JUNさん(西川口所属)について、2019年5月結の池袋ミカドでの公演模様を、演目「百鬼夜行」を題材にして、「人間こそおばけか!?」という題名で語りたい。

 

 

2019年5月結の池袋ミカドに顔を出す。

今週の香盤は次の通り。①JUN(西川口)、②雛形ひろ子(TS)、③美月春(道劇)、④金魚(道劇)、⑤浜崎るり(晃生)、⑥南美光(TS)〔敬称略〕。

 

 今週の出し物は1,3回目に園田しほりさんから頂いた演目「百鬼夜行」、2,4回目には翔田真央さんから譲り受けた演目「曽根崎心中」。前回5月頭の栗橋では逆でしたね。

  他の人の作品もJUNさんの手に掛かればJUNさんなりの味が出ていいね。また、自作だけにこだわらず、他の人の作品からも多くのものを吸収しようという姿勢は大切だね。そもそもJUNさんの人柄から譲ってもらえたわけだしね。ありがたいことです。

JUNさんから演目「百鬼夜行」について解説をもらった。「こちらは、園田しほり姐さんから頂いた演目です。100匹の妖怪を引き連れた総大将のお話です。今年3月21日の週(ライブシアター栗橋)に出した演目です。」

 JUNさんのトレードマークは「じゅんこ」。おばけのQ太郎に似ている。だから、おばけのテーマを演じているからにはレポートせずにはおれなくなった。笑

 じゅんこに「妖怪になんかようかい?」と言われたような・・(親父ジャグです)

 

 さっそく、ステージ内容のさわりから。

 最初に、インスト曲に合わせて、妖しい着物姿で登場する。

 右の頬っぺたに‘じゅんこ’のペイントがある。おばけを意味している。

 髪は、丸く結い、簪を付けている。

 上半身は、長い振袖のついた紺の着物。黄色い花の絵柄が描かれている。金と黒の格子縞の帯を締める。下半身は黒いズボン。音楽に合わせ、扇を持って裸足で踊る。銀の扇には緑の松の木が描かれている。時折、飛び上がるシーンもある。

 すぐに、音楽は、米津玄師の「百鬼夜行」に変わる。まずは米津玄師がこんな歌を作っていたことに驚く。2014年4月23日発売の米津玄師(ハチ)2nd Album「YANKEE」収録曲であるが、「百鬼夜行」は先に、米津玄師のメジャー1枚目のシングル『サンタマリア』(2013年5月29日リリース)のB面に収録されている。発売以前にも自身のUSTREAMチャンネルで弾き語りしていたという初期の作品である。昔の米津玄師はなんだか棘があって、それがまた今とは違う良さがあるね。この曲は♪「我らは現代の妖怪だ!」という歌詞の通り「現代の人間を妖怪に例えた歌」だ。とっても皮肉っぽくてそんでもって下ネタのオンパレードである。この曲に出会えただけでも、私にとって今回の演目の意味は大きい。

 一旦、暗転し、音楽が変わり、着替える。

 今度は、右側が白で、左側が水色の着物姿。長い振袖が付いている。左の襟には赤い花のマークが二つワンポイント。髪は先と同じ。

 音楽は、澤田かおりの「おばけ」。歌詞も面白いがドラマティックなストリングスがいい。2016年10月5日リリース。メジャー2ndアルバム『FRONTIER』収録。

 澤田かおりさんの声や音楽に興味をもったので調べたら驚きの連続。

澤田 かおり(1985年8月17日 – 現在33歳)は、日本の女性シンガーソングライター。アメリカ合衆国シアトル生まれ、東京都杉並区育ち。幼い頃からクラシックピアノ、エレクトーン、作曲法などを学ぶ。高校卒業後、1年間ファッションモデルとして活動。2005年に渡米。NYブルックリン音楽院を経て、2006年にバークリー音楽院入学。声楽科選抜コンサート"SINGER'S NIGHT"に日本人初のソロ・ヴォーカリストとして選出。同院卒業後、2011年8月には初のミニ・アルバムを発表。メディアで話題となる。2012年7月、フル・アルバム『PRISM』をリリース。また、CM音楽でも高く評価されている。2015年1月、シングル「幸せの種」でメジャー・デビュー。

井上陽水やMISIAのツアーに同行し、楽曲提供、CM曲制作でもその才能を発揮して注目を集める。東芝のCMで総合広告電通賞、テレビ広告電通賞を受賞。 母は女優の沢田亜矢子で、ブログ内で紹介したり、ライブのゲストとして呼んだりしている。→ TVサスペンスドラマによく出演されていた美人女優の沢田亜矢子はもう70歳になっているんだ。シングルマザーとして噂されていたが、米国で女の子を産み、それがシンガーソングライターの澤田かおりさんとはびっくり☆

また経歴を見て驚いたが、本格的に音楽の勉強やってきた彼女の音楽性が素晴らしい。「幸せの種」の曲を聴いて心が震えたよー。こういう人こそ応援しないといけない。

そのまま、ベッドショーに移行。

ラスト曲は、Mattsu ToBitの「Hyakkiyakou」。ネットで調べたが、私の探し方が悪かったせいか、この曲だけ調べられなかった。残念↓      

 

 

 さて、ステージのさわりはここまでにして、テーマ「百鬼夜行」について話したい。

 まず「百鬼夜行」をネットで検索。

 ピクシブ百科事典によると、次のようにある。・・・

百鬼夜行とは、妖怪が大行進すること。漫画・アニメでは「ひゃっきやこう」と言われる事が多いが、「ひゃっきやぎょう」が、正しいとされる。

 百鬼夜行とは、深夜の町を鬼や妖怪などの異形の存在たちが徘徊すること、もしくはその集団の存在を指す言葉である。 もしそれを間近で見ると、その人は死んでしまう。正月、2月子日、3月・4月午日、5月・6月巳日、7月・8月戌日、9月・10月未日、11月・12月辰日には百鬼夜行が起こるという。そのため、当時の貴族はその日には外出を控えたという。なお「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」という呪文を唱えると、百鬼夜行の害から避けられるらしい。・・・

 一方、ニコニコ大百科によると、より砕けた説明になっている・・・

百鬼夜行とは、妖怪ものに登場する鬼や妖怪及びその類の行進のこと。

「平安時代に愛人の家から帰る途中に鬼や妖怪の大部隊に遭遇して念仏唱えながら震えていました。」という本当か嘘なのかわからないが、宇治拾遺物語・今昔物語集にそのような話がいくつか収録されている。主に百鬼夜行に遭遇した人間はいずれも念仏や札を握りしめており生還するのが一般的で仏の偉大さを説くと同時に、遭遇者が死んでしまうような三流怪談話より幾分かリアリティがある。

なお、「夜行」の読みについては地方によって異なる模様。「やこう」でも間違いではなく、地方によっては「やぎょう」とは読まない事もある。結局は2つとも正しいのでどちらで読んでも大した問題はない。・・・

愛人宅へお忍びなんかするから、妻が鬼の形相になるんじゃないのかな(笑)。

まあ、百鬼夜行というのは、その名の通り「百」の「鬼」が「夜」に「行」くと理解すればいいようです。たくさんの妖怪たちが夜中のパレードをしているところを思い浮かべればそれで間違いありません。

 

 以下に、少し個人的な話をさせて頂く。

 私は、小さい頃に漫画ノートを作って友達に自慢しているような漫画少年だった。周りからは漫画博士と言われるほどの漫画好きで、その中でも水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の大ファンであった。

 妖怪好きでもあったのだろうが、これまた大の怖がり屋だった。昔の田舎育ちだったので、家がただっ広く、夜にトイレに行くのが怖かった。居間からトイレまでの廊下の電気を全て点けて明るくしないとトイレに行けないほどだった。だから、ホラー映画は苦手。これを観たらトイレに行けなくなる。今でもホラー映画は殆ど観ない。でも、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」だけは大好きだった。

 漫画博士としては妖怪もこまめにノートにまとめていた。その中に百鬼夜行も入っていたはず。少年時代から今までの50年間、じっくりと妖怪を振り返ることもなくなったので、百鬼夜行もうろ覚えなのだが言葉には激しく反応した。

 昨年、ジブリ映画にはまり、ほぼ全て観終えた。その中に、映画「平成狸合戦ぽんぽこ」があり、それに百鬼夜行が登場し、懐かしいなぁとしみじみ思った。

 そして、今回、JUNさんの演目「百鬼夜行」を拝見し、昔の漫画博士の血がめらめらと湧き上がってきた(笑)。そうしたら、私が気になるミュージシャンの一人(踊り子さんが彼の曲をたくさん使用しているため)である米津玄師さんに、「百鬼夜行」というタイトルの曲があることを知り、これまた腰を抜かすほど驚いた次第。とにかく、百鬼夜行についてもう一度調べ直したくてたまらなくなったところだ。

 次に、私の思いを勝手に述べる。二つある。

 

ひとつは、現代日本は夜が明るくなり「眠らない街」になってしまったことに対して。

 本来、夜は暗くて怖いものじゃなきゃいけないと思える!!! 夜というのは電気という技術力で昼のように明るくしてはいけないものなのだ

夜には夜の世界がある。その世界に生きる生き物もいる。そのひとつが妖怪と考えてもいい。夜を明るくしたら彼らの邪魔になるだろう。

本来、人間は暗い夜には眠らなければいけないように作られている。だから古来、大人たちは子供たちを早く寝かせつけ夜遊びなんかしないように、妖怪を作って子供たちを怖がらせてきた。それが人間の生きていくための知恵なのだ。

 

また、妖怪の世界はパラレルワールドなんだな。人間が今の世を生きているのと同時に、妖怪もまた生きている世界がある。

妖怪を恐れ、侵してはいけない世界がある。それが自然だ。「八百万(やおろず)の神々」という。日本人は全てのものに神が宿っているという古来からの信仰がある。それが百鬼夜行の源なのだ。妖怪も妖精も全て神が形を変えたものなのだ。

だから、百鬼夜行がパレードしているなら、人間は首を垂れてかしずく必要がある。まるで大名行列が通るときの庶民のようにね。彼らは人間より偉い神なのだ。恐れ崇めなければならない。まぁ、もともとの百鬼夜行は、出会ったら死んでしまうからと夜は出掛けてはいけないことになってるわけ。

 

ジブリ作品は一貫して次のように主張している。

人間にはけっして侵してはいけない神の領域がある。「人間には自然を操作できる技術力がある。生命だって操作できるんだ。」なんて言って、人間の技術力に驕ってはいけない。自然はおとなしくしていれば恵みを与えてくれるが、そむけば自然災害の猛威をふるう。これは長い歴史の中で痛いほど分かっているはずだ。だから、もっと自然を敬い、自然との共生を図っていかなければならない。人間の生き残る道はそれしかない。そう強く主張している。

実はジブリ作品には未来を扱ったものが二つしかない。「風の谷のナウシカ」と「未来少年コナン」だけ。そして、その二つとも人間が作り出した兵器(原爆など)により人類が破滅した場面設定からスタートしている。残りの作品は全て昔の懐古主義に徹している。すなわち、自然と共生してきた昔に帰れ!という主張なのだと感ずる。

 

 もうひとつ思うことがある。

たしかに、小さい頃は妖怪(おばけ)が怖かった。しかし、大人になると怖い対象が変わってきたことに気づく。

会社関係でも嫉み妬みが蔓延していた。会社の中で出世していくのに、人間としての器より好き嫌いで人事されていたり。上にいけばいくほどにそうなっていた。日産のカルロス・ゴーンが話題になっているが、あんなのは大なり小なりどこの会社にもある。それはおかしい!とまともな意見を言って反発すると組織から弾き飛ばされる。私もそれを経験した。丸いものに巻かれるようにしないと組織の中では生きていけない。趣味と思って楽しんでいるストリップの世界も嫉妬心渦巻く世界であることに変わりない。私自身はなるべく綺麗なものだけを見たいと思い、ファンタジーの世界に生きようと努めているが、現実はそうではないことがたくさんある。

そうこう思うと、なんか人間が全部おばけに見える。妖怪の方がかわいくて、まともじゃん。そんな気がしてくる。

 日本語の歌詞である、米津玄師の「百鬼夜行」や澤田かおりの「おばけ」の歌を味わうと、二人とも同じような感覚なのに気づく。

 

 いろいろ考えさせてくれた本作品「百鬼夜行」に心から感謝する。

 

2019年5月                          池袋ミカドにて

 

 

 

                                  2019年6月

ストリップ童話『還暦と百鬼夜行』

~JUNさん(西川口所属)に捧げる~

 

 

1.   ストリップと百鬼夜行

 

 私は数年前に会社を早期退職し、毎日ストリップ通いしているしがない中年男である。当然、女性に縁がないからストリップ通いしているわけである。いつも絶世の美女を眺めているので、いまさら結婚とか彼女を作ろうなんて気は更々ない。入場料さえ支払えば、いつでも好きな美女に会いに行けるから、それで十分幸せなのだ。

 

 ある日、馴染みの踊り子さんがステージで「百鬼夜行」の演目をやっていた。観た瞬間、

「なんで、こんなお化けの演目をやっているんだろう。私はお化けは苦手なんだ。」正直そう思った。

 私は田舎の大きな屋敷で育った。最悪なことに厠が外にあった。そのため、夜にトイレに行くときは、お化けが怖いから、居間から厠までの廊下の電気を全て点けて明るくしないとトイレに行けなかった。ましてや寝静まった夜中にトイレになんか行けない。それくらい、暗いところやお化けが苦手だった。

 一方で、私は漫画大好き少年だった。その中に‘ゲゲゲの鬼太郎’があって、それに登場する妖怪だけは興味があった。漫画ノートを付けて、自分なりに妖怪キャラクターの解説を書いていたほど。だから、演目「百鬼夜行」を観た瞬間に、昔の知識が蘇ってきた。かといって、説明できるほど正確に記憶しているはずもなく、すぐにネット検索を始めた。

 

 ピクシブ百科事典によると、次のようにある。・・・

百鬼夜行とは、妖怪が大行進すること。漫画・アニメでは「ひゃっきやこう」と言われる事が多いが、「ひゃっきやぎょう」が、正しいとされる。

 百鬼夜行とは、深夜の町を鬼や妖怪などの異形の存在たちが徘徊すること、もしくはその集団の存在を指す言葉である。 もしそれを間近で見ると、その人は死んでしまう。正月、2月子日、3月・4月午日、5月・6月巳日、7月・8月戌日、9月・10月未日、11月・12月辰日には百鬼夜行が起こるという。そのため、当時の貴族はその日には外出を控えたという。なお「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」という呪文を唱えると、百鬼夜行の害から避けられるらしい。・・・

 一方、ニコニコ大百科によると、より砕けた説明になっている・・・

百鬼夜行とは、妖怪ものに登場する鬼や妖怪及びその類の行進のこと。「平安時代に愛人の家から帰る途中に鬼や妖怪の大部隊に遭遇して念仏唱えながら震えていました。」という本当か嘘なのかわからないが、宇治拾遺物語・今昔物語集にそのような話がいくつか収録されている。主に百鬼夜行に遭遇した人間はいずれも念仏や札を握りしめており生還するのが一般的で仏の偉大さを説くと同時に、遭遇者が死んでしまうような三流怪談話より幾分かリアリティがある。

なお、「夜行」の読みについては地方によって異なる模様。「やこう」でも間違いではなく、地方によっては「やぎょう」とは読まない事もある。結局は2つとも正しいのでどちらで読んでも大した問題はない。・・・

辞典によって少し説明が異なることもあるね。いろいろ読み比べるのも大切だな。

それにしても、愛人宅へお忍びなんかするから、妻が鬼の形相に見えるんじゃないのかな(笑)。まあ、百鬼夜行というのは、その名の通り「百」の「鬼」が「夜」に「行」くと単純に理解すればいいようだ。たくさんの妖怪たちが夜中のパレードをしているところを思い浮かべればそれで間違いない。

 とまぁ、少し勉強になったから、ストリップのステージで百鬼夜行を観たけど、よしとしよう!

 

2.   還暦祝いの案内と参加

 

 そんなある日、私のところに田舎から一通の案内が届いた。同窓会の案内だ。ところが毎年の案内とはちょっと違う。往復ハガキではなく丁寧な封書になっている。開封したら、今年は還暦祝いとして温泉旅行を兼ねたものになっていた。

 いつの間にか私も歳をとり還暦を迎えていた。まぁ既に会社は退職していたから、いまさら感はあったものの、中学時代の同窓生に会いたくなり、すぐに参加する旨の返事をして25,000円ほどの参加費用を振り込んだ。

 田舎にはたくさんの友人が残っており、毎年必ず同級会をやっている。田舎を離れた私にも毎年同級会の案内は届いていた。しかし、東北の冬は雪が多く、私はお正月の開催に合わせて帰省することはなかった。30代半ばで一度だけ参加したことがある程度。

 そもそも私はほとんど帰省しなかった。帰ってもせいぜい親元に少し顔を出す程度。

 ただ田舎には一人親友がいて、彼とだけは帰省する度に必ず会って酒を呑んだ。彼は地元の総合病院に臨床検査技師として勤めており、今では部長格になっている。彼が田舎にいるお陰で、中学の同級生の状況がよく分かった。誰がどこに勤めていて、結婚して子供がどうとかの情報が入る。また既に亡くなった者もいる。不思議にも若い頃にスポーツなどで身体を鍛えていた者が早死にしていた。また自殺した者もいる。いずれにせよ、いろいろと情報を与えてくれる親友の存在は大きい。

 彼からメールが入って、同窓会だけは必ず参加してほしいと事前に連絡があった。私もそのつもりだった。

 私の中学の同窓会は全員で130人くらい。A組、B組、C組の三組。一クラス40人を超える規模だった。ちなみに私も親友もB組。毎年同級会の案内が来ていたのはB組の話。だから、他のA組やC組の連中とはとんとご無沙汰している。ほとんど忘れかけている。かろうじて地元の小学校出身者くらいか、あるいは中学一年のときに同じクラスになった者くらいしか記憶にない。

 親友が「おまえは常に学年トップの成績で有名人だから、おまえのことを知らない人は誰もいない。しかし、おまえは殆ど田舎に顔を出していないから、みんなのことを思い出すのが大変だと思う。みんな歳をとって外見が変わってしまったからね。男はかろうじて思い出すかもしれないが、おそらく女はまったく分からないんじゃないかな。」と話していたが、実際にそれは当たっていた。

 

 6月6日の夜、夜行バスに乗って田舎の秋田に向かう。早朝6時、母親に車でバス停まで迎えに来てもらう。久しぶりに母親とゆっくり朝食をとる。そして、親友と待ち合わせして、14時に集合場所に向かう。そこから送迎バス二台で秋田温泉に行くことになっていた。

 バスの中でも、昔の懐かしい顔がたくさんいた。みんな、私を見て笑顔を送ってくれる。「やぁ、ずいぶん久ぶりだな。元気そうでよかった。」と挨拶される。男性は何人か顔が分かったが、女性は本当に顔を見ても分からなかった。親友と一緒に隣り合わせでバスに乗ったので、あれは誰だっけ?とひそひそ確認した。

 いまさらになるが、久しぶりに同窓会に参加するなら、事前に中学時代の卒業アルバムで名前と顔を再確認しておくべきだろう。事前勉強しておくとかなり違う。実際、外見がかなり変わっていて名前を言われても思い出さないことが多かったからね。

 秋田温泉で他のメンバーが既に集合していた。総勢70人ほど集まった。半数以上集まったから上出来なのかもしれない。

 

3.   旧友との再会

 

秋田温泉に着いてすぐに二人組の女性から声をかけられた。「お久しぶりです。分かりますか? 私、美子です」。「えーっ!? あのお寺の美子ちゃん?」全く昔の面影がなかった。小さい頃からの幼馴染で、密かに想いを寄せていた女の子だった。かわいかった美子ちゃんもすっかりおばあさんの顔になっていた。声を掛けられなかったら誰か分からなかった。一緒にいたもう一人の女性は名前を言われたがどうしても思い出せなかった。ほんと、昔ほのかに恋心をときめかせた女の子でもないと全く思い出せないものである。笑

それにせよ、約45年ぶりに会う同窓生の変わったこと変わったこと。みなさん、いい、おじいさんとおばあさんになっている。

 

男性陣の中には、風貌が昔と変わらない人も多少はいた。そういう人は髪が依然と変わらずふさふさしている方。たいていは白髪や禿になっている。おじいさん顔になっていて、どうしても思い出せない人もいる。が少し話すとなんとなく思い出す。

ほとんどの人はサラリーマンで、実家の農業を片手間に手伝っている人が多いかな。普通科の高校に進学し大学に行った者は数えるしかおらず、多くは農業高校や工業高校に進学し、そのまま地元の会社に勤めていた。

 私の故郷は、周りが田んぼと山ばかりの田舎だったので、あまり勉強のできる人は多くなかった。みんなサッカーや野球などのスポーツクラブに入っていたが、だいたいそこで酒や煙草をおぼえ、中には不良化していく者が多かった。高校生にもなると、とさか頭でだぼだぼの学ランを着ている‘つっばり兄ちゃん’もたくさんいた。勉強に興味がなかったら大体そうなる。でも、彼らはみな私の幼馴染なので彼らを怖いと思ったことはない。彼らは学年トップの成績だった私のことを一目おいていたのだ。小さい頃は宿題や夏休みの課題などよく勉強を教えてあげてたからね。

 彼らはみな田舎では、もういっぱしのお父さんになっていた。村の会合で役職についている人も多い。立派に村の顔になっているわけだ。思えば、昔成績トップだった私が、今や早期退職してストリップ通いしているわけだから、今では一番の不良なのかもしれないな。(笑)

 彼らの風貌を見ると、やはり昔つっぱりしていたイメージが残っている。そのせいか、やくざ映画の組長や若頭のような感じを出している者もいた。笑

 私は年間100本以上の映画を観るので、どうしても映画のイメージで見てしまう。笑

 

 次は女性陣の話。

 大きな声では言えないが、私は女性たちを見て、百鬼夜行を思い出していた。やくざ映画の次は妖怪ホラー映画になるか(失礼↓) まるで映画を二本立てで観ている気分(笑)。

 あれだけ、かわいかった女の子が今や見る影もないおばあさんに変身しているのである。どうしても昔心をときめかせていた相手を目で探してしまう。そうしたらすっかり変わっている。なんか私の青春の思い出が崩れ去るような気分だった。これも、ふだんストリップで絶世の美女ばかり見ている反動だろうか。

 

 秋田温泉では、すぐに還暦のお祓い神殿行事、そして参加者全員の記念写真と進む。中にはそれだけに参加して帰っていく者もいたが、かなりの人は秋田温泉に宿泊する。部屋割りをして、宴会までの時間をひと風呂浴びに行く。

 そして宴会が始まる。みんなラフな浴衣姿で集まる。

 最初に今回の同窓会の幹事が挨拶する。彼は生徒会長をやっていた人物。

「今年還暦を迎える我々は、昭和の時代を30年、そして平成の時代も30年、過ごしてきたことになる。ちょうど30年30年と区切りがいい。だから、次の30年後も、こうしてみんな元気で再会したいものです。」という挨拶が印象に残った。90歳まで生きていれるかなとふと思う。しかし今や人生百年の時代になってきたからな。

 考えたら、もう令和の時代に入ったが、新たに即位された天皇陛下(徳仁さま)は1960年2月23日生まれで我々と同学年。我々庶民は還暦を迎え、ある意味、ひと仕事終えた感じ。私はこれからは好きなことだけやるぞ。当面はストリップ漬けになりたいと思っているが、彼の場合はこれからが本当の仕事になる。ご苦労なことだと思う。彼はそもそもストリップなどには行けないだろうしな。話を戻そう。

 宴会の席はくじ引きで男女交互に座った。私の隣に、全く思い出せない女性が座った。挨拶したら、同期のアイドル的存在の女性だった。昔はめっちゃ綺麗な娘だった。今や全くその面影がなく、ずいぶん老けて見えた。苦労が顔に出てる気もした。いろいろ話したら、彼女には今や孫が五人もいて、すっかりいいおばあちゃんになっていた。

 こんな感じで、女性の場合は相手の方から声をかけてくれる場合以外は、ほとんど話もできずに終わった。だから最後まで名前と顔が一致しないで終わった方も多い。

 

 一方、男性の方は名前と顔がほとんどフォローできた。やはり酒を呑み交わすと昔を思い出す。

 田舎の方が大酒飲みが多い。ところが不思議と腹が出ている人がいない。私だけがぽっこり腹が出て太っている。みんなが私の腹を見て驚いていた。「人間が丸くなったんだよ」とごまかしたが、そういう問題ではない。私は昔ほんとに痩せていた。体重も55㎏ぐらいだった。今や73㎏もあるから、その余分なものが全てお腹についていることになる。身長はほとんど変わっていないからね。

私が以前勤めていた会社では酒飲みでぶくぶくと腹が出ている人が多かった。だから歳をとれば腹が出るのは普通だと思っていた。ところが、田舎の人は健康的なんだなとつくづく感心した。酒を呑んでも深酒せず、翌朝早くから起きて畑仕事に出掛ける。これが田舎者の気質なんだろう。その点、都会人は深酒して最後にラーメンを食べたりするから、お腹が出て不健康になるんだなーと痛感した次第。

酒の飲み方と運動を考えるいい機会にしたいところ。

 

男女ともに見ていて思うことは、還暦を迎えれば誰しも老ける。肉体的にも精神的にも。話題も、老後のこと、健康のこと、子や孫の話、親の介護の話などになっていく。誰しもいいおじいさんやおばあさんになってしまうのは致し方ないこと。もしかしたら、そう思われるのが嫌で参加しない人もいるのかもしれないな。

ただ、中には、歳をとっても、若々しく輝いている人もいる。そういう人は若い人と常にかかわり気持ちを若く保っていること、また長年の徳を積むことで気品が出ているのだと感ずる。男の場合は顔が履歴書になっていて流石だなと思う人もいる。女性の場合は老けても気品を保っていて相変わらず魅力的に見え、ある意味ホッとすることもあった。

私が他の人からどう見えるのかは分からない。しかし、ストリップ通いしているお陰で常に若い女の子と接している。お陰で気持ちだけは他の誰よりも若く保っていると確信する。

彼ら同窓生と過ごした13~15歳の頃は、誰もが若さで輝いていた。若さそのものが輝きなのだと感ずる。だから、45年ぶりに見た同窓生の姿に、彼らの輝きの落差に唖然としたのだろう。

歳を重ねることで、若さの輝きは薄れていく。違う輝きを身に付けないと輝きを保てなくなる。やはり歳の取り方で人間は差が出てくる。これからもっと差が出てくるだろう。

最終的には、死んで土に帰っていくことはみな同じ。それまでの生き方をどうするか、新しい課題なのだろうな。少なくとも、私は還暦で人生が終わるのではなく、これから新しい人生が始まるのだと思っている。そのために、これからは自分の好きなこと、自分が楽しいと思えることだけやっていきたい。ストリップもそのひとつだ。

 

4.   百鬼夜行をおもう

 

さて、話を百鬼夜行に戻そう。

映画好きの私は、当然ながらジブリ作品は殆ど観ている。その中で、妖怪がたくさん出てくる作品がある。

まず百鬼夜行が直に登場するのは「平成狸合戦ぽんぽこ」である。

内容は次の通り。昭和40年代、多くの狸たちが楽しく暮らしていた多摩丘陵に、多摩ニュータウン建設による山や森の破壊が迫っていた。ある日、多摩の狸たちは結集し、総会を開いて開発阻止を決議する。伝統的変化術である化学(ばけがく)の復興と、四国と佐渡の化け狸に助力を乞うことが決定される。

そして、四国から三長老がやってくる。三長老の指導のもと、狸たちは具現化した百鬼夜行でニュータウンを襲う、妖怪大作戦を決行する。しかし、ニュータウン住民には拍手喝采のイリュージョンにしか映らない。作戦が大失敗に終わると、狸たちは意気消沈し結束が乱れていく。・・・

現代の日本人には、悲しいかな、百鬼夜行を怖いものと見る感覚がない。逆に面白半分で見られ、あげくにレジャーランドの宣伝に利用されてしまうことになる。

もうひとつ、妖怪と言って忘れてはいけない映画が「千と千尋の神隠し」である。

10歳の少女が神隠しに遭う。千尋が迷い込んだ世界は妖怪の棲むところなので、そもそも人間が踏み込んではいけないところだった。

この映画にも、百鬼夜行のような妖怪がぞろぞろ出てくる。最初の場面で、日が暮れると屋形船に乗って妖怪たちがやってきて、ぞろぞろと橋を渡り湯場に向かうところがある。妖怪好きにはぞくぞくさせられる。他にも、湯場で働く女たちは百鬼夜行絵巻に描かれているものに似ていたりする。

この映画で、私が印象的だった妖怪がオクサレ様(オクサレさま)。汚い泥の塊りの姿をしている。その泥はごみと穢れをたっぷり呑み込んだヘドロで、それゆえに凄まじい悪臭を放つ。湯屋の皆はオクサレ様を「腐れ神(くされがみ)」と決めつけて、迎え入れはしても近付こうとしなかったが、千尋だけはすぐ側で甲斐甲斐しくお世話をした。その結果、オクサレ様の体に刺さって抜けない棘(とげ)のようなごみに千尋が気付き、それを引き抜いたことで、オクサレ様が長年に亘ってその身に抱え込んでいたごみや穢れが堰を切ったように吐き出され、神は本来の姿を取り戻す。正体は“名のある河の神”であった。その姿は、河の流れそのものであろう半透明で不定形な長い体に、能面の「翁」にも通じる木彫の仮面のような顔を持つ、好々爺然としながら神々しくもあるものであった。河の神は歓喜し、湯屋の高所にある格式高い唐破風の扉から飛び去ってゆくが、去り際には世話になった千尋に謎の団子「ニガダンゴ」を授け、湯屋には大量の砂金塊を残していった。

この場面は、妖怪が‘河の神’だったことを示す。しかも、その顔が好々爺だったことが意味深い。まさしく神はおじいさんの顔をしているのだ。

 

これらの映画を観ながら思うのが、妖怪というのは日本古来の「八百万(やおろず)の神々」が化けたものだということ。日本人は全てのものに神が宿っているという古来からの信仰がある。それが百鬼夜行の源なのだ。妖怪も妖精も全て神が形を変えたものなのだ。

だから、百鬼夜行がパレードしているなら、人間は首を垂れてかしずく必要がある。まるで大名行列が通るときの庶民のようにね。彼らは人間より偉い神なのだ。恐れ崇めなければならない。まぁ、もともとの百鬼夜行は、出会ったら死んでしまうからと夜は出掛けてはいけないことになってるわけ。

とくに日本人は自然を崇拝する。だから「山の神」や「川の神」などの自然には全てに神が宿るものとした。

神を侵してはいけない。だからこそ、わざと神を妖怪に変え、子供たちに妖怪を恐れるようにした。これが人間の知恵なのである。

 

そこですぐ気づくのが、現代日本は夜が明るくなり「眠らない街」になってしまったことだ。

本来、夜は暗くて怖いものじゃなきゃいけないと思える!!! 夜というのは電気という技術力で昼のように明るくしてはいけないものなのだ

夜には夜の世界がある。その世界に生きる生き物もいる。そのひとつが妖怪と考えてもいい。妖怪の世界はパラレルワールドなんだ。人間が今の世を生きているのと同時に、妖怪もまた生きている世界があるんだ。夜を明るくしたら彼らの邪魔になるだろう。

本来、人間は暗い夜には眠らなければいけないように作られている。だから古来から、大人たちは子供たちを早く寝かせつけ夜遊びなんかしないように、妖怪を作って子供たちを怖がらせてきた。それが人間の生きていくための知恵だったのだ。改めてそう思う。

 

ジブリ作品は一貫して次のように主張している。

人間にはけっして侵してはいけない神の領域がある。だから「人間には自然を操作できる技術力がある。いずれ宇宙空間に衛星や反射板を打ち上げて、太陽光を調整したり、台風の進路だって操作できるはず。生命だって操作できるんだ。」なんて言って、人間の技術力を驕ってはいけない。自然はおとなしくしていれば恵みを与えてくれるが、そむけば自然災害の猛威をふるう。これは長い歴史の中で痛いほど分かっているはずだ。だから、もっと自然を敬い、自然との共生を図っていかなければならない。人間の生き残る道はそれしかない。そう強く主張している。

実はジブリ作品には未来を扱ったものが二つしかない。「風の谷のナウシカ」と「未来少年コナン」だけ。そして、その二つとも人間自身が作り出した兵器(原爆など)により人類が破滅した場面設定から物語がスタートしている。宮崎駿監督はもう人類に未来はないと考えているのかもしれない。そのため、残りの作品は全て昔の懐古主義に徹している。すなわち、自然と共生してきた昔に帰れ!という主張なのだと感ずる。

 

もうひとつ思うことがある。

たしかに、小さい頃は妖怪(おばけ)が怖かった。しかし、大人になると怖い対象が変わってきたことに気づく。

勤めていた会社関係でも嫉み妬みが蔓延していた。会社の中で出世していくのに、人間としての器より好き嫌いで人事されていたり。上にいけばいくほどにそうなっていた。最近では日産のカルロス・ゴーンが話題になっているが、あんなのは大なり小なりどこの会社にもある。それはおかしい!とまともな意見を言って反発すると組織から弾き飛ばされる。私もそれを経験した。丸いものに巻かれるようにしないと組織の中では生きていけない。悲しいかな、それが現実だ。

私が趣味と思って楽しんでいるストリップの世界も嫉妬心渦巻く世界であることに変わりない。私自身はなるべく綺麗なものだけを見たいと思い、ファンタジーの世界に生きようと努めているが、現実はそうではないことがたくさんある。

そうこう思うと、なんか人間が全部おばけに見える。妖怪の方がかわいくて、まともじゃん。そんな気がしてくる。

 

この世で一番怖いのは、お化けではない。人間なのだと。

人は生まれた時は無の状態。唯一無二の存在。ところが、大きくなるにつれ、他人を意識する。他の人より上の地位に付きたい、他の人より金持ちになりたい等と考える。そこに嫉み妬みが生じる。こうして、どんどん穢れた存在になっていく。

歳をとって還暦を超えて思うことは、次第に相手の地位のことは意識しなくなること。「おまえは会社の中でどのクラスの地位なのか?」「年収はどのくらいなんだ?」とかは話題にならなくなる。そんなことを人と比べてもどうしようもないことを悟りつつある。今、元気で生活できていればそれでいいと割り切るようになる。周りでは早死にする人もいるくらいだから、今、自分が生きていられることが有難いことと思えるようになる。周りの友達もみんな元気で長生きしてほしいと純粋に思う。これはある意味、人間から神の領域に近づいたことである。

還暦を迎えた仲間が百鬼夜行に見えたということは、みんな歳をとって老けていき、最後は神になることを意味する。究極は、人は死んだ後は土に帰り、神の領域、つまり自然の中に戻っていくことなんだ。

もう誰彼の話はない。自分もやがて誰でもなくなるんだから。

そう思ったら百鬼夜行に見えることは決して嫌なことではない。

 

いろいろ考えさせてくれた還暦の旅だった。

 

                                    おしまい