宮窪城(愛媛県今治市)
前回、ご紹介した能島は現在は今治市となっていますが、平成の大合併以前の平成14年までは越智郡宮窪町に属していました。
今治の市街地と向かい合い、能島や鵜島を従えるが如くに海中に浮かぶ大島はかつてその西半が吉海町、東半が宮窪町とにわかれておりまして―。
宮窪町の中心はその名の通り能島を望む宮窪港を擁する宮窪地域であり、今も今治市役所の支所があります。
この宮窪は東方が漁港として開け、他の三方は山である。
漁港を中心とする港町の北西部には港の北を河口とする大川の流れによって形成された谷間が入り込み、緩やかな傾斜地を利用して集落が展開しています。
この谷間の集落や宮窪港を見下ろすやうに、北側にこんもりと茂る丘上に営まれた宮窪城なる城址が今回ご紹介する所。
ただし宮窪城の名はどちらかというと仮称であり、古来、「ご城山」と呼ばれてきたものの、史料は一切ありません。
城の構造は標高30mほどの山の頂部を削平して主郭とし、概ね東の尾根を段々と造成した単純なもの。
城域は現在は果樹園となっている平場あたりまでの4、5段といった所で、その先は堤が築かれて菅原池なる貯水池が造られているのですが、これは堤によって谷が堰き止められている訳であり、かつて城址は南北の谷に挟まれた地形であったことがわかります。
城址の主要部は上の2段が山林、3段目が墓地で、一方の南西には間近まで民家が迫り、城の遺構はほとんど見られません。
この南西尾根は城の弱点であろう所、堀切などの施設もなく、守りがそれほど強固であった訳でもない。
かくの如く宮窪城の遺構自体はさほど特筆すべきものもないのですが、その麓に目を転じると幸賀屋敷なる城館址が伝承されており、ここが近年、その存在感を増している場所なのです。
‹宮窪城概略図。幸賀屋敷は図の右下方(南東)>
さて、この幸賀屋敷の幸賀について、南北朝期の元弘3年(1333)に護良親王が令旨を発給した‘備後国因島本主法橋幸賀館‘と関わりがあるのだとも―。
ただ、ここに見える法橋幸賀については村上氏祖の義弘とする説もあるにはあるのですが、実際はその正体については不明と言う他はなく、まして因島とあることから宮窪の幸賀屋敷と結びつけることは出来ません。
幸賀屋敷の由来についてはクガ(陸)屋敷の転訛とする説もあり、そういえば井筒部屋にいた大関・豊国が元は陸錦(クガニシキ)と名乗っていたなあ―などと思っていたら、近年の発掘調査で夥しい瓦が出土したといふ。
時代としては中世のものと見られるこの瓦、当時、瓦を用いていたのはもっぱら寺院であるので、寺院跡とする見解も出されていますが、当該地に寺院の伝承はありません。
幸賀屋敷の跡地は以前、診療所があったものの今は空き地で、石碑が屋敷の存在を今に伝えるのみ。
私も現地でインターネットの地図を眺めていてその存在を知って、ちょっと立ち寄ったくらいだったので現存するという井戸なども見落としていたのですが、その後に訪ねた村上海賊ミュージアムの展示でその重要性を気づかされました。
<幸賀屋敷跡。ちなみに後ろに見えているのがジョウ山>
幸賀屋敷の西には能島村上氏の菩提寺と考えられる称名寺跡があり、能島対岸に位置する一帯が村上氏にとって重要な拠点であったらしい。
村上氏は海の領主と言われていますが、実際には島々に陸の所領があってこちらも重要な基盤をなしていたのであり、例えば北の伯方島にも村上氏の居城があったともされるやうに当然、それらを管理する支配拠点を持っていたことでせう。
一方で海上に生きる回遊性、機動性の高さからその居城もまた一ヶ所ではなく、状況に応じて複数の拠点を往来していたのでは―とも考えられます。
けだし幸賀屋敷は能島城と並ぶ能島村上氏の居館の一つであり、宮窪城もそれを補完する機能を課せられていたのではないでしょうか。
勿論、それは詰めの城としての機能ですが、その防御面の弱さからすると遠見としての機能が重要視されていたように思います。
なお、宮窪城、幸賀屋敷の北方には別に標高90mほどの‘ジョウ山‘があるとのことで、明確な遺構はないそうなのですが、一時的な避難という点ではこの場所も詰めの城として機能していたのかもしれません。
‹竹林となっている主郭内›
‹主郭北西の切岸›
‹墓地がある三の段›
‹四の段は果樹園›
能島城及びその課題(愛媛県今治市)
海賊、あるいは水軍といふ言葉にはどこかロマンをかき立てる響きがある。
愚拙が仮の住処とする関東にも里見水軍や三浦水軍、伊豆の水軍などが跋扈し、いわゆる水軍城などもございますが、何といっても知名度が高いのは瀬戸内海の、とりわけ村上水軍でありませう。
穏やかな内海に見える瀬戸内海も複雑に展開する島々によって海域の狭まる‘~の瀬戸‘と称される海域が随所にあり、刻々と変わる潮流に対処して安全に航行するのは中世の時分には容易なことではありませんでした。
しかるに因島、能島、来島の三島を拠点とした地域領主であった村上氏は備後から伊予に渡る島々に瀬戸内海を閉塞するが如くに城塞群を配置し、往来する船に目を光らせると共に水先案内を請け負い、航行する船の安全を保障する存在でもありました。
無論、大内氏や毛利氏、河野氏といったより大きな大名の要請に従って軍役を負担し、海上における戦いや物資の運搬にも従事した海のサムライ集団としての看板もまたオモテの顔である。
その村上氏の栄光の歴史をたどるかのように昨今、注目を集めているのがしまなみ海道と呼ばれる島々を結ぶ橋を利用したサイクリングロードです。
概ね広島県の尾道駅と愛媛県の今治駅を結ぶこの道を利用すると、村上水軍の史跡を効率よく、しかも適度なスピード感で辿ることが出来るとあって、私も今治駅で自転車を借りて尾道を目指すことに致しました。
道々、城址をメインに辿りながらの道中ですが、とりわけ私が訪ねたいと思っていたのが、「日本最大の海賊」と称されたリアル海賊王・村上武吉の本拠である能島城でした。
ところがこの能島城、かつては訪問するのが六つヶしいといわれていた城址でありまして―。
というのも能島城の立地は~島の名の如く、今治市街の対岸に浮かぶ大島とその北方、伯方島との間の小島である鵜島に挟まれた周囲850mほどの無人島。
当然、島への定期航路などなく、どうしてもという場合は漁船をチャーターするという手段があったらしいのですが、これは個人では費用の面でもハードルが高そうである。
もう一つは桜の花が咲く春先に桜祭りが開催されるのに合わせて島への臨時の舟便が出るというもので、これも季節が限定される上、花見客に混じって城址の見学といふのも何となくキマリが悪い・・・。
それが最近になって地元で催行されるツアーにて上陸できる、しかも値段も手頃であると知って早速、申し込みました(催行は株式会社瀬戸内しまなみリーディング)。
ツアーの概要は大島側の村上海賊ミュージアム前より出航し、まずは島の周囲を一周するように周り込みつつ最大10ノットにもなるという激しい潮流を体感。
島への上陸後は概ね40分程度で島内の見所を一巡するというもので、島内で思うままとは行かないながら島そのものが小さいとあって城域を一通り見ることが出来ます。
強いて難を言えば海賊城における最大の見所といふべき岩礁ピットを探したり接近したりといったことができないのと、催行人数の関係で希望した便が欠航になってしまう場合がある点でせう。
かくいう私も午前中の便を希望していたのですが、応募人数の関係で午後便への変更を余儀なくされました。
城の構造は最高所の主郭を中心にその周囲を腰曲輪状の取り巻く二ノ郭、とその西下の三ノ郭、東と南には岩山が突き出たやうな出郭が配され、南西部には浜を埋め立てて造成された平場があり、さらに南の鯛崎島との間にも橋を架けて城域としていたやうです。
‹三ノ郭より見た主郭›
ツアーに関してはシロ屋の立場からしても城址をほぼ一巡できるので満足できる内容と言っていいと思いますが、気になったのは島内が余りにも綺麗すぎるのではないか―という点。
綺麗すぎるというのは島の中には木などがなく、非常によく手入れされているということですが、一方で心配な点もあります。
城内を歩いているとその地質は少なくとも表面(上面)においては砂質の土壌で、触っていてもサラサラと崩れてしまいそうな印象である。
城の本やインターネットなどをみるとほんの数年前の情景であろうか、その時分の写真では島にはそれなりに木が生えていたのがわかるのですが、今では曲輪内はもとより斜面部に関してもかなりの範囲で木が伐採されているのです。
木がなくなったことで周囲の眺望はよくなったし、地下に埋蔵された遺構に対する保全にもなるのですが、一方で風雨に直接に晒されてしまえば土砂が流出してしまう恐れがある。
現に腰曲輪状の二ノ郭北部は土砂崩れによって通行が出来なくなっていたし、主郭切岸の一部は保護シートを覆いをかぶせている状態で、見栄えの点でもよろしくない。
この点に関して今治市が作成した『能島城跡整備基本計画』(※注)によれば樹木が埋蔵遺構や切岸の保存の障害になっているとして、その多くについて伐採する必要があるとの提言がなされ、その後、計画に基づいて伐採が進められたのですが、現状が余りに無防備に見えていささか不安になってしまいます。
切岸等の保護の観点からは植生の回復が急がれるように思いますが、基本計画は自然に回復するのを待つというスタンスであるとのよしー。
‹主郭西の切岸。奥には保護のシートが張られている›
もう一点、同じく木の伐採に関することなのですが、以前は花見客でにぎわったというほどの桜もやはり史跡保護の観点からほとんど切られてしまい、これには案内のガイドさんも残念そうな口ぶりでした。
新型コロナの影響もあってここしばらくは能島における桜祭りは中止されていますが、この分だともう桜祭りが開かれることはなさそうです。
城址に桜を植えるのが妥当か―という問題は別として、以前は桜が咲くことで宮窪などかつての水軍の末裔を含むであろう近隣住民がこの島に年に一度は足を運んでいたものが、桜を切ったことでそうした機会が大きく減退してしまう―。
いわば一般の大島等の住民にとって能島に行く動機付けも交通手段も断たれてしまったわけで、地元住民における能島城への関心や理解が薄れてしまうことを懸念しています。
城址の保全は地元の正しい理解があればこそなされるものと思うのですが、この状態ではことによると能島城は観光客が行くだけの島になってしまわないか―。
能島を離れ、海賊ミュージアムに戻る船上で、私はそんなことを考えていたのでした。
‹点々と桜の切株が残る主郭内。写真からも土壌の乾燥ぶりがうかがえるかと›
‹船上より撮影した三ノ郭と南西下の平場›
‹二ノ郭より見た南の出郭と鯛崎島›
‹北の船溜まりと城塁。中央、黒い土嚢が積まれている所が崩落個所›
※注・・・今治市HPよりダウンロード出来ます。
鶴ヶ嶺の由来を訪ねて
去る令和5年12月17日、元関脇・寺尾の錣山親方が逝去されました。
言わずと知れた井筒三兄弟の末っ子ですが、令和に入ってから次兄の元逆鉾の井筒親方、長兄の元鶴嶺山の福薗好政氏が相次いで亡くなっており、ついに三人全員が鬼籍に入ってしまいました。
まずは故人のご冥福をお祈りいたします。
さてこの井筒三兄弟ですが、その名の如く父親が元関脇・鶴ヶ嶺の井筒親方という相撲一家。
幕内在位77場所、技能賞10回を含む14回の三賞受賞、もろ差し名人の名をほしいままにした名力士ですが、今回はその四股名に関する話です。
<元関脇・鶴ヶ嶺の井筒親方と息子の三兄弟>
鶴ヶ嶺は井筒部屋伝統の四股名です。
といってもこの関脇・鶴ヶ嶺昭男の他といえばその師匠であった元前頭2枚目で後に井筒親方となる鶴ヶ嶺道芳ただ一人が名乗ったのみ。
井筒部屋の中で過去に二人しか名乗っていないのに部屋伝統の四股名の代表格の如く扱われるのは二人の鶴ヶ嶺が引退後、いずれも井筒親方として名力士を門下から輩出したこと、2代目である鶴ヶ嶺昭男が余りに傑出した力士であったこと、そして2代目の引退後、長いブランクがありながらも鶴は井筒部屋力士の四股名に用いられ、あまつさえ時折、鶴ヶ嶺襲名の噂がささやかれてきたからでせう。
では、この鶴ヶ嶺の由来はどこにあるのでしょう?
それを知るためには井筒部屋の力士として初めて鶴ヶ嶺の四股名を名乗った鶴ヶ嶺道芳について説明しなければなりません。
鶴ヶ嶺道芳は明治45年、鹿児島県は種子島の生まれ。
師匠である元・西ノ海(2代)とは同郷であり、当初の四股名は種子島→星甲とこれまた師匠と同じ名乗りであり、その期待の大きさがうかがえます。
四股名を星甲より鶴ヶ嶺と改名したのは新入幕より2場所目の昭和13年1月場所より。
各種の本にはその理由などが記されることもなく、188cmの長身ながら細身という体形から‘痩せて鶴のようだ‘と言われたさうです。
それにしてもこれも井筒部屋の出世名であった星甲を変えてまで名乗った鶴ヶ嶺、実はその名には深い意味が込められていたのです。
私がそのただならぬ意味に気がついたのは実際に鹿児島を訪ねた時のことでした。
仙巌園といえば薩摩太守・島津氏の別業で、磯庭園とも呼ばれる観光名所ですが、その園内に島津藩主代々とその家族を祭神とする鶴嶺(つるがね)神社というのがあったのです。
神社の歴史を紐解けば元は鹿児島城内の一画にあった照国神社の境内に明治2年に創建されたものであり、大正6年、当時なお島津家の別邸として維持されていた仙巌園の敷地内の現在地に遷座しました。
鶴嶺の由来は元の社地が山下鶴嶺町にあったから―となっていますが、鶴嶺の真の意味はそれだけではありません。
鹿児島城後背に聳える標高107mの城山―、ここが古くは鶴ヶ峯と呼ばれていたというのです。
この名称がいつから使われていたかはわかりませんが、幕末に編纂された『三国名勝図会』には城山をして「此山の形、舞鶴に似たり」として鶴丸山と呼ばれていたことが記されています。
城山には元々、中世来の上之山城があってこれが山名の由来にもなっているのですが、慶長7年(1602)、島津氏は山の東麓に鹿児島城を築き、居城としました。
鹿児島城は別名に鶴丸城とも称され、本来の城域が後背の山城部を含んでいたことは城名からも推察される。
けだし鶴ヶ峯とは鶴丸山に対する雅称であったと思われ、明治期の地図にもその名を見ることが出来ます。
‹鶴ヶ峯(城山)の記載がある明治35年の測量図›
ただ問題といふのは鶴ヶ嶺が鹿児島城、ひいては島津家と深く関わる名称である以上、いかに鹿児島出身の力士に相応しいとはいえ、おいそれと名乗ることは憚られたのでは―という疑問が湧きます。
この点に関しては大久保利通の実子にして外相や文相といった大臣職を歴任した有力な政治家・牧野伸顕の推薦があったとも言われ、とすればあるいは島津家からの内諾も得ていたのかもしれません。
これほど重い四股名とあって井筒親方となった鶴ヶ嶺道芳もおいそれとその名を譲るわけにはいかなかったのか、門下の有望株の福薗にまずは鶴嶺山を名乗らせ、幕内に昇進してようやく鶴ヶ嶺の名を許しています。
ところがこの鶴ヶ嶺昭男の後、鶴ヶ嶺予備軍といえる鶴嶺山は4人出たもののついに今日まで鶴ヶ嶺の名を継ぐ力士は出ていません。
2代目・鶴ヶ嶺の長男の鶴嶺山、甥の鶴ノ富士(一時、鶴嶺山を名乗る)は十両まで昇進し、入幕すれば鶴ヶ嶺襲名との話がありましたが惜しくも一歩及ばず。
後の横綱・鶴竜も鶴ヶ嶺襲名を噂されたことがありましたが、結局、噂のままで終わってしまい、令和2年には元逆鉾の井筒親方の死去をもって井筒部屋そのものがなくなってしまいました。
かつて鶴ヶ嶺と呼ばれていたものの今はほとんど忘れられてしまった感のある鹿児島市の城山。
しかし大相撲の鶴ヶ嶺の勇姿は未だ多くの人々の脳裏に生き続け、語り継がれていることでしょう。
謹賀新年・令和甲辰
皆様、新年あけましておめでとうございます。
ようようコロナ禍も明けて新春のお慶びを申し上げたい所ではございますが、世の中を見渡すとコロナによって隔絶された関係が修復することのないまま分断してしまったかのような国際情勢に辟易していた折から、国内では災害にうち続き、あり得ないような事故まで起きてしまい何やら暗き谷の底を歩むが如き心持ちです。
日本漢検協会が年末に発表する今年の漢字というのがありますが、私としては昨年の一字は「谷」ではなかったかと思っておりまして・・・。
勿論、明るい話題を振りまいた「谷」もあったのですが、何やら暗いニュースが多く、五輪や国政選挙といったビッグイベントも少ない年でした。
しかし、人生楽ありゃ何とやら―、今が谷ならば後は登りとなるが道理であり、今年の干支の如く万事において登り龍であれかし、と願わずにはいられません。
さて、ご挨拶が遅れましたが、旧年中は弊ブログにお立ち寄りいただき誠にありがとうございました。
昨年の記事本数は25本で、内訳は新年の挨拶が1本の他、城・歴史関係が13本、相撲関係が11本でした。
恒例により昨年訪ねた城址の中でベスト1を発表致しますと、秋田県鹿角市の大湯城がまず第一席。
丘陵上にある群郭式の城郭であり、あたかも鹿児島のシラス台地の城を見ているかのような錯覚に陥る城でした。
近くの大湯環状列石やピラミッド説のある黒又山などと共に訪れることをお勧めしたい城址です。
なお次点は同じく東北から福島県南会津郡只見町の水窪城。
やや整備が行き届いていないような点がマイナスポイントですが、長く不通区間のあった只見線の全線復旧を祝して減点分は今後に期待するということで、他の候補より一頭地を抜いてNo.2として選出致しました。
一方、相撲界は―というと一昨年の戦国時代の様相から去年は比較的、番付に順当と一応は言えそうな優勝力士の顔触れとなり、土俵に締まりが出てきたといえましょうか。
昨年までは大関昇進がもっぱらの話題でしたが、今年はそれに加えて新横綱誕生の期待値が高まってきたように感じます。
また上位陣の充実に伴って休場の続く横綱・照ノ富士は苦しい立場となりそうな気配もあり、かたや熱海富士、伯桜鵬といった若手の躍進も相まって時代の変動を告げる1年となるかもしれません。
旧井筒部屋関係は大きな動きがあった年で、元横綱の鶴竜親方が断髪式を迎え、さらに年末には音羽山を襲名して念願の独立を果たしました。
陸奥部屋では霧馬山が大関に昇進して霧島と改名、師匠の停年を前に横綱を目指します。
その一方で年の瀬も迫った12月17日には元寺尾の錣山親方が死去との報。
60歳という年齢、故人の相撲や弟子に対する情熱を察するに、早過ぎる―と暫くはただ悄然と立ち尽くす日々でありました。
今は故人のご冥福を祈るばかりです。
何はともあれ本年が皆様に取りまして良い一年となりますように―。
本年もよろしくお願い申し上げます。
‹再建が急がれる首里城の大龍柱›
アンコールのチカラビトたち
今夏から連載を始めたアンコールシリーズ。
途中、大関・霧島についての記事を挟んで、今回を含めると7本目の記事となり、はや年の瀬を迎えてしまいました。
今回、いよいよアンコールシリーズの掉尾を飾るに当たって取り上げますのはアンコールに見られる力士たちの姿。
といってもカンボジアに相撲、あるいはそれに類する競技があってその選手を指しているわけではなく、ややミクロな視点から遺跡内の彫像やレリーフの中の力士、あるいは相撲のような場面を取り上げようというものです。
尤もこれは個人的な着想というよりは、実は参考にしたガイドブックの中にそのヒントがあり、現地でどうしてもソレを観なくてはならないと思ったものから発展したというべきでせうか―。
遺跡において私がまず目指したソレというのがアンコール・トムの北にあるプリア・カン寺院にある金剛力士像でした。
ガイドブックでは寺院の北側、祠堂の入り口にあるとのことだったのですが、不思議と北には見当たらず、南の入り口に金剛力士と思われる立像が―。
頭部は失われているものの棍棒を前に構えた力強い四肢の像であり、入口を固めるが如く門の両脇に二体の力士像が並んでいるのです。
‹プリア・カン北面の金剛力士立像›
さらに見て回っているとやはり祠堂入口の両脇を固める如く不動明王のような憤怒の形相のレリーフがあちこちにあることに気がつきました。
これはドヴァーラパーラと呼ばれる神様で、ドヴァーラとはサンスクリットで門、パーラは守護者を意味しており、すなわち門衛神である。
アンコールの彫刻群の中ではやや地味な存在で、入口脇の同じような箇所に配されることの多い麗しきデヴァター(女神)の陰に隠れてしまいがちなのですが、その存在に気づいてからは多くの寺院遺跡に存在を求めることが出来ました。
‹パブーオン寺院の西門。ドヴァーラパーラが入口の両脇を固める›
門番という点ではいかにも金剛力士と同じ役割を担っているわけで、日本の金剛力士もまたドヴァーラパーラの末裔になりませう。
金剛力士は仏教の護法善神であるヴィジュラパーニが執金剛神となり、さらに仁王として発展したとされていますが、同じインド世界のドヴァーラパーラの影響についても当然に受けていると考えられます。
金剛力士が寺院の門前で魔性の侵入を防ぐ存在であることは知っていても、元々のインド世界ですでに門衛神としての性格が確立していたとはまさに知らぬ仏のお富さん。
そうといえば私は以前から力士のことを関取とか~関というのは何故であろうと色々考え調べてもいたのですが、あるいは金剛力士との関とりならぬ関わりに由来するとも思えてきた。
本来、相撲人と呼ばれていたのが後年、力士と称されるやうになったのは金剛力士からの連想であった可能性も指摘できるので、この着想もあながち絵空事とばかりはいえますまいが、この点についてはまた稿を改めて述べたいと思ひます。
‹バンテアイ・クディ寺院のドヴァーラパーラ。寺院は12世紀末の建造›
‹9世紀末に建造されたロレイ寺院のドヴァーラパーラ。力強い造形である›
さて、アンコールのチカラビトはまだ他にも精緻なレリーフの中に見出すことが出来ます。
アンコール・ワットの回廊を代表格として遺跡内では数多くの浮彫りを見ることが出来ますが、ここでもあたかも相撲のような場面を見ることがあります。
といってもそれは多くは神話の中の戦闘シーンで、けだし相撲のような技も格闘戦となった際の組討ちの技量として似たような形で発展したとみるべきでせう。
浮彫の題材自体は神話ですが、戦闘シーンなどは実際の戦闘を参考にしていると思はれるので、相撲のような戦闘技量自体は存在していたと考えていいと思います。
今回は幾つかある浮彫の中から厳選して手捌きを加えてみようかと―。
題してアンコール場所五番勝負。
ガイドブックにも「レスリング」として紹介されている代表的な場面。
マワシらしきものを付けた裸体の大男2人が向かい合って手を挙げている様は、古えの相撲の立ち合いを思わせる。
周辺には曲芸の浮彫がある点から、このレスリングもその一環として興行的要素を持っていたのだらう。
当時のカンボジアに競技・芸能としての相撲に似た格闘技があったことを物語る。
‹前頭・アンコールワット第一回廊西面北―ラーマヤーナの場面より›
「ラーマヤーナ」は古代インドの叙事詩。
コーサラ国の旧王・ラーマ王が魔王ラーヴァナと戦い、王位に復帰するまでの物語で、上掲はサルの王・スグリーヴァの配下がラーヴァナ軍と死闘を演じている場面。
背後から悪魔の右足の裾を取った上に自らの右足を相手の左足に搦めて送り三所攻めを試みるサル兵に対し、悪魔は右手を相手の首に搦め、もう一方の手に持った槍を突き立てんとしている。
圧倒的に不利であるにも関わらず、恐るべき柔軟性を発揮して体勢をキープし、反撃を試みる悪魔のしぶとさに注目されたい。
<是より三役・第一回廊北面西―アムリタを巡る戦い>
こちらは乳海攪拌後の世界―。
不老不死の妙薬・アムリタを巡る神々とアスラ(阿修羅)の戦いである。
いきり立って突進してくるアスラに対し神がひらりと体を開いて右手に飛び違い、引き落としに破った一番。
日本で土俵が成立し、押し相撲が登場するのが16 ~17世紀とされているが、それに先立つこと500年以上も前、世界最古の立ち合い変化の一瞬を見事に捉えた奇跡のワンカットである。
‹関脇に叶う・第一回廊北面西―アムリタを巡る戦い›
前の一番と同じくアムリタを巡る神々とアスラの戦いより。
相手の左腰に深く潜り込むアスラに対し、肩越しに左上手を掴む神。
あたかも九州場所七日目の北青鵬―翠富士戦を予言したかのような浮彫で、何とか突破口を見出そうとするアスラに対し、神も攻め手がなく持久戦に持ち込む意図が看取できる。
よく見ると神は足元にも別のアスラ(?)を踏みつけており、そのアスラも足で器用に神のマワシを掴んでいるように見える。
他にも神を制御するような謎の手が見られ、「兄ちゃん、がんばれ」という声が聞こえてきそうな場面である。
‹結びの一番・第一回廊東面北―ヴィシュヌ神とアスラ(阿修羅)の戦い›
本年最後の打ち止めの大一番は最高神であるヴィシュヌとアスラの戦いの場面より。
アスラを撞木に担ぎ上げるヴィシュヌ神はさらに足下のいる獅子面の馬のような2頭の霊獣に対し、左足で一方に蹴りを見舞いつつ、もう一方に対しては右足を首に搦めて締め上げている。
撞木反りとマッスルスパークという絶命必至の大技を同時に狙う超人的な技巧の冴えはもはや驚嘆を通り越して畏敬の念すら抱かせる。
最高神の名に相応しい取り口で、場所を千秋万歳大々叶で締めくくった。
以上、アンコールに見られるチカラビトについて取り上げました。
アンコール遺跡は広大で、気温や湿度も高いとあってよほどの時間的な余裕がない限りは1日に何か所もの遺跡を巡ることになるので、中々集中力を保つのが六つヶしいのですが、私の場合は相撲にまつわるモチーフを探すといふ変化球を付けることで、隅々まで見てみようという意欲を保つことが出来ました。
さて、今年も残すところ、あと僅か。
弊ブログも本記事をもって本年の締めくくりと致します。
本年も色々とお世話になりました。
皆々様には何とぞよいお年をお迎えください。