>人にはまったく理解できないのでしょうから、
>きっとイエスをお遣わしになられたのでしょうね。
私も外国語は分かりませんし、
神の言葉を証しするために主イエスが遣わされた
ということには同意できますが、
主イエスの言葉も聖書の言葉ですから上と同じことになります。
私は神を信じ、主イエスを信じ、聖霊を信じます。
しかし信仰すべてにわたって自分の解釈と判断が伴います。
自分の解釈と判断を信仰するということは
自分を信仰することに他なりません。
それは明らかに的外れの罪だと考えます。
だからといって解釈も判断もせずに信仰生活は成り立ちません。
したがってその罪は人の信仰の本質的な不可避的な罪であり私は
それを「信仰の原罪」とブログに書きました。
そして「信仰の原罪」を自覚するか自覚しないかを
信仰観の違いで済ませるには、あまりにも大きな問題です。
2011/5/16(月) 午前 1:52[ st5402jp ]
ここのコメントを、シャロム様のコメントは省略しますが、
私のブログの記事にするかもしれません。
2011/5/16(月) 午前 2:42[ st5402jp ]
「私は神を信じ、主イエスを信じ、聖霊を信じます。
しかし信仰すべてにわたって自分の解釈と判断が伴います。
自分の解釈と判断を信仰するということは
自分を信仰することに他なりません。
それは明らかに的外れの罪だと考えます。」
本当にそれは不可避な問題ですね。
ですからパウロは十字架につけられたイエスを信じることはイエスと共なる自己の死を受け容れることであり、肉にある限りイエスから遠く離れているとも述べ、ああ、われ悩める人かなと嘆き、しかし、だからこそ、最後には、ああ、神は感謝すべきかなと書いたのですね。
2011/5/16(月) 午前 7:58[ shalom ]
そのことをガラテヤ書において「わたしは神に生きるために、、律法によって律法に死んだ。わたしはキリスト共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、肉にあってわたしが生きているのは、わたしを愛して私のためにご自身を捧げられた神の御子を信じる信仰によって生きているのである。わたしは神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死は無駄であったことになる。」(2:19~21)と書いていると思います。
ここでパウロが述べていることは不可避である信仰の原罪のどんでん返しが起こっていることに対する神の恵みに対する感謝だと思います。
このような聖書に表明されたパウロの言葉も
人の論理を超えた「言い放って終わり」・・・のようですね。
神の言葉は決して
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」
からの出た言葉ではありませんが、人が肉によって生きている限りそのように感じさせられてしまう言葉ではないかと思います。
ほんとうに悩ましい事柄ですね。
2011/5/16(月) 午前 7:58[ shalom ]
※ 私は、シャロームの信仰についての発言を、「言い放って終わり」と言ったのですが、
シャロームは、それを、パウロの言葉、という話にすり替えています。(今回加筆)
「神の言葉を証しするために主イエスが遣わされた
ということには同意できますが、
主イエスの言葉も聖書の言葉ですから上と同じことになります。」
主イエスの言葉も聖書の言葉ですからではなく、主イエスご自身が神の言葉ですからではないかと思いますが。
主イエスご自身には
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」を見出すことはできません。
2011/5/16(月) 午前 8:10[ shalom ]
使徒パウロではなく、かつてのパリサイ人、迫害者サウロは
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」によって生きていて、恐るべき信仰の原罪のもとにあったということが出来るかもしれません。しかし、イエスご自身との出会いによってどんでん返しが起こったということではないかと思います。
2011/5/16(月) 午前 8:19[ shalom ]
>イエスを信じることはイエスと共なる自己の死を受け容れることであり
>肉にある限りイエスから遠く離れているとも述べ
>神に生きるために、、律法によって律法に死んだ
これらの罪は、古い律法主義が陥る罪か、
この世に肉体を持って生きているがゆえに犯す罪でしょう。
私が「信仰」と言うとき、それは当然キリスト以降の、
まさに現代のキリスト(教)信仰のことです。
ですから私が述べた「信仰の原罪」を
>不可避である信仰の原罪のどんでん返しが起こっている
>ことに対する神の恵みに対する感謝だと
このように使われるのは心外です。私が書いた
「信仰の原罪」のどんでん返しは死ぬ時まで起こりません。
たとい自覚しても、その罪は常態であって、
どんでん返しは起こらない本質を持っていると考えます。
2011/5/17(火) 午前 1:43[ st5402jp ]
したがって
>「聖書的言葉絶対という上からの圧力」
>「異なる人や世界の軽視~無視の態度」
>人が肉によって生きている限り
>そのように感じさせられてしまう言葉ではないかと思います。
これも上の肉の犯す罪のことでしょう。
でも、これを「信仰の原罪」と見做して
止むを得ない罪と判断してしまうとき
思考は停止してしまうことになります。
>主イエスの言葉も聖書の言葉ですからではなく、
>主イエスご自身が神の言葉ですからではないかと思いますが。
その主イエスの言行録を述べているのは聖書です。現代において
主イエスから直接聞くことのできる人はいないと思います。
2011/5/17(火) 午前 1:45[ st5402jp ]
ということには同意できますが、
主イエスの言葉も聖書の言葉ですから上と同じことになります。」
主イエスの言葉も聖書の言葉ですからではなく、主イエスご自身が神の言葉ですからではないかと思いますが。
主イエスご自身には
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」を見出すことはできません。
2011/5/16(月) 午前 8:10[ shalom ]
使徒パウロではなく、かつてのパリサイ人、迫害者サウロは
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」によって生きていて、恐るべき信仰の原罪のもとにあったということが出来るかもしれません。しかし、イエスご自身との出会いによってどんでん返しが起こったということではないかと思います。
2011/5/16(月) 午前 8:19[ shalom ]
>イエスを信じることはイエスと共なる自己の死を受け容れることであり
>肉にある限りイエスから遠く離れているとも述べ
>神に生きるために、、律法によって律法に死んだ
これらの罪は、古い律法主義が陥る罪か、
この世に肉体を持って生きているがゆえに犯す罪でしょう。
私が「信仰」と言うとき、それは当然キリスト以降の、
まさに現代のキリスト(教)信仰のことです。
ですから私が述べた「信仰の原罪」を
>不可避である信仰の原罪のどんでん返しが起こっている
>ことに対する神の恵みに対する感謝だと
このように使われるのは心外です。私が書いた
「信仰の原罪」のどんでん返しは死ぬ時まで起こりません。
たとい自覚しても、その罪は常態であって、
どんでん返しは起こらない本質を持っていると考えます。
2011/5/17(火) 午前 1:43[ st5402jp ]
したがって
>「聖書的言葉絶対という上からの圧力」
>「異なる人や世界の軽視~無視の態度」
>人が肉によって生きている限り
>そのように感じさせられてしまう言葉ではないかと思います。
これも上の肉の犯す罪のことでしょう。
でも、これを「信仰の原罪」と見做して
止むを得ない罪と判断してしまうとき
思考は停止してしまうことになります。
>主イエスの言葉も聖書の言葉ですからではなく、
>主イエスご自身が神の言葉ですからではないかと思いますが。
その主イエスの言行録を述べているのは聖書です。現代において
主イエスから直接聞くことのできる人はいないと思います。
2011/5/17(火) 午前 1:45[ st5402jp ]
(2019年04月16日、再録)