ナショナル・ベイビー
冷蔵庫を買い換えたのは一昨年だった。リサイクルショップで売っていた中古の小さな二ドアのそれは、野菜などは満足に入り切らず、スイカに至ってはスーパーでカットされたものでなくては入らない代物だった。
ある日、風邪で寝込んでいた僕の部屋を、彼女が大量の食料と一緒に訪れた。彼女は「どうせ、ろくに食べていないんでしょう?」と顰 めっ面を浮かべると、遠慮なく食料が入ったビニール袋の音を立てながら冷蔵庫のドアを開けた。
「あ、ごめん。三段目には入れないでおいて」
丁度、トイレに行こうと起きていた僕は、まだ熱で怠 い体を引きずりながら台所を見た。彼女は振り向くと「何で?」と訊ねた。
「ん、ちょっとね」
僕は言葉を濁した。濁しながら、彼女のそばへ寄って甘えるように凭 れた。
「ちょっと、重いー」
彼女は鬱陶 しそうに、けれども笑いながら僕の二の腕を何度か叩いた。僕はそれをわざとらしく無視をしながら、開けっ放しの冷蔵庫の中を覗いた。冷蔵庫では、彼がいつものように指をしゃぶりながら丸まっていた。彼は、この冷蔵庫の住人だ。
「腹減った。何か作って?」
彼女のウエストに腕を回しながら、肩に顎 を乗せる。彼女は「分かった、分かったからー!」と追い出すように押し退 けた。それでも、いつもより丁寧な退 け方だったのは、病人への配慮なのかもしれない。彼女は冷蔵庫から梅干し(田舎の母親が送ってきたものだ)となめ茸を取り出すと、そそくさと僕の横を通り過ぎていった。残り少ないなめ茸は風邪が治ったら酒のつまみにしようと思っていたのに……。彼女は僕の事情などお構いなしだ。それでも、誰かが食事を作ってくれるのは嬉しい。一人暮らしでは中々 味わえない贅沢に、僕の頬は人知れずに弛 んだ。
ドアを開けっ放しでいたせいか、冷蔵庫の住人の彼はいつの間にか僕の顔を見ていた。まだ幼い――乳幼児の彼は、小首を傾げながら黒目がちの大きな目で僕を見ている。相変わらず、指はしゃぶったままだ。その指を彼の口から離そうと手をかけると、今度は僕の指をしゃぶりだした。けれども、体温やベタベタとした唾液の感触は感じない。僕は彼女に分からないように、こっそりと笑むと冷蔵庫のドアを閉めた。
***
「――そう言えば、何で三段目に何も入れちゃ駄目なの?」
粥を作ってくれた彼女は、自分の分をレンゲで掬 いながら訊ねた。僕は舌を火傷しそうになりながら粥を頬張りながら言った。
「何もじゃないよ。時間によっては、粉ミルクを上げたりするし」
言いながら、棚においてある粉ミルクと哺乳瓶を指すと、彼女は「粉ミルクー?!」と叫びながら訝 しげに僕を見た。
「何それ? 何かの冗談?」
「いや、マジ」
彼女はますます怪訝 な目つきで僕を睨むと「熱、上がってるんじゃない?」と、僕の額に自身の手を当てた。そうかもしれない。彼女の手は冷たくて気持ちが良かった。けれども、粥の味は少しだけ濃い。僕は笑いながら「そうかも」と頷いた。
彼女が帰宅して暫 くしてから、僕は冷却シートを首の後ろに貼ったまま湯を沸かし始めた。沸騰する前にガスを止め、棚から粉ミルクを取り出す。後は慣れた手つきでミルクを作り、僕は冷蔵庫を開けた。明るくなった庫内で彼は目を覚まし、寝返りを打ち僕を見た。僕が哺乳瓶を握っているのを確認すると、途端に目が輝き出す。
僕は恐らく傍目 には空の三段目に哺乳瓶を置いた。彼は上目遣いで、こちらを窺 うように見る。頭を撫でると、彼はいそいそと哺乳瓶を握り、ミルクを飲み始めた。しかし、ミルクは一向に減る気配が見えない。哺乳瓶も動かない。
彼は満足そうに笑った。手を伸ばし、背中を軽く叩くとゲップをした。僕はまだ中身が詰まっている哺乳瓶を出し、彼に手を振った。満腹になったのか、彼の目は既にふわふわと虚 ろに揺れていた。目尻が波打っている。これからまた眠るのだろう。
勿体ないと思いながら、僕はミルクを流しに捨てた。そして哺乳瓶消毒の準備をする。ふと見ると、ゴムの部分が少し古くなってきているのに気づいた。今度、買ってこないといけない。そういえば、本来なら彼ももう三歳を過ぎるのだ。普通、三歳にもなると離乳食も卒業しているのだろうか? けれども、彼には歯がないに等しい。いつまでも赤ん坊のままだ。それなら、やはり粉ミルクのままで良いのだろうか?
冷蔵庫を買い換えた一昨年、コンセントに差し込んでからずっと彼はここに住んでいる。上から三段目の棚で彼は眠っている。どういった経緯で彼が眠っているのか、僕は知らない。けれども、それで良いのだと思う。哺乳瓶や粉ミルクを買うのは、今でも気恥ずかしい。それでも、三年にもなるとさすがに少しは慣れた。
ある日、風邪で寝込んでいた僕の部屋を、彼女が大量の食料と一緒に訪れた。彼女は「どうせ、ろくに食べていないんでしょう?」と
「あ、ごめん。三段目には入れないでおいて」
丁度、トイレに行こうと起きていた僕は、まだ熱で
「ん、ちょっとね」
僕は言葉を濁した。濁しながら、彼女のそばへ寄って甘えるように
「ちょっと、重いー」
彼女は
「腹減った。何か作って?」
彼女のウエストに腕を回しながら、肩に
ドアを開けっ放しでいたせいか、冷蔵庫の住人の彼はいつの間にか僕の顔を見ていた。まだ幼い――乳幼児の彼は、小首を傾げながら黒目がちの大きな目で僕を見ている。相変わらず、指はしゃぶったままだ。その指を彼の口から離そうと手をかけると、今度は僕の指をしゃぶりだした。けれども、体温やベタベタとした唾液の感触は感じない。僕は彼女に分からないように、こっそりと笑むと冷蔵庫のドアを閉めた。
***
粥を作ってくれた彼女は、自分の分をレンゲで
「何もじゃないよ。時間によっては、粉ミルクを上げたりするし」
言いながら、棚においてある粉ミルクと哺乳瓶を指すと、彼女は「粉ミルクー?!」と叫びながら
「何それ? 何かの冗談?」
「いや、マジ」
彼女はますます
彼女が帰宅して
僕は恐らく
彼は満足そうに笑った。手を伸ばし、背中を軽く叩くとゲップをした。僕はまだ中身が詰まっている哺乳瓶を出し、彼に手を振った。満腹になったのか、彼の目は既にふわふわと
勿体ないと思いながら、僕はミルクを流しに捨てた。そして哺乳瓶消毒の準備をする。ふと見ると、ゴムの部分が少し古くなってきているのに気づいた。今度、買ってこないといけない。そういえば、本来なら彼ももう三歳を過ぎるのだ。普通、三歳にもなると離乳食も卒業しているのだろうか? けれども、彼には歯がないに等しい。いつまでも赤ん坊のままだ。それなら、やはり粉ミルクのままで良いのだろうか?
冷蔵庫を買い換えた一昨年、コンセントに差し込んでからずっと彼はここに住んでいる。上から三段目の棚で彼は眠っている。どういった経緯で彼が眠っているのか、僕は知らない。けれども、それで良いのだと思う。哺乳瓶や粉ミルクを買うのは、今でも気恥ずかしい。それでも、三年にもなるとさすがに少しは慣れた。