の蛇の胴体を抱えて引き合う不思議な浮彫の前でこれは何かに似ているな、といふ思いが去来しました。

その浮き彫りとはまさに神々が左右に向かい合って競い合う綱引きそのもの。

そしてお互いに引き合う綱の中央では最高神であるヴィシュヌ神が躍るが如く采配を振るいます。

 

<アンコール・ワットの第一回廊・乳海攪拌の場面。大蛇を引っ張る神々とシヴァ神>

 

 

このモチーフは乳海攪拌と呼ばれるもので、インド世界の創世神話の一つというべきものですが、カンボジアでは特に好まれる神話。

その内容について掻い摘んで説明いたしますと、

 

長年、争っていたデーヴァ(善神)とアスラ(阿修羅・悪神)がヴィシュヌ神の助言に従い、マンダラ山に大蛇(ヴァースキ)を巻き付け、その銅体を綱の如く両側から引き合うと、マンダラ山が攪拌棒となって海中をかき混ぜ続けること実に1000年―。

やがてドロドロの乳液状となった海から太陽や月、神々が生じ、最後に不老不死の妙薬・アムリタが生まれた。

アムリタは一旦はアスラが飲み込むも神々はこれを奪回せんと戦争となり、その過程で日食や月食が生じるなど色々あったが、最後はネタバレすると神々が勝ったんだど、どんど晴れ―。

 

日本においても『古事記』に、イザナギ・イザナミが天の沼矛で海をかき混ぜるとオノゴロ島が生まれたという神話が記されていますが、これも乳海攪拌と同じルーツを持つ創世神話といえるでせう。

この神話をモチーフとした像はアンコール・トムの城門の前などでも見られますが、カンボジアではこの影響によるものか、綱引きが人気のスポーツ・行事となっており、ユネスコの世界無形文化遺産にも登録されています。

 

 

<アンコール・トム城門前の神々の石造。ヴァースキを抱え欄干のように連なる>

 

 

さて、乳海攪拌のレリーフを前にして私が思いついたのが、横綱の綱締め実演でした。

綱締め実演とは横綱が綱を腰に締め上げる過程をわかりやすく説明するために土俵上で行うもので、基本的には花相撲のお好みのプログラムの一つです。

横綱の付け人は概ね8人程度がいるのですが、これだけの数が必要なのは綱を締めるためといってよく、その手順は横綱を中心に前後に1人ずつ、左右に3人づつが分かれ、左右の3人が「ひぃ、ふぅ、みぃ」の掛け声と共に綱の両端を引き合い、綱を横綱の化粧まわしの上にしっかりと締め上げてゆくのです。

この様があたかも綱引きのようだと思ったのもありますが、さらに考えてゆくと、横綱土俵入りの所作自体が乳海攪拌を表わしているやうにも思えてきた。

 

横綱土俵入りの見せ場は土俵中央で四股を踏んでからの競り上がり―。

これを分解してゆくと、まず四股によって乳海ならぬ大地を震動、攪拌し、競り上がりによって生まれ出ずる神々や万物を掬い上げるという動きである。

競り上がりについては、米俵を持ち上げるイメージで行う、と言われることがありますが、まさに大地から五穀が生まれ、たわわに実る様を象徴するようです。

けだし攪拌とは大地を耕すことで、人はそこに種をまきこそすれ、生命を育むのは大地そのもののエネルギーに他ならないわけで、乳海攪拌の骨子もまた外部からの刺激によって内部から変革を伴う大きな力が生み出され、発露するという、ある種、普遍的な原理を表わした神話とも言えそうです。

 

勿論、横綱土俵入りが明確に乳海攪拌を表徴した―ということは出来ません。

横綱土俵入りとは詰まるところ、興行政策としてのパフォーマンスとして生まれたものであり、そのヨイショは恐らく吉田追風の着想で、寛政元年(1789)に横綱を免許された谷風、小野川によって始められたことが次第に様式を整え、定型化したものに他ならない。

明治時代の映像などを見ると土俵入りの所作は概ね現在の雲竜型に近いようで、大正期には太刀山が両手を広げるいわゆる不知火型を完成させているのですが、これらの所作に関しては寛政5年に式守蝸牛が著した『相撲隠雲解』においてすでに乾坤陰陽和順、三徳、五常などと解説するものの、あくまで後付けの理屈でせう。

元々の動作として上取(関取)の集団による土俵入りの型があって、それを単独で行いながらもより雄々しく、より神々しく挙行されたものが原初の横綱土俵入りであろうと思われ、当然、そこに深い思想があった訳ではないと思ふのですが、図らずもそれが乳海攪拌という創世神話の真理を体現しているように見えるのだから不思議なものです。

 

そうといえば横綱のことを「日下開山(ひのしたかいざん)」と称することがあります。

これは多分に本来は「天下一」と称していたのが、17世紀末に幕府によって使用を禁止されたために代替的に用いられた呼称のやうですが、どこか天地開闢を思わせるもので、創世神話に通じるものがある点も面白い。

 

ついでに申しますと注連縄の起源について蛇を起源としているという説がありますが、今回、この乳海攪拌の故事を知るにつけ、成程と腑に落ちる所がありました。

これらは日本という枠組みの中からだけでは中々気がつかない視点であり、外からの視点によって相対化することで発見できたこと。

前回の土俵といい、どこか日本という器を越えた気宇壮大な歴史の流れを相撲の中に垣間見たといいませうか・・・。

横綱土俵入りを乳海撹拌に仮託したのは主観に基づく牽強付会ではありますが、図らずもカンボジアで相撲に対する新たな見方を与えられたと独り言ちてみた次第です。

 

 

 

<綱となっているヴァースキの頭部とアンコール・トムの南門>

 

 

 

 

 

 

 

アンコールに見る相撲の摂理~土俵編~

さて、この夏はアンコール・ワットやバイヨン寺院を中心としたカンボジアのアンコール遺跡を都城といふ視点から取り上げてまいりました。

コロナ禍もようやく落ち着きを見せ、久方ぶりとなる海外訪問の目的は勿論、城に関する知見を深めることにあったのですが、遺跡内を巡り歩いていて意外にも脳内の一画を占めて離れなかったのが相撲のことでした。

 

9世紀から12世紀にかけてアンコールの地に花開いたクメール王朝。

歴代の王たちは当初においてはヒンドゥー教を、後には仏教に帰依して、その教えを具現化するが如く壮大な都城や寺院の建造に邁進しました。

アンコール・ワットを例にとると、その中央にひときわ高く聳え立つのが世界の中心となるメール山(須弥山)に仮託した中央祠堂であり、これを取り巻いて三重の回廊が方形に配され、各々の四隅には祠堂が、それらを結ぶ回廊の各辺の中央には出入り口が開口。

寺院境内を囲むおよそ1000m×800m、幅200mの環濠と城壁はヒマラヤ山脈と大海に仮託して世の中の辺縁を表現しているとされ、さらに外側にも王の威光の及ぶ範囲で都市が形成されてゆきました。

 

<中央祠堂を4基の祠堂が囲むアンコール・ワット>

 

 

これら寺院を建造するにあたって強く意識されたのが古代インドの宇宙観である。

すなわち人々が住まう大陸であるジャンブ・ドヴィーバの中央に高く聳えて世界の中心をなすのがメール山であり、その山上の中枢に最高神たるブラフマー神が鎮座し、さらに周囲八方を取り巻いて八方天と呼ばれる神々が居並んで神の領域を形成する世界です。

これをアンコール・ワットにあてはめると中央祠堂が最高神(ここではヴィシュヌ神)のいます所で、周囲を囲む4基の祠堂、四方の門が八方天を表わし、環濠内=ジャンブ・ドヴィーバにはかつては実際に多くの人々が住んでいた領域でした。

 

この世界観は同じインド世界に生まれた仏教においても受容され、メール山は須弥山となり、八方の神々も天部へと置換されながらも基本的構造を継承して、中国、さらには日本へともたらされたわけであり、マンダラ(曼荼羅)によってその世界観が絵画化され人々に提示されてもきました。

 

宮本徳蔵氏によって著され、名著として名高い『力士漂泊』を読むと、氏は早くも国技館の構造がマンダラと同様であると喝破しているのですが、これを初見した当時はそんなものかなあ、くらいに思っていたのが、不思議とアンコールに立つと腑に落ちてくる。

まず直感的に思うのが中央祠堂を取り囲む四隅の祠堂が土俵の四本柱であり、四方に開かれた門が徳俵であるということ。

気になってマンダラの画像を調べているとチベットのマンダラなどではまるっきり土俵の構造そのもののやうなものすらあります。

 

 

<須弥山を表わす中央祠堂。上から見ると屋根は円形>

 

 

ただ相撲とは神道を基本とするのでは―という疑問に対しては、古来においては必ずしもそのようなことはなく、相撲の家元たる吉田司家が『相撲之式由緒故実幷私記』によって述べる所では、土俵について「外の角は儒道、内の丸を仏道、中の幣束を神道」としており、当時の日本の宗教観を取り込んだものとなっています。

 

勿論、当初より土俵はかくも完成されていた訳ではありません。

むしろ自然発生的に成立した面もあるともいえるのですが、一方で一定の結界の中で行われていたと場合もあったやうで、その結界を示すものが後に四本柱となり、土俵もまた当初においては方形であったとされています。

先に述べた神仏儒の概念などは土俵が成立した後に相撲の家元たる吉田司家などが創出した権威付けに過ぎないのでしょうが、さりとて完成された空間を見事に作り出し、時代の要求に応じて変化しながらも今日にその基本プランを伝えているのです。

 

 

次いでアンコール・トムなどに見るアンコールの都市プランにも注目してみませう。

中央にメール山を表わす寺院を配し、周りには格子状に居住ブロックが形成、これらを囲んで正方形の城壁と環濠が巡り、四隅に祠堂、四方に門がある構造はアンコール・ワットをそのまま大きくしたかのやうです。

こうした都市プランは古代インドの建築技法書『マーナサーラ』等に基づくもので、マンダラと共通する構造。

王宮の配置についてもメール山たる寺院の北側とするのが基本ですが、相撲でも北を正面として重視し、審判長席や貴賓席をこの方面に配置しています。

実際、この北方重視の思想は「天子、南面す」という中国思想の影響を受けたものであり、相撲にはある意味、各種の世界観が混在しているのですが、少なくともこの点においては両者に矛盾はありません。

『力士漂泊』でも指摘されている如く、こうした格子状のブロックの連続や重要区画の配置がまた国技館内の構造と共通しているのは興味深い点でせう。

 

そもそも相撲場の構造は―というと江戸時代は寺社の境内に小屋掛けで、土俵の周囲の土間は庶民が座る席であり、その後方、二階三階と設えられた桟敷席が上等の席であって、お大尽などは高みの見物というのが当時のスタイル。

それが明治の常設の相撲場たる国技館ではローマのコロッセオをモデルとした西洋的な空間となり、土俵周囲を上等の席とし、後方の二階席や三階席を廉価の席として江戸時代の概念を逆転させてしまいました。

ただ、当時は円形の空間(桟敷席は円形の配置から格子状に改良)であったのを蔵前の新国技館では方形となり、さらに両国のシン・国技館となると建物の外観も含め土俵を中心とした正方形に近い構造になっており、不思議と時代が下るごとにアンコールの都市モデルに近づいてくるのです。

 

無論、差異もあって例えばアンコールの寺院の多くが東西を主軸とし、概ねにおいて東を正面としている点(アンコール・ワットは西が正面)。

これは天に軌道のある如く、太陽の動きを意識したものとされ、勢い、日の出の方向たる東を正面にしたようなのですが、実は大相撲でも東西こそが力士の実質的な出入り口となっており、かつ古来の相撲書ではこの東西に陰と陽、すなわち日月の動きをリンクさせた記述があるのでこの点でもアンコールの世界観とは実は対立していない。

 

 

ヒンドゥー、仏教においてはメール山を中心に神仏に慈悲を世界に敷衍させ、アンコールの王が国家寺院を中心に自らの権威を照らすが如く四囲に発露したように、大相撲もまた土俵を中心にその熱気を周囲に波及させ、五穀豊穣の祭りとした。

今日の土俵では四本柱が撤廃され、代わって吊り天井の隅に房を垂らすという独自の進化を遂げ、天を表わす土俵の上にさらに天をいただくやうでもありますが、基本的なスタイルは江戸の昔より変わっていません。

 

世界の窓からのぞいた相撲―。

そこから思いがけず見えてきた相撲の姿は、東アジアに通底する普遍的な概念に裏打ちされながら独自の深化を遂げた日本の伝統の結晶でありました。

 

 

<土俵を思わせるタ・ケウ寺院の基壇>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井筒部屋の四股名 番外編②・霧島の巻(後編)

さて、後編ではいよいよ皆さんご存知の二人の大関・霧島を取り上げてまいりますが、その前に地名としての霧島について少し説明いたしませう。

 

霧島といってまず思ひ浮かぶのは某酒造メーカーという人もいるかもしれませんが、その由来は何といっても鹿児島・宮崎県境に群立する霧島連山にあります。

多くの活火山を含むこの山塊は標高1700mの韓国岳を最高峰とし、天孫降臨の舞台とも言われる場所。

『古事記』によれば天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)が‘高千穂のくじふるたけ‘に降り立ったと記されており、この高千穂こそ霧島連山の一画、標高1573mの高千穂の峰であるといふのです。

 

連山を構成する山々は活火山とあって山岳信仰の対象であったと思われるのですが、そこへ神話の舞台としての聖地化、さらには修験の霊場ともなって中世以降は大いに信仰を集め、薩摩太守の島津氏もこれを庇護して深く信奉しました。

いつの頃にか高千穂山頂には天の逆鉾が立てられ、新婚旅行で当地を訪ねた坂本龍馬夫妻が引き抜いたとか引き抜かないとか―。

 

井筒部屋の大関・霧島も霧島連山の山麓、鹿児島県姶良郡牧園町(現・霧島市)に生を享けた故に郷里の名峰の名を四股名としたのですが、意外や、前編で紹介した江戸時代の霧島たちと鹿児島との関係は見いだせず、むしろ広島とのつながりが強そうである。

ちなみに江戸時代には今の鹿児島・宮崎県域にパイプを持っていたのは大坂の竹縄部屋なので大坂相撲所属の霧島の中には薩摩藩出身者がいる・・・かもしれません。

 

ただ一人、気になるのは後に4代・友綱となる切島(桐島)儀八。

弘化から安政(1844~60)にかけて現役を務めた江戸相撲の力士で、切島の四股名から荒木野と改名、安政3年(1856)に友綱を襲名しました(最高位は二段目43)。

出身地は不明ながら宮崎県臼杵郡の高千穂であるともいわれ、現・延岡市域出身の師匠(3代・友綱、元前頭筆頭)とは同郷であったようだ。

宮崎県なのでいかにも―のようだが、出身は天孫降臨伝説においてライバル関係にある臼杵郡の高千穂町らしい、となると切島=霧島と見てよいものかどうか。

ちなみに師匠の友綱良助は竹縄の門人であり、初名は岩の戸(後に荒木野→千田川)とこれも神話とゆかりがありそうな・・・。

一方、宝暦14年(1854)の大坂番付に見える霧島喜八との関わりも気になる所です(ただし喜八≒甚八の可能性も捨てきれない)。

 

さて、時は流れて時代は昭和。

いよいよ大関・霧島の登場ですが、それ以前の近代に霧島といふ力士がいたかどうかは番付を精査していないのではっきりとはわかりません。

歌謡の世界では『誰か故郷を想わざる』などのヒット曲で知られる歌手の霧島昇が戦中・戦後にかけて活躍していますが、出身は福島県でここでも鹿児島とは縁がない。

 

 

①霧島 一博・・・現役:昭和50年~平成8年。鹿児島県出身

14代・井筒(元関脇・鶴ヶ嶺)の門人であるが、入門時は君ヶ浜部屋だった。

昭和50年3月、本名の吉永で初土俵を踏み、51年5月より霧島と改名。

細身ながら当時はまだ珍しかったウェイトトレーニングを導入して番付を上げ、57年5月に十両、59年7月に幕内に昇進した。

まだまだ軽量ではあったが胸を合わせてからの吊りを見せるなど膂力にものを言わせる相撲ぶりで、当初は三役では通用しなかったものの、さらなる肉体改造で平成元年11月に小結で10勝を挙げると、翌場所、翌々場所も二ケタ勝利で30歳にして大関に昇進した。

上手出し投げなど技量の冴えもあり、平成3年1月に14勝を挙げ初優勝。

在位16場所にして大関の座を明け渡したが、その後も長く現役を続け、8年3月で引退した。

三賞は殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞4回。

「角界のヘラクレス」「角界のアラン・ドロン」の異名があり、人気を集めた。

引退後は勝ノ浦(10代)を経て陸奥(9代)となり、陸奥部屋を継承。

先代弟子の星誕期(十両3)、星安出寿(十両2)に、立田川部屋の合流で敷島(前頭筆頭)、十文字(前頭6)、豊桜(前頭5)、琉鵬(前頭16)、白馬(小結)らが加入、さらに元井筒部屋の横綱・鶴竜を引き取った。

自らの直弟子からは霧の若(十両4)の他、霧馬山改め霧島(大関)を育て、協会では理事の要職に就いている。

 

②霧島 鐵力・・・現役:平成27年~。モンゴル出身

モンゴルの遊牧民の家庭に生まれ、来日して9代・陸奥の下に入門。

霧馬山の四股名で初土俵を踏み、細身ながら均整の取れたしなやかな体つき、しぶとい足腰を武器に順調に出世を重ねた。

平成31年3月には十両、令和2年1月には幕内に昇進。

この少し前の令和元年11月場所前には元井筒部屋の横綱・鶴竜が加入したことで大いに鍛えられ、従来からの投げの強さ、しぶとさに加え、相撲の巧さも会得して、5年3月には12勝を挙げて初優勝、翌5月も11勝の好成績で大関に昇進した。

これを機に四股名を霧島と改名、直後の鶴竜親方の断髪式に花を添えた。

三賞は敢闘賞が1回、技能賞3回。

しぶとい下半身とスタミナが持ち味の「角界のケンタウルス」である。

 

 

さて、目下、同じ大関の豊昇龍と切磋琢磨してさらに上を目指そうという現役の霧島。

ここ2場所はやや苦戦をしておりますが、素質、稽古量には申し分がなく、霧島の四股名をさらに高めてくれることでせう。

 

以上、今回は井筒、陸奥にまたがる形で霧島の四股名を取り上げましたが、同様の四股名として霧の若などもありますので、機会があればまた―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井筒部屋の四股名 番外編②・霧島の巻(前編)

去る令和5年の5月場所、陸奥部屋の関脇・霧馬山が前の場所で優勝した勢いもそのままに11勝の好成績で大関に昇進しました。

これを機に四股名も師匠の名である霧島を継承、さらに上の番付をうかがいます。

 

霧島といえば井筒部屋の大関の印象が大きいですが、歴史を紐解くと江戸時代にはすでに複数人が名乗っている四股名である。

今回は井筒部屋伝統の四股名とまでは言えませんが、井筒系として2代を数えるといふことで、過去の霧島の系譜からたどってみたいと思ひます。

 

江戸時代、霧島の四股名でまず名を挙げたのは広島藩に召し抱えられた霧島十五郎でありませう。

享保2年(1717)、行司を含む力士18名が藩主・浅野吉長によって広島藩のお抱えとなり、城下鉄砲町の通称・相撲長屋に居住したのですが、このうち最高の50両五人扶持の厚遇を得たのが霧島と巌巻善太郎であり、行司・横山左近の30両三人扶持がこれに続きました。

 

・霧島 十五郎

安芸厳島(宮島)の出身で、享保2年、50両五人扶持で広島藩お抱えとなる。

巌巻と並ぶ藩お抱えの力士の筆頭格であり、相応の実力があったと見られるが、一方で人の嫉妬を買ったようで、享保年間(1716~36)、九州の大会に出張っていったところで毒殺されたと伝わる。

 

・霧島 甚八

霧島十五郎の弟子で元は磯上を四股名とした。

享保2年に15両四人扶持で広島藩のお抱えとなり、師匠の死後は霧島の四股名を引き継いだ。

享保9年には藩の財政の悪化もあって相撲長屋を取り壊されているが、甚八はその後もお抱えの地位にあったようで、安永3年(1774)、82歳で没した。

 

 

以上、比較的名を挙げた霧島はいずれも広島藩のお抱えで、四股名の由来についてはわかっておりません。

あるいは十五郎の出身地・宮島が海霧に覆われる情景に由来するのでありませうか?

他にも『江戸時代相撲名鑑』によれば少なからぬ力士・霧島の存在が確認できますが、いずれも1場所~2年程度に見られるのみで大成した力士はいなかったようです。

参考までに列挙すると―(カッコ内は所属相撲集団)、

 

霧島 作人(京都)・・・宝暦3年(1753)、二段目5

霧島 利介(大坂)・・・宝暦13年(1763)、二段目24。後に世話人

霧島 喜八(大坂)・・・宝暦14年(1764)、二段目48

霧島 濱之介(大坂)・・・明和3年(1766)~4年。二段目24

霧島 文兵衛(大坂)・・・明和7年(1770)、二段目5。頭書は阿波

霧島 新太郎(大坂)・・・明和7年、二段目13

霧島 勘蔵(大坂)・・・明和8年~9年、二段目18

霧島 文八(江戸)・・・嘉永3年(1850)、上ノ口24

霧島 市松(江戸)・・・嘉永3年~4年、上ノ口8。文八と同一人物?

霧島 虎吉(江戸)・・・元治元年(1864)~2年、三段目42。桐島とも表記

 

全体の傾向として大坂相撲に多い印象で、特に同じ年代に同じような地位の力士がいるので同一人物も含まれているのでしょう。

明和年間(1764~72)などはかなり集中しているのですが、下の名がいちいち違うのをどう解釈するべきか―。

なお、明和7年7月場所(大坂)では霧島文兵衛と霧島新太郎の名が同時に見えているので、同一期間に複数人の霧島がいたこともまた事実のやうです。

 

幕末、江戸相撲の霧島虎吉は桐島と表記されている場合がありますが、やはり桐島、切島を名乗る力士が数人確認できます。

このうち出世頭といえそうなのが後に年寄・友綱(5代・二段目43)となる切島定吉。

また宝暦8年(1758)3月の江戸番付では前相撲ながら桐島十五郎の名があり、広島藩の霧島と関係がありそうです。

 

この辺りで後編へ―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1次ヤショダラプラ都城の謎

802年、ジャヤヴァルマン2世の即位に始まるアンコール王朝。

当初は現在のロリュオスに当たるハリハラーラヤ都城を都としていましたが、889年に即位した4代王・ヤショヴァルマン1世はその西方10kmほどの地にヤショダラプラを新たに造営し、遷都します。

この新都城は現在のアンコール遺跡の中核たるアンコール・ワットを含む範囲に展開し、以後、歴代王は周辺を小刻みに遷都するなどした結果、一帯には多くの建造物が遺跡として残されました。

 

ヤショヴァルマン1世は王都の中心となるメール山としてプノン・バケンの丘上にさらに巨大なピラミッド型寺院を構築、その北麓に王宮を置いたと言ひます。

 

‹アンコール・ワットの北西丘上にあるプノンバケン寺院›

 

 

なおヤショダラプラは21代王のアンコール・トムに至るまで4次に渡って営まれており、以下、王都の寺院と共に列挙すると―、

 

④ヤショヴァルマン1世(889~910頃) 第1次ヤショダラプラ―プノン・バケン

⑨ラージェンドヴァルマン王(944~968) 第2次ヤショダラプラ―ピミアナカス

⑭ウダヤーディテーヤヴァルマン2世(1050~1066) 第3次ヤショダラプラ―パブ―オン

㉑ジャヤヴァルマン7世(1181~1218頃) 第4次ヤショダラプラ―バイヨン

 

 

このうち、21代王による第4次ヤショダラプラこそがいわゆるアンコール・トムであり、周囲を一辺3kmの城壁と環濠に囲まれた花も実もある大都城でした。

 

それではアンコール・トム以前のヤショダラプラには城壁はあったのでせうか?

4次に渡るヤショダラプラのうち、2次、3次はほとんど第4次と重なる形であり、都市が更新されてしまったゆえに古い痕跡をたどるのは困難であり、構造については詳らかではありません。

一方で第1次の都城はその中核となるプノン・バケンがアンコール・トムの南城外に位置していたとあって、周囲の方形の小区画に王都の痕跡を見出すことが出来ます。

 

実は第1次ヤショダラプラには1辺4kmもの城壁があり、それが今も残っているといわれている。

アンコール周辺の地図を見ると西バライの南東角に始まり2kmほど南下した後、東へ折れるL字型の環濠があることに気が付くでせう。

この環濠は南辺においてはアンコール・ワットの南に達して、アンコール・トムの東城外を南流するシェムリアップ川にぶつかる手前で滅失しており、第1次都城の南のラインをほぼそのまま残しているとも―。

さらに北辺の城壁としてアンコール・トムの中核のバイヨン寺院の北にあるパブ―オン寺院を挟む形で並行する土手と境内の池がその残痕であるというのです。

 

 

‹パブーオンに残る環濠の痕とされる池›

 

‹パブーオンの北、王宮周壁との間の土堤›

 

 

第1次ヤショダラプラの城壁が残っている―。

この情報にシロ屋の身空としては俄然、色めき立つわけですが、調べれば調べるほどに拭い去れない違和感が生じてきた。

何せアンコール・トムを凌ぐ一辺4kmの城壁に現存する環濠は幅200mを越える規模。

ところがその前段のハリハラーラヤ都城では城壁が確認できないし、その後の都城でもコー・ケー都城を含め、明瞭な城壁が確認されていないのです。

それにことほどかように大々的な城壁が、現存部以外でその痕跡をほとんどとどめていないといふのもキッカイでした。

 

第1次ヤショダラプラの城域に関してプノン・バケンを中心とする一辺4kmの正方形であったとの説を提唱したのはロシアの考古学者、V・ゴルベフで、1930年のことでした。

ただこの説に対する異論も少なくないようで、L字環濠の土手の一部発掘の結果でも築造が11世紀を遡らないであろうというし、北辺の環濠と想定される場所の土壌調査でも堀としての堆積物が認められないという結果が出ているというのです。

 

<広大なL字環濠内。雨季には水が溜まるのか、内部に建物はない>

 

 

やはりこれは幻ではないか―そう思ってアンコール周辺の地図を眺めているうちにアンコール・トム城外の北東方にL字環濠の対をなすようなL字型の細長い土堤らしきラインが北から西へ直角に折れて延びていることに気がつきました。

このラインは20世紀初めの地図には記載があるが、現在では新しく開削されたらしい大水路と重なっているのか、痕跡がわかりにくくなっています。

面白いことにこの土堤ラインはアンコール・トムの東を流れるシェムリアップ川の北の延長線上にあり、さらに航空写真を眺めていると土堤ラインの延長、北西角といふべきあたりに環濠の痕と思しき帯状の区画も―。

これと南西のL字環濠を一体的な視座で捉えると南北8km、東西4kmというアンコール・トムをすっぽり包み込んでしまう大城壁が現出するのです。

 

 

‹大アンコール・トムの想定図。ゴルベフの唱える第1次都城は概ね南半分の範囲›

 

 

時に、アンコールより東に100km以上離れた所に大プリア・カンという寺院遺跡があるのですが、この寺院を中心に一辺4.8kmもの環濠に囲まれた大都城が存在している。

アンコール・トムを優に凌ぐカンボジア最大級の都城ですが、私がここから着想したのは大アンコール・トムといふべき外郭ラインの存在でした。

本来ならば正方形を指向する所、すでに築かれていたバライ(貯水池)や先王たちの寺院を避けた結果、長方形のプランとなり、かつ余りに大規模なために王の死などの事情で途中で建造が放擲されたのではないか―?

無論、これはゴルベフが時に自家撞着と言われようと論理を積み上げて発表した一辺4kmという城壁を持つ第1次ヤショダラプラのプランに比べても全く粗放な思いつきに過ぎないもので、誇大な妄想と笑って聞き流していただきたいレベルのシロ物です。

 

ともあれアンコールに立ってより三日目の朝、私はこのL字型の環濠の土堤の上を自転車で疾駆してみました。

200mを越えるといふ堀は一部が沼沢地となっているもののほとんどが圃場であり、城内側の土堤もなだらかで、さほどの高さもありません。

土堤上の馬踏部分は概ね道路となり、一部には家が建つほどに幅が広い。

これがアンコール・ワットの南では環濠の深みが増して、木々が生い茂るちょっとした渓谷のような雰囲気になっています。

 

この環濠を水路として利用したと見る説もあるのですが、水路や灌漑の用水路とすれば無駄に広すぎるし、L字型に直角に曲げる必要があるのだろうか―。

何よりもアンコール・トムの城壁のラインを強く意識しているように見えるのです。

アンコール遺跡の中では地味で、放置していても消滅することはないだろうから、大々的に破壊されてしまうようなことがない限りは恐らく調査されることもなさそうな遺構。

 

アンコール遺跡にはまだ解明されていない多くの謎が横たわっているのです。

 

 

‹L字環濠の一部には水を湛えた場所も―。奥の林が内側の土堤ライン›

 

‹広いL字環濠内側の土堤の上。家々が建ち、自動車が往来する›

 

‹アンコール・トム東の林を南流するシェムリアップ川。現在の流れは12代王が開削›

 

‹南から見たアンコール遺跡中核部(現地案内板より)。あたかも大都城を意識したかのような構図>