星ヶ嶺、斬られて候 -138ページ目
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大阪市西成区出城界隈

ようこそのお運びで厚く御礼申し上げます。これまでの四回は自己紹介に終始しましたが、これからはもう少し普遍的な話をしようかと思ひます。

時は既に五月場所の候ですが、その前はと言うとご存知三月、大坂の春場所でございます。私共井筒部屋が在阪中に寄宿している所…、それが西成区の出城という所でして、今日はその周辺の話を致します。出城、と書けばもうお気付きかと思いますが、この地名は城に関わりがある。ただ一般的には出城の字をもてデジロと読むんですが、件のそれは濁らずにデシロと読みます。位置としては西成区の北寄り、浪速区との境界近くで、最寄駅はJR大阪環状線の今宮駅(浪速区)。部屋の宿舎は昵懇のお寺(曹洞宗)の別院で、本場所が行われる府立体育会館へは徒歩20分の近さでして、これは全相撲部屋のうちでも1,2位を争う恵まれた環境にあります。

まず出城の地名なんですが、これは所謂、木津城のことを指しておりまして…。木津城はまた一名に木津砦、西木津城とも呼ばれております。これ即ち今の大坂城の位置にありました石山本願寺の‘出城‘でして、元亀元年(1570)以降の織田信長との対陣で重要な役割を果たしたようです。

西成区出城の一帯というのは元々、北に木津川の河口があったようでして、また西の方も今の阪神高速辺りから海だったようです。今日、高速より西は津守地区ですが、ここは江戸時代に干拓された新田でした。つまり木津城は木津河口を扼する位置にあった訳で、本願寺への水上輸送路を確保するための要地ということになります。織田勢との対陣時、木津城に籠っていたのは木津村の願泉寺門徒を中心とする一帯の門徒でして…。この願泉寺というのは今も浪速区にありまして、府指定名勝の庭園や折口信夫のお墓がある所として有名ですが、合戦当時の住職を定龍といって、木津城を構築したともいわれています。ただ、一帯が水上交通の要衝であったことから、合戦以前から番所ぐらいはあって水軍の組織もあったんではないかと・・・。いにしえには摂津源氏の渡辺党が一帯で水軍を組織していたことがよく知られています。即ち木津城は海城の性格も有していたのでは、と勝手に想像しております。ただ、天正四年(1576)時点では既に制海権の一部は織田方にあったようで、木津河口を封鎖したりしている。というより、本願寺側は辛うじて木津川ルートを保っていたと言うべきでしょうか。寄せ手にすれば喉に刺さった魚の骨のようなものだったのでしょう.。

.いよいよ五月三日、織田方の原田(塙)直政、明智光秀らが木津城を攻撃するんですが、本願寺方も楼の岸(中央区)等から一万もの援軍を繰り出して直政が討ち死に、光秀も這這の体で天王寺砦へ退却する始末。勢いに乗った本願寺勢は天王寺砦に殺到します。この天王寺砦は現在の天王寺区生玉寺町の月江寺付近と言われてますが、この一帯の西側は崖でして(石山合戦配陣図にはその下に川が描かれている)、木津方面に対する防備は厚かったようですけど、相手は勢いに乗じて攻めかかる、攻めかかる。この時、信長自身は京にいたんですが、すわ大事、とおっとり刀で駆けつけて、寡勢ながら獅子奮迅の働きで門徒衆を押し戻し、辛くも勝利を収めます。信長自身も銃創を負う大激戦でありました。これが五月七日の天王寺合戦の顛末でして…と、この辺りにて続きは次回に譲ろうかと思ひます。




星ヶ嶺、斬られて候 <この付近、天王寺砦(写真は月江寺)>

星ヶ嶺、斬られて候

はじめまして、私は星ヶ嶺(ほしがね)と申す力士でございます。

所属するところは井筒部屋のしがねえ力士なのでありますが私の名前なりとも御存知という方は相当な好角家であろうかとおもいます。

このブログも当然相撲の話題も取り上げますが,私の趣味というのは城めぐりでありまして、勢い、その方面の話も多くなると思いますので予め御了承のほどを。

それではこれよりしばしおつきあいのほどを宜敷御願奉ります。.


さてまずは私の経歴を簡略に述べましょうか。私、本名を星と申しまして生まれも育ちも東京は杉並でございます。

尤も番付上の生国は福島県南会津郡南会津町となっておりますが、この点に関しては後述します。

生年は昭和55年ですから当年28と相なりまして18で入門してより早10年、力士としてはやや古株となってまいりました(番付は下の方ですが)。

思い起こせば相撲との関わりは中学生時代が一つの転機となっております訳で云々。

曰く天沼中の卒業生に琴旭基さんという佐渡ヶ嶽部屋の力士がおるのですが、この人、十両目前までいったので好角家の方の中にはご記憶の方もあるかと存じます(琴旭基さんは引退して大坂でちゃんこ店を営業しています)。

左様な訳にて学校の掲示板には番付が場所ごとに貼られ、これがこの頃すでに相撲に興味のあった私の注意を喚起するには十分な装置でした。

また当時の私の友人―仮にM氏と名付けますが―このM氏の父御という人がデザイナーでして某横綱の化粧まわしのデザインをしたらしい。

もう一点申しますと自転車で十分ほどの所に放駒部屋がありまして…。

既に二子山部屋も移転(合併)して阿佐ヶ谷勢という言葉も聞きませんでしたけれども、荻窪駅周辺では時折力士の姿を見かけたものです。

また御存知の方も多いかと思ひますが、放駒部屋の裏にほ日大相撲部の寮があります。

現在私が角界にありますのもこの頃の環境によるところが大きいようで。


.つらつらとつまらぬことを書き連ねてまいりました。

ここまでお付き合いいただき誠に有難き仕合せと存じ上げます。

今後は前述しましたが本職の相撲の他、城、歴史のことなどつれづれと綴る所存にて。

全体に堅い話になるかと思いますが悪しからず。

なおこの文章にはたいへん読みにくいところが多いかと思います。

何分パソコンのことは不案内につき。

いま少し研鑽を積んで写真なども取り込みたい所にてなおなお御辛抱のほどを。

更新は一週間ごとぐらいになりますでしょうか。これからも宜敷御願奉候。


最後になりましたが題名の、斬られて候、は私淑する俳優の福本清三さんにちなんだもので深い意味はございません。

某メーカーのコーヒーのCMに出演しております。

参考までに・・・。

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