ここで展開する幸福論は、世界三大幸福論の内、アランの幸福論を汲み取りつつ、ラッセルの言う幸福論に近いものである。残り一つのヒルティの幸福論の、神と共にいるというのは、いささか神秘的であるので、これを敬遠し、人間が何に楽しみを見出すアランの思想を骨子において、自分のことを考えると悩み始めるという人間の構造に対抗し、数多くの興味の対象を見出し、自分のことを考えることから解放するラッセルの思想に沿うものである。

 というのは、野球のスポーツ観戦を趣味のある人は、趣味のない人よりも幸福である、という素朴な価値観で、とにかく内的になりがちな自分の関心を外的なものに向ける価値観である。その対象は学問や読書、畑仕事や登山といったもの、はたまた、物議を醸し出しがちなテレビゲームでもよいのである。そもそも人間が何に楽しみを感じるのかというと、より良いものを作り出す創意工夫と試行錯誤によって、楽しみを得るのであって、テレビゲームであれば無条件で楽しめるというようなものではなく、技術を競い合うような対人テレビゲームはスポーツの領域であり、(実際、eスポーツと呼ばれている)一人だけで作業するものであってもより良い戦術や思考を作り出すことが出来るのなら、自分を忘れるために趣味として十分に選択肢に上がるものである。

 勿論、この楽しみ方は何かを創造するものであり、自分の生業である仕事の中で実現出来れば何も言うことはない。また、執筆という形で、自分の考察を纏めることも同様に有効である。スポーツ観戦においては、ひいきのチームや、お気に入りの選手など、知識が増えれば増えるほど、その趣味に熱中できるだろう。また、読書も、その人の世界観の中に、退屈しないで(というのは、読書というものは、熱中すると止まらなくなるが、その世界観に没入するまでは退屈するものだからだ)没入できるなら、それは大した「技術」である。(アランは、楽しみは能力のしるしである、と言及している)

 次はあれをしよう、これをしよう、を悩めるほど自分を忘れて没入出来る事柄が数多くあれば、人間は精神的な健康になっていく。(アランは、また、一時間の読書で追い払えなかった憂鬱は存在しない、と言及しており、これは作業療法の理論の中でも確立されたものである)また、この幸福論の一番良い所は、厄介な退屈を追い払える、ということである。

 しかし、ヒルティの言う通り、ただの歓楽は人間を弱くするだけであり、退屈を感じるのなら、この幸福論を実行すれば良いが、特に退屈を感じない、というのであれば、ただ単に、自己を忘れて楽しみを追求する、この幸福論は実行するに値しない。あくまで、仕事を主軸にして、時間が余ったり、自分のことで、くよくよ悩むのなら、この幸福論に頼れば良いが、しかし、楽しみというものは、一つの事柄から、ほんの少ししか得られないものであり、一番安価な時間の消費法は、常に人の役に立つことをして、自分の義務を果たす、ということである。この義務を果たすということが、一番、人間が満足することであり、享楽の連続が、それではない。

 この幸福論の一番の目的は退屈の除去であり、人の役に立つことが出来るのであれば、その仕事に機会を譲るべきである、ということを本論の結論にして、終わりにしたいと思う。それでは、皆さん、御機嫌よう。

 

 参考文献

 

 アラン 神谷幹夫訳 『幸福論』

 ラッセル 安藤貞雄訳 『幸福論』

 ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 『幸福論』