2020年1月結の栗橋における、JUNさん(西川口所属)の公演模様を、演目「そば屋」を題材に、「家族への思い」という題名で語りたい。

 

 

次は、演目「そば屋」のステージ内容を紹介したい。

これはお客参加型の典型的な作品だ。初めて拝見したときは最高にインパクトがあったね。なにせ私自身が参加したのだから(笑)。最初にJUNさんが舞台に出てきた時、他の常連さんを指名しようとしたが、彼が断わってたまたま対面にいた私の方を見たので私の方にお鉢が回ってきた。彼の気持ちはよく分かる。確かに、この役は一度やってしまったらインパクトが弱くなる。初めての方の驚きようを拝見しているのが面白い。

まずは、そのお客参加の芝居内容から話す。

最初に、JUNさんが蕎麦屋の女将の恰好で登場。手には、冷やし蕎麦とめんつゆが乗ったお盆を持っている。お客の前に、お盆を置く。まるで本物の蕎麦のように見えるが蕎麦は食品サンプルで食べられない。その変わり、めんつゆをお椀に注ぎ、一気に飲むようにすすめられる。おそるおそる飲んでみたら、なんとコーラだ。なるほど、めんつゆと書いてあるが小さなコーラ容器だ。ニコっと笑って一気に飲む。お代わりをすすめられ全部飲む。その後、お土産としてベビーラーメンをプレゼントされる。恐縮しながら頂く。

おもむろに、JUNさんが請求書を取り出し金額を書き始める。目元がキラリと光る。請求書を手渡され、書かれた金額のゼロの数を数え、目が飛び出る。20,000,000円とある。思わず、払えないと頭を下げる。JUNさんが着物の裾で目がしらを抑え泣き出す。という芝居である。

 

ステージでは、この芝居劇を主軸にして音楽を添え演ずる。

最初に、蕎麦屋の女将の恰好で登場。かすり生地の着物の上に茶色の半纏を羽織る。紅白のエプロンを付ける。白い足袋を履いて、音楽に合わせ踊る。

一曲目は、きゃりーぱみゅぱみゅの「音ノ国」。意外性のある派手派手な音楽でスタート。一気に別世界に誘う。歌詞をよく聴いていると曲の中にタヌキやキツネが出てくる。しかも蕎麦屋まで登場する。作詞作曲:中田ヤスタカ。2018年9月発売のきゃりーぱみゅぱみゅ4枚目のアルバム「じゃぱみゅ」収録曲。

 (歌いだし)♪「お日様ピカピカいい桃 どこから流れる音頭 さざ波立てた鯉の舞そーっとしておかなきゃよ…」

一曲目が終わり、半纏を脱ぎ、出前の蕎麦を客席へ運ぶ。岡持ち(出前箱)を開け、冷やし蕎麦、めんつゆ、茶わん、箸を布の上に並べる。

二曲目は、ふっくん布川 ソロデビューシングル「そば食いねぇ!」。2010年8月4日発売。布川敏和(ex. シブがき隊) 芸能生活30周年記念/(社)日本蕎麦協会公式ソング。

ふっくん布川自身が作詞を手掛けた。

(歌いだし)♪「たぬきに きつねに なめこに 月見 (ざるそば一丁!) 天ざる かき揚げ ちくわに わかめ ( もりそば一丁!) 海老天 いか天 鴨南蛮 (へい お待ち!) Japanese Baso It's a Baso にしんに おかめに けんちん おろし (天玉一丁!) とろろに ごぼうに いんげん おぼろ (かけそば 一) ...」

ここから芝居が始まる。流れる音楽がクラシックとは渋いねー。

「シューベルトの12の歌」をMONA ASUAKAが演奏。ミュンヘン出身のモナ=飛鳥・オットは、数々の国際コンクール優勝歴を誇り、幼少時より世界から注目を集めてきたピアニスト。

次は「水の上で歌う」をスミ・ジョーが歌う。水の上で歌う Auf dem Wasser zu singen』D774(作品72)は、1823年に作曲されたシューベルト歌曲。シューベルトのあまたの歌曲の中で最も美しい作品のひとつ。スミ・ジョー(英: Sumi Jo)は、韓国出身のソプラノ歌手。ハングル名はチョ・スミ(韓: 조수미、漢: 曺秀美、英: Jo Sumi)。カラヤンからその歌声を「神からの贈り物」と絶賛されたソプラノのスミ・ジョー。

芝居が終わり、音楽が変わり、袖で茶色の襦袢姿に着替える。そのままベッドショーへ。

近くでアクセサリーを確認。純金のピアスに、純金のネックレスがキラリ。

ベッド曲は、栄芝×近藤等則(エイシバコンドウトシノリ)の「さわぎ(Sawagi)」。古くも渋い音楽だね。日本らしい蕎麦屋の雰囲気が出ていいね。収録アルバム『The 吉原』。端唄の栄芝流家元、栄芝とジャズ・トランペット奏者/コンポーザー、近藤等則とのコラボレート・アルバム。端唄/小唄という日本の伝統の"粋"と、現代のテクノロジーを融合させた作品。

 

 JUNさんから次のコメントを頂く。

「私のおじいちゃんがそば屋の家で育ち、おばあちゃんが女郎屋の家で育ちました。おじいちゃんが毎日、おばあちゃんの家に出前を届け、一目ぼれをして、結婚したそうです。二人の出逢いに感謝すると共に、そば屋の演目を作りました。」

 今回の演目の由来がわかる。作品というのは自分の中から生まれるものなんだね。たしかにその人の血肉になっていない作品は人の心を打たない。だからこそ、表現者は自分を振り返る。JUNさんも自分探しの過程で、そこに亡くなった祖父母が現れ、この作品を創らせたんだろうね。

 蕎麦の香りや味がおじいちゃんを思い出させてくれるなんて最高に素敵なことですね。

 本作は、JUNさん一流のウエットを利かせた、ステキなストリップ作品に仕上がってます。

 

 ここまでがJUNさんへの観劇レポートになります。

 以下は、極めて個人的な話をさせてもらいます。

 

ふと、私も養祖父母のことを思い出した。

私には小さい頃、祖父母が三人ずついた。普通の子供は二人ずつしかいないのだから、今思えば、お陰でお小遣いもたくさんもらえたのだろうな。間違いなく愛情を人一倍もらったことは憶えている。

養祖父母には子供がいなかった。養子をもらったが戦争に行って死んでしまった。

だから、また私の父親をお向かいの家から養子にもらい、隣の村から私の母親を嫁にもらう。私は実家で初めて生まれた子供だった。だから、養祖父母はそれはそれは可愛がってくれた。私も三歳下の弟も、産まれてからずっと養祖父母の布団に寝ていた。それは両親が養祖父母に気兼ねしたためである。父は後々「養子になんてなるもんじゃない。自分は我が子と一緒に寝たことがない。」とこぼしていたことを覚えている。それだけ養子として養祖父母に気兼ねしていたのだろう。ともあれ、気難しい養祖父母と私の両親の間を我々兄弟がとりもっていた。まさしく子供が家族の「鎹(かすがい)」だったわけだ。

養祖父は富山で生まれた。次男坊だったので早くに家を出て、肉体労働をしながら、流れ流れて北海道に行った。そして函館で養祖母と出会った。養祖母は身売りされ女郎屋で働いていたらしい。結婚しても子供ができなかったのはこのときの仕事が原因だったのだろうと後に母親からこっそり聞いたことがある。

いずれにせよ、縁あった養祖父母は結婚して、養祖母の実家のある秋田に移り、そこで二人で酒・煙草などを扱う雑貨店を開いた。それが実家の始まりだ。私の苗字は元々は富山から来た養祖父のものなので秋田には殆どいなかった。

私は生後一歳頃、当時流行していた小児麻痺を患い足が不自由になる。そのため、通院を含め、養祖父母の背中の上で育った。だからこそ私の身体は二人の身体の温もりを今でも覚えている。養祖父母も両親も、家族皆が私の足を心配し歩けるようにしたかったのだと思う。小さい頃に湯治温泉にもよく行った。

 足は不自由だったがお陰で歩けるようになって、人並みの幸せを味わわせてもらった。それもこれも家族のお陰だと心から感謝している。母親は今でも「風邪から小児麻痺を発症させてしまったことを後悔している」と私に話すことがあるが、そんなことを気にすることはないと私は言う。私は十分に幸せだったと思っている。

 60歳を越え、自分の人生を振り返ると、「足が悪い」ことを抜きに人生は語れない。昔は普通の人のように歩けるようになりたいと思ったこともあったが、今ではそんな人生は考えられない。足が悪いからこそ、人並み以上に勉強して一流の大学を出て一流の会社に入れた。努力する基盤は悪い足が教えてくれた。田舎で見合いして人並みに結婚し子宝にも恵まれた。三人の子供たちは立派に社会人になり、今や私は三人の孫をもつ。

 ストリップにはまり家庭を壊してしまったが、後悔はない。これまで人並み以上の人生を送らせてもらったから、十分に幸せだったと思う。

 今は、自分の足で歩いて劇場通いできることが嬉しい。劇場通いできなくなったらお終いだなと本心でそう思っている。

 離婚してしまい、今は踊り子さんが私の女房代わり。ストリップの女房に会いに行けるうちは幸せだ。全然淋しくなんかない。

 不思議と先の心配はしていない。なんとかなるさと安易に考えている。悪いことは考えないようにしている。

 それもこれもストリップ通いが気を紛らわせてくれるからだ。合わせて文筆活動を楽しむ。ネタは自分が好きで楽しいと思うことしか書かない。好きなことにしか興味をもたないし、最近は気の合う好きな人としか付き合わない。好きなことだけ考えているからストレスはためず毎日が楽しい。書きたいことは沢山あるから時間がいくらあっても足りない。今はそんな生き方がいいと思っている。

 

 でも、JUNさんの話を聞いて、こうして亡くなった養祖父母のことを思い出す。

養祖父母とは血のつながりはない。小さい頃、戦死した人の遺影を眺めながら、「もし戦争で亡くなった人が生きていたら、私は実家に生まれなかったのかな?」と聞いたら、養祖父は「いや、それでもやっぱりおまえはこの家に生まれたんだ」とはっきり言っていた。私は養祖父から一字名前をもらっている。

 養祖父母は今の私をどう思うだろうか。家庭を壊して、ストリップ通いなんかして、情けない男だと思うのかな。恥ずかしい人生なのかな。

 妻や子供たちは私のストリップ通いを呆れて去って行った。ふと、三人の孫たちは大きくなったら、私のことをどう思うのかなと考える。

 今年の年始に、私は太宰治の「人間失格」を読んでみた。冒頭にある「私はこれまで恥ずかしい人生を送ってきました」に引き込まれるように。

 私はこれまで自分のマイナス面を隠せるなら隠したいと思いながら生きてきた。女の子の前では恥ずかしいから、足の悪い自分をさらしたくない。ストリップ通いが趣味だなんて恥ずかしいから人に言えない。今は、ストリップで家族も仕事も失ったなんて恥ずかしくて言えない。そう思って生きてきた。

 でも、すべて運命として甘受すべきときが来たように思える。私が小児麻痺で足が悪くなったのも運命。実家に足の悪い子供が生まれたのも運命。ストリップに出会ったのも運命。ストリップで家族も仕事も無くしたのも運命。こうした全ての運命を享受すべきだと思うようになった。

 私は表現者なのだ。自分の悪いところを隠さずに、あるがままに曝け出していいんだ。いや、そうしなければならないと思うようになった。先に「足の悪い自分」以外のことを考えられないと言ったのはそのことだ。

 太宰治に負けずに、赤裸々なストリップ版私小説「人間失格」を書かなければならないと思っている。それが過去と未来の家族への私の贈る言葉であり、家族を壊してしまった私の責務・宿命じゃないかなと感じているからである。その思いがどんどん強くなっている。

 

 こんなドロドロした私的な話をしてしまい誠に申し訳ありません。ペコリ

 JUNさんに出会い、もうすぐ六年になりますね。踊り子と客との関係ですが、とても仲良くなりました。私はそう感じています。JUNさんはステージを通じて自分を曝け出してくれます。だから、私も文を通じて自分を曝け出そうと思いました。これは私のストリップです。笑

踊り子と客は本来適度な距離を保つべきもので、あまりプライベートなことを語るべきではないと思っています。でもJUNさんには話したくなりました。60歳の肉声ストリップですが見てやって下さい。

 

 

2020年1月                           ライブシアター栗橋にて