令和8年6月1日先月歴史好きの奈良出身の同僚が亡くなったので彼を偲ぶために松永久秀関連の城に行きました。もっと話したいことたくさんあったなー。本当に残念です。
多聞城跡は現在若草中学校になっており遺構らしき遺構はほとんど残っていません。大堀切は確認できました。中学校の入り口右側に供養塔?らしきものがありました。多聞城は久秀の嫡男久通が入りました。多くの門徒、僧兵を持つ東大寺や興福寺ら宗教勢力に睨みを効かせる意味がありました。
それよりもここに来る直前に見た奈良監獄ミュージアムというレンガ作りの建物の方に目を奪われました。星野リゾートが手がけたそうです。ゴールデンカムイの網走監獄を思い出しました。
大堀切と思われる遺構
三好長慶の家臣であった松永秀久は永禄5年(1599)大和に侵攻し、奈良の町を見下ろす佐保山の一角に多聞城を築城しました。奈良を訪れた宣教師ルイス・デ・アルメイダは城は瓦葺きで白壁を備え、城内は障壁画で飾られるなど豪華なつくりであったと書き残しています。後に「多聞櫓」と呼ばれる長屋状の櫓や、後世の天守に相当する「四階櫓」が造られるなど近世城郭の先駆けとなる城でした。
大堀切と思われる遺構
若草中学校正門右側に並ぶ墓石群
織田信長の後ろ盾を得て、筒井氏など在来勢力との抗争を繰り返しながら大和の支配を進めました。天正2年(1574)には織田信長に明け渡し、その後破却されました。
若草中学校正門
城跡は若草中学校と西側の光明皇后陵と聖武天皇陵を含む範囲と考えられ、北面と東西に堀を巡らし、南面は佐保川で奈良の町と区切られていました。
続いて車を走らせて信貴山城に向かいました。ここの麓は朝護孫子寺といい、聖徳太子ゆかりの寺だそうで、平日でも非常に多くの人が訪れていました。太子が物部守屋を討伐する前にこの山に祈願すると天空かなたから毘沙門天が現れて必勝の秘術を授けられたとのこと。その日が寅年寅日寅の刻だったと言われています。その後太子は無事勝利し、この山を「信ずべき貴ぶべき山、信貴山」と名付け以来寅に縁ある毘沙門天を祀るようになったそうです。
大寅
鳥居
多宝塔
本堂
立派なお堂が多く、また多くのお土産屋や飲食店があり、ホテルがあるので一大宗教施設のようなつくりでした。
信貴山城への登城口は朝護孫子寺がごちゃごちゃしており入り口を見つけるのがなかなか難しかったです。
山登りもなかなかしんどく、攻めにくく守りやすい城だなというのを実感し、さすが松永久秀やりおるなと思いました。
今では参道となっていますが、城があった当時は矢や鉄砲で撃ち落とす防御施設であったことが想像できます。
信貴山城は松永久秀が整備した城で有名です。天正5年(1577)織田信長から離反し、信貴山城に籠城するも大軍で攻められ、名茶器平蜘蛛(ひらぐも)とともに爆死したと伝わります。
信貴山城の縄張り図(千田先生の研究室が作ったようです。まさに城あるところに千田ありですね)
ちなみに朝護孫子寺は図の左側です。
本当は松永久秀屋敷跡まで行きたかったのですが、体力残ってなく、また時間もなかったので行けなかったのが心残りです。
信貴山城は最初に河内畠山氏の重臣木沢長政が築城した。久秀の前の時代では護良親王や楠木正成も戦術上、利用したと伝わっています。
雄嶽頂上から見る景色は爽快でした。
妻と息子たちにお土産を買いました。
信貴山城御城印
松永秀久武将印
久秀は将軍足利義輝を三好三人衆とともに暗殺したり、東大寺大仏殿を焼き払うなど「乱世の梟雄」のイメージが強いですが、千利休と茶の師匠を同じくする文化人であり、三好家への忠節を貫いた実務家としての姿が明らかにされるなど新たな人物像が浮かび上がっています。
またルイス・フロイスの「日本史」には、京での三好長慶亡きあとの実力者として登場します。しかし、キリスト教に関してはあまり興味を示さなかったとも伝えられます。
直木賞作家の今村翔吾さんの「じんかん」は松永秀久の物語です。現在楽しみながら読んでます。
3作目の本です。良かったらご覧下さい。


















