人間の性質の中で、最も得られ難いものは、心の遜り、つまり謙遜である。誰しもが心の中では、自分は本当はすごい存在なのだ、と思いたがるものであり、この自尊の心は、神からの恩寵によってでしか取り除かれることはない。この自尊感情を取り除くためには、時に、神は思い切ったことまでする。その人の自信の源となっていたものを、悉く打ち砕き、それだけでなく、重い障害すら与えることもある。「主を恐れることは知識の初め」(1)だと、ソロモンが箴言の中で言っていることであるが、神の懲らしめの試練を幾度となく受けた人は、神がその気になりさえすれば、死ぬことですら優しいと思えるほどの試練を下すことがある、ということを重々、承知しているために、そのような恐れを神に対して持っており、神を侮ることは決してしないものだ。(これは意見の分かれる所だと思うが死刑と無期懲役だったら、どちらの方が辛いか、と問われれば、私なら後者を選ぶ)

 私はキリスト教徒なので、伝道のようなことを行っているが、では、全ての人がキリスト教に帰依すべきなのかと考えているかと問われれば、原則的には肯定であるが、この世を幸せに暮らしたいという願いを持っている人には、何も幸せになる方法はキリスト教に帰依することだけではない、と考えてしまう。(これは、多少涜神的な考え方であるが)というのも、キリスト教は来るべき来世に向けて焦点を当てているので、死後の命について無関心な人だとキリスト教の魅力は半減してしまうためである。それと伴に、キリスト者であるならば、自分のことを、惨めな者である、という自覚を常に持っていなければならないからだ。

 もし、キリスト教が何の試練も困難もなく、全ての人を幸福にするものであるならば、確かに無条件で伝道するべきであるだろう。しかし、事実は、それとは異なっている。キリスト教の効果が最も発揮するのは厳しい試練による人格の研磨にある。このような試練がなかったならば、キリスト教に帰依しても、なんのかいもないことになってしまう。かといって、神の選びに該当し、試練に直面したとしても、その試練はとても辛いものであり、命を落とすこともありうるし、ベッドで寝たきりになるような重い病気や障害を授けられることもあるのである。とは言っても、このような死は新しい生活への入り口であったり、病気や障害を与えられても、それと同時に強力な神の保護の中にいるのではあるが。

 上で挙げた、惨めさの自覚について、改めて触れたいと思う。これは、神が、愛する者を高ぶらせらないための処置であり、軽々しく他人を軽蔑しないためにも必要なものである。だから、信仰者は、激しく自己肯定を行わせるものを、神から与えられず、既に持っているのなら、それを取り上げてしまうのである。これは非常に辛いことではあるが、イザヤ書にある「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(2)と言う言葉が信仰者を強く励ますのである。つまり、惨めな者という評価は、あくまで人間側のものであり、このように遜っている者は、神の目から見ると非常に価値のあるものなのである。従って、人間側の視点では、どれだけ悲惨なものであっても、神の視点から尊いとされるのであれば、断然、神の視点に立った物の考え方をするべきである。これが可能になって初めて、キリスト教は全ての人の福音である、ということが真剣に考えられるのである。人間側の視点が存在する限り、キリスト教が個人にもたらすものは、余りにも過酷なものとして映る懸念を常に残すものである。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。予め言っておきたいことは、これは著者の過渡的段階にある未成熟な考察である、ということです。内的進歩が著しく進んだ作家の考察とは相違点があることを強調しておきたいと思います。しかし、これだけは言えると思います。それは、神は、神自身が良いと思ったものを与えるのであって、それが、与えられた当人にとって良いものであるかは別問題である、ということです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、この論文は、もしかしたら発表しない方が良かったのかもしれませんが、それでも、信仰者の中には、こういった視点も存在することを示すためには、やはり必要ではないかと考えます。それでは、皆さん、またお会いしましょう。お元気で。

 

(1)聖書 新改訳

(2)聖書 新改訳