(2015年12月27日投稿〜2/5)

 

自分が日々している事はこれでいいのか、見聞受持と弘伝とは具体的に何をすればいいのか、と不安に思う事もあるのカモしれない。
でももし「本当に真剣に」そう思っているのなら、少なくとも「大切なもの」として捉えている、とは言えるのではないだろうか。

仲間同士、日々考えた事を語り合って「自分もそれやってみようか。今まで良いと思っていた事も問題が起きてくる場合があるのか」と考える事も、良いかもしれない。

そうやっているうちに、少なくともこの図を書けるようにはなるだろうし、よくわからないけれど周りの皆がこれだって言うから…」というのだって、それもまた縁あっての事なのだと思う。

 

でも、その不安に答えをつけてくれる人というのは…まあその…
大抵、相手を自分に惹きつける事を目的として近づいてくる人である場合がかなり多く、少なくとも「その不安こそが魔の付け入る絶好の隙」「力で上下を作り出す温床」と言えるのではないだろうか。

(その手のノウハウというのは若い女性やママ友同士、そしてどうやら小学生位から、グループの中で主導権を握り相手を自分に従わせる為の手段として、徐々に定着してくるらしい。内容は関係なしに、相手の言動や考えや人柄等をとりあえず否定しておいて、断定的に何か別な事を言う、とか…まず相手の自信を無くさせるのが彼らにとって重要な事らしい。

親を亡くした人に「ご両親もよきにはからってもらえるよう私からお願いしておきます」などと言ってくれば胡散臭さ度は高い。「お母さんが生きている時にこう言っていた。お母さんから貴女の事を頼まれている」と言って近づいてくる人というのもかなり多いものである。

相手が不安がっていると思うと、こう言えば自分に従わせられると思うらしい。
時代劇でも若くして殿様になった人の所にはそう言う呪い師とかが寄ってきたり、差し向けられたりするようだし。関白みたいな?になりたいのだと思う)

 

誰もがエンマ様のお裁きをたった一人で受ける覚悟で…
そしてそれは、心の底のダークサイドまでお見通し、後ろに隠れてやった悪事もバレバレ。真摯なコレ見聞受持によってのみ救われる…その真摯なコレの見聞受持の定義は?

「でも、だって」も通用せず、この世ではしばしば有用だった地位名誉財産は全て地上に残し、ただ一人、絶対的な善悪によって裁かれる(なにぶん相手は比べ物にならない程格段に「上」の存在、神様だし)覚悟で、日々するべき事を考えた時…

その価値観もまた、よく言われるように「人それぞれ」だろうか?そう考えた時に人間が思いつく「するべき事」と言うのは、結構皆、同じような事を考えるような気もする。

 

潜在意識のどこかに「裁かれた記憶」があったりするのではないだろうか?
…そして人間である以上誰もが額にこの「絶対価値」刻まれているのだそうだから。

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