ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。

 
  詩と信仰
 
 
詩を書くときも
信仰を考えるときも
思考は大切だが
論理を整えるときの思考とは違う。
 
何かに共感して
共感を言葉にするとき
整うのは論理ではない
 
何かピッタリくるものを
ツボに当てはまってくれるものを
求めながら彷徨う
 
今までの私
ここにある心
 
悔いに沈む悲しみ
明日に望む希望
 
夕焼けの空を
反対側の暗さまで追う心
 
一つの表情から
一行の言葉から
暮らしと人生までを想う心
 
影が微笑ましく
陰が痛ましくても
辿り着いたところで
出会っている悲しみのような喜び
きっと表裏一体だ
 
詩を書くときも
信仰を考えるときも
動いている心は
理路というには直感が働いており
直感というのは理路を捨てていない
 
詩人はミューズを聞いてなどいないし
信仰者は救い主をイメージして
言葉の直感と罪を甘く苦く味わいながら
 
また少し地上の理路を悲しんでいる
 
 
(2019年10月20日)
 
彷徨う(さまよう、さ迷う)
閃き(ひらめき)
 
(ネットから)
ミューズ:
ギリシア神話の女神、「ムーサ」の英語名(複数形)。音楽・舞踏・学術・文芸などを司る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA
 
 
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  信じるとは
 
 
信じるとは
思いこむことではない
 
 思い込めば
 その人の頑なさに固まる
 その人の
 であり
 そこに神聖は排除されている
 
 私たちが自由意志をもって
 神聖を心から排除できることは
 古今の人間の有り様が証明している
 
 排除を、また、排除から
 いちいち神聖は防がない、守らない
 自由な人として育つためだ
 
 都合の良いほうにばかり正当化してはいけない
 
仰ぐとは
いつも上を見ていることではない
 
 上を見たら下は見えない
 
 上ばかり見ていると上気して
 足ではなく足下をすくわれる
 
 上には届かない大きなものがあり
 下には届いてほしい小さなものがある
 
 思い上がり
 のぼせるという罪は
 
 上にあるのではなく
 上だけしか見ない人にある
 
言葉の微笑を
あざ笑いに変えないように
 
言葉の悲しみを
憎しみに変えないように
 
信じ仰ぐ心は
悲しみの微笑を知っている
 
 
(2019年10月18日)
 
 
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  悲鳴
  
  
いつからか
私の目の前には
いつも悲鳴が鳴り響いているようだ
 
それは通り過ぎるときに
刃物のように何かを
切り裂いてゆくようなのだが
紙のように何か
切り裂かれているようでもある
 
飛び散るものが音も声も
さらに引き裂いてゆくようで
 
耳を塞いでも聞こえてきて
眼を閉じても見えてくるのに
一度も正体を見せないのだ
 
私はそこに
自分の泣き顔を
置いてみたくなることがあったけれど
それは一度も
乗せてはくれない
 
とても冷たくて
なのに
血のように熱して
しぶきのように
閉塞の壁にぶち当たっては
そこから行方知れずなのだ
 
夕焼けだろうか
それは一度も
消息など告げてはいないのだったが
 
いつの日からか
曲線の
細くふるえて
声が声であることを否みながら
この世で最も激しく
沈黙のように打ち消しあって
 
私は耳を塞いで
首を激しく振りながら
口を開けようとしている
 
 
(2017年10月18日)
 
(2019年10月17日、一部修正)
 
何か言葉や概念や感情のゴミみたいなものがたまってくると
思考も感受も滞るので、発散してます。失礼いたしました。
 
 
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  正直とは嘘とは
 
 
私は、何度も
神の前でだけは
精いっぱい正直な祈りを捧げることを
救われる条件と書きました。
 
ひょっとして
神の前で正直でも
人の前で嘘を吐くのはいいのか
と思う人もいるのではないかと思いますが
 
人間というものを
全体像として
全人格として
総合的に見てほしいのです。
 
神の前で
精いっぱい正直であろうとするほどの
信仰を持つ人が
人の前で
ここなら、いいやとばかり
平気で白々しい嘘を吐けるでしょうか。
 
つまり
神の前で本気で正直でありたい人は
人の前でも
あまりに白々しい嘘は吐けなくなる
ということが考え方の前提です。
 
人に嘘を吐いたことのない人は
恐らく、いないと思います。
 
その中でも
人の前で、あまりに白々しい嘘を吐く者は、
人の前で正直とは真逆である者は、
神の前でも
正直な告白を続けることはできず
嘘を吐くしかなくなるということでもあります。
そこに信仰は成り立ち得ないと思います。
 
そして神の前と人の前の
どちらも平気で嘘吐きであるなら
もはや、信仰どころか、
故意の嘘つきであり
意図した詐欺か陰謀みたいなものであるのか
体質的には虚言癖としか思えないのです。
 
 
(ネットより、長めに引用します)
虚言癖:
虚言癖とは、どうしても嘘をついてしまう性質を意味しています。 通常、嘘をつく場合には、何か大きな理由があったり、嘘をついたらどうなるかまで考えて嘘をつくことが多いです。 たいていは必要に駆られて仕方なく嘘をつくものですが、虚言癖の場合は違います。 嘘をつくことが癖になってしまっているのです。
やっかいな虚言癖を引き起こしてしまう原因:
虚言癖をつく人の多くは、自分を現実よりも大きく見せたいと考えています。その心理の原因としては以下のようなことが考えられるでしょう。
1.プライドが高く、虚栄心を満たしたい
プライドが高いため、できない自分をなかなか受け入れることができません。自分より周りの方が幸せそうに見えたり、周囲の人からバカにされたりすることを極端に嫌います。そのため、嘘をついてでも虚栄心を満たそうとするのです。
2.劣等感が強く、自信がない
プライドが高いことと矛盾するように思えるかもしれませんが、根本的なところでは劣等感が強い人の方が虚言癖になりやすいです。自分に自信がないため、よりよい自分を想像して嘘をついてしまいます。過去に何か大きなトラウマがある人も多いです。
3.努力ができない
普通であれば、できない自分を努力で克服していくものですが、虚言癖の人はこれができません。人からは認められたいけれど、努力や苦労は嫌いなので、手っ取り早く嘘をついてしまうのです。
4.隠したいことがある
隠したいことや大きな秘密を抱えている人も、嘘をつきやすいです。はじめは、その秘密を守るために嘘をついていたはずが、嘘に嘘を重ねていくうちに虚言癖の傾向がでてきます。このタイプは、嘘に自覚的である場合もあります。
5.周りに構ってほしい
虚言癖の人は、「周りに認めてほしい」という気持ちを人よりも強く持っています。目立ちたい、羨ましがられたい考えている、かまってちゃんであるとも言えるでしょう。孤独を感じていたり、寂しさを埋めるために嘘をつく人も多く、幼少期の親子関係などに起因しているケースもあります。"
https://tabi-labo.com/217641/lie-human-ppl
 
 
私が出会った嘘ばかり吐く人は、キリスト者、そして、元牧師と言っていました。
しかし、突っ込んで聞くと、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、
などという、キリスト信仰とは真逆の妄想的なことを言い出して、大嘘が発覚します。
 
その人の特徴は、
 
1.指摘に対して、
「邪推と妄想はstさんの専売特許。
 stさんの信頼を失っても、わたしに失うものは全くありません。」
といったことを書いて、自身の優位性を主張してきます。
ここで自らの優位性を指摘して何になるんだろうと思うところです。
当然のことですが、その根拠を全く指摘できません。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12519287991.html
 
2.無根拠など理路の欠落を指摘すると
「そっくりそのままお返しします」などと言ってきます。
しかも、根拠を全く書いたことがありません。
私は、根拠を、約8年間書き続けてきたつもりです。
彼は、書くたびに、
それが無根拠の新たな根拠となり、嘘も積み重なるのです。
 
3.自分が言われそうなことを逆にこちらに当てはめてきます。
「被虐待児が長じて虐待する側になる」
私は、彼に、私の幼小児期のこと、一言も話していません。普通に愛されて育ちました。
「(ある)カルトに似ている」
私は、そのカルトのことを知りません。
どこが似ているかと問えば彼は黙るしかないのです。私の信仰を知ろうとしないから、どこがどう・・ということが言えないのです。
 

彼は、返せなくなると、いつも、黙り込みます。そして、しばらく経つと、何事も無かったかのように、丁寧語の挨拶から、また、書き始めるのです。過去の不都合を総て無視して。
 
「(自身に)依存しているから、かまってもらえないくて、批判をしてくる」
悪口を言うにも自分を高めてくる人です。彼は、人格依存されるような、いかなる魅力も皆無です。批判しているのは、真逆のキリスト信仰を教えられては困るからです。既に、批判は、批判記事があることをもって、読者が、彼に近づくことを少しでも減らすために書いていたということです。彼自身は、全く、遣り取りが成り立たない、話が通じない、話にならないので、彼をどうかしようとか、変えようとかは、全く思っていない段階です。
 
4.ごまかすための丁寧語
書き出しは、いつも、挨拶から始まります。
挨拶など交わす間柄ではないのに、自分は、できた人格だからとでも思って、アピールしたいのでしょうか、状況に全くそぐわない挨拶や丁寧語を入れてきます。動じないよ、とでも言いたいのでしょうか。そういう言い方が、過去には、功を奏したのでしょう。どんなときでも通用すると思っているようです。状況に合わない丁寧語は、気色悪いだけだという大人の感性をを持たないようです。
恐らく、信仰の敬虔を、丁寧語を使えば、実行したことになるとでも思っているのでしょう。
 
5.さらに妄想
私が何かに乗っ取られてトラウマか何かで批判ばかりしているという、ホラーのような話を何度もしてきます。この話ばかりは、私には、どこから出てきたのか了解不能です。悪意からですが、上記の宗教と信仰についてのことに加えて、妄想性を疑う大きな根拠になっています。
 
今、偽善者で、嘘吐きの妄想家である彼は、ヤフーブログ終了とともに所在不明です。
しかし、偽伝道をやめるとは思えないので、ときどき、検索しています。見つかりにくいように、ブログタイトルもHNも変えてくるでしょう。ヤフーブログでも、タイトルは3つ目で、2回変えた人です。その都度、何らかのトラブルがあったのでしょう。私とのトラブルも含まれていると思います。総て作為の悪意からで反省もせず罪悪感も感じない怖い人です。こういう人がいる、という私の経験からの学習でもあります。
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認による救いです。
ここを理解できない宗教は、カルトだと思います。
 
そして、信仰義認は、
少なくとも、神の前での、精いっぱい正直な告白をすることが悔い改めであり、
はっきり言って、そのことだけが、人が、神に対してできる唯一の信仰告白であります。
 
善い行いは、本当に善であるかどうか、人には、
最後まで影響を追いかけて、証明することが出来ない性質である以上、
 
その折々の正直さのみが、救いの条件であると考えるしかない
という
現時点での、私の主張であります。
 
自らの自由意志で信仰を選んだ人間、すなわち、信仰者に
努めて出来ることは、正直な祈りだけだろうと思うからです。
 
前にも、私は、この結論的な考え方は書いていますが、
ただ、私としての今の判断に過ぎず、訂正不能ではなく、
もっと良い考え方があれば、私は修正する可能性を残しているつもりです。
 
 
(2019年10月17日、同日一部修正)
 
 
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  信仰は母性?
 
   「没後10年 遠藤周作と〈母なる神〉」加藤宗哉
    2019-10-14NEW
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12535768814.html
   楽山日記(a)
 
 
あたかも信じているかのようにクリスチャン芝居をしてみたり、一方では、幼稚な見方で、子供が駄々を捏ねるような、いちゃもんを付けて、キリスト信仰をおとしめたりの、ふざけた楽山は、どうしても、インテリの仲間であることをひけらかしたいようです。
 
相変わらず、何もキリスト信仰について分かっていないことを指摘されたにもかかわらず、キリスト者の小説家と同じ立場で、インテリを評価するインテリ気取りの文章を書いています。
 

『宗教と現代がわかる本 2007』(渡邊直樹責任編集)を眺めていたら、遠藤周作についての文章があったので読んでみた。江藤淳が『沈黙』に描かれたキリストについて、母性的な面が強調されて日本の母親のような存在に描かれていることを指摘したという話は知っていたけれど、「元来、キリスト教は〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが、日本へは前者の面だけが強調される形で伝達された」という見方は知らなかった。

 
神を、父性と母性に分けて、楽山は、何が言いたいのでしょう。神は、御一方しかいないのです。また、神は、人に規定されるような御方ではないことを、人は弁えなくてはいけません。父性か母性かは、それぞれの信仰者が、よく言えば自由に、悪く言えば勝手に、イメージとして、いだいているだけなのです。
 
楽山は、神が父性と母性のどちらかなどということが考えて深められると思うらしく、荒いタオルで神の御坐を拭くように、神を、自らの手で扱う対象にしたいようですが、神への信仰など持っていないことを弁えもせずに、今回も、何も信じてなどいない立場から、何でも知っているかのような評論家気取りだけが目立つことになっています。
 
そういうことだから、楽山の立場は、キリスト信仰について何かを学ぼうとする姿勢ではなく、結局、キリスト信仰をけがし、どうにかして、おとしめようとしている生業にしかならないのです。
 
神については、決して、神は云々、などと、一般論では語れないことを、全く受け取らず、認めないまま、楽山は、自己顕示欲が好き放題に暴走しているだけの厚顔無恥です。
 

でも考えてみれば、キリスト教にはその両面があるというのはその通りのように思える。ただ日本ではマリア観音というものもあったというし、父なる神という「面だけが強調され」たというわけでもないようにも思うがどうなんだろう。

 
どういう根拠で、両面があるなどと言えるのでしょう。歴史上の人物評でもやっているつもりならば、宗教と信仰について、何も言うべきではないです。シャロームと同じように、有名人の小説をネタにして、そこから、自分が何かもっともらしいことを言えそうなところだけ取り出して、思いつきと自己満足で語るのは、身の程知らずであり、とても醜いことです。
 
楽山は、神が父性だけではない根拠に、マリア観音を持ち出す幼稚さであります。先ず、マリアを聖母として敬うにとどまらないようだが、マリア観音は、キリスト信仰の対象なのでしょうか。
 
楽山は、いったい、キリスト信仰を、どう考えているのでしょう。そこが、ずっと、何も明らかにされていません。今まで、楽山の文章に表れてきたことから言えば、楽山は、決してキリスト信仰者ではない、むしろ、あらゆる宗教と信仰を、蔑視している偽善者だと思います。
 

それはさておき、上の考え方からすると遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されないということになりそうではある。自分は遠藤周作のキリストに共感するところがあるのだが、

 
気軽に、さておかれても困るのだが、遠藤周作の語るキリストは否定されない、などと言っています。誰が、その判断の資格を、キリスト者でもない偽善者の楽山に与えたのでしょう。誰も与えていないのだから、楽山は、勝手に書いているだけです。これは、ちょうど、十字架のまわりで、自分が何をしているか分からない人の有り様です。
 
キリスト者でもない者が、反信仰を批判されたにもかかわらず、何も答えることなく、性懲りもなく、キリスト教を語り続けるのは、この楽山という男が、アドラー教の、気に入らないことは無視して、無かったことにしてきたというカルト性の表れでしかないのです。
 

それは遠藤周作によって日本人に合うように仕立て直しされたキリスト教であるからある意味当然であり、そういうキリストに共感したとしても実際のキリスト教のキリストを知ったことにはならないだろうし、遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと思ったりもしていたのではあるが、これはそれほど気にしなくてもよいということになるのかもしれぬ。

 
上から目線で、遠藤周作がキリスト教を日本人に合うように仕立て直した、と言っています。汚い言い方です。そして、それゆえ、共感しても、キリスト教を知ったことにはならない、と言っています。では、楽山は、どうかと言うと、楽山の手のひらに乗りやすいような偽キリスト教?に仕立て直し、そこからしか語っては来なかったのです。
 
しかも、楽山は、母性もあるという例にマリア観音を、なんの資格か、取り上げて、正当だと見なし、遠藤周作に共感しても、キリストから遠ざかることを気にしなくていい、とさえ書いています。「かもしれぬ」を付ければいいというものではないでしょう。ここまで来ると、神の裁きのごとく、天国の裁判官にでもなったつもりなのでしょうか。
 
信じてもいないのに、知りもしないのに、偉そうに語って評価するとは、楽山の傲慢不遜も、自分を聖域に置いた人間離れに至って、金色の偶像のように、人間の温かい光から、金属の光沢のような冷たいものになっています。
 
果てしなくキリスト教とキリスト信仰から遠ざかり、それによって人間性からも遠ざかるのは、このような世迷言を書いている楽山その人であります。
 

また著者によれば、『日本人と母 文化としての母の観念についての研究』(山村賢明著)では、母親は「つねに、堪え忍び、あるいは家族に尽くす存在であり、子供の側から見れば〈受難者〉といった感じが強い」とされているとしており、それは「母親はあれほど苦労したのに自分は何もしてやれなかったという罪悪感」にもつながり、その辺りのことはキリストへの気持ちと、母親への気持ちは重なり得るのではないかとのことである。

 
楽山は、自分が何ごとも、はっきりとは書かず、結論が出ないことに安住したいのか、他者の言を漁っては、都合の良いところだけ引用して、他者が自分と同意見で、自分も他者を支持しているかのように見せかける印象操作をしてきます。楽山自身には信仰の欠片もないからでしょう。
 
母親についての一般論を、いつのまにか、信仰に当てはめて、自分は読書家だから分かるのですアピールをしてきますが、母親は神でしょうか、また、父親は神でしょうか、違います。こういうことは、信仰者でも、難しい問題を含んでいます。
 
外野から、身の程も弁えないで、詭弁の的外れだけを書いてくる楽山は、ずるずるの野次馬根性しか持ち合わせていないことを自ら露呈しているだけです。
 

これは少し分かるようにも思う。母親へのすまないという気持ちは何らの前提なしに分かるし、キリストの場合もその教義から想像すれば自分のせいで罪無くして裁かれたとも言えるようであるし、いたたまれない心地はするので。

 
信仰は、「母親へのすまないという気持ち」でしょうか、これで、信仰が語れるでしょうか、否です。「少し分かるようにも思う」、という婉曲表現をしても、少しも分かっていない部外者で反信仰の楽山の、ずぶ濡れの自己顕示欲では、信仰の「し」の字も表せないことを示しているだけなのです。
 
慢性に心が腐ってしまうと、なんの自覚もなく、亡者のように、空しい言葉を重ねる業(ごう)のようなものに支配されてゆくのでしょう。
 
キリストの場合について、マリアのことについて、どうして、楽山が語るのでしょう。教義からなどと言っていますが、神聖を、楽山のように信仰を何も知らず、教義を理解しているとも思えない者が、信仰の代わりに?思い付きだけで洞察もない理屈や、しかも安易に人間の一般性で、平板な情緒で、どうして、信仰と宗教を語れるでしょう。
 
まるで、信仰の、入れ物作りにさえ、器づくりにさえ、準備も用意も出来ず、希望も心情も表せず失敗して、後始末のように御託の辻褄を合わせようと、他者を利用している瓦礫の惨状なのです。
 
いたたまれない心地を感じるべきなのは、今、デタラメなことを執拗に書いている楽山自身であります。決して、楽山を信用してはいけません。
 
人間の分別も節操も、まるで無い人です。楽山にあるのは、異常な執着、つまり、宗教を語れるんだと、負けだけは認めない原始的な執念深さだけだろうと思います。だから、何を書いても、ボンヤリ言語になり、何の結論にもならず、糧(かて)にすらならないのです。
 

さらに著者は、遠藤周作のキリストは無力な同伴者であって「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」存在としており、これには「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」としている。

 
「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」を、共感であるかのように勘違いしないでください。こうして、キリストを無力化する考えに誘導するのが、楽山の狙いです。
 
「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」も同様です。キリストの「無力」を二回書いていることに、楽山の反キリストが表れています。
 
こう書けば、有名人の言ったことだし、しんみりして、受けるだろうと、常識と情緒面の欠落をごまかしているだけなのです。
 
今まで、キリスト教とキリスト信仰について、情緒も理路も分からない楽山から、信仰の共感など生まれたことは一度もありません。むしろ、妨害と言えることばかり、自らの言説に表れてきたのに、過大な自尊によって、引っ込みがつかないでいるのです。
 
アドラー教やシャロームの偽キリスト教のような、カルト的教義に嵌(はま)って見苦しい人格破壊を歩むのが、楽山とシャロームの宿命なのでしょうか。
 
信仰者の立場を持たず、謙虚も敬虔も持ち得ない楽山に、いかなる信仰の読み解きも共感もあり得ないと思います。だから、シャロームのような、偽キリスト者の反キリストの味方をするのでしょう。成りすましなのか、同類の仲間なのか、得体のしれない自己中心の訂正不能です。
 
この二人は、法律が、信仰や宗教に対して、条文という言葉だけでは、対処できないところに付け込んで、欲求不満を晴らそうとしているようです。インテリではなく、インチキですから、相手にしないでください。
 

ここも分かるように思う。自分はここから連想するのはミケランジェロのピエタだけども、こうしてみるとたしかにキリストと母親の姿は重なるようではある。でもそうすると自分としては、ピエタをじっと見ているとだんだんにキリストと母親(マリア様)が重なり、母性の権化のようなマリア様こそがキリストそのものという感じがしてきて、無意識のうちに祈るときにはキリストにではなく、マリア様に向けて祈りたい心持ちになってしまうのだから我ながらおかしなものではある。

 
芸術作品が分かるような文脈を持ち出して、キリストとマリアをネタにしています。キリストをおとしめて、マリアの母性に祈るなどという信仰を夢想しているように見えますが、実際は、それどころではなく、楽山には、信仰の欠片もないことが、クリスチャン芝居や、カルト的妄想への賛同に、嫌というほど表れてきました。そのことを知っておかないと、楽山の企みに引っかかりやすいと思います。そこだけが怖い者たちです。
 

三浦綾子は、「祈る対象は、この世を造り給うた全能の神でなければならない」(「天の梯子」第一章祈りの姿)ときっぱり言い切っているし、理屈から言えば、キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども、

 
大嘘です。楽山には、自己顕示欲のおもむくところ以外、関心事はないと思います。
 

自分の場合は根が多神教体質にできているせいかどうか祈ろうとするときには、全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもするし、むしろそれこそが一番自然な流れだったりもするわけであり、もしそれを変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり、そういう状態は到底長続きさせることは無理なのだからしょうがない。

 
ここで、またしても、クリスチャン芝居をしているようです。楽山は、シャロームの、悔い改めなくても赦されるから罪は気にしなくていい、という信条に、賛成して、その後も訂正していません。マリア様に祈るなどという白々しい言葉に騙されないようにしてください。楽山は、誰にも祈ってなどいないと思います。ここでも楽山はクリスチャン芝居をして騙そうとしているのです。
 
また、信仰を変えるのには、意志の力で力んでいなければならなくなると言っています。信仰は、決して、そのような、意志で何とかするものではありません。悔い改めも祈りも、何も分かっていない者の言であります。
 

こうしてみるとやはり外国の宗教を理解し、実感として分かるようになり、元から自分の中にあったもののように馴染み切るというのは本当に難しいものだと思う。

 
キリスト信仰について、楽山が今の楽山のままでは、どこまで行っても、何を書いても、何の実感もないと思います。根っからの詭弁によって、偽善者ぶりをあらわにするだけでしょう。
 
また、おかしなことを言っているようだが、信仰は、馴染み切るものではありません。導きも目覚めも、何も分かっておらず、さらには、一般的な、共感や、罪悪感による悔いも、感じたことのない人だと思っています。
 
弱さみたいに見せかけるのは、ボンヤリ言語のひとつの表れとして、前からあったことです。本当に弱いのなら、人の言うことを無視せずに、人の話を聞いて、分かるまで、反省できるまで、書くことを控えるはずなのです。
 
信仰は、難しいのではなく、楽山のような自己中心の嘘吐きには不可、つまり、ありえないのです。
 
 
私について言えば、強いのではなく、弱さを知っていたいと祈る者であります。強くありたいと思うこともありますが、強くなると思い上がりやすいことも知っていたい者であります。
 
信仰は、こうある、また、こうあるべき、という示し方よりも、本質において、むしろ、どうありたいかを示してくるときがあります。そして、まるで、私の希望が、私を対象にするように思われる心の現象があります。それは、楽山のような傲慢な部外者には決して分からないことで、ときに戒めのように、ときに恵みのように、与えられるものです。
 
信仰は、決して、自他の言葉をいじくって、得々と語りうるものではありません。
 
本を読むが、他者の意見を無視するようなあり方は、信仰ではありません。そこでは、自己矛盾の経過において尊大となって、無自覚ゆえに不覚の訂正不能の自己中心が信仰を妨げるだけです。
 
信仰は、じくじく、ねちねち、ぐだぐだ、だらしなく、書くことでは決して表せません。
 
キリスト信仰は、温もりと潤いのある青い霧のようなもの、・・というのは不適切かもしれませんが、形なくとも、心にあるものであり、少なくとも、パリピや、お祭り騒ぎや、豪語や、一気の悟りでは、表せません。
 
また、キリスト信仰は、曖昧にお茶を濁すボンヤリ言語や、印象操作や、慣れあってごまかす態度や、自らの非を認めないことを柔和に見せかける丁寧語という細工や、訂正不能や、やさしい善人を気取りながら他者を侮る尊大や傲慢や、小理屈の言葉いじりや、不都合を無視する小部屋からの一方的発信では、決して表せません。
 
信仰は、人生であり、世界なのです。
 
どうありたいのか、ということを、考えるところに、聖書は答えるでしょう。
 
偽善者の、見かけ優しい言葉に、騙されることのないように、祈っています。
 
 
(2019年10月16日、同日一部修正)
 
 
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