42歳の誕生日を迎える前に
自分史を綴ってみることにしました。
ブログを書き始めて10年。
実は初めての試みです。
恥ずかしくて途中で投げ出さないように
イイねで応援していただけると嬉しいです。
1990年10月。
出発してから丸5年が過ぎた頃
父の海外勤務が終了し
一家で帰国することが決まりました。
私は6年生になったばっかりの
学校を去るのが嫌で
最初はごねていましたが
今までも駐在一家が来ては去っていく姿を
見ていたので、最後は諦めモード。
帰国直前は
毎日のようにドラえもんを見て
自分の部屋のクローゼットで暮らし
日本で食べられる
アレやこれについて兄と語り
それなりに期待を高めての帰国でした。
ハワイで1週間遊んでから到着した成田。
住むところは、
母方の叔母が見つけてくれたマンション
という名のアパート。
アメリカに行く前に住んでいた
団地の5階よりは良かったですが
典型的な昭和の箱型3LDK。
嬉しかったのは、一階だったので
狭いながらもお庭がついていたこと。
あと、目の前が公園で
視界を遮るものが何もなかったこと。
アパートを出て、徒歩30秒のところに
コンビニがあって
みたらし団子が売っていたこと!!!
しかも3串で100円(笑)
アメリカに住んでいた頃
みたらし団子は母が手作りしてくれる
特別なおやつ。
お団子だけじゃない!
漫画も売ってる!
雪見だいふくも売ってる!
ビックリマンチョコも売ってる!
しかも安い!!!
アメリカでは高級品でたまにしか
買えなかったものが
あふれる店内に大喜びして
帰ったのも束の間
帰宅してから衝撃な事実が伝えられます。
転入する予定だった学校に
直ぐには通えない。
ちょうど5年生の二学期、
みんなは林間学校に行っていて
戻ってきてから
合流することになったんです。
そういえば、その日の朝
目の前にある学校に
たくさんバスが並んでいたような、、、
林間学校に行けなかったことは
そこまでショックではなかったんです。
嫌だったのは、
えっ、また5年生するの???
そっちの事実でした。
アメリカで早生まれとして学校に通い
しかも9月の新学年が始まったばかりの
私のマインドは、すっかり6年生。
実はアメリカの同級生も
特に日本人の子は
一つ歳上の子が多くて
土曜学校では別学年でした。
それなら5年生でも納得すべきところを
毎日通う学校で、
もう一度5年生をやり直すって
どういうこと!!
と文句タレタレ。
今思い返すと、
どれだけ天狗だったんだか
と自分でツッコミを入れたくなります。
文句を言っても仕方がない。
これまた帰国子女の宿命として諦めて
小学校に通う日々が始まります。
日本の小学校には
3年生の時一時帰国して滞在した
母方の実家で
数週間通ったことがあります。
いわゆる体験入学というもの。
その時は、アメリカに住んでいる
というだけで珍しいのに加え
短期間しか滞在しない「転校生」
という分類で、
みんながお客様扱いしてくれて
何も考えずに過ごすことができました。
ただ、本帰国で
卒業するまで通うとなると
話は別です。
「転校生」
という珍しいカテゴリーには
変わりなかったみたいですが
アメリカから来た=アメリカ人
だと思っていた子もいたみたいで
わざわざ6年生が覗きに来て
「へっ、黒髪じゃん」
といきなり言われたのには驚きました。
近づいてきては口を揃えて
「何か英語で話して」
と言われることに辟易して
I have nothing to talk about if you can't start a proper conversation.
(ちゃんとした会話をしてくれないと話すことはありません)
というか
Supercalifragilisticexpialidocious
というメリーポピンズの歌で答えていました。
見た目は100%日本人。
でも口から出てくる発音は100%外国人。
それを確認すると満足するのか
徐々に見物人は減り
やっと普通に通えるかと思いきや
やっぱり転校生っていちゃもんの対象に
なるんですかねぇ、、、
上履きを忘れて
土足で教室に上がったときは
こっぴどく怒られ
(アメリカには上履きの習慣がありません)
給食が食べられないと、
残した班は外遊びができないと
責められ
(パックの牛乳がどうしても飲めなかったんです)
挙げ句の果てには
授業中に自分の意見を述べたり、質問すると
授業が進まないから、質問しないでください。
と先生に注意され、成績表にも書かれました。
アメリカでは発言しない=授業に参加していない
つまり、クラスにいる意味が無い
と言われていたので、
先生が教科書を読み、
黒板に書いたことをノートに写すだけの授業が
ちっとも理解できず
しかも思った通り、算数は簡単すぎる、、、
学校への不満が溜まっていきます。
もう一つ、致命的なことがありました。
私、運動神経がすごーーーく悪かったんです。
足は遅い。
握力はない。
肺活量もない。
だから、ニューヨークにいた頃は
体育の授業は応援係とか審判をするのが
定番となっていました。
日本に帰る前にラジオ体操だけは
ビデオを送ってもらって
練習していたけれど
跳び箱、、、飛べません。
逆上がり、、、できません。
二重跳び、、、できません。
一輪車、、、乗れません。
そしてもちろん、
休み時間のドッジボールは
ちっとも楽しくない、
いじめに近い、
辛い時間でしかありませんでした。
小学校に対して
不満ばかり書いていますが
それなりに楽しい思い出も
残っています。
運動会で貢献できないのが
わかっていたので
応援用の巨大ポスターを
描かせてもらったこと。
クラブ活動で手芸部と料理部に入って
ぬいぐるみを作ったり
チーズケーキを焼いたこと。
そして毎日まいにち通った
図書室!!!
アメリカでは思う存分読めなかった
日本語の本が部屋中埋まってる!
1年間でどれくらい借りたか
覚えていませんが
片っ端から読み進めて行けたことは
本当に幸せでした。
私が日本に帰国したのは
小学校5年生の二学期。
その頃、帰国子女受験には
足切りがありました。
帰国して一年以内に受験すること
なので、駐在家庭の中には
母親と子供だけ長めに外国に
滞在するところもあったそうです。
我が家はその例に
当てはまらなかったので
受験できる学校が限られていました。
私には3つ上の兄がいて
兄は5年間日本人学校に通い、
塾にも通っていたので
受験するなら自宅から自転車でも通える
慶應義塾か法政を受けることに
していたみたいです。
私は5年間ずっと現地校と土曜学校。
日本語の読み書きには全く問題が
無かったのですが、
地理や歴史の基礎知識がゼロ
4教科ある受験は絶対にできない。
兄が受ける予定の慶應が
「頭のいい学校」
だと言われていることは
知っていたけれど
自分がその女子版には
受からないことも知っていた5年生。
それでも、地元の中学校には
行きたくない。
行きたい学校を目指すのではなく
今のままでは嫌という
なんとも後ろ向きな理由で
受験することにしました。
一個上の従姉妹が
日能研に通っていたので
テキストを見せてもらい
付け焼き刃の受験勉強が始まります。
私が小学校5年生の頃
塾に通って、受験をするのは
クラスの1/3位でした。
クラスのリーダー的な
賢い女子二人は受験しない組。
かおるちゃんも受験するの?
まるで踏み絵のような質問に
答える時、少しドキドキしましたが
嘘もつけないので
うん
と答えると、「ふーん」と
受験する子のレッテルが
貼られました。
受験する子は塾に行ってるから
勉強ができて当たり前
なんとなくそんな雰囲気が漂う
6年生の教室。
できる子とそうでない子。
できるのに学校では
できないふりをする子。
クラスの中の人間関係がなんとなく
複雑だなぁと感じてはいたものの
そもそもしっくり打ち解けていなかった私は
部外者の立ち位置に困ることもなく
淡々と勉強を続けます。
1991年2月、
中学受験が一斉に行われる季節
私もその中の一人として
試験問題に向き合っていました。
ただし、問題は帰国子女向けのもの。
結局一般受験は諦めて
帰国子女を積極的に受け入れている
女子校を受けることにしました。
国語、算数、英作文
日本語と英語の面接
難しいとも簡単とも思わずに
あっという間に終わった試験。
母と帰る道すがら
駅まで遠いなぁ、、、
とだけ思いながら歩いて帰りました。
結果は合格。
兄は慶應に合格。
二人とも受かって良かったね
と言われても、
なんだか敗北感の残った中学受験。
気を取り直して通い始めた一年目。
人生で初めて、一度も休まずに
通うことができました。
小学校時代の私は、
体が弱くて、すぐに咳が出て
学校を休みがち。
平熱がすごく低くて低血圧。
運動が苦手だから、あまりしない。
肩こりがあったり、偏頭痛がする
なんだか年寄りめいた子供でした。
そんな私が、
毎朝7時9分の電車に乗るために
6時に起きて、お弁当を作り
1日も休まずに学校に通い
一番驚いたのは母だったかもしれません。
そんなに楽しく通っていた学校に
通えなくなったきっかけは
とっても単純。
イジメです。
中学校1年生の三学期、
クラブ活動の途中だか、
終わってから帰る前にちょっと寄った教室で
クラスメイトのYちゃんが
いじめられている現場に遭遇。
中学生にもなって、
いじめなんてするのバカじゃない。
思った通りのことを、
深く考えもせず口にしたら
どうなるかは自明の理。
もちろん、今度は
自分がいじめの対象に。
無視されるのは
別に気になりません。
それより困るのは
備品がなくなること!!!
私立校の上履きは高いんです、、、
体操着もマーク入り。
中学生のお小遣いで
買い直せるものではありません。
置いておくと無くなるから
仕方ないから持ち帰る。
すると今度は
下駄箱の革靴が無くなる。
ロッカーには鍵がかかっていたけれど
ボロボロに落書きされる教科書。
ま、「う○こ」と大きくイラスト入りで
描かれていたのを見た時は
お嬢様学校っていうのは嘘だなぁ
って苦笑してしまいました。
それでもなんとか通っていた
中学2年生の一学期。
不登校の決め手は
机一面に焼きそばソースを塗られて、
ご丁寧に青のりを振りかけられていた時。
もう、いいや
と何かが吹っ切れました。
別に、どうしても行きたくて
入った訳ではない学校。
ここまで嫌な思いをして
通う理由は何もない。
そう決めたら、不登校児の誕生です。
ややこしかったのは
思春期特有の
自分を認めて欲しい
という気持ちと
自分のことなんて誰もわかってくれない
という相反する気持ちで
ずっと揺れていたこと。
勉強ができない、と思われるのが嫌で
家でも勉強を続けて、
図書館に通う毎日。
学校がある時間だと
不登校だと思われるから
3時半頃を狙っていくものの、
小学校の時の知り合いとは
絶対にすれ違いたくない。
だって、私は中学受験組だから。
学校どう?
って聞かれるのも
通ってないことを知られるのも
絶対に嫌。
図書館で借りてくるのは
24人のビリー・ミリガンとか
シーラという子とか
アガサ・クリスティのミステリーとか
決して明るいテーマではない本が多かったです。
10冊借りて、一晩で読み切ることもありました。
不登校の子が復活するまでの話とか
大検で成功した人の話とか
そういう本も読んでいた気がする。
箱庭療法とかアニマルセラピーとか
催眠術とか、そんなことが書いてある
本も読んでいました。
なんとかしたいと思ってる
でもどうしていいかわからない。
ここにいる自分は
本当の自分ではない。
楽しそうに学校や部活の話をする
兄と接するのが嫌で
自室に篭り、
食事の回数を減らし、
ちょうどその時話題になっていた
『完全自殺マニュアル』
を読んで、痛みなく死ぬ方法について
考える。
そんな14歳でした。
転機が訪れたのは
やっぱり突然。
いつものように図書館に行って
静かに自室に入ろうとした時
母親から
オーストラリアに行ってみない?
突然の提案に
なんと答えていいかわからず
今以外の場所ならなんでもいい
と半分投げやりな気持ちで
受け入れました。
中学校2年生の終わり。
決めた後は早かったです。
パスポートとビザの手配。
健康診断を受け、航空券を手配し
中学3年生になったばかりの5月
たった一つスーツケースを持って
成田空港を出発しました。
見送りに来たのは
母親と、
ホームステイ先を紹介してくれたMさん。
そしてMさんの息子のT君。
Mさんとはニューヨーク時代の知り合いで
T君は私の中で一番長く続いている幼馴染です。
あの時Mさんにオーストラリア行きを
勧められなかったら
一体どんな人生になっていたのか、、、
学校や退学し、
高校受験で別の学校に行くか
フリースクールに通うか。
どんなシナリオが待ち受けていたか
全くわかりませんが
今とは全然違うものになっていたのは確かです。
明日は
14歳の一人暮らし〜高校留学編〜
をお届けします。