星ヶ嶺、斬られて候 -6ページ目

アンコールの都城群②(カンボジア・シェムリアップ州)

前回記事ではアンコール王朝揺籃の地であるハリハラーラヤ都城について主に見てまいりましたが、今回はいよいよ遺跡の中核のアンコールに舞台を移します。

取り上げるのは都城とは言うものの、実際は城壁や堀を必ずしも伴うものではありませんでした。

それでもアンコールに先行する真臘期の都城・イーシャナプラに比定されるサンボー・プレイ・クック遺跡群にはすでに方形の環濠が築かれているし、ヤショダラヴァルマン1世によって構築されたヤショダラプラにも一辺が4kmに及ぶ城壁と環濠があったとする説もあります。

今回、ご紹介する各都城や王宮についても詳らかな構造がわかっているわけではないのであしからずご了承ください。

 

 

◎プレ・ループ都城(仮称)

9代王のラージェンドヴァルマン王によって961年に建てられたプレ・ループ寺院を中心とする都城。

これに先立つ952年には大貯水池である東バライの中心の浮島に東メボン寺院を建設しており、けだしこの都城はプレ・ループの後背に東バライ・東メボンを置くというハリハラーラヤ都城に似た形態をなしていたことがわかります。

ラージェンドヴァルマン王はこれより先、ピミアナカスを中心とする第2次ヤショダラプラを築き、コー・ケーに移っていた都を再びアンコールへ遷移したのですが、このヤショダラプラにいるのもそこそこに新たな都城の建設に取り掛かったのです。

王宮はプレ・ループの北にあったと推定され、プレ・ループを中心とする周辺には方形の小区画が広がっていることから、ある程度、都城としての体裁を整えていたようですが、王はその完成を見ず、968年に薨去したようです。

 

‹多くの祠堂が並ぶプレ・ループ›

 

‹広大な東バライ。今は水も干上がり、内部は耕地の他、集落となっている所も―›

 

 

◎ジャイエンドラナギリー

10代王・ジャヤヴァルマン5世によって構想された都城で、「征服者・インドラの都」を意味する。

ジャヤヴァルマン5世はプレ・ループを築いたラージェンドヴァルマン王の息子であり、当初は先王の王宮にいたやうですが、王位継承を巡る争いの過程で王宮が焼失したため、975年頃より東バライの西に新たな都城の建設に取りかかります。

都城の中心たりうるメール山としてタ・ケウ寺院を建立、王宮を東方、東バライに面する所に造営しました。

王宮をメール山の北に配するというセオリーからは外れますが、タ・ケウから東バライまでは400mと京域も限定されてしまう立地であり、ジャヤヴァルマン5世は独自の都城を構想したのかもしれません(西のシェムリアップ川の開削は12代王による)。

しかし、王は1000年頃に亡くなり、タ・ケウ寺院も都城も完成することなく深い眠りにつきました(後に12代王が一時利用)。

ピラミッド型の寺院であるタ・ケウは基壇等、各所の彫刻も十分に施されておらず、それゆえの武骨な重厚感が人気のスポットとなっています。

 

‹重厚感を漂わせる未完のタ・ケウ寺院。東の参道は真っすぐ東バライへ達する›

 

 

◎ピミアナカスの王宮

1002年に即位し、1050年までの長きに渡り君臨したスールヤヴァルマン1世の王宮。

王宮寺院としてのピミアナカス(ピミアン・アカーハ)と共にその西方に建てられました。

アンコールの王宮は見事な石造の寺院に比して印象に残らない存在ですが、今日にその姿が明らかでないのは元々が木造で、現代に残されていないから。

アンコール都城のありし日に現地を訪れた外国人の記録では王宮の壮麗さが記されており、各王の王宮も当然、資金を潤沢に投下し、贅を尽くした設えであったものと思われます。

スールヤヴァルマン1世の王宮の故地は後年、アンコール・トムにおいても王宮として利用され、高いラテライトの周壁や門、基壇の一部が残されています。

なお、スールヤヴァルマン1世は西バライを構築した他、アンコールの東100kmほどの所に大プリア・カンと称される一辺4.5kmもの環濠を有する大都城を築くなど、旺盛に土木事業に邁進しました。

 

‹長く王宮の寺院として信奉されたピミアナカス。原義は「天上の宮殿」›

 

‹ピミア・ナカス及び王宮の周囲はラテライトの高い壁で囲まれている›

 

‹林の中に残る王宮の基壇›

 

 

◎プラ・ヴィシュヌローカ(アンコール・ワット)

18代王・スーリヤヴァルマン2世が1113年の即位後、約30年の歳月を費やして造営したのがアンコール遺跡群で最も有名な存在といえるアンコール・ワットです。

ヒンドゥー教の宇宙観を表わしたものとして最高傑作とも称されるこの寺院はそれまでの王が信奉していたシヴァ神にかわってヴィシュヌ神を祀っており、本来の名称であるプラ・ヴィシュヌローカも「ヴィシュヌ神の都」を意味しています。

東西1.5km、南北1.3km、幅200m超の環濠に囲まれた空前絶後の規模を誇る大寺院であり、その中心には高さ65mの中央祠堂を核とした石造の巨大にして壮麗な伽藍が聳え立つ。

今日ではこの伽藍の周囲は正面参道たる西方及び現役の仏教寺院となっている一部エリアを除いて森林は広がりますが、往時は北方に王宮があり、多くの人が環濠内に住まう都城が形成されていました。

なおアンコール・ワットは後年の呼び名ですが、その意味は「寺院都市」。

ここは寺院というだけでなく、広い環濠に囲まれた高い防御力を持つ完成された都城だったのです。

 

‹カンボジアの国旗としてもお馴染みのアンコール・ワット›

 

<南東から見たアンコール・ワットの環濠。付近は地元民の夕涼みスポットになっている>

 

 

◎プリア・カンの王宮(仮称)

アンコール・ワットを造営した18代王・スーリヤヴァルマン2世は約40年の長きに渡って君臨し、この間、隣国のチャンパやラヴォー(現在のタイ中原)などに積極的に外征を展開、アンコール朝の勢力を拡大させた時期でもありました。

1150年頃、王が死去するとヤショヴァルマン2世が19代王として即位しますが、先代王までの王家との関係が不明と言ふ謎の存在。

アンコール・ワット北方4kmほどの所に新たな王宮を建設するも、1165年にクーデターにより死去し、反乱を起こしたトリブヴァナーディティヤヴァルマンが即位します。

1177年にはチャンパ王、ジャヤ・インドラヴァルマン4世がアンコールを急襲、占領し、ヤショヴァルマン2世の王宮に入城した。

この混乱の中、国外に遠征中であった王族の後のジャヤヴァルマン7世は雌伏を経て1181年にアンコールを奪還して21代王として即位、アンコール・トムを建造します。

同じく王は19代王の王宮の故地にチャンパとの戦いの勝利を記念してプリア・カン寺院を建造しますが、ここは王の父の菩提寺にして仏教の教義を学ぶ大学としても機能しました。

 

‹上部が崩れているプリア・カンの伽藍›

 

‹寺院西の門。アンコール・トムと同じく乳海攪拌をモチーフとした石造が並ぶ›

 

 

以上、簡単ながらアンコールに置かれた都城、王宮について概観致しました。

古代の日本においても藤原京以前においては天皇の代替わりごとに宮殿が遷移していましたが、アンコール王朝においても都は遷移するものといふ概念があり、かつその建造によって権力の源泉としていたのでせう。

 

多くの遺跡が点在するアンコール遺跡においてはいわゆる定番の他はどこを回るのか迷う所ですが、滞在日数が限られているならばある程度、自らの興味のあるテーマに沿って訪ねる所を絞り込むのがいいかと思ひます。

私の場合それがは都城や王宮に関わる遺跡であり、これらを軸に時間の許す限り、その沿線の他の遺跡にも立ち寄りました。

 

次回では4次に渡って都が置かれたヤショダラプラについて取り上げます。

 

 

 

 

 

アンコールの都城群①(カンボジア・シェムリアップ州他)

さて、前回は巨大な城壁と堀に囲まれた完全無欠の宗教都城・アンコール・トムを取り上げましたが、実は802年から1431年まで長きに渡って続いたアンコール王朝にあってアンコール・トムはその最終形態というべき存在です。

アンコール、あるいはそれ以前の真臘時代から都城・王宮は恒久的なものではなく、王の代替わり等を契機として遷移するものという概念があったようで、第4次ヤショダラプラであるアンコール・トム建設までは一か所に固着することはありませんでした。

802年、プノン・クレーンの丘で即位したジャヤヴァルマン2世は真臘時代にも都が置かれたハリハラーラヤ都城に入ったとされ、これよりアンコール朝の幕が開きます。

 

これ以後の歴代王のうち、都城もしくは王宮を新設した王を抜粋すると―(〇数字は代数※)、

 

①ジャヤヴァルマン2世(在位:802~834)・・・ハリハラーラヤ都城

④ヤショヴァルマン1世(在位:889~910頃)・・・ヤショダラプラ都城(第1次)

⑦ジャヤヴァルマン4世(在位:928~941頃)・・・チョック・ガルギャール(コー・ケー都城)

⑨ラージェンドヴァルマン王(在位:944~968)・・・ヤショダラプラ都城(第2次)→プレ・ループ都城(仮称)

⑩ジャヤヴァルマン5世(在位:969~1000頃)・・・ジャイエンドラナギリー

⑬スーリヤヴァルマン1世(在位:1002~1050)・・・ピミア・ナカスの王宮

⑭ウダヤーディテーヤヴァルマン2世(在位:1050~1066)・・・ヤショダラプラ都城(第3次)

⑱スールヤヴァルマン2世(在位:1113~1150頃)・・・プラ・ビシュヌローカ(アンコール・ワット)

⑲ヤショヴァルマン2世(在位:1150頃~1165)・・・プリア・カンの王宮

㉑ジャヤヴァルマン7世(在位:1181~1218頃)・・・ヤショダラプラ都城(第4次=アンコール・トム)

 

このうち、チョック・ガルギャールことコー・ケー遺跡はアンコール遺跡の中枢より北東に90kmの所にあり、‘アンコール‘の範域より外れているので割愛。

また第1次~4次のヤショダラプラについては前後の記事にて別途、取り上げますので、それ以外の都城について概説してまいります。

 

 

◎ハリハラーラヤ都城

シェムリアップ市街地より東に13km、アンコール遺跡群の中でもロリュオスグループと称される遺跡群があるのがプラサートバコン郡に位置するハリハラーラヤの故地です。

この都城の創建はジャヤヴァルマン2世のプノン・クレーンの丘での即位(802年)以前にまで遡り、アンコール王朝の基盤となった所。

2代王・ジャヤヴァルマン3世(在位:834頃~877)によってプラサート・モンティが、3代王・インドラヴァルマン1世(在位:877~889)によってバコン、プリア・コーが建てられ、都城としての基盤が整備されます。

 

‹ピラミッド型寺院の魁となったバコン›

 

 

インドラヴァルマン1世はさらにインドタカータと呼ばれる貯水池を構築して水利の便を高め、アンコールにおける水利事業の先駆をなして農業の発展を招来しました。

完成されたハリハラーラヤ都城の構成はメール山(須弥山)としてのバコン寺院を中心としたもので、今日の地図を見るとこのバコンから南を除く三方に真っ直ぐと道が伸びているのがわかります。

北はインドタカータ、東にはロリュオス川、西にも小河川が直線的に南流し、南もトレンサープ湖の湖水が増水期には迫ってくるという立地であり、城壁こそなけれ、都城としてはかなり完成された姿が復元できそうなのです。

王が住まう王宮はバコンの北、プリア・コー寺院の後背に置かれたといい、これも後年の都城の祖型をなすもの。

 

 

‹ハリハラーラヤ都城内の概略図›

 

 

ただ、東西の両河川の間は5kmの距離があり、後のアンコール・トムをはるかに凌ぐ規模となってしまい、そもそも両河川が往時より現在の流れとほぼ同じ場所を流れていたという確証もありません。

それでもバコンから延びる道が少なくともこの両河川までは真っ直ぐと伸びている点は重要なポイントと言えるのではないかと・・・。

ロリュオスの地には都城がヤショダラプラに遷移した後も祠堂であるロレイがインドタカータ内に建てられるなど、歴代の王によって保護されたことが明らかであり、副都城として後年に渡って存続、整備されたものと見られます。

 

 

さて、今回はほぼハリハラーラヤ都城の解説で終わってしまいましたが、次回にて残る都城・王宮についても取り上げてまいります。

 

このハリハラーラヤ都城によっても明らかなやうに、アンコール王朝の歴代の王たちは国家寺院、都城、王宮を建設することで、その威信を誇示しましたが、実際にそれらを建設し得た王は21代王のジャヤヴァルマン7世まででも半分にも及びません。

アンコールの王は概ね血縁関係にあるものの、単純に親から子へ継承されるものではなく、権力闘争の末に王位に就くといふのが主な図式。

故に先王を祀りつつも新たな寺を建てることで神への忠誠を誓い、かつ宗教の護持者としての自らの権力を高める必要があったやうなのですが、その裏で莫大な財と民衆の汗が費やされたこともまた忘れてはならない事実でせう。

 

 

‹今は干上がっているインドタカータ内。奥がロレイの基壇›

 

‹南の外環濠外より見たバコン›

 

‹広い境内を持つプラサート・モンティーも今は崩れた祠堂が残るのみ›

 

‹都城の西の川(名前は不知)。付近には小さな村落と耕地が広がる›

 

 

※王の代々等については主に『アンコール王朝興亡史』(石澤良昭著)を参考に致しました。

 

 

 

 

アンコール・トムの城壁(カンボジア・シェムリアップ州)

見晴るかす森の中に石造りの塔が浮かぶ悠久の都の遺址―。

アンコール遺跡はクメールの花である。

 

カンボジアの北東部、トレンサップ湖の北に広がるアンコールの平原に初めて都が置かれたのは802年のこと。

以後、都を点々と遷しながら1431年に至るまでの長きに渡って君臨したのがクメール王朝とも呼ばれるアンコール朝です。

プノン・クレーンの丘において即位した初代・ジャヤヴァルマン2世に始まる王統は、ヒンドゥー教を信奉してその宗教的権威を具現化することで権力の基盤を構築、歴代の王はその表徴として寺院の建立を競い、結果、一帯に多くの寺院址が展開する大遺跡群が形成されました。

王都も古代インドの宇宙観に基づきメール山(須弥山)たる寺院を中心に四方に威光の及ぶ形で設計せられ、さらに周囲にはバライと呼ばれる貯水池が作られて灌漑が進むと農産物の生産も飛躍的に増大、かくてアンコール王国は今日のカンボジアの領域を大きく越える形で周辺国を従える大マンダラ国家へと成長を遂げてゆきます。

 

現在、アンコール遺跡の中心とされているのがアンコール・ワットやバイヨンなどがある地域ですが、ここに初めて都城を築いたのが4代王のヤショヴァルマン1世(在位:889~910年頃)でした。

ヤショダラプラと呼ばれた王都はその後、他所への遷移を繰り返しながらも4次に渡って再編されることとなり、その最終形態である第4次ヤショダラプラ都城こそが21代王・ジャヤヴァルマン7世(在位:1181~1218年頃)によって造営されたアンコール・トムだったのです。

 

ちなみにアンコール王朝における王都は都城とは称されながらも、日本の都城と同様に基本的には城壁を持つものではなかったらしい。

壁のない開放型の都市プランの中にあっても、メール山に仮託した寺院を中心に威光が四囲に及ぶというマンダラ世界を体現していたのですが、ジャヤヴァルマン7世は城壁と堀を伴う都城の建造によってより一層、その宇宙観を具現化したとも言えます。

 

その規模は1辺が3kmにも及ぶ巨大な正方形で、城壁は高さ8mの大土塁の外面に、ラテライトと呼ばれる多孔質の一見すると溶岩のようでもある建材を積み上げて構築、四周を巡る堀は幅130mを越える雄大さを誇りました。

城壁は世界の四囲を表すという山脈に見立て、堀は世界の外縁を巡る大海であるとかや(異説あり)。

往時はバイヨンから四方へ延びる道路を軸に方形のブロックが展開し、家々がひしめいていたといひますから、密林化している今日の情景からは想像もつきません。

王の住まう王宮は、バイヨンを中心とした神仏の領域の北にラテライトの周壁に囲まれて置かれていましたが、これもまたインドの宇宙観に則った配置です。

 

‹アンコール・トムの概略図。一見、方形館だが、一辺の長さは実に3km›

 

 

ジャヤヴァルマン7世はアンコール朝の王として初めて仏教を信奉した王であり、王都のメール山たるバイヨン寺院もまた仏教様式。

四面仏塔と呼ばれる巨大な観音菩薩の顔を四面に彫り込んだ塔が特徴の一つですが、この四面仏塔はアンコール・トムに開かれた5ヶ所の門にも用いられており、さらに門の外面には象の半身の彫像が飛び出す如く配せられ、堀を渡る橋の両脇には蛇身の神・ナーガを引き合う神々とアスラ(阿修羅)の像が欄干の如く並んでいます。

四面仏塔の下に開かれた門は細く、それなりに防御的ながらどちらかといえば王都の権威と秩序を示威する意図が大きかったのでせう。

 

‹間近に見る四面仏塔。写真は西大門›

 

かくのごとく、王都を城壁と水堀で囲い込む必要性に迫られる契機となったのが、現在のベトナム南部を中心としたチャンパ王国の勢力の伸長で、ジャヤヴァルマン7世の先王の時の1177年にはその攻撃でアンコールが陥落し、一時、チャンパ王がアンコールに滞在した時期もありました。

それまで遷都を繰り返していたアンコールの都は城壁の構築と共に固着化し、アンコール・トムは1431年、現在のタイを中心としたアユタヤ―朝の攻撃で陥落するまで存続しました。

 

さて、アンコール・トムの城壁の馬踏上は整備されていて周回して歩くことが可能です。

南北西の三方に一か所ずつ、西に二か所開かれた門の脇から城壁上に登ることが出来るのですが、一周すると12kmとかなりの距離で、概ね3時間程度の道程になろうかと―。

ちなみに城壁上は自転車の走行が可能なので体力と時間を節約したいのならおススメです。

城壁上を歩くミリキは四面仏塔の観音様の尊顔を間近で見られることであり、また高いラテライトの城壁も迫力満点、観光客の多い遺跡内では森林の中を一人静かに歩けるポイントでもあり、城壁の四隅にはプラサット・トゥルンと呼ばれる祠堂がひっそりと建っています。

 

‹最も保存状態が良い南東角のプラサット・トゥルン›

 

 

兵員の移動には便ではあるが、一方で塁線は単調にすぎるほど一直線で、横矢のための屈折は絶無です。

 

1431年、アンコールを退転した王家はその後、プノンペンなどカンボジア東部へと都を移し、小マンダラ国家として生き延びてゆくこととなります。

放棄後の時間の経過と内戦の爪痕、売買等を目的とした彫像の略奪行為による荒廃―。

数多の試練を耐え、今日では観光地化が著しい遺跡の中で、600年の歳月を重ねてきた城壁上とその周囲の深い森に身をゆだねるのは、ある意味において極上の贅沢なのかもしれません。

 

<メール山としてのバイヨンの威容>

 

‹現在の城内へのメインゲートである南大門。橋の両脇に神々の像が並ぶ›

 

<所々崩れているラテライトの城壁。断面構造がよくわかる>

 

‹崩れた箇所を修復した部分。造営当時の状態がよくわかる›

 

‹城壁の馬踏上。所々にラテライト城壁上部の胸牆が残る›

 

‹まさに大海の如き広い環濠。写真は西の濠›

 

‹3m以上の高さがある王宮の周壁>

 

 

舎人城主・舎人氏を巡る謎

さて、前回記事で取り上げた舎人城について―。

城主は舎人氏とされていますが関係資料に乏しく、詳らかなことはわかっていません。

明らからしいのは近隣の宮城氏同様、岩付城主の太田氏の麾下にあったこと。

まずはカギとなる人物について概観してみませう。

 

①舎人 孫四郎

戦国期の武蔵舎人氏の中で唯一、一次史料に名が残るのがこの孫四郎です。

永禄5年(1562)の太田資正(後の三楽)の書状に名があり、使者として三戸駿河守(資正の妹婿)の下を訪れたものらしい。

さらに同6年の第二次国府台合戦では里見方に組した資正の危急を野本与次郎らとともに救ったことが『関八州古戦録』や『寒松日歴』に見えています。

時に19歳であったとされ、『太田家譜』によれば後に太田隠岐守を名乗ったとされる。

 

②舎人 重貞、重長、重経

武蔵舎人氏の後裔は近世、尾張藩士となっており、同藩藩士の家系図を網羅した『士林泝洄』等に系図が所収されています。

同系図で舎人城主とされているのが重貞及びその子である重長、重経の三人で、永禄6年8月14日に北条氏に舎人城を攻められ、重経は自刃したとあります。

重経の子の重秀、経長は北条氏に仕え、後に尾張藩に仕官。

『新編武蔵風土記稿』で舎人城を訪ねたと記される舎人九十九は重秀の子孫です。

 

③舎人 経忠

インターネット上ではしばしば舎人城主として名の上がる人物。

北条氏の下で江戸城代を務めた遠山綱景の娘を室とし、第二次国府台合戦において討死したとされるのですが、実は一次史料はおろか軍記物にも登場しない謎の人物です(複数の遠山氏系図には遠山綱景の娘婿として記載がある)。

遠山夫人との間に生まれた勇丸は母が再嫁した河越城代・大道寺政繁の養子となって直英を名乗り、築城技術の才幹をもって後に津軽藩の家老となっています。

経忠の事績も津軽藩に残された大道寺氏の家系図等を基にしていると思はれ、青森県の図書館で調べてみたものの未だ確認できていません。

 

 

かくのごとく、戦国後期における武蔵舎人氏のキーマンとなりそうな人物を挙げたものの各人がどのような関係性なのかがわからない。

例えば②の舎人重長は受領名が隠岐守で、この人物を孫四郎と見る向きもあるのですが、重長の弟である重経の長男・重秀が系図によれば天文20年(1551)生まれとあり、とすれば舎人城落城時の重経の年齢は若くとも30歳程度であったはず。

『関八州古戦録』の記述を信用するならば永禄7年時点で孫四郎は19歳であり、あるいは重長の子として父と同じ隠岐守を名乗ったとも仮定できますが、何故、重長の後、弟の重経が城主となったのか―など疑問は尽きません。

 

一方の経忠に至っては紀州牟婁郡藤縄の出身とされ、そもそも武蔵舎人氏なのかという疑問すら湧くのですが、実は②の舎人家との接点は少なくない。

例えば経忠の通名は源太左衛門ですが、実は重経の次男である経長も源太左衛門を名乗っており、諱もよく似ています。

 

すでに述べたやうに経忠には勇丸という子がおり、父の戦死時には12歳。

この勇丸が舎人の名跡を継がなかったのは母の再嫁した大道寺政繁は30歳ほど(推定)でありながら未だ子がいない状態で、一方の母も子供が12歳というくらいでしたから場合によっては勇丸に大道寺の跡目を継承させる可能性も考えた故でせうか―。

尤も政繁と母との間にはこの後、4人の男子が生まれており、結果として勇丸改め直英の家督継承は実現しなかったのですが、兄弟の異父兄として大道寺家内で相応に遇されており、舎人姓に戻ることはありませんでした。

このため経忠の類縁であった経長が源太左衛門の名跡を受け継ぐことになったのだと見られます。

 

ちなみに経長には遠山七左衛門なる子がいたようですが、遠山系図の中には遠山綱景の甥である直昌(康光)の娘に遠山七左衛門母の記述があるものがあり、あるいは経長の妻かもしれません。

経長は北条氏照の滝山衆に組み入れられた後、武田氏に通じて出奔してしまったので、妻が幼子であった七左衛門を連れて実家に戻ったのでしょうか。

北条家臣団の重鎮である遠山氏と二重に縁を結んでいたとすれば舎人氏はかなりの有力者と目されていたことになります。

 

想像をたくましくすれば経忠とは重経の兄の重長で、太田氏の北条離反に際し家の存続を図るために、あえて妻の縁を頼って城を出て北条方に参陣し、弟の重経が太田方として城に残ったのでは―とも考えたのですが勿論、確証はありません。

なお『北条五代紀』によれば里見・太田方であった「村上舎人」が一人残らず討ち取られた、とあります。

 

舎人氏と大道寺氏の結びつきに戻ると直秀の異父弟である大道寺直重が尾張藩家老となっているし、同じく異父弟で幕臣となった直次に至っては舎人家から養子(直数=経長の孫)を迎えているのです。

舎人重経家と舎人経忠家には深い縁があったのは間違いないでせう。

 

最後に永禄期の舎人を巡る動きについて―。

実は永禄5年、太田方の手に帰していた葛西城攻略に功のあった本田正勝が舎人と越谷を恩賞として下さるよう北条氏に要求している文書が残されているのです。

実際、この要求は退けられたようで本田氏には代替地を与えられているが、永禄8年には太田氏資(資正の子)によって舎人郷が宮城為業に宛がわれており、この時期、舎人を巡って大きな変動があったらしいことがうかがわれます。

その変動とはまさに、舎人氏系図に記された永禄6年の舎人落城だったのであるのか否か?

 

以上、舎人城について調べる過程で知り得たことを書き連ねてまいりましたが、『新編武蔵風土記稿』に名のある舎人土佐守も忘れるわけにはいきません。

まだまだ舎人氏及び舎人城の謎は深いようでございます。

 

 

‹舎人長者屋敷の伝承がある舎人諏訪神社。舎人氏の祖先だろうか?›

 

<舎人・遠山・大道寺氏の関係系図>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シリーズ東京の謎の城⑤ 舎人城の発見?

東京都足立区に舎人といふ地名があります。

足立区の位置は区名から察せられる通り、現在の埼玉県中原東部を中心とする足立郡に属していたとあって東京都の中でも北側にあるのですが、舎人はその中でも北端と言ふべきところで、北の毛長川を跨げば埼玉県の草加市、もしくは川口市に入ります。

 

このいかにも由緒ありげな、典雅ともいうべき地名を持つ町にかつて舎人城(舎人屋敷)があった、と記すのは『日本城郭体系』など複数の書籍に及び、その存在は一応はそれなりに知られているのではないかと思ひます。

ところがその場所となるとどの本も舎人2丁目付近であろうというくらいで明言するでなく、所在地のわからないまさに謎の城の一つなのです。

城の存在の根拠の一つとして重要なのが江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』の記述であり、少し長くなりますが当該箇所を引用いたします。

 

屋敷蹟  当所ノ字ヲ北浦ト呼ブ。一丁四方許ニテ四面ニ溝アリ。昔舎人土佐守ト云人住セシ所ナリ。イツノ頃ノ人ト云コトヲ伝ヘズ。按ニ紀伊国高野山ノ過去帳ニ土佐守永禄十一年五月廿六日卒ト記シ、舎人孫四郎月牌料ヲ寄附セシヨシ載セタリ。是当所ニ住セシ人ニテ、孫四郎ト云ハ土佐守ガ子ニテモアリシニヤ。サアルトキハ土佐守ハ岩槻ノ家人ナルベシ。今此地ニ又兵衛トテカスカナル農夫住メリ。舎人ヲ氏トシテ彼土佐守ガ子孫ナリトイヘド、詳ナルコトヲ伝ヘズ。又尾張殿家人ニモ舎人九十九トテ禄千石ヲ領スル人アリ。是モ彼ノ子孫ノ由。此地ヘ来リシコトアリト云。此所東ノ隅ニ天神社アリ。昔屋敷ノ鎮守ナリト云伝フ。

 

以上の如く、江戸時代の後期の時点では堀が残っていたようであり、それなりに詳細が記されているのですが、現在ではその跡地がわからない。

原因としては舎人一帯が河川が絡み合う沖積地で概ね平坦な地形とあって城がありそうな場所の絞り込みが困難であること。

東京近郊故に都市開発のスピードが速く、土地の旧状が変貌してしまった上に、地域に残る伝承が失われてしまった点などが挙げられます。

 

城の推定地としては舎人2丁目にある西門寺付近、あるいは赤山街道沿いに展開していた同じく2丁目の宿場町を囲んでいた構え堀と呼ばれる小水路の範囲内、北浦と言ふ字名から舎人5丁目の氷川神社付近とする説、あるいはインターネット上では古千谷1丁目の舎人公園とする説なども見られます。

また構え堀内の宿場の屋号に上の御殿、下の御殿があり、これを城と結びつける論もあるが、宿場に2軒あった名主の家であることから、御殿とはまさに名主の邸宅を称したものと考えられる。

 

‹舎人の古刹・西門寺›

 

さて、私がこの舎人城に関して少し調べてみようかと思い立ったきっかけはたまたま昭和30年代の舎人付近の航空写真を見ていて、舎人2-7あたりにコの字の細長い区画に囲まれた一画があることに気が付いたからでした。

その後、法務局に行って古い地籍図(土地公図)を閲覧したものの、コの字型の地割は確かにあるが、その正体が明らかにはならぬまま。

区画の広さとしては60m×70m程度と1丁(約108m)四方との差異も少なからず、これは見当違いだったかと周辺を見ていた所、宿場町の北西に水田に囲まれた島状の畑がいくつかあることに気が付いたのです。

それらの区画は10区画ほど、畑のみならず宅地となっている所もあるのですが、構え堀が丁度、北西部において大きく入隅となっているまさにその場所を南辺、東辺とし、西と北は水田に囲まれた100~150m四方程度の範囲なのです(舎人2-11,12を中心とする範囲)。

 

‹舎人城推定地(左上)と構え堀内の地割図。濃いトーンは宅地、薄地が水田›

 

舎人周辺の地形をもう一度つぶさに見ていくと平坦とはいえ毛長川に沿う形で自然堤防が形成されており、後の舎人宿があるのはその南端の膨らんだ部分。

そこは北面の毛長川の氾濫原に対しても自然堤防によって守られた場所であり、低地の中にあって最も安定した地盤であったのでせう。

とすれば舎人城の地もまた自ずと限定されるわけであり、今回の推定地は宿場の最奥部に当たります。

さらにいえば構え堀が北西部において大きく入隅となるのは舎人城があった故と思はれ、構え堀の中でも内出堀と称される当該部の堀はかつての舎人城の堀であり、宿を囲む構え堀は城外の宿を囲む惣堀であったと見られます。

城の南の出入口、構え堀内への進入路であった東及び南西の入口にはいずれも堀のクランクが見られ、あるいは横矢掛かりの痕であらむや。

 

この説の弱点は城内が細分化され過ぎている点で故に個々の曲輪の面積が限定されてしまっているのですが、むしろ畑としては無用に細分化され過ぎているとも。

同じ足立区内の中曽根城なども縦横に走る堀で曲輪が細分化されていたやうですから低地ゆえの特徴なのでしょうか。

ちなみにこの島状の区画は先の昭和30年代の航空写真でも部分的に残されており、それだけに昭和50年代の時点で城の場所が不明であったという点と整合しないのも本論の泣き所です。

 

今回、舎人城では―と指摘した場所は現在、住宅地となって痕跡をたどるのは極めて六つヶ敷状況で、かろうじて構え堀の一部が細い路地となって残る程度。

日暮里・舎人ライナーの開通で宅地化の著しい一帯ではあるが、それでもかつての宿場の雰囲気はかろうじて残っています。

 

当該地が舎人城であるといふ確証はありませんが、問題を提起することで舎人城に関する知見が深まるのであれば―と思ふ次第です。

 

※舎人城の歴史に関わる舎人氏に関しては次回記事にて取り上げる予定です。

 

<現代の地図に舎人城の縄張(推定)を合わせた図>

 

‹住宅が並ぶ舎人城推定地の中枢部›

 

‹舎人城推定地南口脇の構え堀の跡。構え堀全体の中でも最も旧状を残す箇所›

 

‹若干の面影が残る舎人宿›