ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。

 
  楽山の虚言
 
 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著
 2021年01月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27796210.html
 
 
楽山の虚言は、そっと懐に滑り込ませるような狡猾さがあります。実際は、総て、反キリストの、作為と悪意の産物です。
 
楽山は、HS批判を、こそこそと、別のブログを立ち上げてするつもりのようですが、自らが、批判されていて、それにまったく答えないままで、無反省・無責任に、別のところを批判をする、などということは、正常なら出来ないことです。
 
自身の不都合を無視して、平気で、他者の不都合を批判するところに、訂正不能の異常性が表れています。楽山は、批判している側にいるつもりの自分をよく見せるために、自らが批判の対象であることから読者の目を逸らしたいわけでしょう。
 

『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、中公の「日本の名著」で一度通読したことがあったが、キリスト教徒となる前の著者は、神社の前を通る度に礼をしていたという話以外は何も覚えていないので、今回は岩波文庫で読み返してみることにした。感想は、以下の通り。

 
新しく信仰者になる前は、違うことを考え、違うことをしているのは、当たり前のことでしょう。しかも、日本という国のあり方も影響していたでしょう。それを、ことさら、「神社の前を通る度に礼をしていた」などと書いてくるのは、揶揄したいからにほかなりません。
 
今日もまた、楽山は、キリスト教の伝道者を侮辱するのだということが、書いたものによって表れています。楽山には、何を言っても無駄だから、引用と批判記事を資料としてゆくことにしています。
 

まず一つは自分の教養不足を痛感したということ。本文と訳注を行ったり来たりして読みつつ、自分は聖書、古典、歴史などについて何も知らないことを思い知らされた。反省。

 
そもそも、楽山は、宗教と信仰を知りません。単なる知識不足ではないのです。ゆえに、このような「反省」も、柔和を装うための嘘ということになります。
 
本当に反省するのならば、恥じて書くのをやめているはずです。そのブレーキが、病質のために欠損しているのです。今までもあったことです。同じごまかし方が、今も通用すると思っていること自体が、厚顔無恥というべきことであります。
 

二つ目は本書の前半はやや平板だが、中盤以降、米国に渡ってからの文章は勢いがあって迫力があるということ。これは前半よりも中盤以降の方が、葛藤、対立、主張が激しいからだろうが、本書を読んで退屈に感じた人は、いっそ第六章から読む方がいいと思う。

 
このように、反省と書いた後で、読み方を教えられると思っていることが、反省は嘘だということを示しているのです。
 
自己愛が、楽山を、暴走させ、堕落させ、周りを見えなくさせて、既に、久しいのです。どんなに失敗しても、立ち直るのではなく、何も反省せずに同じことを続けることに、自己愛性パーソナリティの暗闇を感じないではいられません。
 

三つ目は著者は信仰対象を日本の神々からキリスト教の神に変えてはいても、熱心な信仰者であることは少しも変わっていないということ。著者は常に全身全霊で何かを信じないではいられない根っからの宗教者なのだろう。

 
信仰が変わって、信仰者が変わらないということはありません。楽山が言う熱心さは、実に、胡散臭い超常趣味の臭気に満ちたものであることは、今までの楽山の記事から、明らかであります。
 
特徴的に、熱心な信仰者という褒め言葉こそ楽山の皮肉に満ちた揶揄への通り道となっています。今までの経過から、誰とも交流も議論も出来ず無反省・無責任のままの楽山の褒め言葉は、全身全霊で悪意と敵意と呪いを隠している姿なのです。
 
つまり、楽山は、無反省と書かれ続けているから、反省と書けばよいじゃろ、という根性で返してくるのです。煽動者・詭弁屋以外の何者でもなく、言葉の大きさに比して、実感の乏しさが、目立つだけなのです。
 
以前からの、楽山の、マイナスの言葉のあとに、プラスを書けば、プラマイゼロじゃろ、という気安さであり、いい加減さであり、責任回避の言い逃れであり、悪意の軟派カルトなのです。
 

四つ目は著者は自分の行動を改める際に、理屈を必要としているということ。他人に援助は求めぬとしていたのを援助を求めることにしたり、牧師にはならないと公言していたにもかかわらず神学校で学ぶことにしたことについて、かくかくしかじかの理由で考えを改めたと説明しているところは、なかなかの理屈屋だ。ちなみに自分もこれと同じで自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質ではある。

 
理屈を必要としていたのではなく、理由と動機と根拠を説明しているという当たり前のことでしょう。それを「なかなかの理屈屋」と言ってしまうのが、楽山の揶揄であり悪意なのです。
 
しかも、楽山も同じなどということはありません。説明する者と無視する者との違いであり、楽山は、一度も、当たり前のことをしていません。楽山は、筋の通った説明など、したことはありません。
 
傍若無人の、寒気のするような、ふてぶてしく白々しい虚言であります。
 

以上、本書にはこれ以外にもいろいろなことを考えさせられたが、そのすべてを書くのはすぐには無理なので、とりあえず本稿ではここまでとしたい。

 
総ても、一部も、楽山は書けない人です。書けば、病質が表れ、くずれた文脈の詐欺行為が見られるのみであります。
 
腐敗の病巣が染み込んでいる楽山が放った矢は、故意か体質かの、悪意として、いつも、独特の悪臭を放つことになります。放置すれば、そこに、新たな病巣を作るでしょう。
 
真面目なふりをして、分かったような顔と丁寧語で、得々と語る偽善者に注意してください。
 
 
            
                  世の中には真っ黒な人たちもいます。
 
http://html.seo-search.com/game/osero1.html
(ここは、とても易しく優しいオセロゲームのサイト。
  ゲーム苦手の年寄りには軽い癒しです。)
 
 
(2021年01月24日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 

https://st5402jp.blog.fc2.com/

 

http://st5402jp.livedoor.blog/

(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp

(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 

https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html 
 
 

 
  繰り返す厚顔無恥2
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5266733.html#comments
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という、過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。
 
"名無し"からの荒らしコメントです。私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。
 
宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 

1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。

 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白して、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。
 
あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。
 

人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。

 
血潮に罪贖われ、などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。
 
どんな罪でも自己受容して気にしないシャロームですが、信仰者が求めるのは、神に受け入れられることであります。シャロームの、汚い詭弁は、永遠に、神に受容されることはないのです。
 

使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。

 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていないという、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。
 

初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。

 
"すべてはよかった" のを、自分で台無しにして、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。
 
これも、前に、あなたシャロームが、言ったこと。ここにしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの醜さ全開。
 

使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?

 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。
 
しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。
 
さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らないシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 

「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり

 
ふざけたHNと態度で、聖書とキリストを語るな。
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。
 
あなたは、あなた自身の惨状にさえ、気づかなくなっています。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、一切は無駄なのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
(ネットより)
御言葉を通して主と人格的な交わりを持つ事はもっと重要です。
http://shinjuku-shalom.com/archives/4227
新宿シャローム教会・・同じシャロームでも、えらい違い。
 
私たち人間は、人格的な交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のものです。
 
したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。
 
あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけを表してきたのです。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。
 
あなたシャロームは、福音に聞き従わない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているから、パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。
 
あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。
 
恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。
 
このように、ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁など、いい加減なことを、好きなように言って、傍若無人を通していると、履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善に対する批判記事の集積という莫大な負の財産を残すことになります。シャロームは10年分です。
 
 
          
                             恥知らず
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/

http://st5402jp.livedoor.blog/(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

 
  無常の価値2
 
 
人間が死にたくなるのは、
周りに人間がいなくなるか、
周りにいる人が人間と思えなくなるとき。
 
人間が生きるのは、
周りに人間らしい人や話があって、
いつも人間味を味わっていられるから。
 
人間味の中に
尊い愛があり心があり
共感があり思いやりがあり、
それゆえにこそ泣いたり笑ったりが
生まれるというのに、
 
処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、
超常の不明を、批判不可として信じ込めば、
いろいろな不明を次から次に信じ込んで、
心は超常に迷い込んで、
神明も不明も分からなくなり、
人間の最も大事なることを
無常の無価値として
捨て去ってゆくことになるだろう。
 
人間にとって大事なことは
無常の世界にたくさんあるではないか。
 
無常こそ大事であり、
無常であるからこそ大切にするのであり、
いずれ過ぎ去ってゆく身としては、
常世に至る前に、この地上で
大切にするべきことがあるだろう。
 
神は恒常であり永遠不変である。
神だから常世に住めるのだろう。
 
神は
人が恒常不変になったから憐れむのではない。
憐れんだら恒常不変になるから憐れむのでもない。
人は地上で恒常不変にはなれない。
信仰は地上で生きるためにある。
神は
人の不完全を既にご存知であり
人がご自身と違って
無常で儚く弱いからこそ憐れんで
成長を願っておられるのだろう。
 
何ゆえに神を真似て
永遠不変を地上で真似ようとするのか。
 
何ゆえ無常を疎かにして
恒常が手に負えると思うのか。
 
何ゆえ成長を疎かにして
不変を欲しがるのか。
 
何ゆえ人の愛を疎かにして
神の愛を説こうとするのか。
 
 
      
            むじょう
 
 
(2018年01月)
(2021年01月22日、加筆して再録)
 
懐妊(かいにん)
常世(とこよ)
恒常(こうじょう)
儚い(はかない)
疎か(おろそか)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

 
  楽山の寄生
 
 内村鑑三と進化論
 楽山日記(LD)2021年01月19日
 http://mn266z.blog.jp/archives/27751312.html
 
 
言っても何の解決にもならないことを、楽山は、言い続けています。こういう人に、キリスト教と信仰を言われるのは、名刀だと言って実は鈍(なまくら)刀を自慢げに見せられるようなものなのです。
 
内村鑑三は、宗教伝道者であり、科学者ではありませんから、つまり、進化論についての宗教人の立場がテーマになるわけですが、そういう問題を、キリスト教も信仰も理解していない反キリストの楽山に、何を言う資格もないと思います。
 
当たり前でない楽山だから、そういうことをしていいと思うのでしょう。楽山は、また、有名人をネタにキリスト教を揶揄~否定したいのでしょう。
 
信仰者でもない者は、信仰の幸いを知らないのだから、否定でも肯定でも、信仰を語る資格はありません。楽山のような自己顕示欲だけの者は、遠慮がない分、なおさら、災いでしかないのです。
 

*メモ
岩波書店の『内村鑑三選集〈5〉自然と人生』を読んでいたら、進化論について触れた文章があったので、ここに抜き出して簡単な感想をメモしておきたい。
*神の意思と生物の進化

天然に在りて天然以上の或者が顕はれつゝあるのである、天然は自から進化しつゝあるのではない、神が天然を通して御自身を顕はし給ひつつあるのである
(「進化と自顕」内村鑑三著)
 」
天然とは自然のことであろうか。
どうやら内村鑑三は、生物は進化するとしつつも、その背後には神の意思があると考えているようだ。

 
その神の意志を、つぶさにモニターすることは、人間には出来ません。楽山は、神の意志に逆らいたいようだが、実際は、楽山は、楽山がでっち上げ思い込んでいる神?の意志、つまり、我執から、神を見ているので、内村鑑三の意志さえ受け取ることは出来ないのです。楽山の言う神の意志は、紙の石です。
 
どこにも行けず、誰にも説得力のない、命のない作りごとの立場から、内村鑑三を見ているので、何も受け取ることは出来ないのに、またしても、評論家気取りで、有名人と肩を並べている自分を見せたいようです。
 
偉いですね・・とでも、言ってあげると、鼻汁噴き出しながら、オギャーとでも笑うのでしょうか。そういう自分を、みじめだと感じて、恥ずかしがって控える、という性質が、無反省・無責任の楽山には無いのです。ゆえに、病質者としか思えないわけです。
 
ふつう、非信仰者には、キリスト教について語ることに遠慮があって不思議はないのですが、反キリストの楽山には、それがありません。神への、そして、キリスト教への怨念から、今までもそうでしたが、否定するために、故人であることをよいことに、今回も、伝道者を餌食にしようとしています。
 

*目的

余は神の存在を認めざる進化論を信じない、もちろん斯かる者を信じない、然れども進化の在る事は確である、進化は在る計画の漸次的発展である 〈省略〉 余は真理の種を地に投じ、永久に其成長を待つ、而して是も亦何時かは進化し即ち発展して麗はしき花と美味き果と成りて現はるゝ事を信じて疑はないのである、実に然り、余も亦進化論者の一人である。 
(「進化論」内村鑑三著)
 」
ここでも生物の進化は事実であるとしつつ、その背後には神の意思、計画があるとしている。さらには「麗はしき花と美味き果」という目的があるとも。

 
内村鑑三は、自分もまた進化論者とまで言うのは、科学者ではないのだから、言い過ぎの感はありますが、進化論は信仰を否定しない、信仰は進化論を否定しない、という懐の広さを表しています。あとは、讃美の言葉です。
 
科学と信仰は、平行線です。求めるものが違うので、交わることはないのです。お互いを侵さないようにすることが大切でしょう。
 
楽山は、反論していないようですが、内村が進化論を認めたことを、何かの足掛かりにしたいのかもしれません。素直に見せかけた文章を書く楽山に、素直さはありません。
 

*信仰者

生物は皆塵より出て塵に帰る。如何にして生命が塵を摂て現はれし乎、其順序方法を究むるのが生物学である。進化論は造化説明の一に過ぎない。而して進化の原因と目的とに就て教ふる基督教は其説明如何に由て動かない。進化論は今日の所、其大体に於て真理であるやうに思はれる。然し乍ら基督教は進化論に依るも依らざるも真理である。
(「進化論と基督教」内村鑑三著)
 」
生物学は「どのように」という問いに答えようとし、キリスト教は「なぜ」「なんのために」という問いに答えるものだということだろうか。
こういう考え方からは、内村鑑三は信仰者だということを強く感じさせられる。

 
自然科学一般に言えることです。昔、物理の先生が、授業のはじめに、物理学は、なぜ起こるかではなく、どのように起こるかを追求する学問ですと言ったのを思い出します。これは、一般的な真理なのですが、楽山は、内村鑑三が、生物学の話をしたら、信仰者だと強く感じるのだそうです。楽山が、宗教と信仰を理解せず、軽く扱っていることが、こういうところにも表れています。
 
宗教と信仰は、人間が生きるために必要なものだから、科学を包含する必要はないのです。そういうことは、神に任せればよいことです。
 
ただ、嘘と詭弁で、良からぬ先入観を与える欠損人格の楽山は、決して、包含してはいけない存在です。科学の知識もなければ、信仰理解もなく、他人の言葉を悪用して、自己満悦を求めているだけの楽山は、真っ向から真実に反しています。
 

*ダーウィン

進化論に二種ある。無神的進化論と有神的進化論と是れである。無神的進化論は天地は其れ自身にて、より大なる能力と智慧の指導なくして、無限に進化すると云ふのである。之に対して有神的進化論は云ふ、天然に其れ自身を発達するの能力はない。天然自体が自働体でなくして受働体である。進化は神が万物を造り給ふ途であると。そしてダーウイン自身が無神的進化論者でなくして有神的進化論者であった。
(「二種の進化論」内村鑑三著)
 」
内村鑑三はこの後、ダーウィンは有神的進化論者であるとする根拠を並べているのではあるが、ここは疑問に思う。もしダーウィンは内村鑑三の言う通りの考え方をしていたのであれば、ダーウィンとウォレスとを対立的な立ち位置におく見方が生れようもなかったのではなかろうか。もっとも自分はダーウィンのことについては詳しくないので、はっきりしたことは言えないのではあるが。

 
引用において、ダーウィンは、神を、天然と同一視していることになります。この時点で、宗教と信仰からは離れるのです。自然科学は、人間が生きるということを語るのがテーマでも目的でもないからです。そこを混同しているところに、楽山のような詭弁屋が付け入ってくるのです。
 
楽山は、ダーウィンを詳しく知らないと言いながら、ウォレスとの対立というようなことを、好き勝手に言っているわけですが、これが当たりでも外れでも、楽山の高慢な、神学・科学両方の、学者気取りだけは、顕著に、いつも表れてきたのです。謙虚芝居を随所に挟んで、なおも、楽山は、自己満悦を求めて、他者を惑わし続けるでしょう。
 

*疑問
生物の進化の背後には、神の意思と計画があったと仮定した場合、疑問に思うことがある。それは寄生バチのような惨い生物が存するのにはどのような意味があるのだろうかということである。
生物は神とは関係なしに生まれ進化してきたとすれば、どんなに惨い生態を持った生物がいようがおかしくはないが、生物は神の意思と計画によって生まれ進化してきたとすると上のような疑問を持たないではいられないのだ。「なぜ神は、このような残酷で惨い生態をもつ生物をつくったのか?」と。
内村鑑三はこの辺りの問題はどのように解決したのだろうか。ひきつづきその著作を調べてみたいと思う。

 
悪意に相応しい、いちゃもんのネタを与えて、楽山のように良心を持たない詭弁屋という惨(むご)い生物が、神の国に行けないようになるためかもしれません。これは、皮肉です。
 
それにしても、いかなることでも、いちゃもんのネタになれば、拾って話題にしたがる楽山の偏りと歪みが表れています。他者の意見も批判も完全に無視している単方向から、この偏りは、奇抜ではなく、猟奇的であります。そう、楽山の世界は、現実離れ、人間離れして、猟奇的なのです。
 
寄生する害虫は、他にも、たくさんあるでしょう。この世に寄生して人を侮辱する楽山もそうです。これも、我が身を見ようとしない楽山への、皮肉です。
 
あんまり、くだらないと、皮肉以外、書きたくなくなります。人間に起こる悲劇では、神を否定できないものだから、今度は、虫ですって?・・暇にしても、質が悪すぎますし、悪意以外の何ものでもないでしょう。
 
「なぜ神は、このような残酷で惨い生態をもつ生物をつくったのか?」・・宗教と信仰を知らない者は、こういうことを、宗教の本質のようにこだわります。そうして、人間としての生き方を台無しにしてゆくのです。
 
誰の本を読んでも、その解答を得ることは出来ませんが、楽山は、否定的に、できた(ようだ)、答えに近づいた、・・などと、ボンヤリ言語で言い始めるかもしれないので要注意です。
 
良心のある人々のために書いておきますが、害虫のような人が引き起こす災いも、そのために、人が、神のほうを向くためであります。害虫のような人は、神のほうを向くことをしないわけですから、むしろ、何ゆえ、神は、楽山のような猟奇的な人を造ったのか、という問題になるわけです。
 
楽山は、あらゆる災いを持ってきては、神の不在と反信仰の方向へ、疑問によって誘導し、愚痴のようにこぼしてきます。楽山が神を信じるためには、神が楽山個人の欲望の理想世界を築かないといけないようです。それは、ありえないのです。
 
的外れの信仰理解を、いつまでもネチネチと書くのではなく、神に縁がなく、理解する気もないならば、宗教・信仰については書かないことです。
 
楽山こそ、人間世界の、寄生バチであります。エサを求めて止まない楽山に、寄生されないようにしてください。決して相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください。
 
孫悟空が、お釈迦様の手のひらから逃れることができなかったように、楽山は、神の手のひらで、死にかけの寄生バチのようにジタバタしています。
 
広く見ているつもりでも、楽山は、目の前の自己矛盾にも気づかなくなったようで、そのために、悪意だけと分かるような記事しか書けなくなっています。我執によって書き続け、我執によって壊れてゆく楽山であります。楽山の悲劇の惨(みじ)めさを、楽山だけが知りません。
 
楽山は、無反省・無責任・無理解・無成長で、人の迷惑を省みません。ですから、楽山には、根拠のある自尊がありません。代わりに、根拠のない過剰な自尊だけをもって振り回してきます。つまり、楽山には、もはや、人間としての尊厳がないのです。
 
こういう人は、誰を思いやる立場にも立てないし、立ってはいけないということです。どうか、世辞や丁寧語に、だまされないでください。楽山は、自ら増長する方向しか持っていないのです。
 
楽山のような反キリストが、神への反命題として得々と語る話は、結局は、なぜ、楽山のような反キリストが生まれてくるのかという謎について、それこそ酷い迫真を見せるかもしれません。
 
 
       
                                    寄生
 
 
(2021年01月21日、同日一部修正)
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  楽山の嘘と詭弁
 
 
霊能者・評論家などの気取り、無反省・無責任・無理解・訂正不能、高等感情の鈍麻、理路の未熟と荒廃、などが見られる反キリストの楽山の詭弁について、メモしたことを投稿しておきます。
 
既に、反キリストの偽善者の例として、約2年間の資料となっている楽山は、宗教を、趣味的にとらえ、甘く見た者の、宿命のような我執に対する、おのずからの報いであります。
 
批判されても、弁明も反論も出来ず、にもかかわらず自分の言いたいことだけ書き続けることこそが、楽山の、宗教に対する無理解と、議論と交流の相手にしてはいけない単方向性というものです。
 
仏様の心が分かるっぽいと言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態。
 
道徳という言葉を使って、道徳的な詭弁からの解放を唱えています。"道徳的な詭弁"など、あり得ません。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。また、当然、キリスト教と信仰にも反することです。
 
楽山にとっての、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念すること、そして、自己満悦に浸って、自己愛に溺れること。
 
思考も情緒も意志もない雪とかの自然現象のお伽噺の因果に喩えている悪の台詞を、変わっているから気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山には、基本的な節操・分別さえもないのでしょう。
 
楽山は自分の意見に反することを、「堅苦しい主義や封建的道徳」などと見なしてくるところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山は、思いやりと共感、温もりと潤い、そういったことを学習していないので、人間なら当然の反応が出来ないのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っていましたが、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。
 
楽山については、カルトが自身を言い表すのと同様に、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して、だますしかないという習性があり、心霊、スピリチュアル、死後の世界、超常体験、などの超常が大好きな楽山の特徴となっています。一気に、超常になりたい願望は、カルトの特徴であろうと思います。
 
ホラーやオカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山は、しかし、霊が分かるっぽいというだけの自覚であり、実際には、いかなるスピリチュアルの深さも、書いたことはありません。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの断線であり、邪悪の一本道であり、自己中の沼であり、反宗教の身投げであります。
 
楽山が、批判されても批判されても、弁明も反論も出来ないでいて、全くお構いなしに、無視して、平気で、言いたいことだけを書いてくるのは、心性に欠陥があるとしか思えず、常人のものではないと思っています。こちらとしては、もはや、楽山の話を聞くくらいなら、犬猫の鳴き声を聞くほうがマシなのです。
 
楽山の言においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、人を食うケダモノになることを意味しています。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」などと、わざわざ書くのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作と宣伝です。
 
楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするので、豪語するカルトと違って、邪悪さに気づきにくい傾向がありますから、何より、楽山を相手にしないこと、楽山に関わらないこと、近づかないことが大切です。
 
私は、数か月、だまされていました。受け答えがハッキリしないため、次に、責任を負うことが大切だ、といった牽制・指摘によって問いただしたら、ごまかして応じなかったため、相手にしてはいけない人だと気づきました。その後、批判して、信頼度ゼロと判断しましたが、その判断を覆すような記事を、楽山は、一度も書いたことがありません。
 
楽山は、批判に対して、嫌がらせ、言いがかり、嘘、詭弁を書いてくるだけだ、という証拠も、二年分、同時に積み重ねられて資料となっています。
 
「かなあ」「ていうか」「言えなくもない」「反省、トホホ」「信じやすい性分」など、芝居がかった若者言葉や、逆に、同情をひく年寄り言葉や、曖昧表現、婉曲表現、丁寧語で、言い逃れようとしたり、ちょっと変に丁寧だけど、いい人そう、と思うような人が近づいてきたら、改めて、楽山かシャロームの成りすましの別キャラの可能性があるので、要注意です。
 
 
        
                      おわりなきのうてんき
 
 
(2021年01月20日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html