大阪市西成区出城界隈(その伍) | 星ヶ嶺、斬られて候

大阪市西成区出城界隈(その伍)

前略、出城界隈もいよいよ五回目となり、ますます話が脱線しているようですが、この回で完結ですのでもう少しのご辛抱・・・。

前回は釜ヶ崎の現況を話しましたが、今回はその歴史について少し。そもそも今の釜ヶ崎地区は江戸時代には墓地や畑の広がる所でして、明治以降、徐々に細民が集まり、スラム化が進んだようです。ただ、近世において周辺を見渡しますと、長町(現日本橋)に木賃宿街があり、また今宮村の外れには鳶田垣外(とびたかいと)と呼ばれた非人村がありました。木賃宿の主な顧客は行商人や出稼ぎの労働者でして、日本橋と言うと今でこそ電気街等の商業地になっておりますが、近世においては今に堺筋沿いに木賃宿などがあった他は田畑の広がる所で、いわば大坂の辺縁にあたっておりました。

大坂市街地からだと道頓堀を隔てた南側の一帯で、道頓堀は大坂における南の結界であったろう。江戸においても山谷の前身の木賃宿街や穢多村が山谷堀の外にあったことが知られています。前述した渡辺村の難波から木津への移転もより辺縁への疎外であり、村の北にはやはり結界としての川がありました。

明治に入り大阪市街地はより南へと広がります。その過程で諸般の事情があるんですが長町の木賃宿街が撤去され、かわってより南の辺縁の釜ヶ崎にその機能が移ったようです。また大きな工場が近くに建設されたのも大きいようで。行政としても細民を一ヶ所に集めておきたいという思惑があったと思います。この時、市街地と釜ヶ崎を隔てていたのが鉄道の軌道です。今のJR関西本線、当時の関西鉄道の線路がどうも結界の役割を果たしていたように思ひます(尤もその後、市街地に呑み込まれますが)。かくて一大ドヤ街となった釜ヶ崎は日本の成長を底辺で支えていきますが、今、建設業界の不況や高齢化でその姿を変えつつあります。ここなどは全き観光名所ではありませんが、太子地蔵、近松門左衛門碑(元は天王寺にあった)、猫塚などの見所もあります。

最後にご紹介したいのが飛田(鳶田)新地。ここはご存知の方も多いかと思いますが、かつての赤線地帯、遊廓です。場所は釜ヶ崎の東に隣接しておりまして、成立は大正時代。もとは難波新地(今の千日前周辺)の一角にあった乙部遊廓ですが、明治45年、一帯を焼き尽くす大火によって遊廓も焼失し、現在地へ移転しました。これなどもより辺縁部へ追いやられた印象があります。

そもそも難波新地自体が都市辺縁に形成された歓楽街で、芝居小屋が立ち並び、相撲(大坂相撲)の興行も行われていました。江戸でいえばさしづめ両国橋東詰(今の両国)といったところでしょう。西詰の両国広小路も盛り場でしたが、結界である隅田川こそ越えていなかったものの河岸というのはいわば境目―辺縁です。現在は鉄道の駅を中心にその周辺に盛り場が形成されることが多いんですが、当時は盛り場、遊廓、被差別部落などは一種の異界と見なされ、都市辺縁や結界の外側に設けられることが通例だったようです。

さて、現在の飛田新地なんですが、名目上は料亭街になっているんですけど(?)、今なお昔の赤線の雰囲気を濃厚に残しています。古い建物もちらほら残っていますし、街全体の風情もレトロ調。昔の出入り口だった大門跡には今もその石柱が残っているんですが、往時、遊廓の周囲は遊女の脱走を防ぐため高い塀に囲まれていたんだとか・・・(まさにクルワ―城でいう区画された場所―ですな)。大門の門柱の脇に少しだけその面影があります。ちょっと落ち着いて見学できる雰囲気じゃないんですけど、一見の価値はあると思います。

以上が出城界隈の概説及び現状です。主に木津城と都市辺縁としての周辺史について述べさせていただきました(不備も多いかとは思ひますが)。木津城探訪や散策の際のご参考になれば幸いです。いずれは名古屋、福岡の宿舎周辺、また過去に宿舎を構えた所についてもご紹介したいと思います。では、今日のところはこの辺りにて御免仕ります。


追記・・・・この記事の執筆中にわかったのですが、恵比須町電停(阪堺電軌の起点)の近くに大阪国技館(大阪角力―すもう―協会が大正期に建てた相撲常設館)があったそうで、石碑が建っているそうです。来春は是非、見に行きたいと思っております。