星ヶ嶺、斬られて候 -137ページ目

エビスコ考(その壱)

長い、堅い、読みにくいでおなじみの本ブログもようよう10回目。

ここまで城等に関する話題ばかりでしたが、このあたりで相撲の話題でご一席お付き合い下さい。


題にありますエビスコ、これはいわゆる相撲界の隠語(業界用語)でございまして、意味としては大食らいということになります。

まあ、もとより力士はおしなべて大食漢と思われがちですが、その中でもとりわけ大食いの人を、‘エビスコが強い‘。

また大食いすることは‘エビスコをきめる‘・・・といった具合に使います。

最近は‘エビスコの強い‘人たちが連日、ブラウン管(もうすぐ死語か?)を賑わせておりますね。

ちなみにかくいう私はもっぱら‘エビスコの弱い‘方でして・・・。


さてこのエビスコの語源なんですが、まず思いあたるのはやはり‘えびす講‘でしょう。

結論からいうと全くその通りでして、手許にある「相撲大辞典」に曰く、えびす講で大勢集まってたらふく食べたことに由来する、と・・・。

えびす講について申しますと、今でもその習俗を残す所もあるんですが、昔は十月二十日(現在は旧暦でやる場合が多い)に商人を中心に盛んだった行事のようで、例えば江戸の年中行事なんてのをみると大抵はこのえびす講が紹介されている。

即ちえびす様と大黒様(豊穣、金運、子孫繁栄の神)の像を床の間に奉り、ドンチャン騒ぎをしている、の図です。


商人の間でもてはやされたのはえびす様が商売繁盛の神様だからですが、もともとえびすは漁業の神様でした。

えびす様のお姿を思い出していただきたい。

手には釣り竿、脇には鯛・・・、まさにウミンチュ(海人)の姿です。


もう少し原義を探りましょう。

えびすを漢字で表記する場合、恐らく恵比寿のイメージが強いかと思いますが、他に夷、恵美須、恵美酒等の表記がありまして・・・。


‘夷‘とした場合、外国人や辺境の人(まつろわぬ民)の意になります。

しかもこの語は多分に差別的で、中華思想に言う東の未開人―東夷―を指している。

中国から見た場合、倭国は東夷でしたし、日本国内においても東国の人を蔑んで、あずまえびす、などと呼んでいます。

外国人の意に戻りましょう。

四囲を海に囲まれた日本にとって、外国人は常に海より来るもの・・・、ここからえびす様と海との関わりが現れます。


・・・といった所で、また次回(全三回)。


























大阪市西成区出城界隈(その伍)

前略、出城界隈もいよいよ五回目となり、ますます話が脱線しているようですが、この回で完結ですのでもう少しのご辛抱・・・。

前回は釜ヶ崎の現況を話しましたが、今回はその歴史について少し。そもそも今の釜ヶ崎地区は江戸時代には墓地や畑の広がる所でして、明治以降、徐々に細民が集まり、スラム化が進んだようです。ただ、近世において周辺を見渡しますと、長町(現日本橋)に木賃宿街があり、また今宮村の外れには鳶田垣外(とびたかいと)と呼ばれた非人村がありました。木賃宿の主な顧客は行商人や出稼ぎの労働者でして、日本橋と言うと今でこそ電気街等の商業地になっておりますが、近世においては今に堺筋沿いに木賃宿などがあった他は田畑の広がる所で、いわば大坂の辺縁にあたっておりました。

大坂市街地からだと道頓堀を隔てた南側の一帯で、道頓堀は大坂における南の結界であったろう。江戸においても山谷の前身の木賃宿街や穢多村が山谷堀の外にあったことが知られています。前述した渡辺村の難波から木津への移転もより辺縁への疎外であり、村の北にはやはり結界としての川がありました。

明治に入り大阪市街地はより南へと広がります。その過程で諸般の事情があるんですが長町の木賃宿街が撤去され、かわってより南の辺縁の釜ヶ崎にその機能が移ったようです。また大きな工場が近くに建設されたのも大きいようで。行政としても細民を一ヶ所に集めておきたいという思惑があったと思います。この時、市街地と釜ヶ崎を隔てていたのが鉄道の軌道です。今のJR関西本線、当時の関西鉄道の線路がどうも結界の役割を果たしていたように思ひます(尤もその後、市街地に呑み込まれますが)。かくて一大ドヤ街となった釜ヶ崎は日本の成長を底辺で支えていきますが、今、建設業界の不況や高齢化でその姿を変えつつあります。ここなどは全き観光名所ではありませんが、太子地蔵、近松門左衛門碑(元は天王寺にあった)、猫塚などの見所もあります。

最後にご紹介したいのが飛田(鳶田)新地。ここはご存知の方も多いかと思いますが、かつての赤線地帯、遊廓です。場所は釜ヶ崎の東に隣接しておりまして、成立は大正時代。もとは難波新地(今の千日前周辺)の一角にあった乙部遊廓ですが、明治45年、一帯を焼き尽くす大火によって遊廓も焼失し、現在地へ移転しました。これなどもより辺縁部へ追いやられた印象があります。

そもそも難波新地自体が都市辺縁に形成された歓楽街で、芝居小屋が立ち並び、相撲(大坂相撲)の興行も行われていました。江戸でいえばさしづめ両国橋東詰(今の両国)といったところでしょう。西詰の両国広小路も盛り場でしたが、結界である隅田川こそ越えていなかったものの河岸というのはいわば境目―辺縁です。現在は鉄道の駅を中心にその周辺に盛り場が形成されることが多いんですが、当時は盛り場、遊廓、被差別部落などは一種の異界と見なされ、都市辺縁や結界の外側に設けられることが通例だったようです。

さて、現在の飛田新地なんですが、名目上は料亭街になっているんですけど(?)、今なお昔の赤線の雰囲気を濃厚に残しています。古い建物もちらほら残っていますし、街全体の風情もレトロ調。昔の出入り口だった大門跡には今もその石柱が残っているんですが、往時、遊廓の周囲は遊女の脱走を防ぐため高い塀に囲まれていたんだとか・・・(まさにクルワ―城でいう区画された場所―ですな)。大門の門柱の脇に少しだけその面影があります。ちょっと落ち着いて見学できる雰囲気じゃないんですけど、一見の価値はあると思います。

以上が出城界隈の概説及び現状です。主に木津城と都市辺縁としての周辺史について述べさせていただきました(不備も多いかとは思ひますが)。木津城探訪や散策の際のご参考になれば幸いです。いずれは名古屋、福岡の宿舎周辺、また過去に宿舎を構えた所についてもご紹介したいと思います。では、今日のところはこの辺りにて御免仕ります。


追記・・・・この記事の執筆中にわかったのですが、恵比須町電停(阪堺電軌の起点)の近くに大阪国技館(大阪角力―すもう―協会が大正期に建てた相撲常設館)があったそうで、石碑が建っているそうです。来春は是非、見に行きたいと思っております。





大阪市西成区出城界隈(その肆)

皆様、こんにちは。毎度、話が長くなります。出城界隈も早、四回目となりまして…。二,三回で終えようと思ってたんですが、いやはや、中々まとまりませず。

では本題へ。木津村(大国町)から西へ進みますと今も昔も渡辺村。…と言っても現在、行政区画名としては渡辺村は存在しません。この渡辺村については本稿で何度か名が登場しますが、所謂、穢多村でして。村民が捕吏(時代劇でおなじみの捕り物の際、周りで棒を持っている人たち)や牢屋での雑務にも当たっていたので、一名に役人村とも呼ばれていました。 とはいえ、ここの村民の生業(なりわい)はおおむね皮革産業でして、穢多はまた皮多(かわた)と呼ばれることも多かったんですね。

そもそも渡辺村の村民は渡辺津(わたなべのつ)南岸にあった坐摩(いかすり)神社のキヨメであったと言われております。渡辺津は淀川の渡し場にして海にも通じた水運の要衝、かの摂津源氏・渡辺党の発祥地としても知られています。現在の地図で言うと天満橋付近でして、石山合戦の際、本願寺方の出城・楼の岸砦が坐摩神社の辺りにあったとか…(坐摩神社は豊臣秀吉によって他所―中央区久太郎町へ移転)。余談はさておいて、キヨメというのは境内の掃除や死牛馬の処理に従事していた人たちで、本来はケガレを払い清める能力を持つ一種の呪術者なんですが、時代が経るに従い次第に差別されていきます。後に難波村や木津村の外れを転々としたのも、大坂市街地拡大に伴う強制退去で、隔離の側面が強いようで。

さて、その渡辺村の現状なんですが、かつて密集部落と言われたほど住宅が隙間なく並んでいた面影はまるでなく、きれいな団地になっています。また近世、隔離・孤立していた集落も今では周辺の住宅地と連続、同化しております旧集落内の見所としては村の鎮守・浪速神社(坐摩神社末社、土俵があります)、公園になっている太鼓又の屋敷跡、西濱水平社跡(西濱は渡辺村の名称廃止後、一時使われていた地名)、それに人権博物館あたりでしょうか。他に渡辺村の残影を探すと芦原橋駅から大国町にかけての太鼓屋や皮革問屋、少し分け入って製靴工場などなど・・・。とりわけ太鼓は江戸期から有名で(太鼓又はその代表格)、近年は製造のみならず演奏でも全国に雄飛しているそうです。

続いて取り上げますのは釜ヶ崎。知る人ぞ知る日雇い労働者の街、ドヤ街です。こちらは部屋から東へ歩いて十分とかからない。最近は専ら‘あいりん地区‘と呼ばれています(どちらも行政地名ではありません)。ドヤはやど(宿)の倒語で簡易宿泊所のこと。東京で言うとさしづめ山谷地区ですが、山谷に比べてもこちらの方がだいぶゴミゴミとしている(こういう言い方もなんですが)。一歩中に踏み入りますと仕事にあぶれた釜やん(釜ヶ崎の住人)であふれておりまして・・・。自販機の脇でワンカップを飲む人、道端で眠る人、萩の茶屋駅近くに連なる怪しげな露店、ちらほら見かける警察官等々、独特の雰囲気が漂います。何でも最近は日雇いの仕事も少なく、就労に見切りをつけ路上生活に入る人も多いようで。一方では住人の高齢化も問題で、需要の減ったドヤの中には積極的に観光客を受け入れている所もあるそうです(安いですよ)。近年、ネットカフェ難民なんてのを聞きますが、インターネットカフェは一面、当世のドヤと言えましょうか。

…とお時間がよろしいようで。二,三回どころか五回目に続きます(今回で終えるつもりだったんですが)。退屈でしょうがもうしばし・・・。






大阪市西成区出城界隈(その参)

よう来そ、毎度おなじみ星ヶ嶺でございます。陽気は早、初夏の候にて、夏場所も終わろうかという時分…(記事はほとんど場所前に書いたものでんす)。皆様には如何お過ごしでしょうか?

前回の続きにまいります。木津城の位置を知るべく大阪市の遺跡地図を見たんですが…。木津城の‘き‘の字も出てきませんで、何とか手掛かりを摑もうと江戸、明治期の地図を参照しました。そうしますと出城地区の一帯というのは当時は田畑の広がる所で、近傍に人家というのはなっかたんですね(出城地区は今宮村に所属)。少し北に目を転じますと前にもお話しした穢多村の渡辺村が孤立してありまして、そこから東へ一本道(渡辺道)が延びて木津村に通じています。木津村は今の大国町の一帯です。その南は一面の田園風景で、ちょっと今の住宅密集の状況からは想像もつかぬ様にて…。大正頃になると木津、渡辺の両村から次第に周辺に住宅地が広がっていきます。

もとより木津城は平城で、周辺の地形も大きく変わっていますし、徹底した破城がなされたことでしょう。木津城の規模について方八町と‘城郭大系‘に記述があります。一町は一般的に約109mですが、さすがにいささか大き過ぎるかと。しかし、そうした伝承があるというのは木津城が大規模な城であったことを端的に表していると思います。廃城後、いつの頃にか一帯が開墾されても、恐らく暫くは田畑からは当時の遺物が出土 したことでしょう。それによって城の伝承は残り、現在の‘出城‘の地名につながっている…。まあ、城の正確な位置はいずれ発掘調査をして、堀でも検出されない限りわからないでしょうが・・・。

.以上が木津城の歴史及び現状なんですが、一応、題が出城界隈となってますのでもうしばし・・・。前述した通り周辺は長く田畑の広がる所でして、その後、住宅地となり、歴史的にはさほど見るべきものはありません。ただ少し北へ行くと旧来からの集落の木津村、渡辺村があるのでそのあたりを紹介しましょうか。

まず、やはり外せないのが木津城ともゆかりの深い願泉寺でしょう。私どもの部屋(木津城址)からですと徒歩十分ほど、前にも書きましたが枯山水の庭園(府指定名勝)や民俗学の大家・折口信夫博士のお墓があることで有名です(博士は木津村の出身です)。603年開基の古刹で、古くは天台宗だったそうですが、浄土真宗に改宗して現在に至ってます。寺の歴史を調べていてわかったんですが、願泉寺は天正八年(1580)に兵火によって焼失したとか。これが木津城とどう関わっているかわかりませんが、その後、やや時を経て例の定龍が寺を再興しています。



星ヶ嶺、斬られて候 <願泉寺>



願泉寺と並んで木津村民の崇敬を集めたお寺に唯専寺があります。真宗本願寺派のお寺で、石山合戦時には願泉寺門徒と共にここの門徒も木津城に籠って戦っています。お寺は願泉寺と大通りを挟んで向かい合うようにありまして、見所としては木津の勘助のお墓(伝)ですな。この勘助なる御仁、近世初頭の名高い土木技術者なんですが、ある飢饉の時、窮民を救うべく私財をなげうって奔走するわけです。ところが、それだけではどうにもならぬ。やむなく幕府の米蔵からお米を拝借して救済にあてますが、それが発覚して島流し…(死罪とも)。そのあたりは三門忠司さんが同名の唄を出してますので、ご参照のほどを。ちなみに大国町の名の由来になった‘木津の大国さん‘こと敷津松の宮の境内に勘助の銅像があります。

続いて渡辺村なんですが…といったところでまた次回。もう少しお付き合い下さい。









大阪市西成区出城界隈(その弐)

毎度ありがとうございます。いつもいつも話が長くなりますが、何卒何卒(今回も長うなります)。

扨、前回は天王寺合戦まで話しましたが、その後の木津城についてしばし。…と申しましても余りはっきりしたことはわかりませんで、七月に毛利水軍が大船団を率いて木津河口沖で織田方の水軍を打ち破り、本願寺に兵糧を運び込んだのはよく知られている所ですが、このとき陸(おか)の上でもいささか動きがあった訳で。「信長公記」に曰く、楼の岸、木津ゑつ田が城より門徒衆が出撃して、織田方の住吉浜手の城を攻撃した云々…と。この木津ゑつ田が城というのが木津城である確証はないんですが、その可能性が高いと思います。ただ気になるのはやはり‘ゑつ田‘でして、確かに近世には今の出城地区の北には穢多(エタ、エッタとも)部落の渡辺村があったんですが、信長公記が著された近世初頭の段階ではまだ木津ではなくて難波に穢多村があったようです(江戸中期に木津へ移転)。となるとゑつ田とは単なる地名になるのでしょうか(あるいは写本の際の加筆か?)。ちなみに後の大坂の陣ではやはり木津河口(1580年頃とは位置が異なります)付近に穢多崎(えたがさき)砦が大坂方の出城として築かれております(難波の穢多村付近にあったとも)。

いずれにせよ以降、木津城は記録には見えないようで、落城したのか、門徒衆が持ちこたえていたのかはよくわかりません。ただ本願寺側は天王寺合戦後は籠城策をとっていますし、織田方も無理に攻めてはいません。 制海権も天正六年(1578)に毛利水軍が織田方の鉄甲船に敗れるに及んで本願寺は全きそれを失いまして、木津城の戦略上の価値は大きく低下しています(尤もそれ以前から常時の制海権は織田方が握っていたと思いますが)。かくて糧道を失った本願寺は天正八年、遂に講和に応じ、大坂を退去 するに至るんですが・・・。

・・・と、前置きが長くなりまして、いよいよ木津城址の現状を記そうかと思ひますが、結論から言うと木津城址の正確な位置はわかっていません。まず出城地区周辺を尋ね廻りますが、一帯は住宅地でその痕跡は全くありません。西の方に極楽寺という真宗本願寺派の小さなお寺さんがあるんですが、由緒はわからないんですけどそう古くからあるお寺ではないと思います(理由は後述しますが)。また、部屋の宿舎の前に出城公園(現在閉鎖中)というちょっとした公園があるんですが、所謂、児童遊園で記念碑等が建っている訳でもない。出城通り沿いにあったと記す本もあります。出城通りというのは出城地区のほぼ中央を東西に貫く通りなんですが(途中、若干喰い違ってますが)、他にそういう説は聞きません。そこで大阪市の遺跡地図を調べるんですが・・・。

甚だ中途半端ですがどうもお時間のようで。また次回、宜敷御願申し上げます。それでは今日の所はこれにて失礼をば。






星ヶ嶺、斬られて候  出城通りの景