退屈に対する考察は、ヒルティやショーペンハウアー、パスカルなどの哲学者の思想の中にも度々現れるものである。今回は、最近のベストセラーである『暇と退屈の倫理学』に触発されて、この論文を著そうと思った次第である。国分功一朗先生の、この書は何年か前に既に読んでいるのであるが、二度読みした際に感じるものがあり、改めて暇と退屈について考える、きっかけとなった。しかし、この考察では、国分先生の思想とは相いれない考察を展開するつもりであり、そのことを予め承知していただきたい。前書きが長くなったが、そろそろ本文を始めたいと思う。

 

 ヒルティは、仕事のない閑暇には人間は耐えられない、と言及している。だから、人間は、仕事のない退屈には耐えられないので嫌々ながらも仕事をしながら生きている。仕事による負荷よりも退屈による負荷の方が遥かに大きく、耐え難いためである。仕事をしていない状態に耐えられるというのは、恐らく、その人は給料の貰えない類の何らかの仕事に従事しているのであろう。

 退屈に対する、有効な対策は、冒頭にある通り、仕事をすることだろう。毎日、同じ時間に仕事をし、その疲れから心地よい休養を取る。これが習慣となれば、ほとんど退屈を覚えることはない。これに比べ、何の義務もない楽しみのための趣味を仕事にしている人は、その楽しみというものも、アランの主張するように、創意工夫と試行錯誤によって得られるものであるから、そんな機会はざらにあるものではなく、楽しみが終わったら、すぐに退屈に襲われるという悪循環に陥り、退屈に対して、勝てる見込みのない絶望的な戦いを予想しなければならないのである。

 しかし、この仕事に邁進するというものにも危険があり、それは、すぐに時間が過ぎ去ってしまうことにある。仕事に明け暮れ、気付いたら、仕事の出来ない老人になり、子供達の荷厄介になり、挙句の果てに、老人ホームに捨てられ、昔の経験から、自分はする事をしてきたのだと胸を張り、威張って、苦しみながら墓に入る。こんな馬鹿なことがあるだろうか。しかし、この結末が、仕事に邁進する人の末路なのである。

 では、このような人はどうすれば良かったのだろうか。私はキリスト教徒なので、それは信仰の道以外に根本的な解決はないと考えるものである。つまり、苦しみを通して、自分を天国に相応しい魂へと成長させることが必要だと言いたいのである。これはキリストの例えであるが、天国が針の孔のようであるなら、その穴を潜れるように自我を収縮させるようにすることが必要だろう。これは、ほんの一例であって、つまり、天国の入り口に相応しい魂を形成することが、信仰の主な目的と言えるのである。

 つまり、死は悲しい、全ての物の終わりではなく、長く辛かった旅の終わりを告げるものであるという価値観を得ることである。そこで、この世よりも優った生活が待っていること、そのことを確信することが死に対する、最も有効な対抗策になるのである。

 また、仕事と同様に退屈に効果のあるものは、決まった時間に規則正しく行われる勉強であろう。ある程度の経済的基盤があるなら、このように哲学や思想、宗教などの教養を得ることは、退屈に対する適切な予防策であり、生半可に仕事をするよりも効果がある。それが仕事にも役立つのであるから、この勉強の重要性は尚更高いと言えるだろう。

 退屈に対して、それを楽しみで追い払おうとする考え方もあるが、楽しみというものは、アランの言う通り、難しいものであり、楽しむためには非常に努力をしなければならない。だから、仕事も勉強もせずに、ただ、いたずらに楽しみが欲しいと願うものには、楽しみというものは与えられるものではない。

 正しい宗教観を持って、適切な試練を受けること、これこそが本当の処世知であり、試練は嫌だと思うなら、その人が気に入る哲学や宗教に縋るしかない。しかし、それにしても、それらの価値観が約束してくれるものは、この世だけの繁栄であり、しかも、それも終わりまでは続かないという儚いものである。こう考えると、人間は生きるに当たって、どうしても苦しまねばならない存在である、ということも、また言えるであろう。

 

 最後に、いつも、いいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は、短めで終わりにしたいと思います。本当なら、長々とした考察を練っていたのですが、長すぎるのも問題だと思って、重要だと思える所だけを記載しました。それでは、皆さん、お元気で。

 

 

 参考文献 

 

ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 『幸福論』

アラン 神谷幹夫訳 『幸福論』

聖書 新改訳