伝道を農業に例えて考えてみると、私たちが出来ることは信仰の種を植えることだけである。実際に太陽の陽を注ぎ、恵みの雨を降らすことが出来るのは、唯、神のみである。伝道における、この太陽の光と恵みの雨とは、その人に下る苦難そのものである。こうした苦難から、個人的な道徳力に直結する信仰心が芽生えるのであって、このような試練をくぐり抜けていない信仰は、まだ成長の伸びしろを残している、とも言える。だから、苦難は単純に恵みなのだ。聖書では主に、ペテロ書とヤコブ書に、そのことが詳しく書かれている。パウロの書簡ではへブル書が特に、この苦難の説明に相応しいように思える。このことが、神がいるのに、何故、天災や戦争があるのか、という疑問の答えになっていると考える。
しかし、普通、苦しみが神から贈られる、と表現すると、大体の牧師は渋面する。オーソドックスな考え方をするのなら、神は、その苦しみを来るのを許しているだけであり、その苦しみのイニシアチブ(主導権)を握っているわけではない、というものになるだろうか。(実際、ヨブ記では、そうであった)天災や戦争も何故、あるのかと問われれば、それは神のせいではなく、人間の罪によるものだ。以上が模範解答であるだろう。
私としては、このような意見(神学?)に対しては否定はしないまでも手放しで賛同しているわけではない。厳密な意味では間違っているわけではないと思うが、カール・ヒルティやトマス・ア・ケンピスは、そのようには考えなかった。私の人生経験においても、この二人の考え方が間違っているとは思われない。
クリスチャンの本当の仕事とは、余りにも大きすぎる苦難に対して、絶望し、生きる希望を失くしている魂に、もう一度、その試練に耐える活力を注ぎ込むことにある。これが出来るのが、聖書で言う慰めの子である。そのような人のすることは、主に傾聴することである。試練に悩む魂は、その苦しみは、いつかは実となり花となる、や、その苦しみは神が、あなたを愛している証拠だと言っても、目の前にある苦しみによって、そんな言葉など、頭に入ってこないのである。こうした諭しが有効になるのは、試練による病気や障害が一段落した時である。
こうした事が出来る人は、その人と同等、もしくは、それ以上の苦難を通過した人である。そうでなければ、その人の絶えることない苦情に嫌気が差し、その苦情を聞き続けることが出来なくなるからだ。普通の人間は幸福な人間を好むが、こうした慰めの賜物を持った人は不幸な人を、より好むようになる。それはヒルティも主張している。
慰めの賜物を、ふんだんに与えられる人は、どうやら、人からの慰めは、あまり受けられないようである。それは、人の力に頼るのではなく、神のみを頼ることを学ぶためであったり、苦難の中にいる人を決して見捨てないためであるようだ。通常、人は神に反抗するのではなくて、あまりに無関心なだけである。信仰による試練だけが、俗世に向けられた興味関心を神の方へ傾ける効果がある。(信仰によるものではない、ただ単純な苦難だけでも駄目である)そうした試練によって、自分の力や人の力に頼るのではなくて、その試練から本当の救いを与える神に対する信頼に、徐々に(強調して言う、徐々に、である)変えられていくこと(いくら慰めの子であっても、その苦難からの解放までは出来ない)、また、興味関心を神に向けさせる苦難を必要以上に恐れることがなくなれば、その人は、この世における大きな仕事を果たしたことになる。そうなれば、いささか、この世における幸福を強調しすぎたきらいのあるヒルティの思想とも合致出来ると考える。(あまりに現世利益的なものは、内村鑑三の晩年の日記に頼ると、彼は毛嫌いしていたようであるが)安逸一それは、この世で、クリスチャンが最も避けなければいけないことであろう。
最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。苦しみは神からくるのか、それ以外なのか、それは論争の絶えないことでしょうが、間違いのないことは、神は、それを善用なさる、ということだと思います。これだけなら、神を信じる人と意見を合わせることが出来るでしょう。(意見の相違が悪いことだとは思いませんが)
愛する、愛する、愛する皆様へ、こうした慰めの賜物を授かった人は、その救いを求める人を、自ら探す必要はなく、恐らく、身近なところから現れると思います。しかし、注意しなければいけないことは、その人の苦しみの全てを分かってあげられることは、恐らく 出来ないということだと思います。例え、その人が自分の苦しみを分かってくれると言ったとしても、です。だから、慰めの賜物を授かった人は、キリストやエレミアが味わったような、夥しい苦しみを経験する必要があります。慰める人以上の苦しみを経験していること、それが苦しむ人を安心させる要因になる、そう考えます。それでは、皆さん、またお会いしましょう。お元気で。
参考文献
カール・ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 『幸福論』 第一部、第二部、第三部
内村鑑三 内村鑑三全集
聖書 新改訳