2020年7月中の蕨ミニにおける、JUNさん(西川口所属)の公演模様を、演目「顔」を題材に、「」という題名で語りたい。
2020年7月中の蕨ミニ公演に顔を出す。
その週の香盤は次の通り。①大月小夜(フリー)、②井吹天音(フリー)、③kuu(フリー)、④JUN(西川口)、⑤瀬能優(ロック) 〔敬称略〕。
「顔」
1. 顔 CIVILIAN
2. 一般生命論 CIVILIAN
3. 色即是空 町家
4. 3331 CIVILIAN
■Kuuちゃんから頂いた演目です。
踊りや感情は、自分で思った演目となってます。
人それぞれの顔。これこそが、人間の大切な部分であり、個性なんです。
演目は、踊り始めたばかりなので、まだまだ見えてこないトコロもあります。
今、現在思うことは、この顔により、人生を生きていく。そして、この顔により、人を慈しむ。
■こちらの演目は、くーちゃんから頂いた演目です。自分なりの「顔」の演目に仕上げました。人は、コンプレックスの中で生きている。そのコンプレックスが、人の大切な個性と気づかされた演目でした。
2020年7月 蕨ミニにて
ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』
□第62章 顔なし妖怪の巻
~JUNさん(西川口所属)と山口桃華さん(TS所属)に捧げる~
ちんぽ三兄弟が、顔の話をしていた。
きっかけはJUNさん(西川口所属)のステージ、まさしく演目「顔」であった。
「あの最初の曲(CIVILIANの『顔』)の歌詞にひきつけられたなあ~。人間のもつ顔のコンプレックスにもろに触れていたもんな~」
「オレも自分の顔が嫌いだから、ツーショット・ポラは絶対に撮らない!」
「でも、ストリップのポラ撮影ではツーショット・ポラを撮りたがる人は多いよね。恰好つけてポーズをとる人が多い。こういう人は自分の顔が好きなナルシストなんだな。」
「そういえば、この演目では、最初に能面を付けていたのもインパクトあったよな!」
よく「能面のような表情」というと無表情な顔の例えに使われるが、果たして実際の能舞台では、動かないはずの能面が表情を変化させる。
「小面(こおもて)」と 呼ばれる少女の能面で見てみる。下に傾けると、物思いにふける寂しげな表情になる。逆にすると、喜びの表情が浮かび上がる。正反対の感情を、角度の違いで表すことができる。このように、ひとつの能面で無限の表情を味うことができる。
「顔といえば、山口桃華さん(TS所属)の演目『変面』も印象的だったよな。一瞬で顔を変える技は凄かったなー!!」
これは中国雑技団のパフォーマンスにあり、一瞬で顔が変わる変面(へんめん)という中国四川省の伝統芸能である。役者が手を顔に手を当てた途端に装着している仮面を瞬時に喜怒哀楽を表現しているそれぞれの仮面に変化させる。門外不出の秘儀とされ、一子相伝のみ伝承を許された技法である。700年近い歴史を持つ技術である。
「ふつうに考えたら、喜怒哀楽は別々の表情だから、中国方式にいくつもの仮面を用意するのが当たり前だよな。日本の能楽も600年もの長い歴史を持っているわけだが、ひとつの仮面で喜怒哀楽を表そうとする発想は面白いというか凄いことだよな。
日本の能楽のルーツは、奈良時代に中国から伝わった『散楽(さんがく)』と呼ばれる芸能にあると言われるが、同じ中国発でも時を経ると、このあたりにお国柄の違いが出ているよな。ちなみに散楽は、平安時代に入ると、『猿楽(さるがく)』と名前を変え、各地に広がってゆく。天下泰平、五穀豊穣を祈る祭りの中で、『神』に扮して踊る仮面が能面の始まりとされる。そして、室町時代になって世阿弥という天才によって、大衆の娯楽だった猿楽を、芸術性の高い能へと発展させたわけだ。」
「というか、そもそも人間というのは顔ひとつで喜怒哀楽の感情を表現する。他の動物ではここまで繊細には表現できないもの。まさしく‘人間は顔の動物だ’と言えそうだよね。」
ここで、物知りのおじいさんが口を挟んでくる。
「顔にはその人の育ちや性格などが出てくる。よく‘男の顔は履歴書だ’と言われる。逆に‘女は顔だ’なんて酷いことを言う輩もいるわけだが、…要はいかに顔が重要かを物語っている。
昔は、顔を見るだけで、こいつはヤクザだ!チンピラだ!というのが分かった。どうしても育ちなどが顔に出てくるんだな。だから悪いことをする奴は顔で判別できたんだ。ところが、最近の犯罪者の顔をTV報道などで見ると、ふつうの顔をした奴がこんな酷い犯罪をするのか!?と思えることが多くなった。世も末だ!」
ちんぽ三兄弟の顔の話が、いつもの癖で妖怪談になっていく。
「JUNさんの演目『顔』は、最初は女の能面だったが、最後には鬼の面になっていたなー。オレはその点がすごく気にかかったよ。」
「顔なし妖怪の代表は‘のっぺらぼう’だ!」
辞書(『ウィキペディア(Wikipedia)』)を見ると、こう記載してある。・・・
のっぺらぼう(野箆坊)は、顔に目・鼻・口の無い日本の妖怪。また、転じて凹凸が(ほとんど)ない平らな状態を形容する言葉。
外見は人に近いが、その顔には目・鼻・口がないという日本の妖怪である。古くから落語や講談などの怪談や妖怪絵巻に登場してきた比較的有名な妖怪であり、小泉八雲の『怪談』の「貉(ムジナ、MUJINA)」に登場する妖怪としても知られる。また、しばしば本所七不思議の一つ『置行堀』と組み合わされ、魚を置いて逃げた後にのっぺらぼうと出くわすという展開がある。妖怪としての害は人を驚かすことだけで、それ以上の危害を与えるような話は稀だが、話の筋立てとして「再度の怪」がよく用いられる。
八雲の「狢」が表題からしてそうであるように、タヌキやキツネ、ムジナといった人を化かすという伝承がある動物がのっぺらぼうの正体として明かされることも多い。
八雲の「狢」の話を紹介しよう。・・・
江戸は赤坂の紀伊国坂は、日が暮れると誰も通る者のない寂しい道であった。ある夜、一人の商人が通りかかると若い女がしゃがみこんで泣いていた。心配して声をかけると、振り向いた女の顔には目も鼻も口も付いていない。驚いた商人は無我夢中で逃げ出し、屋台の蕎麦屋に駆け込む。蕎麦屋は後ろ姿のまま愛想が無い口調で「どうしましたか」と商人に問い、商人は今見た化け物のことを話そうとするも息が切れ切れで言葉にならない。すると蕎麦屋は「こんな顔ですかい」と商人の方へ振り向いた。蕎麦屋の顔もやはり何もなく、驚いた商人は気を失い、その途端に蕎麦屋の明かりが消えうせた。全ては狢が変身した姿だった。
⇒この「狢」の話は、二度にわたって人を驚かせるという筋立ての怪談「再度の怪」の典型である。
「なんで、のっぺらぼうには顔がないのかな?」
「結局は、キツネやタヌキの化け話。単に人間を驚かしたいだけ。それ以上の悪気はないようだよ。まぁ、かわいい妖怪じゃないか。」
「日本独特の気配で人を怖がらせる妖怪だね。気配だけで驚かすなんて粋の世界とも言えそうだけど・・・」
「顔を失くすということは表情を隠すということだよね。先ほど‘人間は顔の動物だ’という話をしたけど、これは逆行しているよね。」
「人はいろんなことを考える。それがついつい顔に出る。それを悟られまいと顔を隠すわけだ。犯罪人はメガネやマスクや帽子などで顔を隠したり、変装したりする。のっぺらぼうはその典型かもしれないな。」
「つまるところ、顔がないということは没個性ということだ! 自分の考えや主義主張を持たない人はのっぺらぼうになっちゃうんだね。」
「最近はネットで他人のことを誹謗中傷する輩が増えた。あれは顔のない犯罪だと思う。実際に誹謗中傷で自殺した有名人もいたわけだから、殺人罪と言っていい。
顔が見えないことをいいことに平気で他人を誹謗中傷する。それは人間に悖(もと)る恥ずべき行為だ。そんな輩には絶対に貧乏神がつく。のっぺらぼうも笑っていると思うよ。」
「本当にそうだな!」
JUNさんがポラのコメントでこう書いてくれた。
「人それぞれの顔。これこそが、人間の大切な部分であり、個性なんです。(中略)この顔により、人生を生きていく。そして、この顔により、人を慈しむ。」と。
おしまい
【参考】
■のっぺらぼう 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「のっぺらぼう」
黄表紙『妖怪仕内評判記(ばけものしうちひょうばんき)』に描かれたのっぺらぼう。恋川春町作画。
水木しげるロードに設置されている「のっぺらぼう」のブロンズ像
のっぺらぼう(野箆坊)は、顔に目・鼻・口の無い日本の妖怪。また、転じて凹凸が(ほとんど)ない平らな状態を形容する言葉。
目次
1 概要
2 のっぺらぼうが登場する話
2.1 小泉八雲の「貉」
2.2 置行堀との組み合わせ
2.3 中国ののっぺらぼう
3 再度の怪
4 同種の妖怪
5 比喩
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
概要
外見は人に近いが、その顔には目・鼻・口がないという日本の妖怪である。古くから落語や講談などの怪談や妖怪絵巻に登場してきた比較的有名な妖怪であり、小泉八雲の『怪談』の「貉(ムジナ、MUJINA)」に登場する妖怪としても知られる。また、しばしば本所七不思議の一つ『置行堀』と組み合わされ、魚を置いて逃げた後にのっぺらぼうと出くわすという展開がある。妖怪としての害は人を驚かすことだけで、それ以上の危害を与えるような話は稀だが、話の筋立てとして「再度の怪」がよく用いられる。
八雲の「狢」が表題からしてそうであるように、タヌキやキツネ、ムジナといった人を化かすという伝承がある動物がのっぺらぼうの正体として明かされることも多い。また、肉塊の妖怪「ぬっぺふほふ」と同一視されたり、それが伝承の中で変化したという説もある。
のっぺらぼうが登場する話
明和4年(1767年)の怪談集『新説百物語』には、京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある。しかし正体が不明の場合もあり、寛文3年(1663年)の奇談集『曽呂利物語』では、京の御池町(現・京都市中京区)に身長7尺(約2.1メートル)ののっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない。民間伝承においては大阪府、香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている。
小泉八雲の「貉」
以下は小泉八雲の「貉」のあらすじであるが、作中に「のっぺらぼう」という言葉は登場しない。
江戸は赤坂の紀伊国坂は、日が暮れると誰も通る者のない寂しい道であった。ある夜、一人の商人が通りかかると若い女がしゃがみこんで泣いていた。心配して声をかけると、振り向いた女の顔には目も鼻も口も付いていない。驚いた商人は無我夢中で逃げ出し、屋台の蕎麦屋に駆け込む。蕎麦屋は後ろ姿のまま愛想が無い口調で「どうしましたか」と商人に問い、商人は今見た化け物のことを話そうとするも息が切れ切れで言葉にならない。すると蕎麦屋は「こんな顔ですかい」と商人の方へ振り向いた。蕎麦屋の顔もやはり何もなく、驚いた商人は気を失い、その途端に蕎麦屋の明かりが消えうせた。全ては狢が変身した姿だった。
置行堀との組み合わせ
詳細は「置行堀」を参照
(置行堀の話が展開され、魚を置いて逃げた後)
釣り人が息を切らして置行堀から逃げ出すと、蕎麦屋の屋台を見つける。蕎麦屋の主人は何か作業をしてこちらに背を向けており、顔はわからない。釣り人は恐ろしいことがあったと堀での出来事を話すが、蕎麦屋の主人はまったく驚かず、振り向いた顔には目も鼻も口もなかった。再び驚いた釣り人は今度は自宅に飛んで帰ると、何か作業をして後姿の女房は何をそんなに急いでいるかと聞く。息も絶え絶えに女房にのっぺらぼうにあったと話すと、女房はこちらに振り向き「こんな顔だったか」と目も鼻も口もない顔を見せる。驚いた釣り人は気絶した。
中国ののっぺらぼう
紀昀の『閲微草堂筆記』に、ある男が主人の言いつけでお茶を取りに行き、庭の木の影に若き娘が立っていて、男が話しかけようとしたとたんに娘が振り返り、その顔は真っ白で、目も鼻も口もなかった、とある。『夜譚随録』に見える「紅衣婦人」という一篇ものっぺらぼうの話である。西安門内の西十庫で酒を飲んでいた男たちの内の一人が放尿に行くと、紅い衣装を来た女が地にかがみ込んでおり、男がからかい後ろから抱きついて女の顔を見ると、豆腐のように白く顔があいまいであった、とある。
再度の怪
「むじな」は、二度にわたって人を驚かせるという筋立ての怪談の典型であるが、これは「再度の怪」と呼ばれ、他にも「朱の盆」や「大坊主」などの話がある。巌谷小波による『大語園』などでは、のっぺらぼうはずんべら坊(ずんべらぼう)の名で記述されており、津軽弘前の怪談として、同様にずんべら坊に遭った者が、知人宅へ駆け込むと、その知人の顔もまたずんべら坊だったという話がある。このような「再度の怪」の怪談は、中国古典の『捜神記』にある「夜道の怪」の影響によるものとされる。
同種の妖怪
与謝蕪村『蕪村妖怪絵巻』より「ぬっぽり坊主」
ぬっぽり坊主(ぬっぽりぼうず)
与謝蕪村の『蕪村妖怪絵巻』にあるのっぺらぼう。京都市の帷子辻に現れたとされ、雷のようにひかる目が尻についているのが特徴。水木しげるの著作などでは「尻目」と表記され、人に会うと服を脱いで全裸になると解説されている。
白坊主、黒坊主、ぬっぺふほふ
各項目を参照。
目も鼻もない女鬼(めおに)
名前については不明だが、『源氏物語』「手習」の記述に、「昔いたという目も鼻もない女鬼(めおに)~」といった記述があり、のっぺらぼうの源流と見られる妖怪の存在(顔のない鬼)が古代末から言い伝えられていたことが分かる(少なくとも平安時代中期の近畿圏でそうした怪異が知られていた)。記述の内容からも当時は口があったものとみられる。
時代は下って、『遠野物語』内の記述にも、「旅人が目鼻もないのっぺりとした子供に赤頭巾をかぶせたのを背中におぶって通りかかった」とあり、のっぺらぼうの伝承には、口のあるタイプがあり、このことからも西日本から東北地方にかけて、のっぺらぼうの類は、目鼻がないとしか記述されていないことが分かる。
お歯黒べったり
外観は前述の目も鼻もない女鬼に類似するが、関係は不明。
ケナシコルウナルペ
アイヌに伝わる妖怪。前述の目鼻もないタイプとは異なり、目と口がなく、鼻のみの怪女で、顔面は黒いとされる。
比喩
凹凸がなく、すべすべした物体(卵など)の形容にも用いられる。また、自分の考えや主義主張を持たない無個性な人物の形容にも用いられることがある。
■能面 美の壷 - NHK
壱のツボ 能面に魂を見よ
東京国立博物館蔵
「月次風俗図屏風」
能舞台は見たことがない人でも、能面なら、一度は見たことがあるかも・・・。
その鑑賞のツボを知らずして、怖い、気味が悪いなんて思っていませんか?
東京国立博物館蔵
「月次風俗図屏風」
まずは、成り立ちから見ていきましょう。
能面のルーツは、奈良時代に中国から伝わった「散楽(さんがく)」と呼ばれる芸能にあります。
平安時代に入ると、散楽は、「猿楽(さるがく)」と名前を変え、各地に広がってゆきました。
天下泰平、五穀豊穣を祈る祭りの中で、「神」に扮して踊る仮面が能面の始まりです。
およそ200種類もある能面の中で、最初に誕生したのがこの 「翁(おきな)」です。
私たちがイメージするちょっと怖い能面のルーツは、意外にもこんなににこやかな顔をしていたんですね。
神である「翁」と並び、早くに作られたのが 「鬼」の能面です。
やがて、亡霊や生き霊といった人間を超越した存在の能面が、いくつも作られました。
室町時代、「世阿弥(ぜあみ)」という天才によって、猿楽は大きな変化を遂げます。
大衆の娯楽だった猿楽を、芸術性の高い能へと発展させたのです。
世阿弥は、日本の古典を題材に、人間の喜怒哀楽を表現しようとしました。
物語の主人公としてよく登場したのが 「女」です。
若い女を表す小面(こおもて)や恐ろしい山姥、清らかな天女など様々な年齢や性格の女に扮するために、いくつもの「女面(おんなめん)」が作られました。
能面鑑賞一のツボは、能面に最も間近で接してる能楽師の方に教えて頂きましょう。
世阿弥の父、観阿弥を祖先とする観世流シテ方の観世喜正(かんぜ・よしまさ)さんです。
能楽師は、先祖代々伝えられてきた能面を、面箪笥(おもてだんす)と呼ばれる桐の箱にしまっています。
「面(おもて)」とは、「能面」のこと。
能面はほとんどの場合、主役を務める「シテ方」だけがつけます。
シテ方にとって能面は、信仰の対象にも似た特別な存在なのです。
観世喜正さん 「能では、能面を用いて変身をします。私は男ですから、女の役、あるいは鬼や幽霊の役になるときに、能面を用いるわけなんです。私どもはこの能面をとても大事に、まるで魂のように扱います。「これからこの顔にならして頂く」というような気持ちで、いつも向かい合っているんです。」
一つ一つの能面に 魂が宿っている。 能楽師たちは、古くからそう信じてきました。
能面鑑賞一のツボ、「能面に魂を見よ」。
能面と言えば思い浮かぶのが「般若(はんにゃ)」の顔。
怖そうな鬼に見えますが、実はこれ、女性の顔だということをご存じでしたか?
嫉妬(しっと)や怒り、恨みといった激しさの中に、悲しみが見え隠れしています。
般若は、女の「魂」が凝縮された傑作です。
室町時代の能楽師、金剛右京久次(こんごううきょうひさつぐ)、別名、孫次郎によって作られました。
孫次郎が、若くして亡くなった妻を偲んで作ったと伝えられています。
かすかに愁いを帯びた眼差し。
愛しい妻の「魂」を写した能面は、別名、「面影(おもかげ)」と呼ばれています。
能舞台の袖にある、「鏡ノ間(かがみのま)」。
能面をつける神聖な場所です。
能面をつけることを、「面(おもて)を頂く」と言います。
そのとき、能面に込められた魂に向かって、一礼するのが習わしです。
能面を顔にあてる瞬間、役者は、自らの魂を能面に重ねます
ひたすら心を静め、鏡に向かってじっと出番を待ちます。
能楽師が舞うことで、能面に命が吹き込まれていきます。
もはや、能面は演じるための道具でもなければ、美術品でもありません。
観客はそこに、 「魂」を見いだすのです。
弐のツボ 無限の表情を味わえ
「能面のような表情」とは、よく、無表情な顔の例えに使われます。
果たして能面は、本当に無表情なのでしょうか?
能舞台を見た人なら、驚いたことがあるはずです。動かないはずの能面が、表情を変化させるのです。
能面鑑賞二のツボ、無限の表情を味わえ。
「小面(こおもて)」と 呼ばれる少女の能面で見てみます。
下に傾けると、物思いにふける寂しげな表情になります。
逆にすると、喜びの表情が浮かび上がります。
正反対の感情を、角度の違いで表すことができるのです。
能舞台で見てみましょう。
能面をわずかに傾け、顔の前に手をかざすと、さめざめと涙する女。
わずかに姿勢を起こすと、今後は、晴れ晴れとした心で、遠くの山々を仰ぎ見る女が現れます。
再びうつむくと、そこはかとない不安げな気持ちが伝わってきます。
また、首を勢いよく振ることで、敵ににらみを利かせることもできます。
こうした表情の変化は、一体どのようにして生まれるのでしょうか?
京都に住む面打ち師(めんうちし)の中村光江(なかむら・みつえ)さんです。
能面には、削り易く変形しにくい檜が使われます。
表情の変化を生み出す鍵は、 「目」にあります。
中村さんは、瞳の部分を丁寧に削り出し、上まぶたと下まぶたを浮き上がらせます。
悲しんだり、喜んだりしているように見える秘密は、まぶたの厚みにあるのです。
中村さん 「能面の上まぶたは、下まぶたよりだいぶ手前に出ています。横から見ると、能面はまるで下を向いているかのようです。しかし前から見ると、能面は正面を見ている。こうして、普段は正面を見ているんですが、少し下に傾けると目は下を向き、少し上に仰向けると、すっと上を向いて、にこやかに笑うのです。」
能面には、更に正面から見ただけでは分からない工夫が施されています。
室町時代の名品、「雪の小面」を、現代の面打ち師が写し取りました。
美しさの秘密は、「鼻筋」にあると言われています。
「雪の小面」から写しとった型紙です。
良く見ると、鼻筋は、中心線から1ミリほど左にずれた場所から、右下に向かって延びています。
わずかな違いが表情に変化を生み出します。
右側から見ると、鼻筋が際立ち、表情に強さが生まれます。
逆に、左側から見ると、鼻筋はなだらかに、表情は、心なしか穏やかに見えます。
クリックで拡大表示
鼻筋を微妙にずらし、顔を左右非対称に仕上げることで、観客の目に、能面が、より多面的に写るのです。
面打ち師の繊細な技が、「無限の表情」を生み出しています。
参のツボ 古色は夢幻の味わい
クリックで拡大表示
舞台で見る能面は、遠目からは白一色に見えます。
でもそこには、微妙な色合いが隠されているのです。最後は、能面の「色」を味わいましょう。
現代の面打ち師が作った「小面」の能面です。
16歳の清純な少女の顔。
しかし、その顔をよーく観察すると、肌が幽かに黒ずんでいることに気が付きます。
こうした色合いは、実は、能面を作る際、わざとつけられたものでした。
一体なぜそんなことをしたのでしょうか?
黒ずみに使われるのは、焦げ茶、黄土、群青などの日本画の顔料です。
それらを水で溶きます。
そして、布に染みこませ、胡粉で下塗りした能面の上に、軽く叩くように色づけします。
次に、表面を白い布で拭き、肌のわずかに凹んだ部分にだけ黒ずみを残します。
こうした色味を古色(こしょく)といいます。
古色には能面独特の意味が込められているのです。
中村さん 「古色は、言葉では言い表すことのできない色です。能面らしい色、とでも言いましょうか。「古い色」と書きますが、それは時代を経たものを真似するという意味で用いるのではなく、能面の奥深さを表現するために用いるのです。」
古色が生み出す陰影のある奥深い表情。
能面は、 やがて見る者を 得体の知れない夢幻(ゆめまぼろし)の世界へと導いていきます。
能面鑑賞三のツボ、古色は夢幻(むげん)の味わい。
陽が落ち、辺りが幽かに暗くなる頃。
古色に染められた能面が、暗闇に溶け込み、私たちを底知れぬ世界へと誘います。
幽霊や鬼、生き霊。
容易に計り知ることのできない存在を、古色は表しているのです。
夢と現、この世とあの世が行き来する世界。
古色をまとった能面は、600年間変わることなく、見る者の心を揺さぶり続けています。
■「能面」の意味と種類。笑ったり泣いたり、実は表情豊かな能面の秘密
投稿日:
2020年1月29日
産地:
東京
タグ:
工芸
インタビュー
能
古典芸能
木工品
「能面」の役割とは
能の舞台で使われる「能面」。その役割と、実は豊かな表情の秘密に迫りました。
まずは「能」について簡単に触れておきましょう。
能は、能面をかけて演じる一種の仮面劇です。人ならざるものを演じる主役 (「シテ」といいます) は多くの場合、能面を身につけて登場します。
物語の冒頭に登場するワキと呼ばれる脇役によって、観客はシテのいる異界へと誘われる形で能楽の鑑賞が始まります。能のストーリーはシンプルで象徴的。話の筋を追うというよりは、物語の主題となる「悲しみ」などの感情や、クライマックスに向かって演じられる舞の「高揚感」そのものを味わいます。
※詳しくは「古典芸能入門 『能』の世界を覗いてみる 」をご覧ください。
能ではなぜ仮面をつけるのか?
主役のシテは神様や鬼、幽霊など異界の者であることが多く、私たち観客はシテを通じて「あちら側の世界」を垣間見ることになります。
こちら側とあちら側 (異界) を繋ぐ役割となるシテは、舞台上で生身の人間としてではなく、異界の者になりきることが求められます。連載の「能の回」でお話を伺った能楽師の山井綱雄 (やまい つなお) さんは「能舞台に立つにはトランスフォーメンション (変身) が必要です」とおっしゃっていました。
装束を身にまとい、全ての支度が済んだ演者は、「鏡の間」と呼ばれる舞台のすぐ奥に位置する特別な部屋 (揚幕1枚を隔てるだけで舞台と地続きの空間は、演者にとって舞台の一部。演者が精神を統一する空間です) で、鏡の前で厳かに能面を身につけます。
ちなみに、能面を身につけることは「つける」ではなく、「かける」と表現されます。魔法にかけられるような「変身」「憑依」の意味合いが感じられますね。
能面は、面 (オモテ) とも呼ばれますが、オモテに見せる顔をつけることで、演者はそのウラの暗闇の中に姿を隠すのだそうです。
日常生活において、お化粧をすることでシャキっと気合いが入り、モードが切り替わったり、振る舞いに差が表れたりといった経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。さっきまで部屋でダラダラとしていた自分はどこへやら。素顔と異なる顔で覆うだけで別の人格が姿を表すというのはなんとも不思議です。
能の世界でも、面をつけることは見た目としての変身に加えて、演者本人が内面から変身するための重要な役割を担っているというのにも頷けます。
若い女性の面「小面 (こおもて) 」
若い女性の面「小面 (こおもて) 」 写真提供:新井達矢
能面は無表情ではない?
ところで、「能面のような顔」という表現は、無表情で何を考えているかわからない様子を指しますが、能面は本当に無表情なのでしょうか。たしかに、展示されている能面を眺めると、女面などは表情が読み取りにくく感じます。
しかし不思議なことに、物理的には変わることのないはずの硬い木でできた能面を通して、舞台上で私たちは豊かな表情を見つけることができるのです。
例えば、一般的に怖いお面のイメージを持たれることの多い「般若 (はんにゃ) 」からは、怒りだけでなく、鬼になってしまった女性の悲しみや苦しみが感じられ、せつなくなります。
女性の怨霊を表現する面「般若」
女性の怨霊を表現する面「般若」
「小面」などの無表情に見える女性面も、悲しみのあまり涙を流しているようにすら見えたり、舞がクライマックスに向かう部分で恍惚とした表情が浮かび上がったり。様々な表情の移り変わりに驚かされます。
「曖昧な表情」「非対称な作り」に秘密。能面にも「利き顔」?
演者によって命が吹き込まれること、観客が投影する心情による効果は大きいですが、実は、能面の「曖昧な表情」や「非対称な作り」にも秘密があります。
この「曖昧な表情」は「中間表情」などと呼ばれることもありますが、おそらくはあらゆる「表情の元」を少しずつ備えているのではないかと言われています。これが演者の表現と結びつくことで多様な表情が浮かび上がります。
能面は左右が「非対称な作り」になっています。その違いは「陰と陽」とも呼ばれます。私たち生身の人間の顔も左右非対称で、カメラに向ける「利き顔」とも言うべき好きな角度がある方もいらっしゃいますね。
左右非対称に作られている女面。左右で目尻や口角の向きなど見比べてみてください。あからさまな違いはないですが、このわずかな差によって多様な表情が浮かび上がります。 写真提供:新井達矢
左右非対称に作られている女面。左右で目尻や口角の向きなど見比べてみてください。あからさまな違いはないですが、このわずかな差によって多様な表情が浮かび上がります。 写真提供:新井達矢
加えて、顔の上下の動きでも表情は変化します。能では、やや仰向けにすると高揚した様子(「照ル」といいます)、少しうつむくと陰りのある様子 (「曇ル」といいます) が表現されます。ほんの少しの角度の違いで、喜びや幸福感、いじらしさや悲しみに暮れる様子、恥じらいや絶望など様々な表情を感じさせるのです。
在原業平の顔を表したといわれるアンニュイなハンサム面「中将 (ちゅうじょう) 」
在原業平の顔を表したといわれるアンニュイなハンサム面「中将 (ちゅうじょう) 」
面をわずかに傾けるだけでも表情が変化します
面をわずかに傾けるだけでも表情が変化します。少し険しい表情?
無表情に見える能面に何か不気味さや怖さを感じている方は、ぜひ一度、能舞台の上で能楽師の顔にかかった能面をご覧になってみてください。
畏怖の念を抱くことはあるかもしれませんが、演者と一体になった能面からは、生きた多様な表情をきっと受け取ることができるでしょう。
■中国雑技団のパフォーマンスから、一瞬で顔が変わる変面(變臉)という中国四川省の伝統芸能。
中国伝統芸能 「変面」 一瞬で顔を変える技.
変面(へんめん)とは?
変面とは中国四川省の伝統劇「川劇(せんげき)」内の一幕で披露された技巧。役者が手を顔に手を当てた途端に装着している仮面を瞬時に喜怒哀楽を表現しているそれぞれの仮面に変化させる門外不出の秘儀とされ、一子相伝のみ伝承を許された技法である。1360年代には既に変面の技巧が記述されていることから700年近い歴史を持つ技術である。