一度しか通らない道
そしてあなたは今、一本の道を歩いていく。
たくさんの花を腕に抱いて。
その道は一度しか通らない道。引き返すことはできない。
あなたは道端に花を植えながら歩く。
植えた花は自分の手から離れていってしまうけれど、
花は植えてこそ生き続けると思うから。
そして今植えなければ二度とその場所に植える機会はない。
二度と戻れない道だが、振り返ることはできる。
花でいっぱいの道を見てあなたは微笑む。
植えたことすら忘れていた花が、実をつけ種を増やしている。
その道はあなたにしか見えないから、ほらきれいでしょう?って
誰かに見せることはできないけれど。
それでもあなたに見えるその景色があなたに笑顔をもたらしてくれる。
この道は一度しか通らない道。
だから、役に立つこと、人のためになることは今すぐやろう。
先へ伸ばしたり忘れたりしないように。
この道は二度と通らない道だから。
「モノサシ」を長くするということ
現在、世界の戦争のほとんどが内戦だといわれます。また大きな戦争であっても、その原因は、内戦や隣国との紛争、つまり良く知っている近所との揉め事から始まっているといっていいと思います。また家族間で親を殺したり子供を殺したりしたというニュースもよく耳にします。兄弟同士でいがみ合ったり、時には家族をも殺してしまう。もっとも助け合うべき最後の砦である家族間でなぜこのようなことが起こるのでしょう。
格差が問題になっていますが、ホームレスの人の中でさえ自然に格差ができてしまうといいます。仲間内で比べあい、我のほうが優秀だという競争心が働くからでしょう。本来ならばまずやるべきは全員で助け合い、協力して現状を打破すべきなのに、人間というのは小さな競争に明け暮れ、自ら可能性を閉鎖してしまうことがあるのです。
議論も同じです。大枠は同じであるが些細なところが違う意見。これが一番対立します。まったく異なる意見というのは対立しません。どうして仲間同士で対立しあうのか。どうして仲間内で過度な競争に陥ってしまうのか。
それはモノサシが短くなっているからです。
誰もが世界を図るモノサシをもっています。そのモノサシを自分が所属しているもっとも小さなコミュニティに当てはめてしまうのです。ですから、その中で意見の違う人がいると、モノサシの端に位置づけしてしまいます。極端に右か左かに見えてしまうのです。それが世界の全てとなり、それにあわせて自分の立ち位置を測ろうとします。その中で自分は劣っていると落ち込んだり、優れていると思っていい気になったり、あるいはあの人は変なクセを持っているだとか、それが拡大レンズを通したように見えてしまう。またグループに新参者が入ると、その人がとてつもなく変わった人に見えるときがあります。これはその人が変なのではなく、自分のモノサシの長さが変わってしまっているのです。
自分の持っているモノサシの長さは変化するということに気づかなければなりません。コミュニティは入れ子構造になっていて、自分の所属している最小単位のコミュニティはさらに大きなコミュニティに所属しています。最終的にもっとも大きなコミュニティは地球全体ということになるのですが、大きな視点から見れば些細なことも、本人が小さなコミュニティにモノサシをあわせてしまっている場合は、それがとても大きな相違(決して相容れることはできないと思うくらい)に見えてしまうのです。
油断をするとこのモノサシというのはどんどん短くなっていってしまいます。自分の周りのほんの小さなコミュニティの中で優劣を競ったり、対立したりといったことに明け暮れてしまう。常にモノサシを長くする努力をしなければならないということです。自分のグループの中ではこうだが、では他のグループではどうだろう?地区全体ではどう見えるだろう?日本レベルでみたらどうだろう?世界レベルでみたらどうだ?というふうに考えていくと些細なことが気にならなくなります。右には右がいるし、左には左がいるのです。もっと過激な意見があるよなぁ。もっとすごい人がいるよなぁ。となるわけです。そして自分の小さなコミュニティの中でもめている場合ではないと思えてくるのです。長いモノサシで見ればまったく違うと思っていた意見も目的は同じであることに気づきます。一致団結してやるべきことが見えてきます。
モノサシを長くするためにはどんどん外に目を向けることだと思います。自分のグループ以外の人に意見を聞いたり、日本はどうなっているか、世界はどうなっているかを調べたり。私もたびたびモノサシが短くなっていることに気づき、後悔します。常に意識して精進していきたいと思います。
利益の源泉にフィードバックする
昔は多くの知識を持った人や、計算力がある人=頭のよい人が有利でした。でも今は、Googleで検索すればわからないことはすぐに判明します。 Wikipediaを見れば世の中にあるものをほとんど説明してくれます。コンピュータを使えば難しい計算もすぐに解いてくれます。
昔は頭の良い人しかできなかった専売特許を、今は誰でも外部装置を使ってできるようになってしまいました。一人ひとりが優秀な秘書を雇ったと同じことです。知識の価値が下がり、知識よりもコミュニケーション力や人間力といったものが貴重になる時代だといわれます。自分も今まではコンピュータにできることや、調べて得られる知識は勉強しても意味がないと考えていました。でもそれも今ではちょっと違うかなと思っています。それらの一見無料で利用できる知識は誰かが試行錯誤の末に獲得した貴重な蓄積だと思います。非常にありがたいことです。そこから利益を得ているならば、フィードバックをしなければなりません。これは非常に大切なことです。その積み重ねが文化なのだと思います。自分が失敗したことや成功したことを知識バンク=文化に書き込むこと。情報発信は重要だと思います。
人間力を磨くだけで、過去の人が作ってくれた貴重な知識を消費するだけではダメな気がしてきました。我々はたぶん、これからもずっと後生のために知識を積み重ねていかねばなりません。利益の源泉に利益をフィードバックしループ回路を作るようなイメージ。このようなイメージを大切にしたいです。
遅読のススメ
速読法というのがある。短時間でたくさんの情報をインプットできるため効率がいいというのだ。しかしこれは「情報収集」という目的で本を読む場合のことである。本を読むことの本当の価値はそこからなにか自分なりのインスピレーションを得ることだと思う。本を読んで何か感じえることがあった場合には自分の中の思想にふけることになる。そのときには読むのがとまる。よって思想にふけるほど読み終わるのが遅くなる。
また、本の著者は他のたくさんの参考文献を読んでそれをまとめている場合が多い。だから書いてあることがなんとなく推測できる場合がある。その場合に、その部分を飛ばして読むことになる。速読というものがあるとすれば、これが本当の速読である。つまり早く読み終わったということは、その本から得る価値はほとんどなかったということになる。自分にとって必要な情報ではなかったのだ。本の内容は直ぐ忘れてしまうが、その中で得られた自分なりの結論は忘れることがない。
大事なことは行間に書いてある。ゆっくりかみ締めながら読むことが大事だと思う。
直→斜→直
老人は意外に素直な人が多いです。そのほうが生きていく上で有利だからでしょう。だまされないように疑ってみたり、他人の虚をついて利益を得てみたり、そのほうがうまくいきそうですが、実は長い目で見ればそんな生きかたは損です。そのことに気づいてまた素直な心を取り戻すのでしょう。
素直な心で人を信じる生きかたを選択するならば、時に誰かにだまされたとしてもそれを上回る利益があると信じます。
多様性は受け入れなくてもいい
多様な価値観が出現する時代といわれている。そして多様な価値観を受け入れて共存できない組織はダメであるという議論が盛んである。しかし私は自分以外の価値観を受け入れる必要はないと思う。
なぜ価値観が多様化するか。ひとつは情報化である。情報化が進むと、個人が好む情報にすぐアクセスできるようになる。すると自分か好む情報のみを集中して集めるようになる。今までは情報は一方通行であった。だからマスで1つの情報を共有することが多かった。広告や、TVなどだ。しかしこれからは個人それぞれが好きな情報に自らアクセスし取得する。そして同じ価値観を持った人々はそれぞれコミュニティを作る。そして同じコミュニティの中だけで情報交換をするようになる。同じ価値観を共有する仲間と話すことは楽しいし、らくだからだ。するとますます価値観=コミュニティの壁は強固なものになる。情報化が進むほど、このコミュニティは細分化され多数の価値観が形成される。これは価値観の増加を意味する。
もうひとつはグローバル化である。これは情報通信の発展も寄与しているのだが、それ以外にも交通手段の発達により人々が簡単に世界中を移動できるようになった。また人が作った壁(国境や経済主義)が曖昧になることにより世界を自由に行き来できるようになった。そのため今まで自分の世界に入ってこなかった思想が容易に入り込むようになってきた。これは自分が異なる価値観に触れる機会が増えるということだ。
「多様な価値観を受け入れる」これも正しいし、
「自分たち以外の価値観は拒否する」これも正しい。
選択は自分次第だし、どちらがよりよくて、どちらがダメというものではない。どちらにも道はある。そもそも多様性を受け入れるとか受け入れないとかそういう議論自体あまり意味がない。そんなのはどっちでもいい。
ただ、今後価値観の種類が増加し、それぞれのコミュニティの壁が強固になっていくことは確かである。今後ビジネスとして異なる価値観をもったコミュニティ同士を結びつける(情報パイプを作る)手段を提供することは意味があるし、儲かるだろう。
価値が生まれるのはいつ?
国内総生産(GDP)の定義は「国内で生産された付加価値の合計」です。では、付加価値とはなんでしょうか?会計で一般的にいう付加価値とは「付加価値=売上高-外部購入費用」です。外部から仕入れた値段と売値との差額です。つまり、原材料を仕入れて、それになんらかの加工(付加価値)を施し、製品を作り、原材料よりも高い価格で売る。これが企業の利益の源泉であり、その合計が GDPというわけです。買い手は原材料よりも製品に何らかの価値があると思うからこそ、原材料よりも高い価格で買うのです。
製造業では、付加価値の生み出される作業を重要視します。一般的な経営学や、生産方式で学んだのは、付加価値とは物を作っているときだけ生まれるというものです。ですから、製造している以外のことをしているとき、(運搬したり、加工待ちしているとき)のムダは極力避けるべきであるということです。
また、ヘッジファンドや、銀行などの「虚業」はなんら価値を生んでいないじゃないか、という議論も聞かれます。
しかしファンドであれ、製造業であれ、本質は同じだと思うのです。本当に価値が生まれる瞬間はいつかということです。つまり、製造業であっても作った製品が売れなければそれは不良在庫といって、社会に価値を提供したことにはならない。また売れたとしても、それを使って買った人が不便を蒙ったのであれば、価値を作るどころかマイナスです。
本当に価値が生まれる瞬間というのは、買い手がそのサービスを使って喜んだときだと思います。その製品・サービスの恩恵を受けて、目的を達成できた、不便を解消できた、楽しかった。その瞬間に価値は生まれているのです。そう考えなくてはいけないと思うのです。その瞬間に(たとえ1mmでも)日本が少しよくなっているのです。世界がよくなっているのです。