🔷 シドニーで3人子育て中の現役ママ 🔷
40歳からの人生に迷いを無くす
最幸人生戦略カタリスト・ミエルカパートナー

田草川かおるです
(プロフィールはこちら

子育てに特化した情報はこちらのブログから


 



42歳の誕生日に向けて
カウントダウンが進む中
初めて「自分史」なるものを書いています。

その1 幼少期アメリカ編

その2 帰国、受験、不登校編
から続いて、
いよいよシドニー留学高校ライフです。

こうやって書き始めると
エピソードがたくさん出てきて
どこで止めればいいか、
がわからない(笑)

アメリカで経験した
人種差別の話とか

自傷しすぎて
手首がボロボロだった話とか
書いてもいいけど、

向き合うことがまだ辛いことは
飛ばしながら、、、

いずれ1.5とか2.2みたいに
追加で書き足すかもしれません、、、


 

お水、飲んでもいいですか?


高校時代
シドニーに留学していた


と人に伝えると

かっこいいね!
英語が話せるんだね!
良いなぁ。


と言われることが多いのですが、
私の留学のきっかけは不登校


せっかく受験して入った
私立の中学校に通えなくなって
だからと言って地元の公立校に
行く自分が許せず
たまたまご縁があったから
オーストラリアに行くことになりました。

正直、14歳の自分は
こんな私が家にいても
家族が持て余すだけ、、、

と、島流しされる気持ちで
片道切符を持って出発しました。

そうです。
14歳はもう一人で飛行機に乗れるので
シドニーには単身で飛び立ちました。

成田を夜に出て、
シドニーに着いたのは翌朝。

機内から見た朝日と、

シドニーハーバーに輝くオペラハウス、
どこまでも同じ色の屋根が続く
綺麗な街だなぁと思って
出国ゲートを出ると、、、

迎えに来てくださっているはずの
ホストファミリーの方が
見当たらない💦

今みたいに携帯電話があって
連絡が簡単に取れる時代では
無かったので
待ち合わせ場所で
ひたすら待つしかありません。

そこに、
ごめんね、待った〜?
と駆け寄ってきてくださったのが
ホストマザーのKさん。
日本人女性です。

母の友人、Mさんに紹介された
Kさんは、数年前にシドニーに移住し
お父さんは自宅で塾を経営。
お母さんのKさんはお料理教室をして
さらに私のような留学生を受け入れる
お仕事をされていました。

今回、私は未成年ということもあり
Kさん一家のおうちに滞在して
息子さん達と同じ学校に
通うことになっていました。

そうなんです。
Kさんのおうちには
私と同じ歳の息子さんN君と
2歳下の弟、M君がいて
そこに突然転がり込んだので
お互いに戸惑いだらけでした、、、

弟のM君は、人懐っこくて
すぐに「かおるちゃん」と馴染んで
くれましたが
兄のN君は目も合わせてくれない、、、

私、ここに来ちゃ
いけなかったのかな?


またもや凹む日々。

思い返してみたら
N君もどう接していいか
わからなかったんでしょうねぇ。

後から聞いた話によると
日本から同い年の女の子が来て
一緒に住むらしいと
友達にからかわれていたみたいです。

漫画みたいなシチュエーションですが
何もドラマのようなエピソードは無く

私はどれだけ気を使えば良いのかが

わからないまま

水道のお水を飲むのにも

 

お水、飲んで良いですか?

 

と聞きながら暮らしがスタート。


 

飛び級ってこんなに気軽にしていいの?


留学生とはいえ
私は小学校5年生の時

英検準一級を取得していたので
英語に問題も不安もありませんでした。

オーストラリアの高校に入るために
形式的に語学学校に通い
IELTSという英語試験を受けることが
条件づけられていて

最短期間の4週間、シティの学校に
通うことになりましたが
そこにいるのは大学生や

ワーホリで来ている社会人の人ばかり。

クラス分け試験でいきなり
トップクラスに入り、

 

えっ?何歳?
なんでそんなに英語が話せるのに
ここにいるの?


と聞かれる度に、
不登校の話をするの嫌
休み時間は英語の本を読むか
スイス人のお兄さんと
ばかり話していました。

そんなこんなでやっと入学できた
高校では9年生(中学3年生)に編入。
同じ学年にはSちゃんという
日本人の女の子がいましたが
オーストラリア生まれ、
オーストラリア育ち。

全く日本語が話せません

しかもシドニーの高校には
ホームルームというものが無く
選択した授業に各自が行くという
スタイル。

なのでまず、
自分が取りたい授業を選んで
時間割を作り
校内の地図を覚えて
移動することになるのですが
学校が広くて迷子になる😅

そのためにバディシステムがあって
私にはCちゃんという
真っ赤なカーリーヘアが可愛い
私より頭一つ大きい女の子が
お世話係として付いてくれました。

Cちゃんは一個上の16歳
美容院で
アルバイトをしているとのこと。

休み時間もバディとして
彼女の友達のグループに
入れてくれるのですが
みんなどちらかというと
お勉強が好きというよりも
遊ぶのが大好き

制服も着崩していて
足元はみんな
ドクターマーチンのブーツ

爪も真っ赤や真っ黒(!)にして
ピアスの穴が2つ、3つは当たり前。
そしてもちろんお化粧も。

なので、黒髪、ストレート
お化粧なんてしたこともなく
HARUTAのローファーを
履いている私が
珍しくてたまらないみたいでした。

みんなんと履修している授業は
違うけれど
休み時間になったら
行く場所がある。

久しぶりの集団行動が新鮮で
毎日楽しく通い
授業にも真面目に出て
半年経った頃、、、

そう、9年生が終わるタイミングで
校長室に呼ばれました。

えっ?私なんかした?

校長先生のG先生は
ショーン・コネリーに似ていて、
真面目で笑った姿を見たことが
ありませんでした。


時々行われる全校集会でも
壇上にいるので
ほとんど話をする事はなく

私も校長室に来るのは
編入手続きをして以来だった
気がします。

 



緊張した気持ちで入った校長室には
理科のS先生がいました。

ん?試験の点が悪かったかな?

とドキドキしていると

かおる、あなた来年から
11年生にならない?


11年生?
それって高校2年生でしょ?
えっ?なんで?


実は私が中学卒業を待たずに
中途半端な年齢で
シドニーに留学したのは
オーストラリアの学校制度が
関係しています。

オーストラリアは基本的に

中高一貫教育で、

中学校1年生から高校3年生までを
ハイスクールで括ります。

その中でも

中学1年生(7年生)から
高校1年生(10年生)までが
ジュニアというくくりになっていて、
10年生の時にSchool Certificateという
試験を受けます。
11年生と12年生はシニアと呼ばれて
12年生は
Higher School Certificate(HSC)

という、大学入学に必要な試験を
受けることになっています。

だから、高校1年生で留学して
いきなり大きな試験を受けるのは

大変だろう、

と14歳で留学を決めたはずなのに

試験を受けずに飛び級?!

嬉しいような、
付いていけるか不安なような
複雑な気持ちでしたが、

留学=お金がかかる
だから一年早く帰れるのは
両親も嬉しいに違いない。

飛び級=賢い子のイメージ
兄に対するコンプレックス
減少する。

なのであまり深く考えずに
よろしくお願いします

と答えていました。

私が飛び級することになったのは
成績が良かったから、だけではなく
もう一つ大きな理由がありました。

9年生には、私を含めて日本人が4人
いたのですが、

一つ上の学年には
なんと8人もいたのです。

 

それだけいると
「日本人用の日本語クラス」
という授業を選択することが
できるため
校長先生とS先生からしてみたら
私にとっても楽なんじゃないか
という配慮故の提案でした。

ちなみに、オーストラリアの学校は
一学年の年齢差が18ヶ月あるので
私は9年生だと年齢的に真ん中で
一学年上に合流すると最年少
(日本でいう3月28日生まれ的扱い)
というわけで
本当の意味での
飛び級とは少し違います。

それでも留学して半年で
思いがけない好展開があり
ようやく少しだけ
自分に自信が持てるように
なってきました。

 

ようやく到来、黄金青春時代

 

11年生の授業に行くことが
決まったものの

制服の準備が間に合わなくて
(ジュニアとシニアは制服が違います)
ジュニアの制服でクラスに入ると

ここは君の来るところじゃないよ

と言われてしまいました。

そこでまごまごしている
先生が入ってきて

 

あ、この子はいいんだ。

9年生から11年生になったから。

 

と言われて、落ち着かないまま
クラスの一番前の席に座ります。

今回は転入生ではないので

バディはつかず

自分で移動しながら

授業に出ていきます。

ここで助けられたのが

台湾人の女の子たち。
 

たまたま年子のお姉さんがいる子が

友達グループを紹介してくれて

私はCちゃんたちとは違う
Dちゃんグループに

入れてもらいました。

シニアになってまず驚いたのが
授業数の少なさ。


学校にいる時間は
同じなのですが

今まで2単位の授業を
6個取っていたのに
シニアになると一日4限しか

ありません。
 

そして3単位とか4単位ある

授業を選んでいると

1日2回顔を合わせる子も
出てきました。

私はS先生の勧めもあり
理科を4単位
数学を3単位

英語2単位

日本語2単位

小論文2単位

という組み合わせで授業を

選んだので、
理科と数学のクラスメイトとは

1日の大半を過ごすことも。

そして遂に、
日本語のクラスに行った時
学校で日本語が話せる友達が
できました。

元々いた8人と、私、
そして実は今の旦那さんが
他校から転勤してきて、
合計10人いる中で
日本語を履修したのは7人。

日本人のK先生が週に2回
授業をしてくれます。

実はこのタイミングで
ホストファミリーを変えたんです。

Kさん一家をでて、
オーストラリア人のJさんが経営する
留学生ハウスに住むことになりました。

そこには最大で4人くらい
海外から留学生やワーホリの人が
住んでいてそれぞれ個室をもらい
キッチンは自由に使えて
希望者はJさんと夕飯を食べる
というシステム。

ここの家で日本人の
お兄さん、お姉さんと仲良くなったり
Jさんと二人で映画に行ったり
(時には私しか住んでいないこともあったので)
大きなガスオーブンがあったので
たくさん料理もさせてもらいました。

2年半の留学生活の中で
結局3つのホストファミリーに
お世話になりました。

最後の一年はオーストラリア人一家
Sさんと一緒に住むことに。

Sさんにも私と同じ高校に通う
息子さんがいて、
真ん中のお兄さんは
日本に留学したこともある
親日家

今までホストしてきた留学生の
ほとんどが日本人ということもあって
日本食も大好き。

ここでもSさんと一緒に料理をしたり
楽しい時間を過ごしました。


 

留学生の受験勉強


シニアの授業は想像以上に難しく
正直飛び級したからといって
学年トップではありません(苦笑)

理科の授業の一環で
ラットの解剖(一人一匹!)が
会った時は、どうしてもできずに
2時間クラスの外で泣いてたし

算数の授業は途中から
複雑になりすぎて
3単位から2単位に減単しました。

高校卒業後、
どうするかという話が

出てくる頃、
私の中では迷わず

日本に帰る
という答えが出ていました。

問題が一つ。
飛び級してしまったので
大学入学時には17歳。
この条件で入れる大学が
限られていました。

一番の候補は
慶應義塾大学

そう、中学校受験の時断念して
兄が通っている学校に
ようやく通えるかもしれない

そう思うと、受験勉強は
全然苦になりませんでした。

しかも、当時の帰国子女受験は
🔷 高校の成績
🔷 英語の試験結果(TOEFL)
🔷 アメリカの大学入学考慮試験(SAT)

🔷 日本の試験(英語と小論文と面接)

で成り立っていて、
本試験の前にできることが
たくさんあったのです。

TOEFLは自信があったので
1回目で630点、2回目で653点と
ほぼ希望通りの点数が取れました。

SATは難しくて、結果的に3回受けて
最後は1350点と
これも慶応の合格ラインを
ギリギリクリア。
(今は法学部の場合、1450点くらい必要みたいです)

学校の成績は

英語と日本語の成績が良く、

小論文も悪くなかったので

問題なかったし

課外活動に力を入れました。

帰国子女は
書類選考で合格することが
最重要課題

という話を聞いていたので

課外活動として
生徒会やボランティア、
トーストマスターズと呼ばれる
パブリックスピーキングの活動、

そして苦手な運動にも取り組んで
チャリティウォーク
スキューバダイビングの資格を取って

シドニーでの2年半が
どれだけ充実してたかの
ポートフォリオ
作り上げました。


他の受験生のように、
週に何度も塾に通うのが難しかったので
小論文の講座に絞って週に一度通い
ひたすら読むと書く
繰り返していました。

結果、
日本語でも英語でも文書を書くのが
そこそこ得意になり
元々話すのは得意なので面接で
緊張することもなく
高校年生の9月には
大学合格の切符を
手に入れていました。

 

 

卒業試験とフォーマル

 

慶應義塾大学の帰国子女入試は
確か9月の初旬に試験があって
中旬には結果が出ていました。

実は高校の卒業資格が取れる前
大学行きが決まったんです。

なので、10月にあるHSCの試験は
結構リラックスした気持ちで
臨んでしまいました。

オーストラリアの大学に行く予定が
無いから、

実力で受ければいいか

くらいの気持ちで臨んだ試験。

自分が履修している科目の
試験がある日
三田にある大使館に行くと
懐かしい顔ぶれが。

教科によっては
数人の時もありましたが
日本語の試験の日は
結構な人数が集まって
他の高校に通っていた日本人の子たちと
話す機会もありました。


私のように、大学合格が
決まっている子もいれば
これからまだ試験ある子もいて
緊張感に温度差がある試験場。

それでも久しぶりに会う友達と
英語で話すのは楽しくて

三田の駅前でお茶しながら
またシドニーで会おうねぇ

なんて言い合っていました。

そう、HSCの試験が終わった後

まだまだ大事なイベントが
残っていたのです。

それが、フォーマル

卒業生が参加できる
ダンスパーティで
小学校でも
10年生でもありますが

一番イベント感があるのが

高校卒業時!

女子はみんなイブニングドレスを着て

男子はタキシード。

場合によってはリムジンカーを借りて

会場までエスコート。

 

どんなドレスを着るのか

髪型は?
メイクは?
花束は?

と気合を入れまくるのです!

実は私も参加できるかどうか

わかっていなかったのですが
(慶応に受かっていなかったら
入試が続くので多分参加できない、、、)
一応ドレスは決めてあって
パーティに誘ってくれる人もいて

大学合格が決まった嬉しさは
もう一度シドニー行ける!
という嬉しさに直結していました。

ここにもう1つ

おめでたいお知らせが。

10月に受けたHSCの日本語の試験。

なんと、州で1位だったので
首相との祝賀会に呼ばれたんです。
もちろん、全教科の1位の生徒が
招待されるので、
結婚式会場の端っこに

いるような感じでしょうが、、、😅

 

残念ながら、フォーマルのパーティと
祝賀会の日程が開きすぎて

そんなに長くシドニーに
滞在できなかったので

フォーマルを優先させました(笑)

1994年5月、失意のどん底から
始まったシドニー生活は

1996年12月、無事に幕を閉じ
長かったようであっという間の
高校留学生に一区切りがつきました。

書けていないエピソードだらけ
ですが、とりあえず時系列で

経験したことを書き進めます。
その時感じたこと、気づいたことは
やっぱり3.3とか

細かい章に分けて、後から書こうかな、、、

次は
新歓に参加できない17歳の女子大生〜大学編〜
を書きますね。

こんな長文に最後までお付き合いくださり
ありがとうございます!
 

田草川かおると気軽に話したい!

LINEはこちらになります♪
Add friend  


登録してくださった方には
あなたの人生を最幸にする
7つの質問
プレゼント中!

 

【プロフィール】

田草川(たくさがわ)かおる

田草川かおる たくさがわ
 

6歳から11歳まで、アメリカのNYで育つ。
15歳から17歳までシドニーに留学し、
飛び級して高校を卒業。
慶應義塾大学法学部、
社会人経験を経て京都大学大学院へ。

結婚前は
「持続可能な社会・ライフスタイル」
のデザインをテーマに
翻訳・通訳、執筆、講演などに従事。

2011年よりオーストラリア、シドニー在住。
10歳、5歳、3歳の子どもたちを
モンテッソーリで子育て中。

長女が2歳の時モンテッソーリに出会う。
その後、オーストラリアで唯一
大学卒業の資格が取得できる
モンテッソーリグラデュエイトディプロマを取得。

シドニーにある
モンテッソーリ幼稚園で親子教室を担当。
第二子出産以降は
プライベートレッスンを中心に
モンテッソーリの普及に務める。

2019年より、
自宅で学べる「おうちでモンテッソーリ」主宰。
日本、シドニー、アメリカ、
ヨーロッパ、アジア、南米のママを対象に、
家庭内で実践できる
モンテッソーリ子育て法を伝えている。

2020年、ミエルカパートナー第一号に認定。
2ヶ月で100人にミニセッションを
提供した後に、
現在世界各地のクライアント様に
単発、継続のセッションを提供中。