(2015年1月8日投稿 1/4)
コレを「わかる」というのはどういう事かと考えてみる。
例えば酪農業を営む人に、相対性理論で説いても
「はぁ?」となるのは当然ではないだろうか。そうでなくとも、自分が感動した何かに相手が感動しないからといって「この人はわからない人だ」というのは、やはり傲慢と言える様に思う。
万物の源である以上、全てのものがコレにつながり、何を使ってでも説けるはずである。
人間に生まれる以上、額に神の宝が刻まれている以上「わかるはず」なのだそうだから、その相手にあった説明が出来ない自分の力不足であり「上手に説明出来なくってゴメン」って位の事であり、わからない事で気まずい思いをする相手の気持ちを慮っても然るべき事ではないだろうか。
一方では「わかる様に説明しなさいよ!」っていうのは、教わる人の態度ではないし、先生が自分に合わせてくれてしまったら~合わせさせてしまったら「本当は自分がしなければいけない事なのに…ごめんなさい…申し訳ない…」と思うべき事だと私は思う。
そして究極の上品は「その事で双方が苦しむ事がない様に」というおもいもあって「わかる人とわからない人がいるのだから」「蜜を持った花にだけ伝えよ」と説かれるのではないだろうか。
「何とかわかるように…」とも思うのも、「相手を損なう事がない様にごり押しせず…」と思うのも、
相手を大切に思えばこその事だろうと思う。
そして「自分の周りにわかるように説明してくれる人が居る」という事も、そうでない事も「縁」あっての事なのだろうと思う。
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例えば、子が親に正法を説こうと思った場合。
子が高校生位までだと(無理やりやめさせてもダメだから、と様子見ながら作戦もあるだろうが)親達は
十中八九、やめさせようとするもののようである。
これは実例多数で、御本や法図の額を捨てさせたり、返させたり、やめさせた後しばらく経って「そういえば昔あんな話していたけれど、あれなんだったの?」とカマをかけられ「正法を欲している、話さなくっちゃ」と思ってペラペラ喋ると「やっぱりまだやってる!」となったり…
それにおいて「内容がどうか、正しいものか、良いものか」なんて事を考える気はないようで、子供が宗教の話しを始めたら「とにかく引き離さなくてはっ」となるのが普通らしい。
子供が成人していても「またお前、なんか変なもんに引っかかってきたんだろう」とまともに受けない場合が多いようだ。
他方、人は年老いたり病気になったりすると、死後の世界を考えたりするようではある。
だからと言って、こちらも考えもので…
余命宣告されるような病気で、「なんとか他に治療法はないものか…セカンドオピニオンを…」と生きる事に執着していて、「家族は自分が聞かされてない事をお医者さんから聞いてるかもしれない、自分が聞いている余命は本当なのだろうか」と家族にカマをかけてくるような状況の中で「人はこの図の学びをするために生まれ、エンマ様の試験ではコレが出る」なんて
言えるものではない。
人生最大級の懸案事項「後どれ位生きられるのか」で頭がいっぱいの人に宗教の話しなんてしたら、死刑宣告級である。
宗教っぽくない科学的なところから入れたとしても、どうもこれは「宗教の匂い」がするものらしい(だって宗教だからw)
もっとも、そんな中でも宗教の話ができたり、
「お母さん。お母さんはこんな病気でいつ死んでもおかしくないんだから、エンマ様の試験でどう振る舞うか、エンマ様に嫌われないようにするにはどうしたいいか、今から考えておいた方がいいね!エンマ様に嫌われたらどうなると思ってるの!!」なんて話せる
人柄や、人間関係も中にはあるかもしれない。
まあ1つの作戦としては、大人になって、親が元気なうちにバカにされながらも図を出しちゃって、
「あいつが変なのに引っかかって…」と言いながらもなんとなく横目でチラッチラッと気にして目の届く所にあれば、おぼろ気にも図を覚えてくれるかもしれない。
断片だけでも書ければ、「この図を大切にしている」というエンマ様の評価は得られなくても「どうやら
縁ある者の近くに居たらしい」位はエンマ様に伝わるはず…
そして親は、可愛い我が子が「どうしてもお父さんお母さんに、、、」と言うものは、それをよく理解できなくとも気にはなるはずである。自分の宝である
我が子の宝物なら、そこそこ程度には大切にしてくれると思う。(知らないよ、責任は持たないよ!それに近くに置いておかれるとなんだか苦しくなっちゃう人もいるようだから要注意ね。軽いのがいいかも?)
でもそれらは、どれも、その親子関係、その親がどんな人なのか、何を好み何を嫌うのか、それをよく知っているその子供が、自分のそれまでの人生全てを通して見てきた親に対して精一杯のグデンをするもので、周りで見ているものが「なんで漢字の説明しないんだろう、漢字の説明できないんだな。わかってないからかもしれない」とかいうのは違うと思う。