ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。

 
  楽山の児戯性2
 
 『竒談の時代』百目鬼恭三郎著 2020年05月16日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24803695.html
 楽山日記(LD)への批判記事を再録+
 
 
楽山は、今までの心霊や超常の話を、子供じみた空想話を出して、ごまかそうとしています。見苦しい言い訳ですが、楽山は、それで済むと思ってしまう人なのでしょう。恥とか罪とかを知る正常な心が無いからでしょうか。
 
 

本書は日本の古い書物にある不思議な話を分類、整理、紹介したものである。頁を繰ってみると、死後の世界や生まれ変わりについての項目があったので、とりあえずその部分だけ読んでみたのではあるが、どうも結論としては、著者の書きぶりからゆくと、それらはみな事実であるというよりも、生きている人々の作り話ということになりそうだ。こういってしまうと何やら身もふたもない話だが、どうもそれが現実であるらしい。

 
まわりくどい筆致です。「古い書物にある不思議な話」について「作り話ということになりそうだ」と書くことで、宗教一般を否定したいのでしょう。しかし、前の記事で、生まれ変わりを信じることができれば便利などと言ったのは、フィクションから何も学べない、「身もふたもない」楽山です。
 
つまり、楽山は、超常が大好きで、日常が大嫌いなのでしょう。霊が分かるっぽい?立場から、たくさんの記事を書いてきたのも楽山です。宗教と信仰を、超常現象でしか考えられず、かつ、そこから学ぶ教訓もない楽山は、勉強嫌いの怠け者と言うしかないのです。
 
心理学の「心の理論」という話を、霊の話にしたのも楽山です。心理学は、心理について語るのであって、霊について語りません。奇跡について、行き詰まりの循環論法を書いておきながら、分かったかのような筆致を捏造して、成り立たないデタラメを、もっともらしく見せていたのも楽山です。
 
楽山の話こそ、「身もふたもない」デタラメなのです。こういう人に、宗教とは何か、真実とは何か、などについて、決して、議論しようなどと、思ってはいけません。混乱し、思考と感性が鈍くなり、果ては、人格が破壊されるでしょう。どうか、関わらないでください。
 
(ネットより)
身(み)も蓋(ふた)もな・い の解説
言葉が露骨すぎて、潤いも含みもない。にべもない。「そう言っては―・い」
みもふたもない
 
幼稚な超常の空想で、キリスト教とキリスト信仰を、否定したり、深く信じないほうがよい、などという、わけのわからない信じ方に、おとしめようとするのが、楽山です。楽山は、宗教を信じないのもよくないが信じ過ぎるのもよくないと言って、何の方向も示せない言論のクズです。
 
自分が間違っていたことを認めて修正・訂正するのではなく、くどくど言うだけで、何も実のあることが書けないのは、その場その場で、理解も努力もせず、自分の都合の良いように、ねじ曲げて否定するだけで、いい加減に書いてきた、いちゃもん屋だということを表しています。
 
 

まず死後の世界の話については、その形成過程をみると、人々の疑問に答える形で拡充されて行っており、はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっているようだし、生まれ変わりについては眼前の不条理を我慢し、やりすごすために、前世の因業という話をこしらえ、それが広まったということのようだ。

 
「はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっている」のは、それこそ、前からの、楽山の筆致、というより、楽山の、日常的な、詭弁の営みのようなものです。もちろん、ペテンの営みです。このように、自分の書いたことに、楽山は斬られ続けているのです。
 
今ここで、戒める側にいるかのように言っていることは、楽山が、まとまった思想を持たず、いい加減な人物で、平気で嘘を吐き、その誤りを認めて反省~謝罪~訂正することなく、別のことや、逆のことを、また平気で言うような、空想と思い付きだけの人であることを表しているのです。
 
自らの不全や欠陥を他者のせいにして、自分はそれを指摘しているかのような書き方をすること自体が、楽山という人が、言論というものについて、非を認めることのできない自己中の卑怯者であり、自己顕示欲だけがあって、無反省であり、信頼できない人であることを逆に表しているのです。
 
 

こうしてみると不思議な話は信じ込むのでなく、自分の生活をよくするための方便として聞くか、エンターテイメントとして割り切るのが無難のようだ。

 
言ってみれば、楽山は、ずっと、人を惑わし、だますことを、エンターテインメント(娯楽)としているのです。そして、楽山には、身勝手で、邪悪な、ふざけたライアーゲームの娯楽しか生き甲斐がないのでしょう。関わる者にとっては、大迷惑であり、下手をすると犯罪に結びつくものです。
 
今まで、学者気取りで、批評家気取りで、楽山の書いてきたことを、今さら、エンターテインメントだと言えば、それはそのまま、楽山は、遊びで、キリスト教とキリスト信仰をけなし、遊びで宗教や心霊について、ねちねち書いてくる変態だということです。思想の芯となるものが何もないのです。
 
 

ちなみに余談ながら、自分の周囲にも前世を記憶する子供たちのようなエピソードはある。あくまでも知人の話ではあるが、彼は幼かった頃、生まれる前のことを知っていると言っていて、両親からそんなことがあるわけがないと笑われると、決まってこう答えたそうだ。
「ぼく、お母さんのお腹の中にいるとき、おへそから外を見てたんだもん。だから、みんな知ってるんだもん」
彼は今はもう幼かった頃の自分がそんな荒唐無稽なことを言っていたことはすっかり忘れてしまっているのだが、両親はいまだにこれを笑いの種にするので閉口しているとのことである。

 
楽山の幼児期のことでしょうか。のちに親から聞いた話みたいなことでしょうか。それで、楽山は、ずっと、自分は特別だ、霊の世界が分かるんだ、と思うようになったのでしょうか。
「心の理論」で、仏様の気持ちが分かるっぽい自覚を語っていた楽山です。安易に超常に感情移入する傾向があるのでしょう。
 
楽山が、このように書くのは、まるで真剣味がなく、今まで書いてきたことなんか、オチャラケですよ、・・と言っているようなものであり、そのことは、楽山が、いかに、お気楽に、嘘を吐く人であるかを表すことになるのです。
 
ふつう、そういう人は、叱られて、書くことを禁止されるか、恥ずかしくて自ら控えるものですが、楽山には、その気がなく、何とか、冗談として乗り切れると考えているわけだから、あきれます。つまり、楽山は、言論者たる資格と節操を何も持っていない自己愛だけの人です。
 
つまり、楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だということです。惑わされないためには、近づかないようにするしかない、という結論になるでしょう。楽山は、嘘を吐いても、罪悪感も羞恥心も感じない人です。
 
 

想像するに、こういうことは子供なりのユーモアで言っていたことであろうし、それならば生まれ変わりがどうこうと真面目に受け取る必要もなく、このご両親のように朗らかに笑って楽しむくらいが丁度いいのだろうと思う。

 
楽山は、ユーモアだから、笑って楽しむのがいいと言っています。子供の話ならば、それでいいのでしょう。楽山は、子供でしょうか。いいえ、楽山は、大人として、実に長い間、宗教や心霊や超常のことを書いてきました。そして、宗教と信仰は、笑って楽しむ娯楽ではありません。
 
楽山は、真剣味もなく、霊や超常のことを話して、否定も反省も訂正もしていないということです。オカルト趣味、ホラー好み、そして、宗教を、魔法の世界としてしか語ってこなかった楽山の、小学校レベルの興味に付き合うことだけは、どうか、しないでください。
 
すでに、うんざりするくらい、読書家気取りで、本の、都合の良い文言を引用して、大きなテーマについて、空想~妄想話を書いてきて、今さら、「子供なりのユーモア」の話と言っても、嘘と詭弁で逃げようとすることによって、ますます、楽山の醜い悪意が明らかになってゆきます。
 
楽山は、底知れない悪意と企みの人、反省せず、学習せず、成長しない人、そして、病識のない異常人格です。批判目的以外では、関わってはいけない人だと思います。勉強嫌いの意地の悪い子供が、そのまま大人になっているようなものです。
 
 
       
                 独り芝居
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月25日、再録+加筆)
 
 
 
  しみる夜
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れていく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
過去は現存しない
死んだ果実の名残を求めて
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
また一つ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる

眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  青年と老人
 
公園のベンチに
青年と老人が並んで座っていました
声にならない独り言が
ときおり二人の唇を細かく動かしていました
 
青年は寂しさを知らない
寂しくないことを知らないから
たのしい人になる
たのしい人になる
老人は苦しさを知らない
苦しくないことを知らないから
しあわせの人になる
しあわせの人になる
紙袋がすうっと飛んできて
不意に舞い上がって
また飛んでいきました
青年は風を見ない
老人は風を忘れた
二人とも目の前にあるゴミ箱の
ゴミを燃やしてくれる人を待っていました
二人の間に座っているはずの男を
いつまでも待っているのでした
 
二人とも
ベンチを壊して
カゼになれ
カゼになれ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
一種も二種もなく、反省しないのは、人間の性ではなく、人間性の欠陥です。誰でもそうでしょ・・みたいな書き方に騙されないでください。自己正当化の詭弁を、いろいろ書いてきた楽山ですが、一つとして成り立ったことはありません。持つべき病識もないのは、質量のない人格とも言えそうです。
 
 
 
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  楽山の形骸
 
 『神秘形而上学入門』平一著
 2022年05月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/32844875.html
   を批判。
 
 
楽山の知識が、実質のないもので、経験の切実さもなく、ことごとく形骸に過ぎないことが表れています。にもかかわらず、楽山は、それで、宗教を信じないと結論し、かつ、それを公開して、人に影響を与えようとするのです。全て、短絡した熟語の概念という安物ですから、真に受けないでください。
 
 

*難解
『心經入門』を読み、同著者の書籍は他にも持っていたはずだと思って家の中を探したら、やっぱりあった。さっそく読んでみたが、予想通り自分には難解である…。
*懐かしい
でも、どこか懐かしい響きの言葉もある。例えばこんな言葉だ。

神と言うと、人間肉体のような形状を持ったものと思われるかもしれませんが、神は形状を持ちません。
神とは、無形の意識体なのです。
(『神秘形而上学入門』平一著、ブイツーソリューション、2016年、p.54)
 」

 
「神は形状を持ちません」「神とは、無形の意識体」・・このような言葉が、楽山は好きなようですが、これらが表現しているのは神ではなく、神を、人は、完全には知りえないということです。楽山は、短絡思考で、熟語をもって、ボンヤリと概念を形成して、分かったことにしているだけです。
 
こういう、文学風味の概念的熟語や言いかえで、満悦する楽山の無明の宗教性に、決して巻き込まれてはいけません。楽山は、何も分かっていません。楽山は、無理解なのに、無反省に、無責任に、詭弁によって語れると思っているのです。
 
信仰を受け取る良心がない、即ち、聖書にある"土の器"を持っていない楽山です。楽山は、宗教にも、信仰にも、神にも、何の関係もありません。楽山の言は、どこにも何も響くことがなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、概念遊びに終始しているのです。
 
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:6
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
 (2コリント4:6-7、新約聖書)
 
神の与える光は、私たちの心が、特に良心が、反応し得る幸いなのですが、私たちが持っているのは、ピカピカの金の器ではなく、地味な"土の器"であります。直ちに全てが顕れて分かるわけではなく、分かる時は、神に任されています。
 
 


人は、神の分光ですから、神へと戻ることができます。
人は、神にもなれる存在です。
(同上、p.69)
 」

我々も未完ですが、神も部分的に未完なのです。
未完であるから、我々も神も成長、拡大し得るわけです。
(同上、p.195)
 」
これらは若い頃に読んだ宗教書にも書いてあったことだけども、多分こちらが本家なのだろうな。

 
人が「神の分光」「神にもなれる存在」などというのは、楽山が好みそうな話であり、楽山の霊能者気取りを増幅させるでしょう。道徳も倫理も、反省も責任も、何も考えない楽山は、霊能によって、一気に、人間を超える特別な存在になりたがります。そのことが、楽山のインチキを際立たせるでしょう。
 
 

*無宗教の理由
ふと思ったのだが、自分は特定の宗教を信じることはできず、無宗教なのは上のような思想の影響があるかもしれない。こういう思想からは、形のある特定の教祖、教団、教義を信仰しようという発想は生まれ難いだろうから。

 
楽山の発言の信頼度は、3年前からゼロです。超常の言葉に囚われている楽山ですから、教祖願望があると思います。否定も肯定もしない曖昧教理の、何も良いものをもたらさない、とても無責任な、楽山だけが気取っていられる妄想の世界です。
 
 

ということは、どうやらこういう自分には一生、形あるものや言葉にできるものを神として信仰することはできなそうである。

 
楽山には、宗教も信仰も、形あるものも無いものも、言葉に出来るものも出来ないものも、理解することはないと思います。概念遊びだけで、信仰に至ることは、ありえないからです。楽山は、概念のオモチャ箱を漁(あさ)っているだけなのです。だから、引用する文献も、楽山にはオモチャに過ぎません。
 
 
      
             オモチャの世界で遊ぶ 概念の形骸
 
 
(2022年05月24日)
 
 
 
  遺訓
 
「わかったか」
といってまだ何も言ってはいないのである
「わかったか」
説教ひとつしてはいないのである
少年はパソコンに向かったまま
「ええ?何を?
大事なメール書いてるとこなんだ
部屋帰って寝たら?体弱いんだし」
老人の頭には鉢巻(はちまき)
目は充血して
手には玩具(おもちゃ)の刀
「わかったかと聞いておる」
老人の眼は潤(うる)んでおり
唇はふるえており
手も足もふるえて
起立歩行も儘(まま)ならぬ身である
少年は振り向きながら
「んな、っかるわけないだろう?
だいたいじいちゃんには関係ね・・・」
少年は老人を見た
「あ・・・いや、その・・・だ・・・
だいじょぶ・・・かな・・・とか・・・」
あくまで武骨で口下手で
遊びに縁のなかった老人と
トークもジョークもチャットも上手で
とてももてると評判の少年
 
数日後老人は他界した
 
 
  なくしたアルバム
 
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
概念と概念の辻褄だけを作って分かったつもりになる楽山です。同じように、言葉と言葉の、AならばBというような論理めいたことを書いて、人を惑わせ、混乱させ、疲労させて、いい気になっていました。大事な心を失って、的を外しまくっても、まともなつもりで書いてくるのは、悲惨です。
 
人間は、体験を経て成熟して、深い共感の情緒を持つでしょう。私は、なかなか、そこまで至っていません。しかし、発酵も成熟も怠慢と思い込みのために出来ない楽山は、短絡して腐敗するばかりで、自他の情緒を破壊し、耐えがたい悪臭を放ちながら、本人だけが、それに気づかないという始末です。
 
 
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  インチキがインチキを語る
 
 2022年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 イカサマ霊能者とインチキ占い師、それから宗教勧誘の手口
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14723036.html
   を批判。
 
 
楽山の嘘がイヌのように盛っています。楽山のインチキが膨らんで破裂しそうです。どこにも、生きる縁のない詭弁や人生が、我を忘れているようです。自分を見ないで、人のことばかり言っていると、こうなります。生きることが、全部、芝居になるのです。楽山の正義面は、ひょっとこです。嘘なのです。
 
 

*裏事情
 ツイッターにて、次のブログ記事が話題になっていた。

・イカサマ霊能師やインチキ占い師の手口まとめ - A Successful Failure
 」
 これが、霊視、占いの現実なのだろうな。

 
インチキは、楽山の現実として、批判記事が3年余り続いています。嘘と詭弁を弄して、痛めつけてくるので、決して、楽山に関わらないようにしてください。
 
 

*可能性
当該記事のコメント欄では、可能性の話が出ていた。

半信半疑
世の中の「自称」霊能者の大半がインチキだろうなというのは推測がつきます。
だからといって、霊や死後の世界など存在しない。
そういうものを知覚できる能力がある人間も居るはずがない。
霊能者など漏れなく100%インチキである。
と、そう断定するのも、盲目的に超常現象を信じ込むのと同じぐらい客観的な態度ではないと思うのです。 ~省略~
 」

 
インチキ霊能者は、楽山です。楽山は、仏様が喜んでいると言って親族に笑われました。嘘と詭弁で、心理学を心霊の話に見せかけました。批判したら、オモチャの理屈で混乱させてきます。長く付き合うと、人格を破壊される恐れがあります。そのような、害毒だけの伝染性病原が楽山です。
 
 


LM-7
天と地ほどの違いがあると思いますが。
たとえば、コインを投げて100回連続して表が出る可能性は確かに存在します。
それを「100回連続して表が出ることなどあり得ない」と主張することが
問題を引き起こすことがあるでしょうか。
単に可能性が小さい事象を無視しただけのことで、これは理に適ったやり方です。
 」

 
楽山は、宗教と信仰についても、このような辻褄の話をして、ときには、印象操作という詭弁を弄して、自分の恣意の方向に誘導してきます。「100回連続して表が出ることなどあり得ない」という命題は、厳密には間違っていることによって、問題を引き起こすかどうかは、場合によって違うはずです。
 
「問題を引き起こすことがあるでしょうか」と言い、数学なのか、賭け事なのか、遊びなのかについて、考慮していないので、「単に可能性が小さい事象を無視しただけのこと」と軽く言って、これは「理に適ったやり方」と言っています。楽山は、この引用をペテンの手口にするのでしょうか。
 
厳密性が、どの程度、問われているかを考慮せず、「理にかなった」とは、ぞんざいな判断です。こういう意見に賛同する楽山は、恐らく、小さい可能性を無視しやすいだろうと思います。これが、楽山の短絡しやすい理路なのです。厳密性を飛ばして、概念の玩具遊びで結論を出しています。
 
実際には、楽山は、大きな可能性だけでなく、実際に、起こり続けている自らの短絡理路の欠陥や、嘘と詭弁で人を迷路に誘導した害悪について、反省せず、全てを無視してきました。言い訳に出してきたこの記事によって、逆に、過去から続いている悪意の不祥事が、楽山の尻に貼りついてゆくのです。
 
このコインの場合は、100回続けて表が出る、という極端な事象ですが、こういう極端な例を挙げて、あり得ない・・を理にかなったと判断したとして、この、おおまかに成り立つ命題を個別のことに当てはめるのは、楽山の詭弁で、しばしば見られてきた特徴です。
 
以前「人それぞれ」だからと自己正当化し、「自分を貫く」のだから悪くないとか、詭弁を書いていました。曖昧な一般則を個別に当てはめたり、限られた個別を一般則のように言う詭弁には、良識が欠けています。楽山は、自らの無責任を無視し、反応も成長もない永久凍土にいるのです。
 
 

「たとえば
「さっきやってみたら100回連続して表が出た」と主張する者がいたとして、
-そんなことは確率上ほぼ起こりえないから嘘に違いないと判断することと、
-確率上は確かに存在するから本当かも知れないと判断すること、
-おお、すばらしい超能力者に違いないと盲目的に信じ込むこと、
一つ目と三つ目が同レベルとはとても思えません。  ~省略~ 
 」
これは、LM-7氏に理がある。超能力者がいるかいないかの可能性は半々ではなくて、いない可能性の方が圧倒的に高いので。

 
判断の正確さのレベルを、嘘吐きで詭弁屋の楽山が決めるのは、我が身を振り返ることの出来ない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業でしょう。こういうところから、楽山の詭弁が始まっていると思います。
 
「同レベルとは思えません」・・嘘、本当かも、超能力、という3つの判断、・・楽山の詭弁には、こういう罠が含まれています。「ほぼ起こりえない」と「嘘に違いない」は、人間関係においては微妙になるのですが、嘘吐きの楽山は、間違いない・・という意識から、決めつけてきます。
 
 

*詭弁
ちなみに、こういう間違いは、他の議論でもある。たとえば、こんな風に。
神はいるかいないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
霊界はあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
生まれ変わりはあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ

 
神は、確率の問題にはなりません。信仰は、関係の問題であり、有るか無いかなのです。楽山のような、良心の欠片もない者が、神の存在を、可能性が半々という自体が暴論そのものです。楽山のような反キリストには神はいないのです。信仰者には神が必要だから信じているのです。
 
 

冷静に考えてみれば、これらについては歴史上その存在が証明されたことはなく、事実ではない可能性の方が圧倒的に高いのだけれども、

 
「事実ではない可能性の方が圧倒的に高い」・・楽山の悪意の誘導です。何度も、神は信仰の対象であり、神を事実では証明できないことや、神がいないことの何の根拠にもならないことを書いてきましたが、全て無視する楽山のサイコパス性が表れています。良心がないのです。イカサマだけなのです。
 
 

「あるかないか、答えは二つに一つ」と前置きされると、つい「あるかないか、可能性は半々だ」と錯覚してしまいがちである。
宗教勧誘では、こういう詭弁が使われることがあるので注意が必要である。

 
こういう詭弁で、楽山は、神を否定して優位に立ったつもりの反キリストです。出会わないのが何よりの幸いで、出会ってしまったら、できるだけ早く逃げるしかないです。サディストであり、良心の欠片もないのでしょう。楽山には、門口に待っているものがいるようです。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書)
 
 
神は、確率で存在の可能性を論じられる対象ではありません。よいものを何も示せないのに、神に恨みでもあるのか、神否定を書き続ける楽山は、確信犯で凶悪犯です。この先、救いとは何の関係もなく凶悪に相応しい経過を辿るのでしょう。信仰者と求道者を、どこまでも傷つける悪魔性です。
 
信仰者にとって信仰は命です。楽山の遊び半分の心霊趣味で語れることは何もありません。楽山の霊能者気取りや評論家気取りや、心霊や超常は、著しい的外れです。楽山は、一生、詭弁臭とペテン臭が取れないのではないかと思います。
 
神とキリスト教のことを、楽山が書くたびに、学習機能のないことが明らかになります。相変わらず、貧相な概念しか持っておらず、楽山の辻褄が合っても合わなくても、信仰とは何の関係もないことだけを確認することになります。楽山の、無知と無理解と、書き続ける無恥とに、うんざりするだけです。
 
楽山の気持ちが、超常~空想に行って、扱う次元が曖昧になり、言葉だけの引用をすることで、思考自体が迷路化して混乱し、前提も根拠もなく、思いついたままに書いています。楽山を読んで、楽山とともに、精神と文脈が弛緩してゆくのは、錯乱に陥る危険があり、非常に危険です。
 
 
      
               悪意のインチキ
 
 
(2022年05月23日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
生きてゆくと、学んだものが身に着いてきます。学ばなかった者は、ごまかしが身に貼りついて剥がせなくなります。楽山の嘘と詭弁は、一生続くのでしょう。臨終のときに、楽山は何を言うでしょう。「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」でしょうか。人間の性ではなく、楽山の性なのです。
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
      
                正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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  楽山の自己顕示欲
 
  『心經入門 彼岸からのメッセージ』平一著
  2022年05月19日 楽山日記(LD)
  http://mn266z.blog.jp/archives/32816312.html
   を批判。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が書くものには、自己顕示欲だけしか表れていないことを指摘することが批判となっています。雑な文章を書いて、本を読んだことにしてきますが、批評としても感想としても実質のないのが特徴です。
 
ふつうは、身近な問題からでも、真実について考察するのが人間だと思いますが、楽山には、そういう気がないのです。無条件で、読書家のインテリを気取っても空しい限りです。楽山には、身近な真実の実感がないのだろうと思います。
 
 

*概要
この間、無性に未知のスピリチュアルな本を読みたくなったので、積読本の中から本書を選んでみた。
ただ残念ながら無学なので、生命の木などを用いて般若心経の意味を読み解いているという大枠は察することはできても、細部についてはちんぷんかんぷんである。自分の無知無学無教養を痛感させられてしまった。とほほ。

 
「ちんぷんかんぷん」なのに、感想を書いて、考察せずに、読書家気取りの自己顕示欲だけ満足したい楽山です。「自分の無知無学無教養を痛感」したなら、反省・勉強・学習するはずですが、その経過も結果も書けないまま、宗教書をよんだぞ・・という自己顕示だけはしてくる楽山なのです。
 
 

*出会い
が、そんな中で、この部分に関しては思わず膝を打ってしまうほど合点がいって愉快だった。

人は、ネガテブな状にいてポジテブを思い、ポジテブな状にいては知らず知らずにネガテブを思っているものなのです。
古き賢者方は、このような状を「陰極まって陽となり、陽極まって陰となる」と言っています。
(『心經入門』平一著、ブイツーソリューション、2018年、p.111)
 」
一つの思いを強く持つほど、それとは反対の思いも強くなるだとか、上がり切れば、あとは下るしかなく、下がりきれば、あとは上がるしかないという考え方は、それぞれ知識として知ってはいたが、迂闊にもその二つを関連付けて考えたことはなかった。

 
だから、どうなのか、つまり、経験談も、考察も、書けない楽山です。「膝を打ってしまうほど合点がいって愉快」と書いています。何が愉快なのでしょう。何が結論なのでしょう、何が思想なのでしょう、どこが書くに値する感想文なのでしょう。皆無です。
 
「ポジテブ」と「ネガテブ」、「一つの思い」と「反対の思い」、という問題に、「上がり切れば、あとは下る」「下がりきれば、あとは上がるしかない」と、安い物理みたいに上がり下がりとして書いています。しかも「関連付けて考え」ていません。
 
病質によって、気取りだけでインテリっぽく見せて、読書をしたことにして文章を書けば、読者は騙されると自己満悦から思い込んでいるのです。読者にヒントも何も与えない文章となっています。ただの知識不足ではなく、自分の都合のよいところだけをつまんで褒めるだけの駄文です。
 
恐らく、楽山は、自身の、ポジティブにも、ネガティブにも、全く気づいていないと思います。どれだけ迷惑をかけても、批判されても、相変わらず図々しく書いてくるところが、むしろ、病質の証拠となって積み重なってゆきます。
 
楽山はダークネスであり、公開できるようなネガもポジもありません。全てを煙に巻いて、明確な主張も思想も、また、一人前の人格も、持ち得ていないのです。だから、安易な肯定も、意地悪な否定も、みな自己を表すだけで、大人としての責任を負うことがないのです。
 
 

本書は自分には難しすぎたが、これに気付かせられたのは有り難い。感謝。本というものはその全てを理解できなくても、ハッとさせられる一文と出会えたなら、それだけで自分には満足ある。

 
「難しすぎた」のに、「気付かせられた」「ハッとさせられる」と言っています。あとは、「有り難い」「満足ある」と褒め言葉です。考察がないのです。楽山の文章に共通している受けねらいのインテリ気取りで、肯定を書き、否定を書き、その根拠を示さず、自己満足するだけの筆致です。
 
 
 
  映画『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』
  2022-05-19 楽山日記(a)
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12743654706.html
   を批判。
 
 
書くものには、それを書く動機が表れます。楽山の書くものには自己顕示欲が表れ、顕示されたものが、楽山の不純な動機とともに、欲望と見栄以外何もないことを表します。自己愛妄想による気取りが加わって、いっそう悲惨になっています。
 
丁寧語が楽山の武器です。婉曲表現のボンヤリ言語と、謙虚芝居のトホホ言語で騙してきます。病的ナルシストは、犯罪傾向の強いサイコパスと同類です。今までの数々の偽り、ここで、まとも芝居、今さら、醜いだけです。
 
 

『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』を見た。
あらすじは、深く心の傷ついている男の幽霊が、同じく傷ついている女の子と出会い、仲良しになり、やがて家族ぐるみの付き合いをするようになり、お互いに助け合い、前向きに生きてゆくというものである。登場人物はみんな良い人ばかりなので、安心して見れていい。

 
「みんな良い人ばかり」が、幽霊と仲良くできるでしょうか。楽山を「安心して」見ないでください。そんな幽霊より、どんな幽霊より、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は怖い人です。楽山は「助け合」うことが出来ず、助ける芝居で、傷つけてゆきます。
 
楽山のご馳走は、自身の優位性を感じることです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、うわべの謙虚そうな言葉に騙されないでください。楽山の害に遭うと、人格が弱って、鈍くなり、破壊される恐れがあります。出会わないことだけが幸運という楽山です。
 
 

こんな風に、幽霊と仲良しになって、みなで楽しくご飯が食べられたら幸せだろうな(笑

 
楽山は、自分が、自己愛性人格障害のために「みなで楽しくご飯が食べられ」ないものだから、人ならぬ「幽霊と仲良し」になりたいのだそうです。どういう、ご飯の食べ方をするのでしょう。人肉に食らいつく悪霊のホラー映画のようになりたいのでしょうか。それで「笑」って楽しいのでしょうか。
 
楽山は、幽霊と仲良しになって、いっしょにご飯を食べたいのだそうです。映画はフィクションだから、楽しめますが、楽山はリアルな病的ナルシストです。間違っても楽山と仲良しになってはいけません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、深く心を傷つける男だからです。
 
楽山は、一種の化け物です。だから、人々の間ではなく、幽霊とともに食事などという発想になります。実際には、霊が分かるっぽい?自覚の、超常心霊マニアであって、病質とともに、人間性を大の苦手にしている楽山です。だから、楽山は、人間的な情緒を、まるで感じることが出来ません。
 
 
      
          ブレーキの効かない自己顕示欲
 
 
(2022年05月21日)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
 
  罪のらくだ
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  どこへ
 
「はい」はどこへ行った
「いいえ」はどこへ行った
煙草片手に
小石混じりに糸を引く道
食の道行き辿り辿れば
見果てぬ先に数知れず
「はい」は胃炎に
「いいえ」は灰に
食の日月よ見上げれば
いつから満ち欠けて
みな我に返るというのか
吐き出すものは身に降りかかる
煙が気道をしめつける
「はい」をどこへやった
「いいえ」をどこへやった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
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1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山の書いてきたものは、誰にとっても、ヒントにも、糧にも、参考にもなりません。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による自己顕示欲への執着が、ちびちびと、お漏らしをしてきます。不潔な排泄を、いつまでも失禁してくるのも病質ゆえでしょう。
 
 
 
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