令和8年1月21日に荒木村重関係のお城を攻めてみました。兵庫県南東部の伊丹市と尼崎市なので京都から高速で1時間くらいでした。
まずは伊丹市の有岡城跡です。
伊丹は旧摂津国のへそ(地理的中心地)、交通の要衝だった。織田信長配下の武将、荒木村重はこの地を300年間治めていた伊丹氏を攻め、その拠点伊丹城を落として有岡城と改名、摂津守に就任した。まちぐるみ要塞化した難攻不落の名城として知られ、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは「はなはだ壮大にして見事なる城」と記した。
礎石建物跡
井戸跡
土塁
石垣
この前、千田先生が出ていた番組でこの辺りに天守があったとおっしゃってました。
五輪塔なども石垣に使われているのが分かります。
有岡城跡惣構図
これまで載せてきた写真は主郭部です。東部は台地になっており川を堀として守られていたと思われます。西部は北(岸の砦、現在は猪名野神社)、西(上臈塚砦)、南(鵯塚砦)にそれぞれ砦が築かれ堅固な構造をしていました。
沓脱石
伊丹城時代の建物土間に置かれていた石と推定されている。
黒田官兵衛の藤棚
天正7年(1579)、村重が信長に背きました。黒田官兵衛は村重の説得に有岡城を訪れますが、逆に幽閉されてしまいます。官兵衛は小さな土牢に押し込められたせいで頭は皮膚病ではげ、足は不自由になりました。その間官兵衛は力強く咲く藤の花を見て勇気を得、その後黒田家の家紋に藤の花が使われるようになったのは有名な逸話です。
この物語を後世に伝えるため、この地に官兵衛ゆかりの姫路城の藤から育てた子孫樹を植樹しています。
土塁
息子荒木村次の舅である明智光秀も信長に帰順するよう説得に訪れたが村重の固い決意が変わることはなかった。有岡城は信長の大軍に包囲されますが、村重は徹底抗戦し、なかなか城は落ちません。しかしついには兵糧がつき、村重は再起を図り村次と有岡城を脱出し、尼崎城へと移りました。城主を失った有岡城は落城し、村重の親族、家臣ことごとく信長に処刑されました。この地はそういった痛ましい歴史も残しています。村重はその後、尼崎城から花隈城へ移り、さらに毛利領へと逃走しました。信長死後は、秀吉時代に茶人として名を馳せました。村重の心中いかほどだったでしょうか。
「英雄たちの選択」という番組で、中国方面軍の大将に村重が任じられず、秀吉になったことが気に食わなかったのではないかという指摘もあります。また生き延びた村重は本能寺の変を起こすに至った光秀に協力したのでないかという可能性にも触れていました。
その城下町・伊丹郷町は江戸積み酒造業の一大拠点として復活した。
土塁
有岡城の御城印を購入しました。
今年の6月に「黒牢城」という映画が公開されますが、まさにこの有岡城を舞台にしています。本木雅弘さんが荒木村重を演じます。大変待ち遠しいです。
この有岡城跡から南へ車で30分ほど移動しました。荒木村重時代の尼崎城はここから北東にある大物という場所にあったようですが遺構は残っていないとのことでした。現在ある尼崎城は江戸時代のものを再現復興したものです。
復元尼崎城
平成27年(2015)安保あきら氏が復元城を建築し尼崎市に寄贈されました。尼崎城分間絵図を元に再現されています。
お姫様お殿様になりきれる衣装コーナーがあります。
小さなお子様でも楽しめる作りになってます。尼崎城の歴史が分かるシアターコーナーもありました。
大阪夏の陣後、江戸幕府は大坂を直轄地として西国支配の拠点とするため、元和3年(1617)譜代大名戸田氏鉄(うじかね)に尼崎城を築城させ、大坂の西の守りとしました。甲子園球場の3. 5倍にも相当する広さの、 5万石の大名の城でした。尼崎藩はその後、青山氏、(櫻井)松平氏と藩主が変わっていき、250年間続き、明治の廃藩置県を迎えました。
天守から見る尼崎市内の街並み
寛文10年頃尼崎城下絵図
現在の尼崎城周辺図
尼崎城縄張り図
冬バージョンの御城印を購入しました。
3作目の本です。良かったらご覧下さい。


























