潮騒
一方で、ごった返す人並み。すぐに消えてしまう足跡。その、濡れた跡に横這いに這う、小さく不透明な蟹。
――海とは、何という生命力に充ち満ちているのでしょう……
私は大きく
すると、あんなにも遠くにいた波の音が途端に近くなります。思えば、砂浜を歩きながら聞く潮騒は
嗚呼、ようやく私は海が見られたのだと――入道雲になり損なっている空を眺めながら、しみじみと思いました。同時に、これ程までに夏を愛おしく思った日もありません。
誰かに夏が好きだと告げる時、大抵の人は目を
ですから、私はこうやって夏に包まれるように過ごす時間が酷く大切で、そして、この好意を思いがけずに否定される瞬間が嫌いなのです。
正直なところ、私という人間はとても内向的で、人からはよく「ロマンチスト」だと笑われます。恐らく、物言わず本ばかりを読んで退屈を散らしていたから抱かれた印象なのでしょう。その延長のように、好きな季節は「秋でしょう?」とも訊かれます。誰も、私など見ていないかのように。
「どうして?」
いつぞやの夏、私は不思議に思い訊ねてみると、幼馴染みの
「だって、夏は騒がしいわ。物静かな
と、そばかすの浮かんだ表情にクシャリと皺を寄せました。その言葉に、私は読んでいた本を閉じ、何て哀れなのだろうと感じたのを
けれども、ね。
本当は、夏こそがロマンチストの季節だと、私は思うのです。そして、夏程もの悲しく、静かな季節はありません。
ザ、ザザン……と、一時的な潮騒が過ぎ去ってしまえば、後は静寂ばかりが残るのは――まるで、誰かの生命の鼓動に似ております。しかし、波がそんな確かな情緒を持っているのは、数ヶ月の間――熱に浮かされている期間だけなのです。
……感傷から目を覚まし、私は顔を上げました。太陽はそろそろ真上へと立ち止まろうとしています。
私は、立ち上がりスカートの裾を払いました。足下にはコンクリートと繋がった濃い影ばかりで、そこには私の影も血潮すらもありません。
スン、と鼻を鳴らすと、潮の香りに混ざり、粉っぽい――しかし、質量のある甘い香りが私の胸を満たしました。もうそろそろ、誰かが私に逢いに来るのでしょう。きっと、家族なのだと思います。
それでは、そろそろ私はお
英雄のジオラマ
三日前からぼくはみんなから無視されるようになりました。幼なじみのニシ君に聞いたら、ぼくがアリを殺すからと言われました。ぼくは悔しくなって、毎日アリを潰すことにきめました。プチプチと、足の下でつぶれる感しょくはイクラやスジコを食べている時みたいで少し楽しいです。
六年生になったぼくはクラスの連中とウォーターガンで遊ぶようになりました。本当はエアガンで遊びたいのですが、ぼくはお金がないので買えません。その代わり、中学生になったらお年玉で買おうと思っています。だけど、ぼくはウォーターガンで遊ぶのがきらいではありません。アリの巣を水びたしにすると、アリがあなから出てこなくなったり、ピクピクと動いたりしているのが見えて楽しいからです。
「あーあ、アリを殺すと雨がふるんだよー」
一ヶ月前、いつものようにみんなでウォーターガンで遊んでいると、同じクラスのミナミちゃんが言いました。ミナミちゃんの話によると、アリの巣を水びたしにしたり、わざとふんで殺したりすると、次の日には雨がふるそうです。それを聞いたみんなはとたんに大人しくなって、アリの巣からウォーターガンを離しました。ぼくはそんなのは迷信だと知っていたので止めませんでした。
ぼくの思い出は三さいのころからはじまります。三りん車にのったのをおぼえています。ぼくはびゅんびゅんはしっていました。
お兄ちゃんはうらの空き地でBBだんをとばしていました。オレンジ色で、虫のたまごみたいでなんだかきもちわるかったです。けれども、エアガンというのをふりまわすおにいちゃんがうらやましかったです。
ぼくは今、泥水に浮いて小さい時のことを思い出しています。ぼくは必死でうでを曲げようとしているのに、なぜだか曲がりません。仕方がないのでぼくは空を見ていました。雨粒がぼくの目に当たっているのにぼくの目は痛くありません。
そういえばぼくは今、ぼくを見ています。ぼくの形をした人形の周りをアリの行列が行進しています。アリはぼくの足元が好きみたいです。いっぱいのアリがぼくの足にグリグリとしょっ覚をこすりながら群がっています。
だけどぼくは今、スキップをしています。うでは動かないけれども、足で軽々とスキップしています。
楽しくなって、歌を歌って、空を見たら、アリの行列がぼくを運んでいました。ぼくはスキップして家に帰ったら、読みかけのナポレオンの伝記を読みます。
無作為な
今日は雉が来ないから。
無作為に願うことは止めてしまおう。
今日は鴉も睨まないから。
只 疲れてしまったら眠ろうと思う。
只 布団にくるまって笑おうと思う。
弛んだ蛇口から一滴二滴と落下する、
膨らんだ水音だけを無作為にして。
モノラル
感傷を抱いた街は嗚咽混じりの陽気なメロディ吐き出して
両手を挙げては誰も彼もが戯けては笑い笑いコートを脱いでいる
スピーカーは様々な音を凝縮させ閉じ込めるのを得意とし
ザツザツと全てを埋め、俺も埋もれ、アスファルトを嘲け嘲け
――鼓膜の振動は音を伝導するが聞き分けることの唾棄を選択した
彩度低く
僕は爛熟した、腐りかけの指跡だらけの苺を頬張り
沈み込んだ底が
冬の間に赤錆の浮いた自転車のタイヤの横を無言で蹴る
タイヤはカラカラとカラカラと音を立てながら回転し、やがて止まった
ナショナル・ベイビー
ある日、風邪で寝込んでいた僕の部屋を、彼女が大量の食料と一緒に訪れた。彼女は「どうせ、ろくに食べていないんでしょう?」と
「あ、ごめん。三段目には入れないでおいて」
丁度、トイレに行こうと起きていた僕は、まだ熱で
「ん、ちょっとね」
僕は言葉を濁した。濁しながら、彼女のそばへ寄って甘えるように
「ちょっと、重いー」
彼女は
「腹減った。何か作って?」
彼女のウエストに腕を回しながら、肩に
ドアを開けっ放しでいたせいか、冷蔵庫の住人の彼はいつの間にか僕の顔を見ていた。まだ幼い――乳幼児の彼は、小首を傾げながら黒目がちの大きな目で僕を見ている。相変わらず、指はしゃぶったままだ。その指を彼の口から離そうと手をかけると、今度は僕の指をしゃぶりだした。けれども、体温やベタベタとした唾液の感触は感じない。僕は彼女に分からないように、こっそりと笑むと冷蔵庫のドアを閉めた。
***
粥を作ってくれた彼女は、自分の分をレンゲで
「何もじゃないよ。時間によっては、粉ミルクを上げたりするし」
言いながら、棚においてある粉ミルクと哺乳瓶を指すと、彼女は「粉ミルクー?!」と叫びながら
「何それ? 何かの冗談?」
「いや、マジ」
彼女はますます
彼女が帰宅して
僕は恐らく
彼は満足そうに笑った。手を伸ばし、背中を軽く叩くとゲップをした。僕はまだ中身が詰まっている哺乳瓶を出し、彼に手を振った。満腹になったのか、彼の目は既にふわふわと
勿体ないと思いながら、僕はミルクを流しに捨てた。そして哺乳瓶消毒の準備をする。ふと見ると、ゴムの部分が少し古くなってきているのに気づいた。今度、買ってこないといけない。そういえば、本来なら彼ももう三歳を過ぎるのだ。普通、三歳にもなると離乳食も卒業しているのだろうか? けれども、彼には歯がないに等しい。いつまでも赤ん坊のままだ。それなら、やはり粉ミルクのままで良いのだろうか?
冷蔵庫を買い換えた一昨年、コンセントに差し込んでからずっと彼はここに住んでいる。上から三段目の棚で彼は眠っている。どういった経緯で彼が眠っているのか、僕は知らない。けれども、それで良いのだと思う。哺乳瓶や粉ミルクを買うのは、今でも気恥ずかしい。それでも、三年にもなるとさすがに少しは慣れた。
憂鬱カラフル
雨水ロンリー 舌を出したら甘くて口笛
憂鬱カラフル 虹が見たくてまちぼうけ
雨水ロンリー 靴底濡らして飛び跳ねた
私はスタバで頬杖オンリー 外を眺めて
珈琲には砂糖をスクリュー 雨宿りする
憂鬱から降る雨は、甘く少し苦いのです
じゃらく
彼岸参りに雨雪降つて
足下濡らして子供がワンワン泣いている
長靴はヌラヌラ光って
スコップはしなだれて尖端が欠けていった
夜明けと共に魚の匂いが
窓に結露を滲ませ氷をユルユル溶かしては
隣近所の玄関詣でに
線香の煙と共に鈴が高らかと鳴り響き蝋が落ちた
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彼岸じゃらく : 青森県南地方で彼岸前後に降る春の雪のこと。
人形遊び
そのせいだろうか? 私は未だかつて雛壇を欲しいとは思ったことがない。 それどころか、市販の雛壇はつまらないとすら思っている。 当然だ。 一つ一つが事細かに決められていて、一見華やかそうでありながら、人形達は実は恐ろしい顔をしている。 あんなものを欲しがる女の子に雛人形の何処が綺麗なのか聞いてみたい。
「ねぇ、ママ。ことしはひなだんかってしまわないでね?」
小さな歩幅で懸命に歩きながら、繋いだ母の手を固く固く握り締めながら私はいつも懇願していた。 今では何処までも可笑しな話なのだけれども。
「ねぇ、ママ。かつらはきれい? おひめさま?」
不安定な引出しの雛壇の上でそう訊ねては、怒られながら抱かれて降ろされた。 私が羽織っていた着物は小さな体よりずっと大きく、足が床についても裾は引き出しに引っかかったままだった。 その着物の匂いを私は未だに覚えていて、防虫剤と埃の匂いに混ざった甘さは確かに僅かな眠りを呼び起こしていたのだ。
今年、祖母は十三回忌を迎え私は私服からセーラー服に袖を通すくらいの年齢になった。 そんな私は勿論、祖母がどんな人なのかは知らない。 生まれる前に亡くなったのだから、当然抱かれたことすらない。 けれども、無機質に彩られた大輪の花達が描かれた、洋服としてでは決して着ることはないであろう着物の柄は、あの冷たい雛よりもずっと、優しい顔をしているのだ。