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摂食障害の方の家族と恋人対象の会
東京追加開催決定
2/17午後(東京)追加開催決定-対人関係の生きづらさ
こんにちは。ステップあやです。
先日の記事>発達障害、摂食障害、親子'恋人'友達'仕事の対人関係の悩みの続きみたいなかんじですが。
あの記事のテーマはたまたま
○「片付け」の話
○発達障害の話
でしたが根底にあるのは誰が相手でもどんなケースでも応用できる、超シンプルな考え方でした。
私たちは
親に対して、
子供に対して、
会社の同僚に対して、
彼氏に対して、、
イライラしたり
悲しくなったり
愛がないような”気がして”
孤独な世界のような”気がして”
自分はありのままではダメな”気がして”
生き辛さを感じていることが割と多くあるので
(絶対、全部のケースとは言わないけど)
だからこそ
○人は皆違う
○自分の普通と相手の普通も違うし
世間の普通と自分の普通も違うんだ。
という基本に戻ってみると
相手を相手としてそのまま
自分は自分としてそのまま
そーなんだ、
って受け止めてみることが大切。
・・という↑↑この基本にもどってみたら
夫婦間、親子間の間に心地よい変化が訪れたというお話だったのですが。
この話を今日は
子供の自分が⇒親に「普通」をおしつけて
イライラ、悲しみ、
愛されてないような孤独感
などの感情が生まれていることもあるんだよ、って言うお話。
ただ、今回の話は
実際に愛されていたかどうかとか
人からみて恵まれた環境だとか関係なく
そのときの自分にとっては辛い 寂しい と感じている(いた)そのときの自分の心も自分自身が「辛かったよね」って肯定してあげるステップを踏んでないともやっとするかもしれないのでそのような方はこの先、閲覧注意です。
子供としての自分が親に対して「普通」を押し付けてるパターン・・
美人塾でもあちこちでお話したと思うけど私の例はこんなかんじ。
まず、ひとつめ。
親に摂食障害の本を渡して読んで欲しい、と思い切ってお願いしてみた。
だけど、読んでくれない。
新聞や金魚の飼い方とか興味があるものなら読むくせに!
↓↓
私のことなんてどうでもいいんだ!
私は愛されてないんだ!
私がどうだって興味ないんだわ!
というストーリーを自分で作ってしまって、
↓↓
ものすごく悲しくて「親にすら大切にされな自分」という新たな自己否定をしていたことがありました。
もう一つは
病気の症状が酷くなって「助けて欲しい」親にいったとき。
何を思ったか父親はほれ、とお金を渡してきたの。
わたしはまたここでも、
「あの人(親)は私のことなんか 愛していないから メンドクサイことに関わりたくない、 だから単に金渡して”助けてやってる” とかいってごまかしてるだけだ”」
っていうストーリーを作っては、
絶対ソーに決まってる!って思ってた。
それで
「やっぱり親にすら大切にされない私」となって、
またそれが何でも一般化する考え方の癖 にひっかかって
「親にも大切にされないんだから、 他人なんか余計私のこと メンドクサがって 付き合いたくないにきまってる。」
↓
「私は愛されない存在」
「私は大切にされない存在」
という考え(思い込み、ストーリー)に繋がっていったのね。
そんな考え信じてても、ストレスは拒食か過食かウツに繋がるだけでいいことありませんでした💦
その時の私は
親が本を読んでくれないことと
親が金渡してきた以外に
助けようとしてくれないことがストレスなのだから
親を私の理想通りに変わってもらって解決しよう、と思いました。
だけど、、
うちの親はそのようにして欲しい、と自分の気持ちを話してみても、何度どういい方を変えても、思い描くようには変わってくれなかった。
※注 それでも時間かけて伝わるものはあったし、私が親が別の人生でできた別の考えがある別の人間なんだとわかって違いを受け入れられるようになったので、話を諦めずにしたことは結果的によかったと思ってるよ。
分かってくれなくてもとりあえず伝えることをしているうちに、
だんだんとこれは親の問題じゃなくてわたしの問題なんだと気づくときがきました。
私は、親にいつも「親のふつう」「世間のふつう」を押し付けられていることが辛かったんだと気づくようになってたんだけど、私も同じことを親にやってたんだな、って。
どういうことかというと
ふつう、
子供の私を親として愛してるなら、
大切に思っているなら、
力になりたいと思ってるなら
私の心に興味があるなら、
ふつう、病気の本くらい読むよね?
子供に助けてっていわれたら
愛がある親ならふつう、
子供の気持ちに耳を傾けるとか話を聞くとかするよね?
愛がある親ならふつう、
その病気について完全な理解はできなくても”知ろう”とくらいするよね?
って、私が親に対して、ふつう当てはめようとしてたの。
だから私の思い描く”ふつう”と違ううちの親なりの愛情表現は、全然こんなの愛じゃない気がして、
私が欲しいのはこれじゃない!!って突っぱねては自分を孤独の闇にほうりこむってことを、私が私にしちゃってたんだ。。
そしてまた
親に対して感じていた
ふつうは、愛があるなら
~するはずなのに
しないのは「私が愛されない存在だからだ
という考えになり
↓↓
私のまわりには愛なんてないし
頼ること大事だといわれたって
頼らせてくれる人もいないし
今の私を認めてくれる人もいない、
私にはなんにも、ない。
って、周囲の人全般に対する決めつけにもつながった。
ということを、「頭で」わかった時点ではあまり楽にもならなかったw。
心で、いわゆる私のふつうと違っても精一杯の父の愛を受け取れたとき、、あれだけこだわっていた、本を読む読まないはあんまりどうでもよくなった。
こんなの愛じゃないと拒否していた父の態度、行い、そして、渡されたお金もW
「あったかいもの」(愛)として受け取れるときが、やってきたのでした。
↑↑」
このきっかけはそれまでに色んなところで私のふつうと相手のふつうが違うことを体験してきて、このケースももしや。。・とおもえたこと。
愛されてない感じを感じてたけどその根底には私の考え「ふつうさ~」があることに気づく
↓↓
父にとって当たり前に「愛があるならふつう・・」って思ってることは私のそれとは違うのかも?
↓↓
父の親(私にとっての祖父、祖母)はどんな親だったのかどんな愛をうけてどんな助けをもらってきたか聞いてみよう
↓↓
聞いてみるとなるほど、父が体験してきたことを知ると父にとっては「お金=愛=助け」なんだなと腑に落ちる。
↓↓
父なりの愛を愛として受け取れるようになる
・・となりました。
(実際こんな矢印でかくほど簡単じゃなくて長い時間かけてこの一連の考え方を変えることと行動をかえること、を繰り返しました。
本を読むこともそう。
わたしが親にとってふつう、愛があるなら読むよね?
ふつう、「それくらい」やるよね?
という当時の私の考えは私のふつうであって父にとっては全然ふつうじゃなかった。
と、まあ、それだけのことなんだよ。
別に、本は読んでくれなくても
私が欲しかった愛情表現と違っても
父は父なりの愛し方があって
医者に一緒にいってほしいといってもおめーの問題だろう!といわれ、この親は心配もしてくれないと思ってたけど父なりに心配もしていた。
それを、、
その違いを、、
私は私の普通/当たり前と違うことで
ほらやっぱり愛してない
ほらやっぱり大切に思われてない
って、自分の思い込みと結び付けてたんだ。
これまでは、
思い込みとか
気のせいだとか
親に言われているときは
本当にそのように感じた悲しかった心までお前の感じ方がおかしいと否定された気がして心を閉ざしてしまっていた。
でも、そう感じた私も間違ってないと思うんだよ。
人に辛い寂しいと感じていたこと否定されて、あなた愛されてたよ、と説得されてあーそうですか、私、愛されてたんですねって納得する人なんかいないとおもっているから。
(そういう人もいるかもしれないけど、 心閉ざしてしまうのも正常と思う)
でも、自分でその辛かった気持ちも間違ってないんだ、悲しい寂しいと思っていいんだよねって受け止めることができたら、、
そのあとは今日書いたように次のステップに進むことができたよ。
***
このような内容を美人塾でお話したんですが、の前の記事のしほさんからもお父様なりの愛についての気づきを美人塾の感想としてくださいました
次のページで紹介します。
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