なぜ老人は安全パイを取るのか
若者がなにか新しいことを始めようとするのを老人はたしなめます。老人は経験が豊富で数々の失敗もしているので、それはもう自分が経験したことだから失敗するのがわかっているからやめろ、という理由もありますが、大抵自分が経験したことのないことでも、若者の無茶な(老人から見れば無茶に見える)行動に警告を発する傾向があります。逆に若者は失敗の確率が非常に高いにも係わらず冒険しがちです。そして老人の保守性を毛嫌いします。
この理由としてよく言われるのが、老人は失敗したら取り返しがつかないが、若者は失敗してもやり直しが効くから。というものです。ですが、これにはこういった反論も可能です。老人の場合は失敗しても余生が少ないので諦めがつく、取り返しの必要もない。若者は余生が長いので失敗した場合には後々まで尾を引く。だから理由としては必ずしも当てはまらないのではないかと考えます。
ではこれを他の理由で説明できるでしょうか。この世代間のずれの理由を少し違った角度から説明する方法を思いつきましたので書いておきます。
なぜ老人は安全パイをとり、若者は危険をいとわず冒険するのか。それはリスク変動が長期のほうが予測しやすいからです。それを本能で感じ取っているからだと思います。
まず、リスクとリターンは比例の関係にあることを前提とします。リスクとは不確実性です。そのリスク自体も時間により変動します。ですが、長期で見ればリスク変動は予測しやくすくなるのです。例えばサイコロを振って1が出る確率は1/6ですが、6回振ると「必ず1が出る」わけではありません。ですから実測では1/6にならない可能性もあるのです。ですが、1000回振った場合はかなり1/6に近づきます。振れば振るほど限りなく1/6に近づいていきます。ですから長期で見た場合リスクは平準化されるのです。
株式も経済も人生もある意味無数のサイコロを振る行為ですから、リスクの高いことを始めると初期は大幅に変動します。株式は非常に長期(25年以上)でみれば安定して成長していきます。ところが25年以下では儲かるか損するかはっきりわかりません。株式というのは経済を表現していますから、何かをして確実に成功するためには25年を要するということが言えるのだと思います。
ところが老人には25年という残された時間はありません。ですから高リスクを取った場合に非常に危険なのです。一方、若者には時間がたっぷりとありますので、高リスクを取る意味は十分にあります。両者がそれを本能で感じ取って、行動に結び付けているがために、文頭のようなずれば生じるのだと思います。
つまり、時間という概念を考慮すると、老人と若者で最適リスクが違うのです。もともと同じ土俵で評価できないものなのです。老人は老人で正しい、若者は若者で正しいのす。そこに気づいていないから齟齬が発生してしまうのでしょう。
この理由としてよく言われるのが、老人は失敗したら取り返しがつかないが、若者は失敗してもやり直しが効くから。というものです。ですが、これにはこういった反論も可能です。老人の場合は失敗しても余生が少ないので諦めがつく、取り返しの必要もない。若者は余生が長いので失敗した場合には後々まで尾を引く。だから理由としては必ずしも当てはまらないのではないかと考えます。
ではこれを他の理由で説明できるでしょうか。この世代間のずれの理由を少し違った角度から説明する方法を思いつきましたので書いておきます。
なぜ老人は安全パイをとり、若者は危険をいとわず冒険するのか。それはリスク変動が長期のほうが予測しやすいからです。それを本能で感じ取っているからだと思います。
まず、リスクとリターンは比例の関係にあることを前提とします。リスクとは不確実性です。そのリスク自体も時間により変動します。ですが、長期で見ればリスク変動は予測しやくすくなるのです。例えばサイコロを振って1が出る確率は1/6ですが、6回振ると「必ず1が出る」わけではありません。ですから実測では1/6にならない可能性もあるのです。ですが、1000回振った場合はかなり1/6に近づきます。振れば振るほど限りなく1/6に近づいていきます。ですから長期で見た場合リスクは平準化されるのです。
株式も経済も人生もある意味無数のサイコロを振る行為ですから、リスクの高いことを始めると初期は大幅に変動します。株式は非常に長期(25年以上)でみれば安定して成長していきます。ところが25年以下では儲かるか損するかはっきりわかりません。株式というのは経済を表現していますから、何かをして確実に成功するためには25年を要するということが言えるのだと思います。
ところが老人には25年という残された時間はありません。ですから高リスクを取った場合に非常に危険なのです。一方、若者には時間がたっぷりとありますので、高リスクを取る意味は十分にあります。両者がそれを本能で感じ取って、行動に結び付けているがために、文頭のようなずれば生じるのだと思います。
つまり、時間という概念を考慮すると、老人と若者で最適リスクが違うのです。もともと同じ土俵で評価できないものなのです。老人は老人で正しい、若者は若者で正しいのす。そこに気づいていないから齟齬が発生してしまうのでしょう。
3年前の「あなた」は別人
昔、人間は、2つの部分から成り立っていると信じられて
いました。それは、肉体と魂。肉体は滅ぶが、魂は不死で、
死後も生き続けると信じられていました。
現代科学は、まだ、この関係を明確にはできていませんが、
興味深い事実があります。
それは、物理的に肉体をとらえたとき、肉体の各成分は、
日々代謝によって入れ替わっているのだから、今現在の、あ
なたの体の中に、3年前に存在したのと同じ原子はほどんど
ない、という事です。
(Dr.テラの「エピソード通信」 より)
人間は細胞が入れ替わっても知識は蓄積されていきますね。企業も技術や信用が蓄積されていきます。社会においては文化が蓄積されていきます。
入れ替わるからこそ、蓄積されていくものがあるのかもしれません。企業の場合だったら、新しい人が来てくれるからこそ新しい知識が蓄積されていくのだと思います。このエピソードは逆に考えると、「組織を維持、あるいは発展させるためには、その構成要素は常に入れ替わらなければならない」と言えると思います。
個々の細胞が時間差を持って徐々に入れ替わるというところがミソですね。たぶん一気に入れ替わってしまったら、心も、組織も変わってしまうのですね。ここらへんの入れ替えるタイミングとしては細胞を研究するとヒントがあるかもしれません。
いました。それは、肉体と魂。肉体は滅ぶが、魂は不死で、
死後も生き続けると信じられていました。
現代科学は、まだ、この関係を明確にはできていませんが、
興味深い事実があります。
それは、物理的に肉体をとらえたとき、肉体の各成分は、
日々代謝によって入れ替わっているのだから、今現在の、あ
なたの体の中に、3年前に存在したのと同じ原子はほどんど
ない、という事です。
(Dr.テラの「エピソード通信」 より)
人間は細胞が入れ替わっても知識は蓄積されていきますね。企業も技術や信用が蓄積されていきます。社会においては文化が蓄積されていきます。
入れ替わるからこそ、蓄積されていくものがあるのかもしれません。企業の場合だったら、新しい人が来てくれるからこそ新しい知識が蓄積されていくのだと思います。このエピソードは逆に考えると、「組織を維持、あるいは発展させるためには、その構成要素は常に入れ替わらなければならない」と言えると思います。
個々の細胞が時間差を持って徐々に入れ替わるというところがミソですね。たぶん一気に入れ替わってしまったら、心も、組織も変わってしまうのですね。ここらへんの入れ替えるタイミングとしては細胞を研究するとヒントがあるかもしれません。
チャンスを追いかけるな
チャンスは自らつかみに行くものではなく、向こうからやってくるものである。チャンスは待っていればよい。チャンスは誰の上にも平等に降り注ぐ。チャンスは追いかければ逃げる。じっと待っていればチャンスはたくさん見えてくる。それをただ自然に捕まえればよい。
残業はやっぱりしないほうがいい
少し前は残業はいいことだと思っていました。質の良いものをたくさん作るには時間を要します。つまりたくさん働くほうが世の中に貢献できると考えてきました。でも今は少し考えが変わってきましたので書いておきます。
まず、仕事の定義を価値提供という面から考えてみます。現在、我々はたくさんの便利なもに囲まれています。また、たくさんの人々のお世話になっています。今朝食べた朝食がどういうプロセスで自分の口に入ったかを想像するとわかります。それら全てを自分一人で作り出すことはできません。現代の文明を維持するには相互援助が必要になります。一人ひとりが歯車のひとつになることによって、装置全体からの成果物を享受することができるのです。
仕事というのは、誰かが必要としているモノやサービス(価値)を提供するために、自分のスキルと資源を会社という変換装置を通して価値に変換する、その変換作業を言います。
何かを必要としている人がいて、その必要とするものを作ってその人にあげる。するとその人の不満が解消され世の中が少し便利になるわけです。世の中が便利になったということは文明が少し進歩したということです。その積み重ねで少しずつ、便利で住みやすい世の中になっていくわけです。狩猟時代の危険がいっぱいで済みにくい世界から、人類は連綿と価値を創造し続け、現在の安全で快適な世界へと変遷させてきました。
前置きが長くなりましたが、では仕事の質と量を高めるにはどうすればいいかというと、生産性を高めるのと量をこなすことです。効率よく仕事をすればするほど価値は生産されます。また、たくさん仕事をすればするほど価値は生産されます。しかし、効率よく仕事をするというのはなかなかむずかしいことです。たくさん仕事をするというのは簡単です。長時間仕事をすればいいのですから。ですから、やはり長時間仕事をする人のほうが、普通は生産量は多いです。
しかし、全体的な文明という観点からみると、長時間労働だけが文明を発展させてきたのではないことがわかります。人類の生産手段は「狩猟採集」→「農業」→「工業」というように発展してきました。狩猟採集時代のときに、長時間労働に重点をおいていたらどうなっていたでしょう。農業は生まれなかったでしょう。なぜならば農業というのは効率よく食料を生産して楽をするというやり方だからです。農業を発明することによって人類は24時間気の抜けない狩猟採集という生産手段から開放されました。そして余った時間で物資の貯蔵や、生産管理、品質改良に時間を割くことができたのです。そして飛躍的に生活が改善されました。産業革命も同じことです。どうやったら効率よく楽ができるかという発想から機械化の進化が起きたのだと思います。
すると、長時間労働を善とする意識からはこの飛躍的な発展は生まれにくいことがわかると思います。したがって長時間労働をするというよりも、どうやったら効率よく仕事を終わらせることができるか、楽ができるかという発想も大変重要なのです。それは遊びたいから早く仕事を終わらせて帰る、という発想でもまったくOKです。なぜなら上記の進化も最初はおそらくそういう発想から始まったことだからです。余った時間を新しい発明に割り振れるのですから。発明というのは最初は単なる遊びから生まれる実用性のないものが多いものです。
どうやったら仕事を早く終わらせて残業しないで楽ができるか、そういうところから産業革命の次の革命が芽吹いてくるのかもしれません。
まず、仕事の定義を価値提供という面から考えてみます。現在、我々はたくさんの便利なもに囲まれています。また、たくさんの人々のお世話になっています。今朝食べた朝食がどういうプロセスで自分の口に入ったかを想像するとわかります。それら全てを自分一人で作り出すことはできません。現代の文明を維持するには相互援助が必要になります。一人ひとりが歯車のひとつになることによって、装置全体からの成果物を享受することができるのです。
仕事というのは、誰かが必要としているモノやサービス(価値)を提供するために、自分のスキルと資源を会社という変換装置を通して価値に変換する、その変換作業を言います。
何かを必要としている人がいて、その必要とするものを作ってその人にあげる。するとその人の不満が解消され世の中が少し便利になるわけです。世の中が便利になったということは文明が少し進歩したということです。その積み重ねで少しずつ、便利で住みやすい世の中になっていくわけです。狩猟時代の危険がいっぱいで済みにくい世界から、人類は連綿と価値を創造し続け、現在の安全で快適な世界へと変遷させてきました。
前置きが長くなりましたが、では仕事の質と量を高めるにはどうすればいいかというと、生産性を高めるのと量をこなすことです。効率よく仕事をすればするほど価値は生産されます。また、たくさん仕事をすればするほど価値は生産されます。しかし、効率よく仕事をするというのはなかなかむずかしいことです。たくさん仕事をするというのは簡単です。長時間仕事をすればいいのですから。ですから、やはり長時間仕事をする人のほうが、普通は生産量は多いです。
しかし、全体的な文明という観点からみると、長時間労働だけが文明を発展させてきたのではないことがわかります。人類の生産手段は「狩猟採集」→「農業」→「工業」というように発展してきました。狩猟採集時代のときに、長時間労働に重点をおいていたらどうなっていたでしょう。農業は生まれなかったでしょう。なぜならば農業というのは効率よく食料を生産して楽をするというやり方だからです。農業を発明することによって人類は24時間気の抜けない狩猟採集という生産手段から開放されました。そして余った時間で物資の貯蔵や、生産管理、品質改良に時間を割くことができたのです。そして飛躍的に生活が改善されました。産業革命も同じことです。どうやったら効率よく楽ができるかという発想から機械化の進化が起きたのだと思います。
すると、長時間労働を善とする意識からはこの飛躍的な発展は生まれにくいことがわかると思います。したがって長時間労働をするというよりも、どうやったら効率よく仕事を終わらせることができるか、楽ができるかという発想も大変重要なのです。それは遊びたいから早く仕事を終わらせて帰る、という発想でもまったくOKです。なぜなら上記の進化も最初はおそらくそういう発想から始まったことだからです。余った時間を新しい発明に割り振れるのですから。発明というのは最初は単なる遊びから生まれる実用性のないものが多いものです。
どうやったら仕事を早く終わらせて残業しないで楽ができるか、そういうところから産業革命の次の革命が芽吹いてくるのかもしれません。
経済における政治の影響度
開発途上国においては政治は国家の経済に強く影響する。なぜならば、政治は成功した先進国のまねをすればいいからである。一方、経済が十分に発展した先進国においては政治は経済情勢にあまり関係しない。政策にモデルとなる前例がないためである。
中央主導というのはあるモデルがあって、その型にあわせて全体を引っ張るときには非常にうまくいく。しかしモデル自体を暗中模索しなければならない場合、著しく停滞する。
では先進国においては経済発展の原動力はどこから生まれてくるか。それは民間の生産性向上のための努力やイノベーションからでしかない。したがって先進国における政治の取るべき方向は民間の力を最大限に発揮できるように下地を整えることである。その意味において構造改革政策はやはり正しい。
中央主導というのはあるモデルがあって、その型にあわせて全体を引っ張るときには非常にうまくいく。しかしモデル自体を暗中模索しなければならない場合、著しく停滞する。
では先進国においては経済発展の原動力はどこから生まれてくるか。それは民間の生産性向上のための努力やイノベーションからでしかない。したがって先進国における政治の取るべき方向は民間の力を最大限に発揮できるように下地を整えることである。その意味において構造改革政策はやはり正しい。