42歳の誕生日に向けて
カウントダウンが進む中
初めて「自分史」なるものを書いています。
その1 幼少期アメリカ編
その2 帰国、受験、不登校編
その3 シドニー高校留学編
その4 大学編
その5 就職編
その6 大学院編
その7の① 政経塾編
その8 フリーランス編
まで書くことができました。
誕生日までに
終わらなかった🤣
まさかこんな一つひとつの記事が
長くなるなんて、、
しかも気分的には
事実しか書けていなくて
肝心な「気持ち」や「想い」の
部分が書けていない、、、
ま、いいや。
とにかく書き進めます。
今までずーっと勉強の話とか
仕事の話とか
何をしてきたかの話ばっかり
書いてきて
人と感情
に関する記述が全くないので
田草川かおる=ロボット疑惑
が出ている感は否めないのですが(笑)
一応人並みに恋愛したり、失恋したり
友人がいたり、飲みに行ったり
人間らしいこともしています。
それらはそれで、別バージョン
(小さい章の3.3とか5.2)で
書こうと思っているのですが
【その9】だけは結婚に繋がるので
一応恋バナを少々。
これは私側の一方的な話なので
旦那さんからは「意義あり」と言う
コメントがあるかもしれません。
まぁこのブログを
旦那さんが読むことは無いだろう
と勝手に思っているので
私の話を書き切ります。
私たち交際0日で結婚を決めました
と言うと、
えーっと驚かれることが99%。
残り1%はやっぱりと
言う反応をします。
なぜならば、、、
旦那さんは
高校の時の同級生だから。
ここでチラリと登場している
高校2年生の時に
他校から転校してきた日本人
それが旦那さんです。
えっ、それって高校の時から付き合ってたの?
と聞かれる率が100%ですが
高校生の時は
別の人とお付き合いしていました(笑)
高校卒業後、私は日本に帰国したし
旦那さんはずっとシドニーにいて
日本で就職したものの
年に一度会うか会わないかと言う
関係が10年以上続いていました。
それがなんで結婚になったかというと
私が振られたんです。
大学を卒業してから、
付き合っては別れ、
他の人と付き合っては依を戻し、
そんな関係だったJ君に
かおるとはまだ結婚できない
とはっきり言われてしまった29歳の冬。
え、私来年30だよ?
知り合いみんな結婚してるよ。
あなたの就職も決まったし、
もう結婚のタイミングでしょ?
と色々な想いが交錯しましたが
振られてしまって自棄になった私は
大学受験しようとしていました(笑)
慶應▶︎京大▶︎と言ったら、、、
残るは東大。
そう、無謀にも
東京大学の大学院の博士課程を
受験しようと思って、
願書を取り寄せていたんです。
時は2月。
4月入学はも試験が終わっているから
秋入学を目指して
今から準備しよかなぁ、、、と
高校の同窓会で漏らした時に
旦那さん的に「時は今」だったらしいです。
しかも、彼が仕事で中東に行くことになり
帰国がいつだかわからない、、、
3ヶ月なのか、半年なのか、一年なのか。
その間に私が30歳になる前に
誰でもいいから結婚するか
博士課程に受かって、
5年間は学問の世界から抜け出ないか
どっちかになることを危惧して
中東に出発する二日前の夜
食事に誘ってくれました。
てっきり最後の送別会だと思って
AとかKは来ないの?
と東京で働く同級生の名前を挙げても
煮えきれない返事。
職場が近かったから
最後にもう一度和食が食べたくて
声がかかったとしか
思っていなかった私を
見事に驚かせ
プロポーズされた時
迷わず受けた自分がいました。
16歳の頃から知っていて
その頃から全然変わっていなくて
きっといいパパになる。
それだけの理由で、
ハイと返事をしたものの、
実はその時、旦那さんが
どんな仕事をしているか
なんで中東に行くのかも
ほとんど知らないまま。
でもなんとなく勘で
大丈夫って思ったんです。
プロポーズを受けたものの
その翌々日には出発することが
決まっていて、
とりあえず恵比寿の家の鍵を渡されて
こっちに引っ越せば
と言われ
旅立ちを見送りました。
初めて行った旦那さんの部屋で
いきなり鍵を渡されて
途方に暮れる私、、、
まぁ、すぐには動けないので
とりあえず親に報告し
私の誕生日の時に
48時間だけ帰国してくれた時
親に挨拶してもらって
旦那さんの方にも挨拶に行き
着々と結婚への準備を始めました。
いつまで続くかわからない
と言われていた
中東のプロジェクトは
意外と早く終わり9月末に帰国。
10月から同棲を始め
12月に入籍し
1月にシドニーで旦那さんの家族に
挨拶をしつつ、高校の友達にも報告。
そして4月に山梨で
泊まりがけの結婚式を
開催することにしました。
と言うのも、結婚式に友達だけを
呼ぶのではなく
友達のパートナーとか家族も招待
したかったんです。
せっかくの休みの日
パパとかママが披露宴+2次会で
半日以上家を開けるのって
残された家族はあまり楽しくない、、、
なので、
家族でお出かけ気分で
来てもらって、
式と披露宴の間に
ワークショップに参加して
もらうことにしました。
ここら辺、
イベント屋の血が騒ぐ(笑)
海外から来るお客様もいるので
茶道体験とか。
子供がいるので、
乳搾り&バター作りや
バルーンアートレッスンとか。
アイシングクッキーのデコレーション、
リサイクル布で草履作り
ヨガレッスンなど
結婚式らしからぬイベントを挟み
みんなになるべく楽しんでもらおうと
趣向を凝らして見ました。
こんな結婚式出たことない!
また来たい!
たくさん喜んでもらえて
企画した甲斐がありました!
宿泊できないお客様を大型バスで
お見送りした後
泊まり組は
星を見に行くナイトツアーや
温泉に入ってリラックス。
翌日もハイキングや
地元のアイスクリームを食べながら足湯など
小旅行として楽しんでもらえたと思います。
結婚式を挙げた4月
実はすでに妊娠していて
お腹には長女がいました。
仕事を辞めて、
専業主婦になった私は
することがなくて
優良妊婦を心掛けた毎日。
根が真面目なのか
有機野菜と玄米食、
毎日2時間散歩をして
週に一回はヨガ通い。
祐天寺のスタジオに行くために
西麻布から恵比寿まで歩いて
日比谷線に乗ったり
とにかく動いて、食べて、寝ていました。
出産に関するドラマは
それだけ一章書けるくらい
あるのですが、
9月に無事長女を出産。
ところが、旦那さんの仕事が
忙しすぎて
ほとんどワンオペ育児状態。
旦那さんも
初めての子どもに対して
頑張ってお世話をしたい気持ちがある
のは伝わってきましたが
とにかく忙しくて、
家にいない、、、
同じタイミングで出産したり
妊娠した友達がいたので
話し相手をしてくれるのが
唯一の救いでした。
当時、旦那さんは外資系の
コンサルで働いていて
なるべく通勤時間を短くしたい
(ここら辺、夫婦で似てます)
という理由で、
オフィスから徒歩5分の場所に
住んでいたにもかかわらず
帰宅は深夜、早朝が当たり前。
食事を作っても食べる気配なし。
お弁当を作ろうか?
と聞いても、
食べる時間がないから
と断られ、
私の関心は娘にだけ注がれている状態でした。
新米ママだったので
慣れないことも多く
季節が秋から冬に変わる頃は
寒いから出かけることもあまりなく。
家に来てくれる友達を
もてなすようになり
少しずつ暖かくなって
再び家の外に出るようになった頃
3.11が起きました。
その日は、ママ友の家で
パン教室をしてもらう約束で
声をかけてくれたKちゃんと、
Tちゃんと私で
子連れでパンを作っていたんです。
そろそろ焼けるかなぁ
と言っていた頃、大きな揺れ。
Kちゃんの家は新築の一戸建てで
作りが丈夫だったせいもあり
そこまで恐怖か感じませんでしたが
ガスオーブンが止まって
あれ?どうしよう
と言っていたところで
テレビをつけ
そこからはずーっと大画面に
視線が釘付け。
なにこれ?日本なの?
どこか外国の映像?
目の前に流れる崩れた家屋
津波にのみ込まれる車
会場で炎上している何か
あのまま行ったら波のまれちゃう!
えっ、どうやって気づいて貰えばいいの?
テレビを消せば良かったものの
なぜだかそこから何時間も
私たちは見続けて
それが脳裏に焼き付いてしまいました。
しかも、みんなは家族と連絡がつくのに
私は旦那さんとも、母とも、父とも
全く連絡が取れない。
Kちゃんの家に言ってると
伝えては来たものの
忙しい旦那さんが覚えているかも
わからないけれど
電車も止まり、動けない。
KちゃんとTちゃんの旦那さんが
帰宅してきた夕方。
まだ家族と連絡が取れない私は
長女と一緒にKちゃんの家に泊めてもらい
翌日は実家に向かいました。
そこには明け方4時に
帰ってきた母の姿だけ。
お父さんは?
まだ連絡がつかないの。
もちろん旦那さんとも連絡は取れないまま。
このままどうなるんだろう?
唯一の救いは、
長女が全く影響を受けていなかったこと。
相変わらずお腹が空けば泣いて
母乳を飲み、
オムツを買えるようにと泣いて、
抱っこで寝てくれました。
何もかが信じられないような
状態の中
変わらない日常があることが
どれだけ心強いか。
万が一のことがあったら
一人で育てていけるのかな?
都内のビルもかなり揺れて
怪我人が出たとのニュースを見ながら
ぼんやりと今後のことを
考えていました。
3.11に対する私と旦那さんの反応は
180度違っていました。
東北にいる友達のために
なんとかしなきゃ
と物資を集めて、
運んでくれるところまで
ベビーカーで届けようとする私と
一刻も早く、日本を出て
安全なシドニーに行こう
と主張する旦那さん。
日本全体が大変な状態にある時に
自分だけ安全な場所に行くなんて
死んでもできない
と泣き叫ぶ私に対して
誰が大事か考えろ、
自分の子どものことを考えないお前は
母親失格だ
と声を荒げた旦那さんを見て
こんな人知らない
とショックを受けました。
私の知ってる旦那さんは
いつだって穏やかで
話を聞いてくれて
私のやりたいことを尊重して
応援してくれる人
だと思っていたのに
目の前でダメ出しをするこの人は
一体誰なの?
この時から、私の中で旦那さんに対して
言葉にできない深い溝が生まれます。
ドウセナニヲイッテモキイテモラエナイ
冷静に考えてみたら
余震が続く中
家具も全てひっくり返って
ぐちゃぐちゃの家にい続けるよりも
シドニーに行く方が
安全だったと思います。
家族を最優先して考える
旦那さんが正しい
頭ではわかっていても
気持ちがついていけなかった。
その気持ちに寄り添ってもらえないまま
シドニーに行ったことが
身も心も縮れる感じがして
ずっとトラウマとして残りました。
成田エキスプレスに乗る直前まで
どうやって支援金を集めればいいか、
千羽鶴でもなんでもいいから
手先を動かして
募金活動に関われないかを考えて、
電車の中でも泣きながら友達に
メッセージを送り
空港でも電話をかけ続け
たった一人見送りに来てくれたAちゃん
ごめんね
と言って出国。
旦那さんと口を聞くことも
目を合わすこともできなかった私。
結局3.11がきっかけで
シドニーに一時避難した後
その3ヶ月後には家族3人で
移住という選択をします。
いずれはビザの関係で
シドニーに引っ越すことは
わかっていたけれど、
強制的に早まったんです。
前にも住んでいたから大丈夫。
旦那さんも、友達も、私の実両親さえ
そう思っていたのかもしれませんが
お気楽高校生の留学生活と
生後9ヶ月の子どもと連れた
片道切符は全然意味が違います。
一人なら自由に動けるのに
娘がいたら外出すらままならない。
当時はペーパードライバーだったので
出かけることもできず
朝、旦那さんが会社に出かけると
帰ってくるまですることが全くありません。
6月のシドニーは雨が多く
暖房もない家は寒くて
娘と二人でベッドの布団にくるまって
私は1日泣いていました。
1LDKのマンションは
広くて新しいけれど
家具もほとんど無いし
マンション内の住民の方と
すれ違うことも無い
孤独な暮らし。
1年間かけて家を探して引っ越しても
やっぱり車が無いと出かけられない。
日本にいた頃は
自分で考えて、自分で行動し
自分で決めて生きてきたのに
ここにきて
急に羽をもぎ取られた
野生の鳥のように
なにもできない自分
旦那さんに頼らないと生きていけない自分
やりたいことがなにもできない自分と
向き合わざるを得なくなります。
長女が2歳になるちょっと前
シドニーに来て一年が過ぎた頃
家を買いました。
この家探しも別の章にできるくらい
長い道のりで、、、
2011年に来た頃
シドニーの不動産価格は上昇中。
10年後の今は
さらに高くなっていますが
当時、旦那さんも私も
物価の感覚が日本仕様。
3.11の前は日本で家探しを
していたので
私たちの感覚として
3LDKの戸建てが8000万
くらいでいました。
もちろんこれは当時住んでいた
西麻布価格ではなく
もう少し子育てしやすい
地域で見ていた物件です。
ところが、シドニーで家を
探そうとしたら
その値段では全然見当たらない(涙)
私たちが見ていた地域は
自分たちが子ども時代を
過ごしたところ。
旦那さんの仕事が先に
決まっていたので
職場から車で15〜20分。
評判のいい公立の学校の近くで
緑が多く、
家族がたくさん住んでいるところ。
そんな好条件は、みんなが狙っています。
妥協に妥協を重ねて
買った今の家。
旦那さん的には大満足。
私には不満の対象でしかありません。
管理できない庭。
電波の繋がりにくい立地。
使い勝手の悪い間取り。
窓が大きくて、カーテンをしないので
外から丸見えでエネルギー効率が悪い!
でも、ローンを返すのは私ではないし
そもそも頑張っても
仕事が見つからない自分は、
一生旦那さんに頼らないと
生きていけない。
毎日惨めで
文句を言いたいけど
言ってもどうしようもない。
気持ちはすれ違い、
家の右半分と左半分に
別れて暮らす日々。
この頃お互い長距離走るように
なっていたのは
正当な理由で
家を長時間留守にできるから。
旦那さんが帰宅した20時から
1時間走りに出て
シャワーを浴びて寝る。
週末は旦那さんがトレランの練習と
称して、朝から夕方まで不在。
顔を合わせたら、文句が出ちゃう。
でも文句を言って相手を責めたくない。
もうとにかく毎日、毎日辛くて
母親相手に離婚したいって
メールを書いたり、電話をしていました。
あぁ、辛かった、、、
この時期のことは
今思い出しても、涙が出てきます。
そして旦那さんの事を
かなり悪く書いていますが
これは当時の気持ちで書いているから。
今はきちんと関係を修復し
私も変わったし、旦那さんも変わって
最幸のパートナーとして
支え合っています。
9年前の自分にこのことを伝えたら
驚くだろうなぁ。
諦めずに、続けて良かったと
10年後にもう一度振り返りたいです(笑)
次は最終章、
乳飲児を抱えての再出発〜起業編〜
です。
ようやく今の自分に
近いところが書けるかな!?