構成:

 〈前半〉

 〈後半〉

 〈補足・参考・余談・ついで〉

 

文字数比 1:1:5 位

            ◆◆◆◆◆

 

〈前半〉

 

大聖は

「神が張りめぐらせておられる網の目ははてしなく広大で、小さな過ちなどは全て漏れてしまう」

「神の網は小魚を捕まえるためのものではなく、大魚を捕まえるためのものなのだ」とお説きになっている(大聖版ダルマパダの中に書かれている。大聖版ダルマパダ、他

ご著書についてはこのページ最後で触れている)

 

私はこの、前の一文を読んでまず、ちょっと「?」と思った。

「小さい罪は見逃される、太言霊と太法図を大切にしないという大罪を犯したものは通さない」って話になるけれど「大罪を犯さない=天国に入れてもらえる」の完全一致なのか?と…

 

「三途の川の通行手形は太法図。試験は「?」と出題される(空白を埋める)」

「太法図は全ての罪を許される免罪符」だそうだし

「神仏の目は誰が正法(正法は人の象に似たり)を大切にし、誰が嫌ったかの一点に注がれている」と書かれているし、

「行きはよいよい帰りは怖い、怖いながらも通りゃんせ(童謡)」と伝えてきたとも説かれているのだから

「大罪を犯さない=天国に行ける」って事でいいんだろうな、

例え話だから、その辺はちょっとした言葉のあやみたいなもので、そんな感じの意味を伝えようとしての言葉なのかな、とも思った。

 

でも、その次の文の通り、罪の大きさではなく

「意識の高い大魚を救い/掬いあげる」の意味で書かれているのかな、とも思う。

となると少しこわい話で、大魚の定義は?甚だ大きい網の目に引っかかれるにはどの程度の大きさが必要なのか?って話になるが「正法を大切にしたかどうか、その一点を見る」

という、その「大切にしたかどうか」は人間が測れる事ではないのだからそこは

やはり「どこまで行けるかわからないけれど精一杯」しかないように思う。

 

大聖が「努力という言葉(女の又の力と書く)は嫌いだ、そんな事する必要ない」と仰るのも思い出す。

(私は「気に入ってもらえるようにキュッとしめてとか、そんな事はせんでええ」という意味だと思っている)※1

「上に行くべき者はちゃんと掬い/救いあげられるようになっているから大丈夫だ」という意味にもつながるお話のようにも思う。

神の裁きに間違いがあるはずがない。

        〜〜〜〜〜

この世では「努力する」「向上心がある」「積極的である」とかは

概して良い事/そうであるべきとされる。

この世では質問するのも良い事…その質問によって「クラスの授業を良いものに作り上げていく」とかいう流れで、良い質問ができる=優秀として扱われるから、知りたいかどうかよりも「何か質問しなきゃ。良い質問を…」と、それが先にあって考えを巡らせてる人も結構いるはずである。(あえて言うなら「それが出来る人になる事を目的とした授業」と言えるように思う)

それらの言動(時にアピールを基本とするような?)をしている人が優秀とされる

この世の現状(時に仕組み)に基づく/一体化した価値観のはずである。※2/※1

そしてその「高評価」によって得られる「良い事(時に目標)」とされる事さえも、

『相対価値』であり『絶対価値』ではない。

『絶対価値』は諸の聖人がお説きになった太言霊と太法図、全ての人間に求められる価値

『相対価値』はやりたい人がやればいい事。

いくら頑張って人間から高い評価を得られても、神には褒めてもらえない※3

 

「神は全てをお見通しの存在」であると思うなら

その御前で自分をアピールもしなければ、言い訳もしない。

「自分をよく思われたい、こう思って欲しい」もないし

神に「私をわかってない、私はそうじゃなくてこう」とも言わない。(自分が「自分はこういう人間だ」と思う事と、神が「お前はこういう人間だ」という事が違ったら、神が見ている評価が正しい)

「神に自分の事をこう思って欲しい=こう思わせよう」などとは…

←神を動かそうとするとは言語道断、それだけで罪だと思う。※4

だから神の御前では一言も言葉を発する事を許されない←当たり前!

「全てをお見通しの存在」であると思うから質問もしない。

自分に必要な事は見ればわかるはず。自分が知りたい事よりも/自分が自分に必要と思う事よりも、神が自分に必要と思う事をお与え頂きたい。※5

人間が知りたいと思う事も、アピールに値すると思う事も、

神から見たらどうでもいい、好きにしたらいい事。

どれもこれも「いい質問ですね」ではない、とも言えるかもしれない。※6

        〜〜〜〜〜

そして大聖の御成道のお話を思い出す。

「わし、こんなんですけど、いかがでしょ?わしじゃダメですか?」と思っていたら

五音がビビビと来たのだそうだ(嘘か本当かは知りませんけどwでもそう話して下さった。

少なくともお手本はそれだ、という意味だと思う)

それがこの2000年の間、この地上において最も意識の高い

最高神のお眼鏡にかなったお方(これも最初から決まってたのだろうと思うけれど。

聖人をこの世に出すにあたって、あのお方の上に乗ってる魂を地上に出す、

そのためにあの肉体〜必要な環境、背景が用意されたのだと思う)

最高神が地上を見おろした時に最も光を放っておられたお方

大聖人、神に見られる人が示して下されたお手本ではないだろうか

 

それは「努力(女の又の力)なんてせんでもええ」

「上に行くべき者はちゃんと救われるようになってる」とも一致する

 

 

                ◆◆◆◆◆

 

〈後半〉

 

この世に伝わる宗教の名残、偽物の宗教、宗教を看板とする臭教においては、

人集めを基本とするであろう。

お友達紹介制度などで、人を連れて来ると何らかのメリット(その団体での上の階層に行ける等)があって、子分を従える事が一つのステータスとなっていて、それを餌に人を連れてこさせる…※7

この世に残っていた臭教は、魂を救うものではなく(にも関わらず魂を救う宗教を看板にしているのが大罪)勢力圏、テリトリーの拡大、人を束ねる道具、時に入植のツールだったり…

だから人々は、シュウキョウと聞くと、これまであった臭教と同様のものをイメージするようだ。

人集めをして信者を増やし支配圏拡大をはかる…人々が思い描くそのシュウキョウのイメージは、本物の宗教がこの世から失われた後に(政治や金儲けに利用される中で)残った偽物のイメージである※8

それに対し、本物の宗教は天皇だけが見る事を許され、皇室に秘め伝えられてきたものである。※9

 

大聖は「今回は、自分が皇室の外に生まれたという事は、出せという

いと高き御存在のご意志であると思った」と話される。※10

でも、今回は広く大衆にも開示下されたとはいえ、

神の国においても「さあさあ地獄の皆さん、おいでになって!一人でも多くの方にお越し頂きたいの」

「神の国をもっと良い国にすべく、今回は広く、下の地獄からいらして頂いた皆さんの意見やお話を伺いたいと思っています」って感じの事でははいないと思うんだ。※11

 

太言霊と太法図の所有権は最高神にあり

大聖は、この世での扱い/占有権が下されたお方であり

私達人間は、それを開示して(見せて)頂き、学ぶ事を許されただけである※12

でも「上下の認識がない」「この世の常識をもって考える」がゆえに、その辺を勘違いした人達が多いように感じている。

「(下の国の)私達が集まって多くの推薦人を集めて、この人を私達の代表者として彼岸に…」とかもある訳ない。※13※8

 

この世に残っていた臭教の常識で考えた「教えを広め影響が及ぶ範囲を広げたいと思ってるだろう、だからその辺を突いて聞き出そう」という人達が「教えを伝えよ、普く伝わる事が本懐、って書いてあるじゃないか、説明しろよ」がごとき暴徒が押し寄せてくる。※14

そしてこれまで同様丸め込んで自分達に都合よく変えてやろう(都合の悪い部分は消してしまおうと)←これは即ち、これまであった臭/本物の宗教が出てしまって困っている偽物の宗教達の悪あがき、まだ諦める気もなく、本物の宗教に刃向かおうとしているのだと思う。※15

誰になら正法の話をするか、誰が言えば〇〇を動かし操る事ができるかと「この世の上の方で通っているあなたが言えばいう事を聞かせられる」「貴方は親しいから」「貴方みたいな人はきっと好かれている、貴方には正法の話をするかもしれない」と乗せられたのが、とにかくまずは引っ張り出そうと…そしてその諜報活動や破壊工作にはその対象に適していると考えられる人材や手段…例えば利用されてなんぼ(故に簡単に転がされる)の音楽屋などが(利用されていると知ってかしらずか)起用される。※14

 

そして「〇〇の場合は自閉だからなんとかして開かねばならぬ」

「自閉もカウンセリングを受けると変われる」だのと…

変わる必要があるとでもいうのか、閉じるのが悪い事だとでもいうのか、亜法ども。

(亜は低く暗いの意味で、そこから「次」の意味が派生したと教わった記憶がある)

神の御技より己のノウハウを上と思う傲慢さ

神の御技に気づかず、それを破壊しようとする愚か者

 

天照大御神が「怒って閉じこもって…」の伝説が本当なら、あれは自閉の性質だよw?※16

(物質的にも精神的にも守るために閉じる)

あれは閉じさせるのがいと高きご存在の御意思、

天照大御神の閉じる性質を利用して教えに鍵をかけたという話だと、私は思う。

正に、これぞ神技!

そして、可愛い子孫に〜天皇家として秘め伝えてきたのではないだろうか。

(今回は、出す性質を持ったお方が聖人となられた)

        〜〜

私は心の中で将来の就職願いを出している。

なんとか彼岸にわたり、神の国へ入る事が許されたならば、その暁には

御所の門番としてお使い頂けないものかと…

「一点を見つめて、そこだけを見つめ追い、逃さない」とか習性であり得意ですし

小さな「失礼」や「意地悪」「攻撃的なヤジリ」あるいは「動かそうとする意図」だけでも(無形でも)それを感じ取ると自動で閉じますし

駆け引きは悪と分類し

地獄の大王に脅されても引きませんし、ゆすりも効きません

なんなら聖人を連れてきても、私を動かす事はできませんし

もちろん賄賂も通用しませんし、チラつかせただけでシャットアウトです。

ヤイノYa-i-Noと突く、うるさいのも嫌いで閉じますから(私を遠くから眺めていれば不敬の者やうるさいのを見分けるのは容易)

門番にピッタリ、これも神がかった適材適所と言えるのではないかと思って…

「私、こんなですけど、いかがでしょう?」と思っている

 

                ◆◆◆◆◆

 

〈補足・参考・余談・ついで〉

 

〈※1〉

私は「気に入ってもらえるようにクッと絞めて、とか…そんな事はしなくてよい、

ちゃんと自然にフィットするようにできているのだから…フェイクは要らない」という意味であろうと理解している(あるいは枕営業的な事も含まれるのかもしれない)

そしてその言葉は、優しさと同時に厳しさ〜フィットしてこなかったら、余程相性が悪いか、下手か、肉体に欠陥があるか、という事になってくるので、その事実と向き合わなければならない厳しさ〜でもあると思っている。

そして、その厳しさを、現実を受け入れると「余計な心配をしなくても良い」という事になるので、その厳しさは気が楽になる事のように思う。

 

ついでに、この辺の下ネタ(ネタではないのだけれど)ちゃんと伝わってる?

 

教えは、上から下に垂れ下されるもの…

「ア/A」の部分は太陽に象徴されるように、全方向に光を放ち、

それが下に下される(日月星の三垂)。

時に、雷の光として説明され、チカチカギザギザしている光は大した事ないが、

ズドンと一直線にに落とされると命取りになる強い光となる。

ズドンと「雷が落ちる」に表されるいかづちも強力なものとなる。

教えも一方向に下されるものは強力である。

 

人体で説明される時、上からのエネルギーは首の所で交差し…神経ね。

「ヤ/YA」の部分をナニ♂で説明されると、周りをこう…うねうねシゴイテヤルと、

両脇のボールにエネルギーが溜まって、それが真ん中を通ってピュッと…ね😁

(これは本当は立体だそうである)

♀のおまたの形(正面から見ても、夫が見るアングルも)も

♂のナニの形も、やけにリアルでしょ?😁人体の設計図だから

(私が考えたわけじゃなく、大聖がご講義会で皆が眠くなるとこんな話をして下さった)

「何かが出る所の形」として、「ヤ/YA」の形が「理」(にかなってる)って事だねえ。

 

ボールペンとか…「ヤ/YA」の3段構造は、ロケットがエンジン部分を切り離しながら加速して進んでいくのなどを連想する。

息をHuーっと出す時も、舌の付け根をナニ♂の付け根のボールに見立てると、そこから加速して…先っぽには小さいボールがある感じ?(腹/胸/喉と見立てると口の空洞が丸いボールみたいだねえ🙂この辺は私が思った事)

 

ね?面白いでしょ?

『倭成大聖のご著書拝読のススメ』です

 

〈※2〉

「向上心」「積極的」という言葉で表される具体的な言動は色々だから一概に言うと語弊が出るだろうが、表には出さないけれどどっしりとした押しても引かないような内に秘めた強い意志というのもある。

「どこまで行けるかわからないけれど精一杯」も一人静かに己と向き合えばよい事で、

誰かより上になるとか、対外的である必要はない。

『修行僧の間でも上位/権勢/名声を得たいと願う愚か者がいる』はネガティブな意味で書かれている。

『法図に対して瞑想せよ。なおざりになるな。なおざりのゆえに、灼熱せる鉄丸を呑むな』

『人のいない部屋に入って、心を静めて正法(人の象に似たり)に対して感ずるならば、

 人間を超えた楽しみが起こるであろう』とも書かれている。

 

「動」は「ヤ/YA」の部分の特性。それに対して

「静・止」は「ア/A」の持つ特性。悪い事ではない。

どちらも必要なパーツであるし、これをいうと語弊もあるが

「ア/A」が上で「ヤ/YA」は下

さらに上が優で下が劣というと袋叩きに合うが、

肉体が滅びた後も「ア/A」の識大は単独で存在し、肉体は不可欠な存在ではない。

『それぞれ必要な機能/役目』という事で良いのではないだろうか。

どちらも必要な役目であるのだから「上」も「下」に対する敬意があって然るべきである。

 

精子と卵子の融合の仕組みも連想される。

卵子からお許しが出て中に入る事が許されるのは一匹の精子のみ。

(精子はなんだか帽子を取ると入らせてもらえるんですって? ナニ♂も大人になって剥けて挿入できるようになるっていうのと一緒だ😁)

でも卵子に出会うまで進行するのに数億の精子が群れをなして進む必要がある…

途中で命潰えて行く精子達は選ばれた一匹にはなれないけれど、無駄ではない必要な存在。

物悲しいようにも、厳しさのようにも思えるけれど、

それが摂理、道理、正法図(人の象に似たり)に一致する。

 

「帽子を取る」からのついで

人は、育ててもらった母親のお腹を、頭を下げて(下にして)去る。

「去」の漢字の、上の部分「土」がボディの「ヤ/YA」を表し

        下の部分「ム」が頭の「ア/A」を表し

人が頭を下げた状態を表している。人はその場を去る時、頭を下げる。

 

〈※3〉

『凡人にほめられて喜ぶは凡人なり。人爵を求め人爵を喜ぶは凡人なり』

『世の人々は、悪魔が用意した花を一生懸命に摘む事が人生だと思っておる。

 その種々の花々を相対価値という』

『百人が百様の信念を貫いて生きれば世は争いとなる。

 貫いて価値ある信念は正法は人の象に似たりの教えである』

 

〈※4〉

『太陽を己の望むように動かし働かす事ができると思っておるものがあるすれば狂気のものだ』

『聖人に付き従ったように振る舞う事がどれ程の罪であるか、聖人を己の利欲のために利用しようとする者の罪がどれ程に甚大であるかを世の人々は知らない』

『神仏の目は誰が正法(正法は人の象に似たり)を大切にし、誰が嫌ったかの一点に注がれている』

と書かれている。

現代においては「神は全てお見通しの存在」という概念さえもないのだろうか?

 

〈※5〉

目の前に神がいたら

 

〈※6〉

仲間同士、感じた事や体験談を語りたければ、聞きたければ、トークすればいい。

そして最後の時まで正法から離れることがないように。

私の口からはそういうお喋りは出ないけれども…表に出るつもりもない。

 

どうやって説いたらいいんだろう、とか?

貴方のそばにいる、貴方の大切な人にどう説くかは、貴方が一番よくかる、貴方が担当。

 

 

『法図に対して瞑想せよ。なおざりになるな。なおざりのゆえに、灼熱せる鉄丸を呑むな』

『人のいない部屋に入って、心を静めて正法(人の象に似たり)に対して感ずるならば、人間を超えた楽しみが起こるであろう』とも書かれている。

 

ついでに、ではあまりに申し訳ないが

倭成大聖の「倭」の字は、「委しいが故に委ねられた人」の意味である。

 

〈※7〉

正法(人の象に似たり)の教えを伝え広めるのに

「女性がもっと沢山いた方がいい、各派閥から満遍なく、各分野から」とかもない。

いつの間にか集った者が、各分野から集っていたら、それは他生(前世)の縁ある者を

神が各分野に配置しておいたからそうなった、という事。

『袖すり合うも多少の縁、多少の縁は他生の縁』

医者が必要なら、医者の家に他生の縁ある適当な魂を配置しておいたとか、

資金繰りが得意な者が必要なら、適当な魂に経済の勉強を積ませておいて、適当な時期に

正法に巡り合うように遣わしたとか、、、

それを「何となく引き寄せられた者とかじゃダメだ、話し合って、議論して、皆の意見を聞いて、人を集めないといけない」というのは、この世の価値観/常識に埋もれ、己のこの世のノウハウを神の御技より上と主張する、無知の知をわきまえない愚か者の言う事。

それは、神の国を、聖人を、正法(人の象に似たり)の教えを、この世のノウハウによって動かそう(自分達に都合よく変えよう)とする時に用いられる手段でもある。〈※4/※8〉

※参考ついでに、

念のため付け加えると、私「私の知人にお目通りいただけませんでしょうか」なんて言ってませんからね。私の口からそんな言葉は出ません。言えと言われても言いません。「私の知人をお取り立て下さい」なんて…おお嫌だ

「神縁仏慮は神々の依怙贔屓」「法図の周りに集まってくる色々」の投稿では

誤解も多いかもしれないが、言いたかったのは今回の「天に張り巡らされた網」と同様の事である。

「聖人に会わせてあげる」を餌に何かを得ようなどと思うはずもない、それを意味して書いていると思う人がいるとは思わなかった。「駆け引きの類は大嫌い」「私は表には出ません」もドコカニ書いてあるでしょ!よく読めバカ!ワタシハジンチヲコエテケダカイノ

また、風の便りで透けて見える「大聖を動かして利用しようとする取り巻き/

大聖印の魔法の杖を振って威張る声聞衆」に対する戒めと

「ヘボ爺い!気をつけてくださいよっ!心を許す可愛い取り巻きにこそ悪は取り憑いて、そこから動かそうとするんだから!」と言う意味である。

否、〈※4〉があるから大丈夫ですね。ああ見えて聖人ですもの。。。ね!😠

 

〈※8〉

その他、大聖(本物の聖人)と、人間が「聖人とはこういうもの」イメージするものが違っていたら、

大聖がお説きになる本物の宗教と、人間が「宗教とはこういうもの」とイメージするものとが違っていたら、

「人間がイメージしたそれが偽物、間違って伝わったもののイメージ」という事であり、

そこを基準として考えると、どこがどう変えられたのか、何が消されたのかなど、見えてくるのではないだろうか

『世の人々の思考力の延長線上に正法があるのではない。聖人を自分のレベルにまで引きおろそうとしている』と書かれている。〈※4〉

ちなみに...この記事↑中で「大聖は懇々とお説き下さっている」と書いたが、

皆さんは、大聖があれ程沢山のご著書で説明して下さっている事は、

この「懇々とお説き下さっている」には含まれないとでもお考えだろうか?

 

〈※9〉

聖人の定義は三薀道の開示宣説/五妙音の獅子吼者。

病気を治したり、景気を良くする方法を教えてくれるご存在ではない。人生相談を

する相手でもない。(死んだ祖先や過去の大作曲家などの言葉を告げる人でもない)

その他、この世で人間が暮らしていくにあたって必要な事は、人間が知恵を絞って考えて、相談して決めれば良い事。

それにあたって、この世では「有力者が自分の意見を認めてくれれば/有力者が同じ考えだと言ってくれれば自分の意見が通るようになる、だから何とかお墨付きを与えて貰えるように…」というのが上に行くための処世術として一般的のようだが(子供が「お母さんがこう言ってたもん」と自分の意見を通そうとするのと変わらないが、大人の社会では大抵金が動く)

そんなこの世のしがらみに聖人を巻き込んではいけない

 

日本の天皇は表に出て100年もせず、首を取られる寸前まで行った

 

 

〈※10〉

大聖は、当初「これ出すんかい?これ出したらわし殺されるで」と思ったと仰る。

その通りだろうと思う。

この世は、本物の宗教が出ては困る人があまりに多い。

全ての人が求められる「絶対価値」の存在こそを嫌がり、この世をうまく生きる事を目的とするならば「本物の宗教/正解/人間が何のために生まれ何のために生きるかの答えなんてむしろない方が良い」と思う人も多いようである。(「正解がある」という言葉を発したらそれだけでと間違いだと言われるのが現状)

或いは、教えをこうのではなく「聞き出して…この世での利益の為、この世の地位向上のために利用しよう」と考える人達…

ここまでで人間の大半を占めるのではないだろうか。

そんな獣の世界に正法を開示しようものなら(しちゃった)とにかく皆、槍持って鉄砲持って押し寄せてくる。

それでも大魚を掬う/救うために、大魚を探すために、広く大衆に開示なされたのだと思う

 

〈※11〉

神の国へ行って、自分達(下)の国の常識をもって「そこはこうした方がいい」

「俺達はこうやるんだよ、どう?」とか、集めた下の国の民の推薦状や履歴書を握りしめて

「私は優秀ですっ」とヒーヒーわめく輩…入れないでしょう…?

子供と同じで、この世で習得した知識や芸を披露して褒めてもらいたいのかもしれないけれど、そんな事を神は評価しない/見ない。(そもそも肉体はこの世において逝く)

『地上において得たる全てのもの、地位名誉財産、残らず地上においていく。

 額に刻んでいた神の印のみが汝の最後の頼みの綱となるべし』と書かれている

 

〈※12〉

縁ある者に秘め伝えていく事も許されていると思う

天皇家がしてきたように…だろうか

 

世界の宗教団体やFあたりには(完全ではなくとも太法図の断片かもしれないが)説明はできなくなってしまいながらも、何かしらのものが秘め伝えられていたのではないだろうか?

グレートな王室などもあやしいと、私はミーハー的にワクワクしている。

 

〈※13〉

「上下の認識がない」「この世の常識をもって考える」がゆえというよりも

「上下を入れ替え、この世の常識/これまで学んだ事が正しかった事にしようとする」がゆえかもしれない。

太言霊と太法図の教えにおいて人間は、株式会社でいうところの株主のような立場ではない。国を良くしていくためにと、その意見が反映されるべき国民と同じ立場でもない。

人間の我見でアーダのコーダのいう事は許されない。〈※7/※8〉

『論争を好み楽しみ、迷妄の性質の修行僧は、正法(人の象に似たり)をいかに説明しても理解はできない』と書かれている。(※全部)

 

〈※14〉

太法図を振り回し「ほら持ってる、書ける!入れてくれるって聞いた!」「友達に弘伝した、菩薩界に入れろよ!」と押し寄せる者(暴徒と呼ぶに相応しい)の殆どが

太言霊と太法図を大切にしているとはいえない者であろう。

 

『蜜を持った花(神縁仏慮の者)だけに伝えよ。受け入れるべき人々は多くの時間を要せず』

『蜜蜂が花の色香を損なわずに、花から蜜を取って花から花へと映るが如くにせよ』

『愚か者を道連れにしてはならぬ』と書かれている

 

大聖の御本に書いてある言葉や、私が使うのと同様の言葉を散りばめれば

「自分と同じものの考え方をする人」

「この人も大聖の御本を読んで学んでいる人かもしれない」

「この教えに肯定的な考えの人」だと思って正法の話をするとでも思うのだろうか?

「そっかそっかー」←話を聞いてあげる系のお姉さんキャラのアピール、

しゃっくり出そうな勢いで「うんうんうんうん、わかるわかるわかるわかるわかるー」

←自分を理解してくれる/好意的に受け止めてくれる人だと思えば、共感する人だと思えば「私も私も〜そうそうそうそう同じ〜聞いて聞いて〜」と心を開くとでも思うのか?

「著名な××先生を紹介してレッスンを受けさせてあげる、

だから代わりに(聖人に合わせろ)」みたいなのもいる。代わりに差し出すものが××先生!

聖人を人間と並列扱い!私をそれで動かせると思うのも愚かだが、交渉道具に差し出すとはその××先生にも失礼だ(利用されてなんぼクラスなら嫌がらないだろうが)

いや、その××先生が聖人にお目通りがかなえば、そっちから自分も声聞衆になれるように

紹介してもらおう、か?(辟易するが滑稽だと思って眺めていればいいのか?)

私はそんな人相手に聞いて欲しい話はない。(彼らは私から話が聞きたいのかもしれないけれども)

すると「説明できないの?できるならやりなさいよ」「説明できないんでしょ?だったら説明できる人を紹介しなさいよ(意味 :聖人に会わせろ)」だの←完璧当たり屋の論法、チンピラにしか見えない。

 

〈※15〉

 

あ!それから!

大聖の周りで、大聖に「我々はブラザーだ」とか言ってる、

どこかのシュウキョウだかソウケだかの偉いのがいるって聞いたけど!

ひょっとして英語で上下の区別がないbrotherを意図的に使ってる?

ふざけんなこのヤロー

大聖とアンタん所のボスは対等なパートナーとかじゃねーの!

並列じゃねーの!

駒としてお使い頂ける事をありがたく思え、無礼者!

「うちは輪廻はあるって教えてきたから、あそこより良いですね?」「お祈りの作法は全く間違いってほどでもないですよね」「豚肉食べると天国いけないなんて馬鹿な事教えてないからマシですよね」「価値を創造するとか言ってるあそこよりは良いですよね」とかも、

ねーの。

「天国に至る道は太言霊と太法図の教えのみ」と説いてこなかった所(全部)は皆、

宗教をかたるものとして0点!

初期の頃の御本か御講義の原稿には「世の人々を死ぬまでバレない嘘で騙し悪しき方へ導き金儲けをした臭教屋達は皆とんでもない所に落とされて酷い目に遭う」って書いてあったよ?(ご講義で仰っただけの可能性はある)

ビジネス協力連合とかになった方が身の為じゃね?(実際既にそんな感じじゃないか)

もっとも、世の中には「答えを出してくれる人に惹かれる人」「やる事を決めて貰わないと動けない人」という人もいるだろうから、その辺は処世術教室みたくなってまとめつつ、

「死後の魂を救う」を装ったシュウキョウ色は

「うちの起源はこういう事を説いた人が教祖で」的に次第にフェイドアウトして、同時に

「人は何のために生まれ何のために生きるのかの答えが人それぞれでいいのか?」と

→「何かあるのではないか?」と頭の中に「」を植え付けていく方向ってのはどうか?

そんな世の中で数回輪廻を繰り返せば、正法に出会った時受け入れやすい心になるかもしれないし、なんと言っても嘘を教えて地獄に導くという大罪を犯さなくて済むぞ。

 

〈※16〉

その場合、外でチンドンやったら出てきたっていうのは間違って伝わってると思うな。

突けば締ま…いや、閉じる…でんでん虫も突けば防御体制をとって出てこない。

神を騙して引きずり出そうとは許し難い!(wikiを見ただけだけれど、神を獣の猟や鼠取りの手法で扱い…ヤクザの手引書みたいな事が書いてあるのね?練習している楽屋の外でヤジを飛ばしたり、着替え中の人を引きずり出しておきながら「カーテンコールで指揮者や演出家を引っ張ってくるアレと同じ」と言ってのける/って事にして言い逃れようとするのも言い逃れられると思うのも気狂い級。ド▪︎フのコント←笑いのツボがいじめを見て笑う人のようだ)

「教わりたい/お出まし頂きたい」時に引き出すって何?引き出すというのは先生が生徒に対してとか…概ねコーチングとかのノウハウじゃね?(この世には、先生の立場の人でさえも、凄い凄いと言われると気分がいい/転がされる、パー子に乗せられるペーみたいな人も多いようだから、同じ手法でいけると思っているのだろうが、無礼だ)

「貴方より尊い神が現れたからと言えば」も現代でもよく目にするひどい話だ。←どう見ても「引きずり出す」。

他の人が世を照らしてくれるならそれでいい、自分である必要はない。

他に神が現れたとしても教えはただ一つ、説明の仕方が違うだけ。下々が喜ぶ説明をして人気を集め子分を増やす必要もない。

閉じて守るのも

『他人にとっていかに重大な事柄であろうとも、自分のつとめ(正法の見聞受時と弘伝)

を辞めてまで協力してはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ』

だと思う。

        

        〜〜〜〜〜

 

大聖版ダルマパダについて

 

しばしば大聖版ダルマパダの言葉を引用している。

大聖版ダルマパダは(巻末には1988年7月初版発行と書かれているが)私の記憶では、大神経普伝会がどれかの御本のおまけとしてつけてくれたものだったように思う。

(他の御本とは違う簡易な装丁で、常時付録ではなかったのだと思う)

やや古語が多いかもしれないが、単文が多く、読みやすい。

 

また、大聖版ダルマパダは「神 聖 図 形」という本にも、巻末付録のような形で収められている。

この本は、大聖著『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』

(1988年の発刊当初はB5サイズであったが後に、家宝書として相応しいようにとサイズも大きく箱も立派に変わった。内容は同じと伺っている)の導入になるように、書店に並ぶ本として出版(1989年)されたもので、

大神経普伝会刊となっている。

巻末に掲載された大聖編のダルマパダ『仏陀不滅の金言集(法句)』という部分には

大聖著と書かれているし「倭成の言葉と思って頂きたい」とも書かれている。内容も(細かい文言まで全て確認してはいないが)項目を見る限り、一枚目の写真の黒い本と同じである。

 

この「神 聖 図 形」という本の、付録以外の本体部分は

「大神経普伝会が、大聖のご講義録を編纂したもので、大聖の承諾を得ている」と書かれているが、大聖著ではない、と言えると思う。

また、この本は、1988年9月発行の初版本に対し、

翌年1月の第2刷発行時に増補改訂版となっていて、違いを比べてみたところ、

巻末、大聖著のダルマパダ部分に関しては(細かい文言まで全て確認してはいないが)項目を見る限り、初版本や、先に挙げた黒いやつと同じ(文字は大きくなっている)であるが

この本の付録ではない本文の部分に関して、

これも細かい文言まで全て確認してはいないが、

目次(項目)を見ると、増補改訂版に追加されているのは

・15〜24ページ

・言論の自由と信教の自由

・先祖供養

・除霊と病気治し

の項目。特に留意されたいのは155ページの「除霊と病気治し」の項目。

恐らく、大聖に「聖人なら病気治してくれ」というような輩が寄ってきていたであろうから、それに対する対処項であったのだろうな、と考えると理解はできるが、

どうもシュウキョウ屋臭のようなものが漂っていて、胡散臭く感じてしまう。

だからやはり、巻末ダルマパダ部分以外は、倭成大聖が書かれたものではない

という認識で読まれるのが良いと思う。

 

また「神 聖 図 形」という本の巻頭「はじめに」で

「『大仏陀不滅の金言集/日本に世界に宗教は行われていない』として出版したものを、

今回改題/内容拡充し、新刊として出版」と説明・紹介されているそれも、

ネット古書店にあるようである。

その説明通り「神 聖 図 形」よりも前に作られた本で、書店に並ばないタイプだったと記憶している。

B5版位の簡易な装丁で、当時は学生のお小遣いでも買える値段で、

これも大聖著『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』の導入書のような扱いで、大神経普伝会が発刊したものである。

私も持っていたのだが、探してみたらどういう訳か見当たらない

(当時学生は隠れキリシタンのように御本は隠し持っていたので、

コンパクトな神 聖 図 形(A5)の発刊に際し、お返ししたのかもしれない)

なので確認はできないが、記憶にある本の厚さと文字の大きさから考えると、これも巻末に大聖版のダルマパダが収録されているカモしれない。

(大神経普伝会は、初期の頃のご講義会のセッティングなども担っていたので、

大聖のご承諾を得ているはずである。宗教法人ではなく株式会社として活動していた。

臭教団体と同様ではならない、というのが理由と聞いていた。税制優遇を受けないという

意味もあるだろうが、人間がそれと認めるから宗教なのではない。〈※8/※3/※13〉)

大聖著ではないものの「大聖も承諾の上でご講義録を編纂したもの」として発刊され、当時『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』への導入としても読まれたものなので、現在古書店にある物も縁ある人の手に渡り読まれると良いのではないかと思い、ご紹介する次第である。

 

また、ネット古書店で散見される

大聖著『奥伝般若心経』『皆伝原典般若心経』『眞説般若心経』『倭言霊学真髄』は、

ごく初期の頃、正法図は載せずに(眞説には載せてあるようだ)出版されたものだと思う。「それでもそれと気づく者があるかもしれない、

縁ある者がやってくるかもしれない」と様子見に?出された本だと思う。

『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』より前の御本は正法図は載せていないものもあるはずだが、昭和52年の御成道の後に書かれている本なので、隣に

正法図を置いて「この事を書いてるんだな」と思いながら読んだらいいかもしれない。

 

ちなみに。

国書刊行会から出ている「宗教の定義」

現代書林から出ている「大神璽正法図の謎」(ペンネームを使っているが、同一人物と聞いていた)は

大聖のご承諾のもと、門人さんが図も載せて、やはりこれも

『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』の導入書になるようにと書かれている。

私も持っているが最後まで読み終えた記憶がない(誘導感が嫌なのかも?)