シドニーのロックダウンが
7月30日まで延長することが決まりました。
毎日3人の子ども達のお世話と
仕事、そして家事を
どうやって両立させるのか、、、
しかも、10日後には
42歳の誕生日を迎える予定です。
カウントダウンを兼ねて
自分史を綴ってみようかな、と思っています。
1985年10月。
父の青天の霹靂とも言える
海外転勤をきっかけに
アメリカのニューヨークに引っ越しました。
当時、幼稚園の年長だった私は
英語も知らず、詳しいことは全く
理解していなかったと思います。
夏休み前に幼稚園を退園し
母の実家がある
愛媛県でのんびりと過ごし
いざ、10月にアメリカへ。
当時はまだ
親と一緒にパスポートを作る時代。
3歳上の兄は
自分のパスポートがありましたが
私は母の膝の上に座って写真を撮った
母子パスポートでした。
父も母も英語が話せなかったので
私に英語教育を施す間も無く
何も知らない状態で到着した空港で
私が発した第一声は
お母さん、外国人がたくさんいるね
だったそうです。
空港には色とりどりの肌と髪の色があふれ
特にアフリカ系アメリカ人の方を
見たことのなかった私は
黒人がいる!
と口走っていたのかもしれません。
母からは
ここではあなたが外国人なのよ
と言われたのが記憶に残っています。
何も考えずに幼稚園に通い
エレベーターの無い団地の5階に住んで
豆腐屋さんの音が聞こえたら母と買いに行き
幼い頃の楽しみは父とプールに行った帰り
すかいらーくでお子様ランチを食べることだった
平凡な6歳の私が
突然「人種の坩堝」と呼ばれるニューヨークに住み
現地校に通うことになったのですから
慣れるまで相当時間がかかりました。
アメリカについてから最初の1週間は
時差ぼけが治らなくて
それが辛くて
泣いていた記憶があります。
日中はとにかく眠い。
そして夜中、全然眠れない。
父は6月からアメリカに来ていたので
時差はすっかり慣れていて
母も兄もすぐに時差に慣れたのに
私だけが眠れない。
夜中、暗くなるのに目と頭が冴えて
このまま眠れなくなったらどうしよう
とシクシク泣いているうちに
明け方ようやく眠りにつき
お昼過ぎに起きる。
起きても友達もいないし
することもないし
つまらないところに来たなぁと
親に文句を言っていたかもしれません。
とにかくまずは学校へ、
ということで転校準備が
着々と進められていきました。
まずは現地で医師の診断を受け
健康をチェック。
ユダヤ人のお医者様には
その後帰国するまで
5年間お世話になるのですが
ポリオの甘い液体を飲まされたことと
指さくをチクッっと
ホッチキスのお化けみたいなもので
さして血液をとる検査が
痛かったことを
今でも思い出します。
学校が始まるまでの10日間
車の運転できない母と
近所の公園に行って
遊んで過ごしました。
やたらと広い公園に
たくさんいるリスが珍しくて
夢中で追いかけていたのに
ふと立ち止まると
公園のベンチに座った母が
空を見上げて泣いている。
あの飛行機は、
日本に向かっているのかな、、、
と呟きながら。
英語も話せず、運転もできず
慣れない環境で
子育てをしなけれなならない母の
辛さを垣間見た一瞬でした。
かくいう私も、
現地校に放り込まれた途端
先生が何を言っているか
全くわからなくてパニック状態
日本では幼稚園に通っていた私ですが
誕生日が7月末日、
日本でいう早生まれに該当するため
いきなり一年生のクラスに
新学期開始早々1ヶ月遅れで
参加することに。
クラスメイトの子達は体が大きいし
先生も体は大きいし(縦にも横にも!)
会えばみんなやたらとぎゅーっと
体を締め付けてきて⇦ハグの習慣に驚く
ほっぺをぎゅっと
つままれて⇦アメリカの親愛のジェスチャー
なんでみんな私のこと虐めるの?
と泣いてばかりでした。
泣いてばかりなので、
校長室に連れて行かれて
最初の3ヶ月はほぼほぼ校長室で
泣きながら過ごした気がします。
事態が急変したのは
クリスマス休暇を終えた頃。
アメリカでの初めてのクリスマスは
天井まで届くようなツリーを飾り
父親の会社の
クリスマスパーティに呼ばれ
まるで映画の中に
いるような体験をしました。
膝まで積もる雪。
家の近所でソリ滑り。
日本では
知りもしなかった世界に触れ
アメリカも悪くないなと思っていた
タイミングで、
学校に戻ったら、、、
英語がわかるようになっていた!
母曰く、寝言を英語で言うように
なっていたそうです。
3ヶ月間、学校から帰るや否や
ずっとテレビにかじりついて
Sesame StreetやSmurf
ディスニーチャンネルを見続けた
成果がようやく現れたみたいです(笑)
そして英語がわかるようになった途端
学校の生活がどんどん楽しくなり
毎日笑顔で通えるようになりました。
小学校3年生になる時、
最初に住んでいた町から
隣町に引っ越しをしました。
それに伴い、学校を転校。
新しく通うことになった学校は
3年生のクラスに
13人しかいなかったにも
かかわらず、
デンマーク
チリ
オーストラリア
中国
韓国
イギリス
イタリア
日本
と世界中の子ども達が
集まっていました。
デンマークから来たD君の
髪の毛が銀髪に近い
プラチナブロンドで
まるで
絵本の中の王子様みたいだったのと
オーストラリアから来たJちゃん
の訛りが全然聞き取れなかったこと
(今ではそのオーストラリアに
住んでいるという不思議!)
ユダヤ系アメリカ人のMちゃんと
仲良くなって、
ハムスターを譲り受けたこと
一卵性の美人双子姉妹
AちゃんとJちゃんが
時々クラスを入れ替えて
先生に悪戯するのを笑ってみたりと
楽しい記憶が多いです。
実はこの新しい学校
日本人も多かったんです。
5年生の時には、25人のクラスが
2クラスになっていましがが、
日本人が女の子8人、
男の子5人くらい
いた記憶が(数え忘れてたらごめん🤣)
この頃、
私の中のバイリンガル脳は
ピークでした。
右耳から聞いた英語を
その場で日本語にしたり
日本語を英語にしたり。
日本から転校生が来ると
校長室に呼ばれて
通訳もどきのことを
したりしていました。
英語と算数の授業の時は
ATS(Academically Talented Student)
と呼ばれる特殊クラスを
受けに別室に行き
ちょっと変わった授業を受けていました。
紙飛行機を作るように言われて
🔷 高く飛ぶ
🔷 長距離飛ぶ
🔷 長時間飛ぶ
🔷 早く飛ぶ
工夫をしたり
ヘンゼルとグレーテルの物語を
裁判仕立てで再現したり
▶︎魔女の孫娘が訴えてきて
ヘンゼルとグレーテルに弁護士を立てて
模擬裁判のスタート
一枚のイラストの中に
どれだけ「物体」が隠れているか
探してみたり
一体何の授業が
わからないこともしたけれど
今思い返すと
ギフテッド教育に力を入れていた
学校だったのかもしれません。
どんなに楽しくても
駐在暮らしには終わりがつきもの、、、
小学校5年生の夏休み
4週間の泊まりがけキャンプに行った
帰りの車で
日本への帰国が決まった
と親から告げられた時の衝撃!
帰国日は10月半ば。
新学年になってから1ヶ月後のこと。
せっかく6年生になったのに!
学校の最高学年として
一番活躍できる一年なのに!
帰りたくない
が率直な意見でした。
でも今までも仲の良い日本人の友達が
次々日本に帰っていくのを見ていたので
仕方がないな
という諦めもありました。
キャンプから帰ってからは
急いで荷造り。
日本の家の広さになれるために
クローゼットで暮らすことにしました(笑)
当時の私の子ども部屋は
18畳くらいあって、
クローゼットが6畳くらい。
3つ上の兄の部屋はもっと広くて、
クローゼットが8畳くらいあったので
家の中で一番狭い部屋に兄妹で寝ると
どうなるかをシュミレーション
してました(笑)
ドラえもんに憧れていたので
押し入れで寝る感じが楽しくて
日本に帰るのも悪くない
と思っているうちに
ついに帰国の時が、、、
最後の最後、家族旅行として
ハワイで1週間過ごしてから
久しぶりの日本での暮らしが
始まることに。
明日は
天狗少女の鼻折れる 〜帰国、受験、不登校〜
をお届けします。