アンコールに見る相撲の摂理~土俵編~ | 星ヶ嶺、斬られて候

アンコールに見る相撲の摂理~土俵編~

さて、この夏はアンコール・ワットやバイヨン寺院を中心としたカンボジアのアンコール遺跡を都城といふ視点から取り上げてまいりました。

コロナ禍もようやく落ち着きを見せ、久方ぶりとなる海外訪問の目的は勿論、城に関する知見を深めることにあったのですが、遺跡内を巡り歩いていて意外にも脳内の一画を占めて離れなかったのが相撲のことでした。

 

9世紀から12世紀にかけてアンコールの地に花開いたクメール王朝。

歴代の王たちは当初においてはヒンドゥー教を、後には仏教に帰依して、その教えを具現化するが如く壮大な都城や寺院の建造に邁進しました。

アンコール・ワットを例にとると、その中央にひときわ高く聳え立つのが世界の中心となるメール山(須弥山)に仮託した中央祠堂であり、これを取り巻いて三重の回廊が方形に配され、各々の四隅には祠堂が、それらを結ぶ回廊の各辺の中央には出入り口が開口。

寺院境内を囲むおよそ1000m×800m、幅200mの環濠と城壁はヒマラヤ山脈と大海に仮託して世の中の辺縁を表現しているとされ、さらに外側にも王の威光の及ぶ範囲で都市が形成されてゆきました。

 

<中央祠堂を4基の祠堂が囲むアンコール・ワット>

 

 

これら寺院を建造するにあたって強く意識されたのが古代インドの宇宙観である。

すなわち人々が住まう大陸であるジャンブ・ドヴィーバの中央に高く聳えて世界の中心をなすのがメール山であり、その山上の中枢に最高神たるブラフマー神が鎮座し、さらに周囲八方を取り巻いて八方天と呼ばれる神々が居並んで神の領域を形成する世界です。

これをアンコール・ワットにあてはめると中央祠堂が最高神(ここではヴィシュヌ神)のいます所で、周囲を囲む4基の祠堂、四方の門が八方天を表わし、環濠内=ジャンブ・ドヴィーバにはかつては実際に多くの人々が住んでいた領域でした。

 

この世界観は同じインド世界に生まれた仏教においても受容され、メール山は須弥山となり、八方の神々も天部へと置換されながらも基本的構造を継承して、中国、さらには日本へともたらされたわけであり、マンダラ(曼荼羅)によってその世界観が絵画化され人々に提示されてもきました。

 

宮本徳蔵氏によって著され、名著として名高い『力士漂泊』を読むと、氏は早くも国技館の構造がマンダラと同様であると喝破しているのですが、これを初見した当時はそんなものかなあ、くらいに思っていたのが、不思議とアンコールに立つと腑に落ちてくる。

まず直感的に思うのが中央祠堂を取り囲む四隅の祠堂が土俵の四本柱であり、四方に開かれた門が徳俵であるということ。

気になってマンダラの画像を調べているとチベットのマンダラなどではまるっきり土俵の構造そのもののやうなものすらあります。

 

 

<須弥山を表わす中央祠堂。上から見ると屋根は円形>

 

 

ただ相撲とは神道を基本とするのでは―という疑問に対しては、古来においては必ずしもそのようなことはなく、相撲の家元たる吉田司家が『相撲之式由緒故実幷私記』によって述べる所では、土俵について「外の角は儒道、内の丸を仏道、中の幣束を神道」としており、当時の日本の宗教観を取り込んだものとなっています。

 

勿論、当初より土俵はかくも完成されていた訳ではありません。

むしろ自然発生的に成立した面もあるともいえるのですが、一方で一定の結界の中で行われていたと場合もあったやうで、その結界を示すものが後に四本柱となり、土俵もまた当初においては方形であったとされています。

先に述べた神仏儒の概念などは土俵が成立した後に相撲の家元たる吉田司家などが創出した権威付けに過ぎないのでしょうが、さりとて完成された空間を見事に作り出し、時代の要求に応じて変化しながらも今日にその基本プランを伝えているのです。

 

 

次いでアンコール・トムなどに見るアンコールの都市プランにも注目してみませう。

中央にメール山を表わす寺院を配し、周りには格子状に居住ブロックが形成、これらを囲んで正方形の城壁と環濠が巡り、四隅に祠堂、四方に門がある構造はアンコール・ワットをそのまま大きくしたかのやうです。

こうした都市プランは古代インドの建築技法書『マーナサーラ』等に基づくもので、マンダラと共通する構造。

王宮の配置についてもメール山たる寺院の北側とするのが基本ですが、相撲でも北を正面として重視し、審判長席や貴賓席をこの方面に配置しています。

実際、この北方重視の思想は「天子、南面す」という中国思想の影響を受けたものであり、相撲にはある意味、各種の世界観が混在しているのですが、少なくともこの点においては両者に矛盾はありません。

『力士漂泊』でも指摘されている如く、こうした格子状のブロックの連続や重要区画の配置がまた国技館内の構造と共通しているのは興味深い点でせう。

 

そもそも相撲場の構造は―というと江戸時代は寺社の境内に小屋掛けで、土俵の周囲の土間は庶民が座る席であり、その後方、二階三階と設えられた桟敷席が上等の席であって、お大尽などは高みの見物というのが当時のスタイル。

それが明治の常設の相撲場たる国技館ではローマのコロッセオをモデルとした西洋的な空間となり、土俵周囲を上等の席とし、後方の二階席や三階席を廉価の席として江戸時代の概念を逆転させてしまいました。

ただ、当時は円形の空間(桟敷席は円形の配置から格子状に改良)であったのを蔵前の新国技館では方形となり、さらに両国のシン・国技館となると建物の外観も含め土俵を中心とした正方形に近い構造になっており、不思議と時代が下るごとにアンコールの都市モデルに近づいてくるのです。

 

無論、差異もあって例えばアンコールの寺院の多くが東西を主軸とし、概ねにおいて東を正面としている点(アンコール・ワットは西が正面)。

これは天に軌道のある如く、太陽の動きを意識したものとされ、勢い、日の出の方向たる東を正面にしたようなのですが、実は大相撲でも東西こそが力士の実質的な出入り口となっており、かつ古来の相撲書ではこの東西に陰と陽、すなわち日月の動きをリンクさせた記述があるのでこの点でもアンコールの世界観とは実は対立していない。

 

 

ヒンドゥー、仏教においてはメール山を中心に神仏に慈悲を世界に敷衍させ、アンコールの王が国家寺院を中心に自らの権威を照らすが如く四囲に発露したように、大相撲もまた土俵を中心にその熱気を周囲に波及させ、五穀豊穣の祭りとした。

今日の土俵では四本柱が撤廃され、代わって吊り天井の隅に房を垂らすという独自の進化を遂げ、天を表わす土俵の上にさらに天をいただくやうでもありますが、基本的なスタイルは江戸の昔より変わっていません。

 

世界の窓からのぞいた相撲―。

そこから思いがけず見えてきた相撲の姿は、東アジアに通底する普遍的な概念に裏打ちされながら独自の深化を遂げた日本の伝統の結晶でありました。

 

 

<土俵を思わせるタ・ケウ寺院の基壇>