半脊椎-Spineless fish Side- -5ページ目

嚥下作業

腐りかけた俺は防腐剤を食すことに専念する


寒空の下で俺は雪を嚥下えんかすることに専念する


誰も冷えた指に手を差し伸べることはしない


温もりは唾液が何かを溶かすことで意識した

蝸牛の症例

 君は蝸牛かぎゅうを眺めていた。浴室の窓から覗く、隣家からこちらまで伸びた草葉の間に止まっている蝸牛だ。
「また見ているの?」
 君は時間があれば飽きることなく見続けている。だから、浴槽にはそうそう湯が張れない。湯を入れてしまえば、君は湯にかったままで眺めているからだ。
「だって、怖くなるから見定めていないと」
 君は振り向きもせずに言った。肩まで伸ばした――けれども、まだ伸ばし途中の君の髪は表情を隠した。只、唇が上がっているのだけが見えた。恐らくは笑っているのだろう。
「どうして怖くなるの?」
 一度だけ訊ねるも、諦めて浴室のサッシを閉めた。君の姿が見えなくなった。リビングではつけっ放しだったテレビが暗がりの中で点滅していた。ブラウン管が発する光は時折、吐き気がする。しかし、悪くはない。点滅する光がもよおす吐き気は眩暈めまいともない、それが逆に心地良い。まるで、悪夢がそこに存在していると錯覚できるからだ。

「何だか、彼が動かないの……」

 灯りもけずに点滅するブラウン管を眺めていると、君は情けない、か細い声で近づいてきた。彼とは蝸牛のことだ。蝸牛には名前はない。しかし、君は蝸牛を「彼」と呼んでいた。
「きっと、眠っているんだよ」
 宥めようと手を伸ばすも、君は首を振った。
「彼が眠る姿なんて、見たことがないわ」

 君は強い口調で言い切った。そしてテレビを見た。テレビに一瞥いちべつを投げた君は、今度はフラフラとテレビの前に座り込んだ。
「ああ……、ここにいたの」
 恍惚こうこつの表情で呟くと、君はテレビに見入った。廃墟探訪はいきょたんぼうを特集としていた番組には、錆びた螺旋らせん階段が映っていた。思うに、君は病気なのだと思う。
「ここに蝸牛はいないよ」
 言い聞かせようと肩に手をかける。君の髪が即座に揺れた。
「蝸牛って何? 彼はここよ?」
 君の言動に悪寒おかんがした。
「やっぱり、彼は眠ったりしないのよ」
 嬉しそうに君は手を叩いた。手を叩きながら、再び眼をうつろにしてテレビに釘付けになった。最早もはや、蝸牛には用がないらしい。
 仕方がないので外に出た。随分と湿気が酷い。日中は頼りなく揺れていた陽炎かげろうも、今はなかった。それでも、不快感は日中以上だった。恐らく、通り雨でも降ったのだろう。何処からか、塩素のもののような匂いがした。それは、雨の匂いだろうか。
 遊び半分で、階段の手りに体重をかけた。両手で体を支えながら身を乗り出し、あたかも滑り台のように降りようとする。しかし、なめらかに滑ることはなく重量のある体は重力にならい落下した。手足や尻は濡れ、鈍痛がした。普段に見る夢なら、痛覚などないというのに――
 痛む箇所に附着した泥や小石を適当に払い、浴室がある方へと向かった。本当に蝸牛が動かなくなってしまったのか興味があった。
 裏手へと回り、隣家の伸びた枝を掻き分ける。今までは黙っていたけれども、そろそろ文句の一つもつけた方が良いのかもしれない。そうしたら、君は悲しむのだろうか? しかし、蝸牛が動かないこの密室への関心は失せたのだから、悲しみなどしないのだろう。それなら、明日にでも文句を言うべきだろうか。
 蝸牛はいつもの草葉に止まっていた。動く気配はない。しかし、蝸牛はもう随分と動いていないのだ。君には動いて見えていたのかもしれないが、本当に動いてなどいなかった。その証拠に、葉がかじられた痕跡は何処にもありはしない。眺めつつ、螺旋の殻をつかむべきかどうか悩んだ。それでも、君が悲しみはしないのだと言い聞かせると、躊躇ためらいは早々と失せた。
 殻は堅く張りついていた。この堅さは知っている。もう住人がいなくなってしまった時の堅さだ。案の定、中は空だった。蝸牛は何処へ消えたのだろう? 見ると、葉の上には白い――粉と形容するには粒子のあらい結晶の粒が残っていた。その一粒を舐めてみたらしょっぱかった。塩だった。そうだ――蝸牛は安易だ。安易に自身の細胞を捨ててしまう存在だった――そんなことを思い出した。そう考えると、蝸牛の価値というのは螺旋の住居に尽きるのかもしれない。しかし、語るには無知だ。だが、無知だから邪推じゃすいもできる。
 住人のいない住処を踏み潰す。感触は少し柔らかい砂利のようだった。君は今もテレビを凝視しているのだろうか。想像する余地しかなく、だからといって部屋に戻るには躊躇われたので、もうしばらく外に出ていようと思った。そうして、君が新たに夢中になれる螺旋を探そうと誓った。君は螺旋がないと駄目になる。きっと、いつも眩暈を感じていないと現実が掴めないからだ。それは悪夢を見なければ、現実に安堵できない感覚と似ている。
 螺旋は何処にあるのだろう。どんな螺旋なら君は飽きないのだろう。どうせなら、ステンレス製の錆びにくいバネでも探してみようか。君が螺旋を見つめている時は、落下する浮遊感を味わえる。症例なら多ければ多い程に感覚がなくなっていく。異様な凡庸ぼんようが味わえる。

貪った背骨

背骨をひたすら貪った、午後の日差しを忘れない

背骨をひたすら貪った、午後の静寂は土へと還り

背骨をひたすら貪った、俺の手はあぶらがヌラと光り

背骨をひたすら貪られた、魚の眼はえぐられていた

惰性、ライン

惰性、ライン
永遠、途絶えた
実害ない溜め息、誰が摘む?

惰性、ライン
刹那、浮かんだ
無害ない溜め息、誰が摘む?

浸雪する夜

静寂は鼓膜を剥離はくりするかのように圧迫し
昼はくらく夜を白々と淡く照らしていた


時計の秒針だけが断続的に音を残し
外気は無慈悲に犬の毛皮をてつかせ


毛布の中、膝を抱えて眠る孫子まごこは足を絡め
乾いた肌で互いの体温のみの暖を取る


はぐれ猫は集積所の片隅で爪をいでは
やがて小さな足跡で無人の内に何処かへ去った

クラフトノート

 時刻は十時を少し過ぎたばかりで、メインストリートにあるファーストフード店は確かに開店したばかりのはずだった。僕は既に一時間近くを徒歩についやした後で、伸び過ぎた髪を切ったばかりだ。
 自動ドアは強風にもかかわらずスムーズに開き、カウンター席では学生然とした青年グループが角の席を陣取っていた。レジの前に立つと、奥にいた店員が「いらっしゃいませ」と慌てて走り寄って来た。
 僕は冷えた体を温めようとミネストローネを注文し、二階席へと上がった。階段を上りながら、前にこの店を訪れたのはいつだったのか思い出そうとしたが、曖昧な記憶はそれをさまたげた。只、以前は禁煙席だった左半分の敷地の席は、いつのまにか喫煙席へと変わっており、最初、僕は知らずに入り込み煙草たばのこもった匂いにせた。
 二階席は喫煙席に中年の男が、奥のソファベンチの席に書き物をしている女性がいるだけだった。正面には、これまたいつの間に設置されたのか分からない、大型のテレビが同じCMを何度も繰り返した。CMは無声で、代わりに店内ではクリスマスソングのインストゥルメンタルが流れている。僕は、女性と対角線上にある向かいの席に座った。窓際のそこは折角の窓が高過ぎて、下を見下ろすことは出来なかった。代わりに、低いビルの最上部にある広告と、幾本もの電線が濃度の薄い空と一緒に見えた。
 僕は鞄の中にあった本を読むことにした。人気のない空間は穏やかで、そして時間の流れがゆるやかだった。時折、淡い眠気を感じながら、僕は栞紐しおりひもつかみながら本に目を通した。僕が読んでいたのは短編集で、ジャンルも恋愛小説であったが、頭にはく入った。そして、このひっそりとした時間に似合っていた。
 しばし待っていると、階下から店員がミネストローネをトレイに乗せて届けた。湯気を立ち上らせる赤い液面は化学調味料の匂いばかりが目立っており、にんにくの香りはなかった。そして、何故か中にマカロニが入っていた。貝殻形のそれは、確かコンキリエと呼ばれる種類のものだ。スプーンで掻き混ぜながら、僕は一口だけ味わった。
 それから十数頁ばかり読み進めていると、小さなくしゃみが聞こえた。か細いながらもフロアに響いた音に、僕は思わず顔を上げた。視界には口元を押さえる女性の姿が映った。よく見ると、彼女はボートネックのセーターを着ており、明らかに薄着だった。しばらくの間、不躾ぶしつけなまでに彼女を見ていたが、不意に目が合ったので僕は慌てて目を逸らした。誤魔化すように会釈をすると、彼女は緩く笑んだ。ウェーブのかかった髪が滑らかに流れ、それを見てしまった僕の鼓動は途端に落ち着かなくなった。用もないのに、立ち上がってしまいそうだった。
 彼女が再び書き物を始めると、僕も視線を落とし、本を読むことに集中しようとした。しかし、一度 意識してしまったからか、不意に集中力が途切れては、まるで癖がついたかのように何度も彼女を盗み見た。彼女は、ずっと熱心にテーブルを眺め(実際にはノートを見ていたのだろうが)、ペンを走らせたり、休ませたりしていた。
「――ねぇ」
 十一時十四分。店内は既に僕と彼女だけで、中年の男の姿はとうになかった。話しかけてきたのは彼女で、彼女はトレイを返却コーナーへと戻したついでのように、僕の席へと近づいてきた。
「あなた、ずっと私を見ていたでしょう?」
 近くで見ると、彼女は思いのほか 華奢きゃしゃだった。セーターは辛うじて肩口にかかっているかのようで、今にもずり落ちてしまいそうだった。その分、髪の豊かさはますます強調されており、それはまるで丁寧に手入れされている上質な毛皮のようだ。
「――ずっとではないよ。たまに、視界に入った時だけだ」
 僕はそう答えた。嘘は言っていなかった。
「それでも、見ていたことには変わりないわ」
 そう言うと、彼女は僕の手元を見た。
「あなた、小説が好きなの?」
 彼女が訊ねた。僕は本を閉じ「分からない」と答えた。
「只の暇潰しだよ」
 言いながら、僕はまだ半分以上残っているミネストローネを口にした。既に冷めてしまったそれは、届いた時よりもずっと味が濃く感じられる。
「平日に暇潰しだなんて、学生かしら?」
「いや。今日は休み」
 ――嘘だった。僕は正真正銘、学生の身分で授業は午後からだ。
「そう」
 僕の嘘を信じたのか、彼女は納得したように頷いた。もしかしたら疑っていたのかもしれないが、それを表に出すことはしなかった。その後、重い沈黙が流れ、僕は彼女の肘を、彼女は僕の手元をずっと眺めた。
「暇だったら――」
 沈黙を切り崩したのも彼女だった。
「何?」
「いえ、大したことではないわ」
 先をうながそうとしたら、彼女は慌てて首を振って話を取り下げようとした。その仕草が、余計に続きを気にさせた。
「言って下さい」
 僕は彼女に頼み込んだ。彼女は肩を竦めると、座っていた席へと戻り、そして再びこちらへ来た。その手にはクラフトの表紙のノートが抱えられていた。
「良かったら、これを読んで欲しいの」
 そう言って彼女は僕にノートを差し出した。
「僕がですか?」
「そう。感想はいつでも良いわ」
 確認すると、彼女は微笑して頷いた。
「今、ここで読むんですか?」
 首を傾げると、彼女は声を上げて笑った。
「いいえ、何処ででも」
「それじゃあ、いつ感想を伝えられるか――」
「ええ」
 戸惑いながら首を掻いていると、彼女はアッサリ頷き「その時は只、詰まらない貰い物をしたと思ってくれれば良いの」と言った。
「詰まらないのですか?」
 彼女の突き放すような言い方に違和感と、少しの可笑おかしさを感じながら、僕は無遠慮に訊ねた。
「分からないわ」
「分からない?」
「そう」
 いよいよノートを僕に押しつけると、彼女は言った。
「あなたの感性が決めるから」
 行きずりの、名も知らない人だというのに、僕はその台詞を大いに気に入った。僕は「ありがとう」とだけ礼を言うと、鞄の中へと丁寧にしまった。
「お礼はいらないわ。きっと、失敗作だから」
 そう言うと、彼女はきびすを返した。白いファー付きのコートに袖を通し、革製のトートバックを肩に掛けると、早い歩調で階段へと向かい、そして立ち止まった。それから、最後に僕へと視線を向け、訊ねた。
「――あなた、ミネストローネは好きなの?」
 僕は立ち上がり、ゆっくりとかぶりを振った。
気紛きまぐれです」
 微笑んで見たら、彼女も笑みを返してくれた。それだけで、僕の中の何処かが暖かくなるのを感じた。
 彼女の後ろ姿を見送った後、僕は着席し、そして鞄の中を見た。クラフトの表紙は影で茶から黒に見えた。知らずに嘆息し、鞄を脇へと置き直すと、僕は残っていたミネストローネを喉へと流し込んだ。
 返却コーナーに残されていた、彼女が使用していたトレイには何故かカップが二つあった。一つにはレモンの輪切りが残っており、もう一つは飲みかけの生クリームが浮いたココアだった。それは、酷く甘そうに見えた。
 階段を下り、自動ドアが開くと途端に冷気が僕の頬を撫でた。短くなったにも拘わらず、髪が風に沿って流れるのを感じる。その後、二時間近くかけて帰宅し、ドアチェーンだけをかけた状態で彼女から貰ったノートを読み更けた。ノートの中身は、いわゆる掌編で非常に短い小説だった。
 印象は話を交わした時と違っており、彼女の描く物語は酷く男性的だった。まるで、何もかもに疲れ果てた中年の男のようで、そんな男の叶うことない恋の話だ。僕は、何度かページを往復しながら、その物語を読み終えた。僕はノートを開いたまま、あの静寂の中で、こういった物語を想像した彼女に驚きと、そして少しの敬意を心の中で贈った。
 あれから僕は毎日のように、彼女のノートを持ち歩くようになった。しかし、一年を過ぎた今でも再会することなく、僕は只 ボンヤリと彼女に伝えるための感想を持て余している。

白彼-はくひ-

 小雨は線が細く、周囲を霧のようにいぶしていた。その外界をボンヤリと眺めながら、周平は霊園墓地へと続く細道へと入った。その道は舗装されておらず、只 砂利が敷き詰められているだけだ。音を立てながら揺れる車体に、周平は人知れず眉をひそめた。と、同時に後部座席に置いた果物と生菓子がカップ酒と一緒に落ちた。
「相変わらず、整備がなっていない場所ねぇ……」
 助手席で不満そうに呟く妻の透子に、彼は苦笑した。
「恐らく、ここは私有地だろう。ほら、隣に畑がある」
 言いながら周平は右側を顎で指した。それに併せるように透子が視線を向けると、確かに数百坪はあるであろう広い畑が広がっていた。しかし、うねには何も生えていない。
「私有地なら尚更 さびれているわ」
 空閑地くうかんち然とした風景に、透子は脈絡なく呟いた。
 砂利道を過ぎると、ようやくアスファルトで固められた舗装道路が見えた。一本道のそこで行き違いにならないことを願いながら、周平はアクセルを若干、深く踏んだ。徐行運転を続けてた反動か、途端にスピードは上がり風景が視界から次々と抜けていく。その色彩が既に変色し始めていることに周平は気づいた。
「あら、もう柿もたわわだわ」
 慌てて窓を開けながら、透子は声を上げた。木に実る柿が東京では珍しかったのか、いつもとは違う透子の色めいた声に、周平は微笑ましさを感じ頬をゆるませた。しかし、雨がまだ降っていることもあり、次には「閉めなさい」となだめるように叱りつけた。
 やがて、黒くそびえる立派な墓が一つ、二つと木々の隙間から垣間見え、人と同じくらいの高さの門が見えた。入り口でもあるそこを通ると、只でさえもやがかって見えた眼前はますます乳白の霞に包まれたように感じられた。恐らく、周囲から立ち上る線香の煙がそう錯覚させるのだろうと、周平は思った。
 墓は圧倒的に日本式のものが多かったが、ちらほらとキリスト教徒のものであろう墓も見えた。そこに捧げられた花は造花らしく、朽ちることなく鮮やかにそこにあった。それが、周平には隣で小菊の枯れ始めもたげている姿と対照的に映り、不思議な気分になった。透子は後部座席から手桶を取り出すと、水を汲みに水道へと向かった。連休であったせいか、霊園墓地はまばらではあったが家族連れが多かった。長時間の運転で凝った肩をほぐすように腕を回すと、周平も供物や墓石を掃除するための洗剤やスポンジ等を手に持った。
 それから周平と透子は遅い彼岸であるかのように丁寧に墓石を磨き、周辺の雑草を抜いた。その後、新しく水を汲み直し墓石に満遍まんべんなく掛け、蝋燭を灯し、その火を線香に分けた。そして、漸く二人は合掌した。雑木林に隣接する霊園墓地は静かで、梢が擦れ合う音と鳥の鳴き声が時折 響いた。
「来年は、卒塔婆そとばを建てないとな」
 合掌を下げ、目を開くと感慨深そうに周平は呟いた。
「あら、来年でしたか?」
 周平の言葉に透子は訊ねた。周平は頷くと「――七回忌だな」と空を仰いだ。
「……早いものねぇ」
 周平を横目に見やると、透子もポトリと呟いた。その後、二人は無言に近い状態で蝋燭が燃え尽きるのを待った。その間に口にした供物の梨は瑞々しくはあったものの、甘みはなかった。駐車場へと戻った頃には、すっかり服は湿気っており髪も重く感じられた。しかし、空は雲間から地上へと陽光が差し込もうとしていた。
「ちょっと止めて頂戴」
 帰ろうと来た道を戻る途中――丁度、門を少し通り過ぎたところで透子が声をかけた。
「どうした?」
 後続車がいないのを確認して、周平はハザードランプを点灯させ路端に停車した。透子は止まるや否や、いそいそとシートベルトを外し車内から飛び出した。
「珍しいこと――」
 高揚がちに彼女が見たのは、白い彼岸花だった。
「そうだな」
 年甲斐もなく浮かれる透子に、周平は内心 首を傾げつつも苦笑混じりで頷いた。彼女の心情は不可解ではあったものの、頷いたのは珍しさには同意できたからだった。
「私の実家の近くに群生する彼岸花は真っ白でしたのよ」
 視線を落としたまま、透子は懐かしそうに目を細めた。成る程、それでか――その言葉から、周平は突然の透子の行動の奇異さに納得すると、そういえば彼女の実家にはもう随分と挨拶に行っていないことに気づいた。
「今度、旅行にでも行くか――」
 その言葉に、透子は驚いたようにこちらを向き、その後、嬉しそうにはにかんだ。上気した彼女の頬を眺めながら周平は、しかし、彼女の実家へ孝行しに行こうかとは言い出せずにいた。年甲斐のない、伝えられない面映おもはゆさは何処から込み上がってきたのか――周平は、そんなことを考えた。

釘を打つ人

釘を打つ人影が一つ、音を響かせておりました。
釘を打つ人影が一つ、音を響かせておりました。

ベニヤの薄板に黙々と、釘を当て続けておりました。
ベニヤの薄板に黙々と、釘を当て続けておりました。

釘は陽光に乱反射しないので、びているのだと分かります。
釘は陽光に乱反射しないので、錆びているのだと分かります。

ベニヤの薄板がやぶける音は、釘が拡げようと噛みついた音でしょう。
ベニヤの薄板が破ける音は、釘が拡げようと噛みついた音でしょう。

人影は天を仰ぐ素振りをして、空いた板から空の色を確かめました。
人影は天を仰ぐ素振りをして、空いた板から海の色を確かめました。

そこで釘が零れて土へと落ち、人影は手探りもせずにしゃがみました
そこで釘が零れて土へと落ち、人影は手探りもせずにしゃがみました

かがんだ人影が一つ、無音をひし方めかせながら両手を幾度か降りました。
屈んだ人影が一つ、無音を犇めかせながら両手を幾度か降りました。

手にしていた金槌が一つ、人影の足元へと落ちていきました。
手にしていた金槌が一つ、人影の足元へと落ちていきました。



遠くでは畑を耕すくわの音が一降り、また一降りと聞こえました。

去りゆく火

しきみと小菊が飾られた仏壇独特の芳香に感慨もなく

幼い頃に教わった通りにマッチを擦り蝋燭に火を点ける

燐の匂いが鼻につくのを感じながらマッチ棒を空に切れば

棚引く煙が消火したことを知らせ、それをゴミ箱へ放り投げる

思い起こせばこの炎を吹き消してはいけないと大分叱られていた

そんな時期があったことに今更ながらに失笑でも浮かべてみる

何故にそのような些事まで決められているのか無宗教の俺には分からぬが

この矮小な灯火が消える音はうにくたばった魂が灼けつくようではある

初冬の足下

少しの灯火を吹き消して初冬の霊園墓地を眺めた
からすさえも羽ばたかない午前の空気は冷たいが
早朝では音を立てていた霜柱は既に溶けて土に眠っている
還元を繰り返す様を眺めては俺は自身の影に視線を落とした



雑木林は針葉樹ばかりが植えられているため梢は蒼く
かすかに風が震わせる音はか細く忘却へと向かった
営みは何処までの恩讐おんしゅうを分かつのか俺にははなはだ分からぬが
天道虫てんとうむし草履虫ぞうりむしが寄り添って眠り合う木の葉は暖かいのだろう



もっとも自然など顧みない都会のバスに揺られる限り
精々が手桶に汲まれた水が供養ごとに寒暖を往復する
そんなことを感じては吐息の蒸気に安堵するだけなのだ



かがんだが最後、俺は灰白の墓石に無私をたずさえ合掌を捧ぐ
だが薄れた陰影を辿るしか能がない俺は誰ぞ偲ぶこともなく
帰途に見る河川の上で首を傾げる白鳥の藻掻く足下を想像する