(2016年12月11日投稿〜3/6)

 

人間同士の関係において、相手が大切にしている事を尊重し理解しようとする事は相手に対する敬意であり、それを大切にしないというのは侵略とか征服の類の事だと思う。
そして、神の宝、神が命とする法図、自分の体の設計図・根源を大切にし理解しようとする事は、神の国へ行きたいのであれば当然の事

それに対して「そんなの全然関係ねー」と言ったら神に好かれるはずもなく…

そしてそこにはやはり神に対する征服欲のような…自分の現生での経験値が否定される事を嫌い、絶対価値より自分の価値観を尊重したい思いがあるように思う。

 

 

天にツバせば…それは天を(相手を)上だと思わないからするのであって、各々自分が正しいと思うからそれを主張する…それであればやはりわからせる事ができなければ、正しい宗教は廃れてしまうが、それをするべきは神ではなく私達であるはずである。

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自分が大切に思う人が長年悪に騙されて間違ったものを信じてきたとして…

でもそれは間違いであって、それでは命が救われない、なんとしてでも間違いを認めてもらわなければいけない、となった場合…その事で深く傷つく相手の気持ちはいかばかりだろうか?熱心にのめり込んだ人程、傷は深い。

目の前で傷ついている大切な人の気持ちを思えば、こちらの言動も変わってくるのではないだろうか。その相手の気持ちを理解する事なく、正法を伝える事はできないようにも思う。

だからと言って、その間違った臭教でもいい事にしてやるわけにはいかない。

今にも死にそうな子供に、嫌がる苦い妙薬を飲ませなければならないとしたら…

 

出会った時が最後〜そのドアを出た瞬間事故でなくなるかもしれない…だからそこで伝えられる最大限のものを、そして一滴でもという思い、それがだめならせめて誹謗する罪を犯させないように、来世こそは正法を受け入れやすい土壌で育ち、正法に近い縁に生まれさせてもらえるようにという思い、親しい人であれば(なんとなく惰性の甘えかもしれないけれど)与えられた命の執行猶予の間になんとかという思いの間で考えていくもののように思う。

 

わかる人とわからない人、正法を好む人と嫌う人が共に暮らすこの世を、娑婆世間というのそうだし、それはまさに法図の通りと言えるように思う。

「花の色香を損なう事なく、蜂が蜜を吸うように」とダルマパダで説かれていたように思う。

 

 

そして、なんとなく感覚的に捉える部分もまた縁のように思うから、下品な臭教の勧誘と同じような事をする必要もないように思う。

 

das Leichte Meer@sukurapputyou 

アメブロを更新しました。 『説くべきものがあるならば    130211〜1/2』 https://t.co/QBGNHUIG4v

2017年12月22日 12:21

 

 

そして、自分が信じたものが正しいと思う人は、正しいと思うが故にそれを主張する。

だから、こちらが正しいというのなら、きちんと説明してわからせてやるべきだとも思う。

 

das Leichte Meer@sukurapputyou 

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2017年12月31日 22:35