ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。

 
  楽山の神噛み2
 
 神に通じる祈りとは?(『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29025258.html
  改めて批判。
 
 
楽山は、祈りません。ただ、あの神、この神と、批評して回るのです。したがって、救いの「す」の字も与えられることはありません。神について少しでも知りたいという求める動機ではなく、神々を見物して知ったことにしたいだけなのです。楽山は、知りもしない神に噛みついているだけなのです。
 
最近の楽山は、自分の言葉が成り立たないものだから、書かない時の原始反応として、引用が大部分を占めるようになっています。同じことです。引用部分の内容とつながりから、楽山が何を暗示しようとしているかを考えます。そこに、曲解に基づく作為と悪意が満ちているからです。
 
 

『神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。

天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
 」

皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。
(同上、p.109)
 」
これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。

 
楽山は、正直ということを語るのに、人間としての当たり前に理解できる正直では分かったことにならず、「神に通じた霊妙なもの」というのを持ち出してきます。楽山は「正直」は神霊でないといけないと思っているようです。人として当たり前の正直が、楽山には成り立っていないからでしょう。
 
楽山は、次には、「いのらずとても神やまもらむ」、つまり、祈らなくても神は守ってくれるだろう、と引用しています。しかし、楽山は、人間として、誠の道に、ことごとく背いているのです。
 
楽山は、気安く何が「通じる」と言うのでしょう。自分を見ない者が、いくら、キレイごとを言っても、その偽りのキレイさ?が、逆に、自分を斬ってくるという例になります。
 
こういう自動的な返り討ちブーメランは、楽山の常態です。まともぶれば、まともぶるほど、自分が自分の言葉にズタズタに斬られてゆくのです。呆れるほど、いつまでも、気づかない楽山です。
 
 

私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。

 
また、正義ぶって、まとも芝居をしています。軽々しい楽山劇場ですが、いちばん、おかしいのは、ずっと嘘吐きの、楽山なのです。しかも、関わると、関わった相手をも、壊してゆきます。
 
「自分は地獄に堕ちるのだろうか」・・あざとい楽山の、お悩み芝居です。言葉だけで、深刻味が、まるでありません。楽山の、こういう台詞を真に受けて、巻き込まれないようにしてください。楽山は、既に、この世の地獄にいるのです。だから、言葉も、心も、信仰も、嘘だらけです。
 
 

最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。

 
恐ろしい詭弁です。信じていない楽山は、その本質的な自己愛の性根から、正直の欠片もないモンスターです。楽山は、詭弁で、ごまかしていますが、楽山は、信じ切れない正直ではなく、信じる心が、まるでない、ウソッピ物語なのです。これで、自分は正しいと思い込んでいるホラーなのです。
 
 

もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。

 
信じられないのではなく、体質的な悪と偽善のために、信じる気など最初から無いのが、楽山です。これで、正直な自分を表したつもりなのです。いったい誰に、嘘つき楽山が「信じられないと正直に」言って、受け入れられると思っているのでしょう。神は、全てを既に見抜いているのです。
 
楽山は、一言も正直のない手遅れ地獄にいて、それで「気がとがめることもない」のだそうです。大嘘です。良心が無い凶悪性の証明でしょう。狼が来たと嘘を吐いていると、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなくて、狼に食われてしまうという「狼と少年」の嘘吐き少年そのままでしょう。
 
信仰芝居も、お祈り芝居も、神否定も、反宗教・反キリストも、様々、ほしいままに、三文芝居で欺いてきて、今さら「信じられない正直」などと都合のよい捏造で言われても、笑止だけでなく、地獄へのガイダンスに過ぎません。悪魔のプレゼンです。堕ちるなら、独りで堕ちてください。
 
 

いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。

 
信仰の正直は、神の前の正直です。神は、決して嘘を吐いてはいけない相手だということです。それは、自らの信用問題と存在についてのことです。楽山は、そこを踏みにじっているわけです。楽山は、神を呪うかのように嫌っていて、舐めていて、神をもだませると思う身の程知らずなのです。
 
さすが地獄の大根役者そして偽善者です。「この結論に満足している」と自画自賛しています。楽山は「自らに嘘をついて」いるのではなく、他者に嘘を吐いて、だましてきたのです。しかも、神にも嘘を吐いて、それで通ると思っているのです。近づいてはいけません。
 
楽山の心に信仰はなく、もはや悪意と虚偽性だけをもって、こういう詭弁を仕掛けてくるのです。信仰者が、神の前に正直であるべきということの、対極にいて、あざ笑っているのが、楽山です。いつまでも、嘘で、ごまかそうとしてくることが、悪魔性を証明しています。寒い寒い楽山の世界です。
 
 
 
 幸福実現党の移民政策
 2021年05月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9439241.html
   を改めて批判。
 
 
楽山は、批判ツイートの管理人かアドバイザーにでもなってるつもりでしょうか。楽山には、批判する資格もなく、批判を云々する資格もありません。
 
楽山は、嘘と詭弁で刷り込むだけの自己愛性の欠陥人格です。楽山は、何を言われても、反省もしなければ、責任を負うこともありません。この楽山のようなやり方は、言論には通用しません。楽山は、早く消えてほしいだけの偽善者です。
 
 

*移民政策
幸福実現党の移民政策について、及川幸久氏がツイートしていた。

及川さん
移民万歳だけ改めてください!
そしたら応援したいです!
 」

返信
及川幸久 香港加油!
@oikawa_yukihisa
実は幸福実現党は移民万歳ではないんです。10年以上前にそういう主張をしたのは確かですが、その中身は逆で、今の自民党の緩すぎる移民政策を批判し、移民受け入れの厳しい基準を主張しています。とくに反日国からの受け入れは。
 」
これには疑問に思うことを、一つ、二つ呟いてみたけれども、いまのところ回答なし。残念。

 
楽山には関わらないでください。回答があってもなくても、楽山は、ずっと、冷酷で、かつ、残忍な人です。それ以外、何もない人です。楽山は、いつも、ゲーム感覚だと思います。
 
 

*疑問(一)
疑問内容についてここでも書いておくと、まず一つは移民受け入れには厳しい基準を設けるということは、移民を抑制する方向に行くはずなのに、そうはならず移民一億人をめざすというように移民拡大に向かうのはチグハグではないかということである。
また移民一億人をめざしながら、移民万歳ではないというのもチグハグだ。
ニッポン繁栄 8つの提言【3】めざせ!人口3億人国家

 
「チグハグ」?・・楽山自身は、無反省と無責任で、裏切って、けなして、面白がっているだけです。何を、他者のことを、一人前の評論家人みたいに言っているのでしょう。そんな資格はありません。むしろ、楽山は、真面目な言論を、おとしめ、あざ笑い、けがしてゆく妨害者です。
 
 

*疑問(二)
もう一つは、移民は一億人に限定せず、二億人でも大歓迎としていたが、それについて及川氏はどう考えるかということ、またこれは党の政策として今も変わらないか、もし変わっているなら何故変わったか教えてほしいということ。
下の動画では、55分過ぎから一億人移民が議論になっており、57分過ぎには移民は二億人でも大歓迎という発言も出ている。

 
こういう問題は、荒唐無稽ですから、空想の理屈遊びができるのでしょうか。楽山は小理屈をこねていますが、テーマが倫理や道徳や人間性や良心や共感するべきことになると、楽山は、心が無いので、まるで、破れた障子のようなことしか書けなくなります。バラバラで、ピラピラで、フラフラなのです。
 
 

*疑問(三)
ついでにもう一つ疑問を書くと、幸福実現党が提案する移民選定の基準は、深刻な人権問題に発展するのではないかということである。

 
偉そうに書いていますが、他者の人権も尊厳も、屁とも思っていないのが、楽山です。ましてや、神の全能など、何も知りませんし、信じてもいません。約3年間、楽山の書くものに、その卑怯さは、次から次へと表れてきました。
 
 

反日国からの移民は認めないだとか、英語圏の白人の移民を期待するだとか、国籍、人種によって選定することは果たして許されることだろうか。また移民には日本国への忠誠を誓わせる…つまりは反日思想を持った移民は認めないということであろうけれども、これは思想信条によって人に対する扱いを変えることになるのではあるまいか。
幸福実現党はこの辺りのことについては見直す必要があると思う。

 
趣味で茶々を入れてくる楽山の目的は、正義でも人道でもなく、評論家みたいに書いて、そう見られることが、悪魔性の悦楽だからです。「見直す必要がある」などと他者に言う資格はありません。
 
楽山は、A級戦犯に賛同しているネトウヨです。しかも、しっかりした思想も信条もありません。いわゆる、荒らし的な、いちゃもん屋です。だから、単方向で、何を言われても、平気で無視します。誰に憎まれても不思議ではないと思います。
 
そのことが、もたらすのは、無反省と無責任で、真面目な議論や批判において、自分が追及されると無視して、逃げるだけなので、話にならず、何の役にも立たないということです。そういうことを、平気で、長く続けているわけです。よく、ぶん殴られもせずに済んでいるものです。
 
 

       

                      嘘は飾っても嘘
 
 
(2021年05月09日)
(2022年05月20日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
二十年の凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  ぶらぶら
 
逆さになって
ひっくりかえった
夢を笑う
花を摘み
逆さにして
ぶらぶらと振る
何かを吹き
何かに吹かれて
みんな自分だったと
苦い実を噛む
濁った汁がしみて痛い
 
細かく雑草が揺れるほどの風
受けて少し逆流する
寒けが空っぽの気道を舞う
何を恐れている
それとも憎んでいる
咳き込むほどに渇き
荒れて
濁った痰に癒されるのは
肉体に似て
退いてゆくもの
しかし方角が違う
そちらへ行けば
逆さになって
ぶらぶらになって
 
後ろを向いた眼球を
旅人の姿に隠して
ぶらさがって
空へ落ちかかっている
この世を
そんなものだと
眺めながら
誰にも会わず
去っていったあいつ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山は、うまくいかないと、落ち込む代わりに怒り、敵意と悪意を増幅するのでしょう。生きるエネルギーとして最低の自家発電に終始します。だから、怒りを表出せず、怨念を燃やす体質なのでしょう。それは生き方ではなく、自滅の刃であることにも気づかないようです。
 
 
 
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  楽山の正当化の詭弁2
 
 尊い信仰とは? (榎本保郎『旧約聖書一日一章』)
 2013年02月16日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512101.html
   古い記事ですが、改めて批判。
 
 
楽山が、愛について、信仰について、一生懸命について、さらに、自己責任について、述べていますが、大方、自分を正当化するための詭弁に過ぎません。今まで3年余りの経過から、楽山に人を教える資格はありません。楽山は、反省しない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 


尊いのは愛によって働く信仰だけである。
(榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、昭和62年、p.190)
 」
著者はただ信仰が尊いとしているのではなくて、愛によって働く信仰だけが尊いと強調しているのが印象的だ。そして著者はその愛のあり方を次のように書いている。 

 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、愛や共感といった高等感情を持ちません。文章に表れたことがないからです。代わりに、言葉だけを振り回してきます。2013年頃から続いていることが分かります。
 
 


私たちは、強い者が弱い者の弱さをになうことにおいて、すなわち愛において連帯に生きることがすすめられている。
(同上、p.190))
 」
これは自分にとって耳に痛い言葉だ。自分はかつて、ある宗教教団(幸福の科学)に所属しているとき、弱い者の弱さをになうことをしていなかった。弱い者いじめがあっても、それをいじめとわからなかったり、傍観者になってしまっていた。ここは今思い出しても心苦しい。反省しないと……。

 
楽山は「弱い者の弱さを」あざ笑い、だまし、操るペテン師です。つまり、根拠のない病質的優越の自覚から、弱い者いじめをして悦ぶ人格障害者です。丁寧語にだまされないでください。「心苦しい。反省しないと」・・嘘です。9年後の2022年、楽山は、何も変わっていないことが証拠です。
 
 
 
 一生懸命に頑張ることの大切さ
 2013年02月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512108.html
 
 

アンチが必死すぎるとして嘲笑う記事を見ました。二つのブログに、同種の記事が一つずつありますね。
一人ではなくて、二人がそういう発言をしたということでしょうか……。わたしは、アンチはアンチとして一生懸命に頑張ればいいし、信者は信者として一生懸命に頑張ればいいと思ってます。それぞれが、それぞれの立場で頑張ればそれでいいと思ってます。

 
どうして、楽山が、いいかどうかを判断するのでしょう。楽山は、判断され裁かれる立場です。また、人の言うことを全然聞いていない人です。偽善者であり、高みに立って、おとしめること、だますことに、専念してきた楽山です。
 
楽山は、いつも、"それではよくない" モデルなのです。小学校の道徳のような「一生懸命に頑張ればいい」では、何のアドバイスにもならないと思いますが、楽山は、言い得たつもりでしょうか、「それでいい」などと、何を、満足しているのでしょう。
 
 

また、日本がこういう風になったのは、一生懸命に頑張る人を嘲笑う風潮や、一生懸命に頑張ることをはずかしいと思う風潮が広まったことも一因にあると思ってます。

 
今度は、評論家気取りですが、楽山に、上のような風潮を語る資格はありません。楽山は、思いつきで書いているだけです。真に受けないでください。糧(かて)になるような深い洞察を、楽山が書いたことなど一度もないのです。
 
楽山こそ、「一生懸命に頑張る人を嘲笑う」人です。他者を、あざ笑って遊んでいる自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。むしろ、あざ笑いながら、詭弁の無神教カルトを広めているのです。心底は、アンチではないと思います。
 
 

ついこの間、サッカー元日本代表のキング・カズは、日本人へのメッセージとして、一生懸命に頑張ることを説いていました。トルシエ元日本代表監督も、日本に来て驚いたことの一つとして、選手たちが一生懸命に頑張ることを恥ずかしがってることを挙げていたそうです。

 
「一生懸命に頑張ること」・・シンプルな教訓ですが、楽山が、いちばん嫌いで、一度もしたことのないことだろうと思います。楽山は、正常に頑張るのではなく、一生懸命、自己正当化と自己満悦~陶酔~悦楽を求めて、他者を欺いてきました。
 
 

ロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』では、ゴッドフリートという人物が、何をもって英雄とするかという問いに対して、自分の為し得る限りを尽くした人が英雄だと答えてます。誰にもできないことを成し遂げた者ではなくて、自分の全力を尽くした者こそが英雄だというのです。

 
楽山は、妄想的勘違いで、あるいは、意図的に、有名人の言葉を、悪用して説教します。楽山自身の言葉としては、当たり前のことしか言いません。そして、いちばん怠けているのが楽山です。楽山は、全力でも半端でも、冗談半分でも、悪意の執拗さをもって混乱させ、異常な疲労を与えます。
 
 

幸福の科学ではたしか、幕末維新のころの志士たちは、討幕派でも、佐幕派でも、立場はどうあれ、その心の状態によって、死後の行先が分かれたのではなかったでしょうか。

 
「心の状態によって、死後の行く先が分かれ」るのでしょうか。楽山は「死後の行先」が分かるのでしょうか。霊能者気取りです。それとも、楽山は、嘘と詭弁、即ち、心の乱れから、地獄へ行くんだと言っているのでしょうか。
 
 

とするならば、何を為したかよりも、どういう立場に立っていたかよりも、純に、一途に、全力で頑張るということは、幸福の科学の価値観によっても、とても大切なことではないでしょうか。アンチが必死すぎるを嘲笑う信者さんには、真面目に一生懸命に生きることについて、よく考えてみてほしいと思います。

 
楽山には、しんみり共感する心がありません。だから、ねちねちと下手な理屈をこねてきました。それで、思路を混乱させ、ごまかし、疲労させ、衰弱させ、相手がものを言えなくなった時点で、疲れたんじゃないですか?・・などと白々しいことを言いながら快感を得る、とても狡猾な異常人格です。
 
 

ちなみに、ジナ・サーミナラ著『転生の秘密』には、他人を嘲笑する罪と、そのカルマについて記されていたかと思います。興味がある方は調べてみたらいかがでしょうか。

 
「他人を嘲笑する罪」・・まさに、楽山の罪です。楽山は、カルマというより精神病質です。だから、笑いと怒り、あざ笑いと怨念しか持っていないと思います。楽山と接触しないでください。交流しようなどと思わないでください。楽山は、誰にとっても、まさに、精神衛生上、有害です。
 
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512109.html
 
 

「幸福の科学」の自己責任論について、思うところを書いてみた 
・ 自己責任論は、私的な問題のみならず、公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。

 
自己責任は、私的とか公的とはではなく、罪を犯したら、負うべき自分の責任です。そこを、公的とか、私的とかに分けるのは、楽山の詭弁の操作なのです。放置されるのではなく、楽山が、楽山の責任を放棄しているということです。論点を逸らそうとしています。
 
その自己責任を全く負わないのが、楽山です。反対を言って、賛成も言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。言論の精神が、全く出来ておらず、反省もせず、いい加減な前提で物を言い、悦に入るのです。責任を負えないほど不出来だということです。
 
 

たとえば、
危険な道路で事故が多発しているとき、
事故に遭うかどうかは、
各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、
危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 

 
楽山個人の罪、即ち、私的な問題を、公的な問題にすり替えているのは、楽山のほうでしょう。楽山の、この詭弁の意図は、自己責任を、まわりくどく、ごまかして、回避したいだけなのです。責任があるか、誰にあるか、楽山にある・・そのことを全く受け取らず、我執と鼻糞だけが深い楽山です。
 
 

・ 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。
何らかの問題が発生した場合、
すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。
その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、
反省の動機づけとして、
あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。
必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。

 
自己責任論に、事実かどうかが問題でしょうか。ひどい的外れを言っています。楽山は、責められたとき、相手も悪い、というより、相手が悪いというほうなのでしょう。それこそが、罪悪感がなく、不祥事を人のせいにするサイコパスの特徴です。婉曲表現に、だまされないでください。
 
楽山は、楽山の言論の責任者であります。しかし、責任感と節操において、犯罪者と言ってよい人です。楽山の責任逃れは、ますます、執拗に、まわりくどく、人をおとしめる悪意だけになって、傲慢不遜になるでしょう。楽山が、長い間、平静を装って書いていられることが、そもそも、異常であります。
 
 

・ 自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。
たとえば、
宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、
信者は自分を責めることはできても、
教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。

 
自分をまともに見せるマインドコントロールこそ、楽山が、丁寧語と曖昧表現のボンヤリ言語によってやってきたことです。コントロールが、相手を楽山の下に置くことであり、でなければ、混乱して去らせるのが目的です。性根が、よほど、腐っていなければ出来ないことです。
 
 

・ 既にいろいろなところで指摘されているように、
自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。
より詳しく言えば、
自と他の関係において、
自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、
相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
また、
他と他の関係について、
第三者の立場から、どちらか一方に向かって、
「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。

 
何でしょう、「いろいろなところで指摘されている」と言って、ごまかしています。つまり、楽山は、相手に分かるような理路を組み立てられないのです。代わりに、相手の精神を混乱させ疲労させるために、はっきりせず、説明できないような、曖昧な表現が特徴です。中身の無いのが特徴です。
 
まわりくどくて、すぐに否定できそうにないような、絡まった網のような無意味な言葉の辻褄を、楽山は仕掛けてきます。そこで、こちらが、考え込んでしまうと、楽山の思うつぼです。楽山の言は、ことごとく、切り捨ててください。楽山は、分かって書いてなどいないのです。
 
 

以上
自己責任論というものは
いつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、
さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず
毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う

 
自己責任は、はっきり言って、論ではありません。言動に責任を負うという大人の道徳です。それを、「適用できるわけでもなく」という曖昧な部分否定で、言い訳したつもりなのです。背伸びした人格が節操を失うと、こういう狡い惑わしの言い逃れをするということです。実に醜い所業です。
 
 

幸福の科学の界隈では
自己責任論によって
他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので
自分なりの考えを書いてみた次第である。

 
自己責任を問われべきは、楽山です。嘘、詭弁、偏向した思想~妄想、ブレーキの利かない自己顕示欲、鈍麻した直観と直感、良心の欠如、洞察力と説得力の欠如、無反省、無責任、無神経、無情・冷酷、固定した自己中心、という知性と感性の欠陥は、長く肯定的に接していると伝染する危険があります。
 
楽山を理解しようなどと思ってはいけません。楽山は、自分を理解させるための、いかなる言論も持ち合わせていません。込み入った詭弁の辻褄に嵌らないように、決して、楽山に接触しないでください。決して、楽山に近づかないでください。それが、誰にとっても、精神衛生上、必要なことです。
 
 
      
                  無責任 無反省
 
 
(2022年02月16日)
(2022年05月19日、再録+加筆)
 
 
 
  縊死(いし)
 
幾人かの自殺者が残していったものは
あまりにも急な沈黙に終わってしまって
動機も理由も結局は不明のまま
明確に語れる者は誰もいなくて
噂だけが死臭のように漂ってはくるが
口の中でムニャムニャ
聞こうとして聞くに憚(はばか)り
そのムニャムニャが胸の底まで沈んでいって
さらに病みながら片隅にあるばかり
キリスト者とはいえ自分の場合は
自殺しない保証は何もないから
せめて「ごめんなさい」と祈りともつかぬ
最後の独り言を今更のように戯言を
そのときには呟くしかないのだろうか
すべては自分の責任において
首を括り首を吊る
責任と意志
いつの日からか
我が身から出たものは
いずれ我が身に返ってくる
その顔が溢血点や鬱血や
腐乱や浮腫でどんなに醜くても
正視しなければならない
と気づいたときから
自分で自分の首を絞める
という縊死は
繰り返される日常の中にある
 
 
  暴力
 
無駄なのだ
少しばかり言い回しを変えたところで
他者に向かって吐かれた以上
紙の上だろうが
電子の上だろうが
それで軽くなるものなど何もないのだ
名前も住所も明らかな一人が
名前も住所も明らかなもう一人に
面と向かって吐く
のと同じ重さを背負わされるのだ
だから無駄なのだ
いつか吐かれたものが
どのような姿であれ返ってきて
自らを切り刻むのを
蝕むのを止めることなど
もはや誰にもできはしないのだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
最初に気づいたのが、楽山の無反省と無責任でした。こちらの言うことを受け取って、考えて、返すということが、楽山は、全くできません。話を逸らして屁理屈をこねるか、前と同じようなことを繰り返すかになります。ゆえに、話が進まず混乱して疲れます。楽山との議論は、最初に諦めるべきことです。
 
 
 
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  敬虔5
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に、ありがちな発言として、
「「神のうちに生き、動き、存在している」という視点に立つとき、私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
というのを聞いたか読んだかしたことがあります。
 
折に触れて、自分について、神の意志は?と考えるのは、信仰者としては当然ですが、「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ、最終的な真偽や正邪を、神の運びに任せる敬虔がありうるのであります。私たち信仰者は、不完全です。
 
「見極めることが出来る」ならば、神の意思を確信することになるから、それは敬虔とは違います。そこに敬虔はないです。ゆえに、この場合「謙遜」は、取って付けたような虚飾に過ぎません。私たち信仰者は、不完全なのです。
 
また「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」などという言葉、即ち、聖書語を、まるで公式のように、常套句のように繰り返し使い、それで信仰を伝えたつもりになるのは、信仰ではなく、ただの思い上がりです。
 
そういう間違いの起こる理由は「聖書の真理だから」という信念であり、その信念については、説明できる経験からの実感と実体がないままなのは慢心であり、そう覚えているだけであるなら、信仰の言葉にはならないということです。
 
その時その場で、与えられている人間としての経験と知性や感性などを働かせることなく、聖書的な言葉を並べて伝えた気持ちになってしまう。いずれの場合も謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔とは無縁であり、カルトなどに、よく見られる高慢であります。
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても、それを受け取り、伝えようとする人は、人の言葉しか持ち合わせておらず、神と違って不完全なのだから、人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては、伝える努力が及ばないこともあることを知っておくべきでしょう。
 
伝わらないときに、彼には恵みがなかった、などと相手のせいにするのは、もはや、偽善者の言であります。聖書は真理でも、言葉だけ実感のないまま語って、神の導きにお任せしますと、反省も努力もせずにいたら、責任放棄であり自己満足なのです。
 
人と人が互いに、表す言葉の拙さを共感し共有する意識が必要であります。いかなる言葉も、いつも実感を持てるとは限りません。祈りとともに、努力を続けることが信仰生活なのです。敬虔はそこにあるのであって、実感のないまま繰り返される聖句や信仰の言葉の数にあるのではないからです。
 
 

 
よくある信仰についての勘違いですが、罪は赦されたから罪なき者となったのではなく、罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもありません。
 
信仰者は、罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて、信仰を与えられている我が身を振り返って、自らの来し方を思い、行く末を考えるならば、自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり、見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは、直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
私たちキリスト信仰者は、信仰によって思い上がるのではなく、信仰によって敬虔を学ばなければいけません。信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって、何もかもが良くなって完全になるなんていうのはカルトか多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変であり、私たち人間は、それらの神の性質を持ち得ないことを知ることで、救い主イエス・キリストとの、同伴と共感の絆(きずな)を持ち得るのであります。
 
神を恐れるとは、完全なる全能の神の存在によって、不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ、それゆえに柔和になることです。言い換えれば、神のもとで生きる砕かれた魂という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 
      
               敬虔 砕かれた魂
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月18日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
謙譲、謙遜、謙虚、ということから、最も遠いのが楽山です。しかし、そう見せる芝居をしてきます。それで安心して受け入れると、罠にはまることになります。曖昧で語尾の否定肯定を濁すボンヤリ言語、謙譲芝居のセリフであるトホホ言語と呼んでいます。責任逃れと隠し事で出来ている楽山です。
 
 
 
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  猛者への堕落4
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には、ある種の猛々しさが残る。せっせとお味方になる意見を集めている。それは猛々しい文章である。その威勢のよさの分だけ、また人間としての共感を失ってゆくのは、字面だけを追って、お味方になる意見というだけで悦び、褒めまくるからである。
 
一般的にヒューマニズム云々を、社会通念に過ぎないものとして批判して、そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが、そういう福音の変質を語る前に、他者を語る前に、人が考えるべきもっと重大な自らの問題を考えていない。
 
人間性を欠いた信仰?は、神性と神聖と真正の確信?に満ちて、正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる。自らに目を向けず、反対意見に耳を貸さず、お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく。
 
そして実際に賛同者以外とは、つまり反対者とは話さなくなる。そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである。しかし、いったい、神への恐れを知る信仰ではなく、むしろ神を恐れず誇大化した自我からの尊大な妄想的確信に、担保されうる何があろうか。
 
しかし、それでも保険のように、神の側に担保されるという神の意志を自らのものにして、さらに確信を強めてゆくので、恥ずかしげもなく、信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく。
 
信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが、信仰によって恥知らずになっていいはずはない。人が持つべき羞恥心は、実際には、信仰?によるつもりであろうがなかろうが、自己の不完全性の無知と無恥からの異なる意見の軽視~無視に対してである。
 
さらに最悪な恥知らずとして、信仰?によるという間違った確信において、異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である。そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは、確信に満ちた非人間性の思想は、自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり、詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら、何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で、罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースから崩れてゆく定めです。
 
このように、キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きています。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間離れした超常を説く必要はなく、人間の心において理解と共感が可能な中心を持っていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力があります。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るでしょう。
 
 
 
 楽山について考察
 
楽山の文章というのは、月並みで、社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観や経験からの切実さがありません。ごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深い中身のない世辞の賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。内実に一歩も踏み込めないのが楽山です。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと語る婉曲性と相まって気色の悪い刺激臭となります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。楽山の引用は、徹底して責任を負いたくないという意図なのです。自分の意見ではないから責任は負わないでいいと思っているなら、大間違いです。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにもヒントにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを思いつきで捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がないのです。結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習と条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が出来ない人です。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能という人格の偏奇としか判断できないという経過です。
 
そして、指摘しても、批判にもかかわらず、それが長く続けば、人格の異常、人格障害としか考えられないのです。それで、もう3年余り続いているから、今後も変わらないだろうという結論が出来上がってしまいます。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的になって意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つところの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのです。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。しかも、ツイートを非公開にしたり公開に戻したりと不安定で、もはや、裏で何をやっているのかが、恐ろしい楽山なのです。
 
楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。それで、無神教カルトと呼ぶこともあります。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
神は、人に理解できるような、天国のバーゲンセールはしないでしょう。どうしようもない悲劇が起こるから神はいない、などという言い分は、神の恵みに触れたことのない楽山のような利己的な人格が言っていることです。そのような安っぽいところに信仰の根拠はありません。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。ゆえに、私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうかと思います。神は、人間が、逐一納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、救いと裁きは成就するからです。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけではない。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。楽山などが、いちゃもんなど言って、しゃしゃり出てくるスペースは、どこにもありません。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あってはならないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはありません。その恨みで、楽山は、神を呪っているのかもしれません。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのです。神は、人に、いちいち説明はしない。正直な祈りだけで、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在は所在不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 
      
                 猛者(もさ)凍結
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月17日、再録+加筆)
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
 
許せるだろうか
許されるだろうか
 
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
うまくいっていると思う間、悦び、慢心しても、欺きであることに変わりはないのです。悔いないことが病気であり、改めないことは罪悪であります。自らの罪悪を、「人間の性」と一般化して、みんなそうでしょ・・みたいに煙幕を張っても、詭弁の汚らしさを表すだけなのです。
 
 
 
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  楽山のダークサイト2
 
 三島由紀夫とスウェーデンボルグ
 (『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』)
 2021年05月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29078515.html
  を改めて批判。
 
 
カルトを信じていた人は、脱会しても、霊の話などが、記憶に残ることがあるだろうと思います。楽山が、元々大好きな、超常・魔法・心霊・心霊・霊能者、などの話です。これらは、カルトが、信者を獲得するために、好んで、話題やテーマにするものです。
 
楽山は、子供のときから、"仏様の気持ちが分かるっぽい" そして、霊が分かるっぽいという自覚があるために、結局、こういう霊の話に飛びつくのでしょう。しかしながら、そのせいか、楽山には、他者の気持ちや意図を察するための共感力がありません。
 
書いて公開すれば批判される、という繰り返しで、楽山が選んだことは、自粛ではなく、反省でもなく、"秘密" であります。体質から逃れられない因業の魔物を持っていることが、公開から、秘密の情報にすることで、むしろ、明らかになっています。
 
楽山に好意的に関わってきた人は、不幸というしかありません。霊能者気取りだが、人の心が、まるで分からないということが、書いてくる文章に表れてきた楽山です。楽山のインテリ気取りに騙されないでください。
 
 

*三島由紀夫とスウェーデンボルグ
『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』をつまみ読みしていたら、三島由紀夫がスウェーデンボルグに触れている箇所があったので、メモしておきたい。

十一日は籠をにげだした小鳥のやうに神田の古本屋を歩きまはり、六年来探してゐた、スウエーデンボルグの「天国と地獄」をみつけて有頂天になりました。
(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』新潮社、1997年、p.42)
 」
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。

 
(ネットより)
エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
・・・
1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。
・・・
カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)
スヴェーデンボリ
 
スウェーデンボルグは、霊について、不思議な能力について、大量に書いた人のようです。霊能者気取りの楽山にとっては、霊だから検証しなくてよく、考えなくて済むような、うってつけのテーマなのでしょう。秘密に教えますよ・・というやり方が、既に、あざといのです。
 
スウェーデンボルグの語る霊とは、聖霊なのでしょうか、悪霊なのでしょうか。楽山と似たような自己愛からの霊能者気取りなのでしょうか。私は、楽山を見てきて、うんざりしているので、ほとんど興味はないです。
 
類は友を呼ぶ、というところでしょうが、著名人と楽山では、落差が大きく、楽山の語る霊の話も宗教の話も、幼稚だったことを考えると、関わらないほうがよいと思われます。子供の、霊が分かるっぽい体験から、自分を高みにおいて、そこからしか語ってこないようになったのでしょう。
 
 

川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。

 
楽山にとって、霊は、疑うこともなく、実在が前提となっているようです。スピリットには、心という意味も含まれていて、スピリチュアリズムと言えば、心霊・霊能・霊魂と言うより、身近に感じられるというところがあります。
 
要するに、無条件で受け入れるしかない超常であり、楽山にとって、考える必要もなく、努力する必要もなく、反省もしないで言って気持ちがよいテーマなのです。
 
キリスト信仰において、霊は、労力の要らない便利ツールではなく、聖霊は、聖三位の一つであり、人間には届かない存在です。悪霊は、悪魔性の活動として、邪悪の代名詞のようなものです。
 
聖書では、病気や災いは悪霊のせいだと見なされ、病人は差別されていました。そこに救いの手を差し伸べたのが、イエス・キリストであります。キリストは、人間的な共感に溢れた御方であります。
 
つまり、問答無用・議論不要の霊の話に帰するところには、人間の心や共感が無くなり、超常の魔術的な結論だけが意味を持つような、楽山のようなものが集まるのかもしれません。努力しないで安きに流れてきた楽山には、霊と超常に傾倒する短絡の必然があるような気がします。
 
それにしても、また、三島由紀夫や川端康成などの著名人を引き合いに出して、恐らく右翼寄りの思想もあるのでしょう。楽山は、有名人が大好きで、自己満悦のために、書いていいのだろうか?という疑問も遠慮も節操もなく、好きなように利用しています。ずっと、節度なき我欲と我執を表しているのです。
 
 

*憑依
本書の巻末には、佐伯彰一と川端香男里の対談が収録されているが、そこにはこんな発言があった。

佐伯 四十一年六月号の「文藝」に載った「英靈の聲」は、ふっと何かにとりつかれたように一気に書き上げた、と三島さんご自身の口からうかがったな。その後、美輪明宏に会った時、「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとしたという話を、三島さんは例の誇張したおどけた調子でおっしゃられたことを覚えています。
(同上、p.215)
 」
以前、某匿名掲示板にて、三島由紀夫は「英靈の聲」を書いたときに、226事件の首謀者の霊に憑依された云々という話を読んだことがあったが、その元ネタはこれかもしれぬ。
「英靈の聲」は最恐ホラーよりもさらに怖いと思ってはいたが、やはりいわくつきの作品だったということか。

 
「「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとした」「誇張したおどけた調子で」・・これって、賛同でしょうか。楽山は、「最恐ホラーよりもさらに怖いと」受け取ったようですが、笑い話として書いているという見方はできないのでしょうか。
 
三島由紀夫原作の映画「午後の曳航」のセリフに、「殴られるより悪いことがある」というのがありました。楽山は、まとも芝居で、丁寧語で、婉曲的に、そういう、"殴られるより悪いこと" をしては、人を疲労させ、傷つけて、何とも思わないでいる人です。
 
 

(以下は、心霊的な話題に踏み込むのでプライベートモードで失敬)
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宗教も信仰も理解できないのに批判だけしてくる楽山は、こういう不思議話を、まるで、吸い取り紙のように、何の疑念もなく無批判に、受け入れるようです。超常オタクで、人間として、いかにあるべきかという問題には、まるで関心を示さない楽山です。
 
"霊的"右翼の秘密結社でも作るつもりなのでしょうか。気の短かそうな、血しぶきの飛びそうな、掟のありそうな世界に、無反省・無責任の楽山が、通用すると思っているのでしょうか。
 
以前から、楽山については、人間としての、思考力、判断力、客観性、および、共感性に、問題を感じていましたが、いよいよ、とても怪しい領域に、本格的に、のめり込んで、誰かに刷り込んでゆくのでしょうか。公開すると叩かれるから、秘密のモードを使って(?)。 
 
結局、ペテンに終始するだけの楽山ブログのサイトは、ダークサイトであり、カルトや犯罪への暗黒面ダークサイドまで行く可能性をはらんでいます。間違っても刷り込まれたりしないように、また、とばっちりや巻き添えを食らうことのないように、決して楽山に関わらないでください。
 
 
      
                暗黒面 ダークサイド
 
 
(2021年)
(2022年05月16日、再録+加筆)
 
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  正当性

熱を持たない夕日に焼けただれた雲の下
地雷の眠る森は暗く重く沈んで
明日までよみがえることはあるまい
焼かれてもいない正当性は
例えば単に
まっすぐな樹木の
どこが微妙に曲がっているか
を問うより間違っていた
辻褄や口裏は合わせられても
夕日もなければ森もない
元々熱を持たない正当性を
作られた角度から
いくら繰り返しても
いかなる納得の念じ方も
地雷の重みを示すこともできず
ましてや夕闇の雲と地平を
鋭角に貫くものなどあるわけもない
いわれもない念仏
永遠によみがえることはあるまい
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
 
  ハンカチ
 
自分のために
誰も傷ついて欲しくない
と君は語った
しばらくの間そのことを語った
私は一枚のハンカチを渡した
もらい物であった
私が使っていた
いくたびか汚れ
いくたびか濡れ
ときにはちり紙の代わりとなり
犬が噛んだこともあった
そのたびに洗って干した
少しは汚れや
唾液や涙液が残っているかもしれない
しかし君よ
今はそのハンカチで拭くのがふさわしい
私らの歩む先に
真っ青なだけの空があるだろうか
真っ暗なだけの夜があるだろうか
うつくしさだけで住める町もなければ
みにくさだけで去れる町もないのだ
君は語り私は聞いた
海鳴りのように遠く
耳鳴りのように近く それくらい
明らかではない私らの出会いの後
いずれ君は私を忘れ
私は君を忘れるだろう
だから君よ
この一枚のハンカチを君に渡すのは
今唯一明らかな約束の在り方として
その捨て方を君にまかせるためだ
 
 
 
 神と人
 
神の性質としての
全知・全能
絶対・完全
永遠・不変
これらを否定した存在として
人間は存在しています。
 
その自覚を知る人が
生きるために癒しと救いを求めて
神の民となるのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
心に秘密を持って、それは罪と偽善の欲動であるのに、もったいぶって、非公開や、秘密の許諾性をこしらえて、神秘のように見せかける楽山にあるのは、幼稚な妄想を、嘘と詭弁で刷り込んでゆく教祖気取りであります。人の上に立つ何ものも持っていない心霊妄想屋の楽山の怨念返しなのです。
 
 
 
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