井筒部屋の四股名 番外編②・霧島の巻(後編) | 星ヶ嶺、斬られて候

井筒部屋の四股名 番外編②・霧島の巻(後編)

さて、後編ではいよいよ皆さんご存知の二人の大関・霧島を取り上げてまいりますが、その前に地名としての霧島について少し説明いたしませう。

 

霧島といってまず思ひ浮かぶのは某酒造メーカーという人もいるかもしれませんが、その由来は何といっても鹿児島・宮崎県境に群立する霧島連山にあります。

多くの活火山を含むこの山塊は標高1700mの韓国岳を最高峰とし、天孫降臨の舞台とも言われる場所。

『古事記』によれば天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)が‘高千穂のくじふるたけ‘に降り立ったと記されており、この高千穂こそ霧島連山の一画、標高1573mの高千穂の峰であるといふのです。

 

連山を構成する山々は活火山とあって山岳信仰の対象であったと思われるのですが、そこへ神話の舞台としての聖地化、さらには修験の霊場ともなって中世以降は大いに信仰を集め、薩摩太守の島津氏もこれを庇護して深く信奉しました。

いつの頃にか高千穂山頂には天の逆鉾が立てられ、新婚旅行で当地を訪ねた坂本龍馬夫妻が引き抜いたとか引き抜かないとか―。

 

井筒部屋の大関・霧島も霧島連山の山麓、鹿児島県姶良郡牧園町(現・霧島市)に生を享けた故に郷里の名峰の名を四股名としたのですが、意外や、前編で紹介した江戸時代の霧島たちと鹿児島との関係は見いだせず、むしろ広島とのつながりが強そうである。

ちなみに江戸時代には今の鹿児島・宮崎県域にパイプを持っていたのは大坂の竹縄部屋なので大坂相撲所属の霧島の中には薩摩藩出身者がいる・・・かもしれません。

 

ただ一人、気になるのは後に4代・友綱となる切島(桐島)儀八。

弘化から安政(1844~60)にかけて現役を務めた江戸相撲の力士で、切島の四股名から荒木野と改名、安政3年(1856)に友綱を襲名しました(最高位は二段目43)。

出身地は不明ながら宮崎県臼杵郡の高千穂であるともいわれ、現・延岡市域出身の師匠(3代・友綱、元前頭筆頭)とは同郷であったようだ。

宮崎県なのでいかにも―のようだが、出身は天孫降臨伝説においてライバル関係にある臼杵郡の高千穂町らしい、となると切島=霧島と見てよいものかどうか。

ちなみに師匠の友綱良助は竹縄の門人であり、初名は岩の戸(後に荒木野→千田川)とこれも神話とゆかりがありそうな・・・。

一方、宝暦14年(1854)の大坂番付に見える霧島喜八との関わりも気になる所です(ただし喜八≒甚八の可能性も捨てきれない)。

 

さて、時は流れて時代は昭和。

いよいよ大関・霧島の登場ですが、それ以前の近代に霧島といふ力士がいたかどうかは番付を精査していないのではっきりとはわかりません。

歌謡の世界では『誰か故郷を想わざる』などのヒット曲で知られる歌手の霧島昇が戦中・戦後にかけて活躍していますが、出身は福島県でここでも鹿児島とは縁がない。

 

 

①霧島 一博・・・現役:昭和50年~平成8年。鹿児島県出身

14代・井筒(元関脇・鶴ヶ嶺)の門人であるが、入門時は君ヶ浜部屋だった。

昭和50年3月、本名の吉永で初土俵を踏み、51年5月より霧島と改名。

細身ながら当時はまだ珍しかったウェイトトレーニングを導入して番付を上げ、57年5月に十両、59年7月に幕内に昇進した。

まだまだ軽量ではあったが胸を合わせてからの吊りを見せるなど膂力にものを言わせる相撲ぶりで、当初は三役では通用しなかったものの、さらなる肉体改造で平成元年11月に小結で10勝を挙げると、翌場所、翌々場所も二ケタ勝利で30歳にして大関に昇進した。

上手出し投げなど技量の冴えもあり、平成3年1月に14勝を挙げ初優勝。

在位16場所にして大関の座を明け渡したが、その後も長く現役を続け、8年3月で引退した。

三賞は殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞4回。

「角界のヘラクレス」「角界のアラン・ドロン」の異名があり、人気を集めた。

引退後は勝ノ浦(10代)を経て陸奥(9代)となり、陸奥部屋を継承。

先代弟子の星誕期(十両3)、星安出寿(十両2)に、立田川部屋の合流で敷島(前頭筆頭)、十文字(前頭6)、豊桜(前頭5)、琉鵬(前頭16)、白馬(小結)らが加入、さらに元井筒部屋の横綱・鶴竜を引き取った。

自らの直弟子からは霧の若(十両4)の他、霧馬山改め霧島(大関)を育て、協会では理事の要職に就いている。

 

②霧島 鐵力・・・現役:平成27年~。モンゴル出身

モンゴルの遊牧民の家庭に生まれ、来日して9代・陸奥の下に入門。

霧馬山の四股名で初土俵を踏み、細身ながら均整の取れたしなやかな体つき、しぶとい足腰を武器に順調に出世を重ねた。

平成31年3月には十両、令和2年1月には幕内に昇進。

この少し前の令和元年11月場所前には元井筒部屋の横綱・鶴竜が加入したことで大いに鍛えられ、従来からの投げの強さ、しぶとさに加え、相撲の巧さも会得して、5年3月には12勝を挙げて初優勝、翌5月も11勝の好成績で大関に昇進した。

これを機に四股名を霧島と改名、直後の鶴竜親方の断髪式に花を添えた。

三賞は敢闘賞が1回、技能賞3回。

しぶとい下半身とスタミナが持ち味の「角界のケンタウルス」である。

 

 

さて、目下、同じ大関の豊昇龍と切磋琢磨してさらに上を目指そうという現役の霧島。

ここ2場所はやや苦戦をしておりますが、素質、稽古量には申し分がなく、霧島の四股名をさらに高めてくれることでせう。

 

以上、今回は井筒、陸奥にまたがる形で霧島の四股名を取り上げましたが、同様の四股名として霧の若などもありますので、機会があればまた―。