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An Ulterior Weblog

更新は全く不定期です。広告は勝手に付き、外す費用も馬鹿らしく、アメーバからも一切頂いておりません(コメント・読者登録もアフィリエイト狙い多く、受けておりません。ご容赦下さい)
Read-only, not set communicative and periodical updating, sorry.

豊洲市場移転計画が揺れている。思うところがあったので書いておく。TVでも建築士が出てきていろいろコメントが出ているがずれた話が多いように思えた。

 

まずニューズを見て驚いたのが青果棟の地下で砕石だけの部分があったこと(もっと驚いたのは都議団が入るときにガス検知をしていなかったと後で知ったとき。人が酸欠で倒れてでもして強アルカリの水で病院送りになった場合、企業なら現場責任者はクビ)。地震のとき、周囲の圧力で内部に土が噴入して来る。作業者がいたら、出入口は塞がり、生埋めになる可能性が高い。

地盤液状化は以前から地震対策関係では指摘されていたし、1995年の阪神淡路大震災から設計・施工が法的にも見直されている。

豊洲の場合、荒川沖の海底のヘドロを浚渫利用した埋立地で地盤がもともととても悪い。3.11では下の土が100箇所以上で噴出している。盛土工事はその後の2012年に本格的に行われている。となれば普通はこの時点で地盤対策をする。

よってコンクリートの通路は地盤対策上と思う。普通の1軒屋でも地盤が悪いところでは10m以上の長い鋼管杭を鉄筋コンクリート基礎直下に450本打込むことも珍しくない。つまり、土は支えにならないので杭が支える。豊洲市場は1軒屋どころではない巨大な重い上物だから支えは大変。魚や設備の重みで鉄筋の床が抜けるのではないかとの指摘があるぐらいだ。超高層ビルに至っては最低地階層床面下は土はほとんどなく杭で埋め尽くされるほどである。豊洲の地下映像では柱が適切な間隔で立っているようだが、地盤支持には柱下に杭を打つだけでは足りない。そのために縦横に鉄筋コンクリートの渡し(道)を作って、その下に杭を何本も打って支えているはずだ。配管工事やメンテナンスの作業用に作った通路という話があるが、それは2次的と思う。これを建築関係者が指摘していないというのは一体どうしたことか?地盤の悪い埋立地なのだから絶対に気づかなければならない。もしかしたら、4.5m下まで空間にしたのは杭だけでは固い地盤に届かないため、さらに下に埋め込むためだったかもしれない。どっちにしても地盤強化はお金がかかる。増額の一部になっているはずだ。例外は残置。前の東京ガスの敷地に建物があって、その基礎杭を流用する場合。新規打込み分と混合しているかもしれないし、特に建築物がなければ新打ち分だけとなる。腐蝕の程度にもよるがアルカリ環境のようなので結構無事かも知れない。

 

また、もう1つ公開された水産仲卸売場棟の地下では底面にコンクリートが打たれている。どうして2つで違うのか?

液状化すると、地下の大きな空間には浮力が働き、上物ごと押し上げるので傾いて被害を受けやすい。その修正には莫大な工事費用が発生する。配管などの被害により火災などの二次災害も懸念される。こういうことを考えると青果棟のようにかかってきた土の圧力をまともに受けないよう砕石にして内部空間に逃がすことで被害を抑制することができる。いわば水産仲卸売場棟はベタ基礎で青果棟は布基礎だと言える。密閉して汚染物質を防ぐことに重心を置くか、液状化による浮沈抑制を重心に置くかの違い。これらが棟によって違うのは棟を設計した業者が違うからだ。業者の違いが液状化対策への思想の違いとなって地下の作り方の相違になっている(棟ごとに違うことから、都側から具体的な構造指定はなかったと思われるが、統一しようとかチェックの1つも都はしないのか?)。他の棟の基礎空間がどっちか、また別のものなのかはわからない。

 

豊洲の計画はJVが請けている。しかも、そのJVが予算の99.9%で落札しているという。談合は明白(今までこれをスクープしなかったマスコミは無能過ぎ)。受注後、あなたはこっち、わたしはあっちと分担して行われ、それぞれの設計思想で行われたのだろう。巨大プロジェクトで複数の業者が入っている場合、よくあることだし、今回は東京五輪が途中で決まり、豊洲の完成が開催に影響することから、スピードが求められて、バラバラで勝手に進めて指摘した問題を無視してきた結果と思う。ただ、高さだけは4.5mと一致しているのは空間を作れという都側からの要請があったと思われる。また、JVには今回の汚染土壌対策のことは知らされていなかった可能性もある(それでも施工側として良心があるなら、確認してどう対処するか考えることをすべきだ。利益が少ないからかいかにもお役所仕事への典型的対応に思う)。

 

では、どうあるべきだったのか?

これほど大きい建物の基礎の場合、一度にコンクリートを打つということは不可能。大抵はプレキャストと呼ばれる規格寸法の鉄筋入りコンクリートブロックのようなものの間をコンクリートで成型して繋げていく。その関係で繋ぎ目の部分から水が染み込む。これはどうしようもない。水圧がかかるところでは避けられない。それを防ぐために止水板などいろいろな手が打たれるがこれも設計者の思想によって選択される(こんな感じであれほど大きな面積の建物では盛土よりコンクリート施工は手間がかかりお金もかかる。盛土の方が安いはずだ)。地下水は恐ろしいもので雨や潮位で水位が簡単に上下する。水を防ぎ切る方法は大規模建物ではまず存在しない。どこまで低減できるかだけだ(なので個人宅で鉄筋造りは避けた方がよい)。盛土をしても地下水の上下から結局汚染物質は沁み上がってくる。だから、地下空間は無くし、配管など含め1mぐらいの空間に押し込んで地下底面をできるだけ上部の盛土の2m範囲に収まるようにベタ基礎にすることである。つまり、基礎下は下層盛土2m+上層盛土0.5mとする。これなら地下水は沁みることはあっても貯まることはない。あとは杭の最適な配置によって、液状化で傾きが極力出ないようにするしかない。

 

都としては五輪決定で時間の関係もあり、素早く動かなければならない。そうなると、都議会もスムーズに承諾を得ないといけない。主導的な自民、特に実力者内田茂に相談したはずだし、それぞれの企業のやり方を内田が都議会の中で承認に持ち込んで、バラバラであろうとなんだろうと、詳細を言わずに封印してすり抜けて来たということだろうと思う。全体の計画を監理精査する人間は誰一人いないのだろう。こんな巨大プロジェクトで監理責任者がはっきりしないという信じられない状況が続いていることが豊洲問題の原因だ。これは日本で特に顕著なある意味文化的な原因でもある。東京に限った話ではない。

都議の中には役人批判をしている人がいるが、認可責任は都議全員にもある。何を寝ぼけているのか。国家予算並みのお金を適切に動かすよう頭を働かさなければならないのに高給を貰いながら何もしない優雅な職業とよく言われるのが都議会議員である。舛添の追求も最初はせずにいて、リオ五輪に必要もないのに視察と称して旅行に行こうとした連中である。まともな仕事を期待する人はよほどお人好しだろう。

今回とリオ五輪の宣伝について言えば、小池知事を得たことは東京都民にとって幸いだったと言える。

 

 

戦犯はどうやら石原慎太郎前都知事のようだ(まあ、専門家会議や技術会議の意見を反故にできるのはこの人ぐらいだろうし、都庁に3日しか出てこない都政を舐めた愚かな作家だから十分やりかねない。何より批判を避ける役人が専門家のお墨付きを無視する危険など冒すわけがない)。小池知事がこの問題を把握したのはかなり早い段階だっただろう。対立する都議会は相手にせず、都庁役人との共同戦線を持ち、すでに石原と把握していたがそれには敢えて言及せず、世論の高まりの様子を見て、徐々に石原を炙り出すように周りを固めてきたのだろう。都知事選のときの石原親子の行動に対する意趣返しも含まれているかもしれない。これだけは何としてもやり遂げるだろう。

 

※※

床面の水の成分が議論になっている。コンクリートを通った雨水、いや土壌の成分が溶け込んだ地下水だと。地下水でなければなぜ、2つの棟で水嵩が10倍も違うのか。雨水が別の建物の10倍も貯まるのであれば欠陥施工以外の何物でもない。よくこんなことを言えるものだと呆れるし、大体、できてそれほど経っていないあの巨大な面積の建物で1cm以上も雨水が貯まること自体どうかしている。そんな物件は見たことがない。地下水が圧倒的なのは間違いない。それほど地下水の圧力は侮れないし、コンクリートは完璧ではない。疑問に思うのはどれほど防水処理をしてるのかだ。移転前にこれでは移転して10年、20年、一体どうなることやら。塩分は無く強アルカリということで言えば、コンクリートや鉄筋(D32か?)にとってはよいことではあるのだが。。。

 

※※※

移転白紙撤回を見込んで受け取りを考えている企業が出てきているそうだが、では市場はどうしたらいいのか。候補地であった晴海か、築地再開発か。晴海は土地が高いかつ狭くなる。築地再開発は古いので壊すときに耐火用のアスベストや死の灰の第5福竜丸の投棄物(現時点で問題になるレベルかは知らないが、風評被害は出るだろう)などの懸念が残る。それに、都民の血税がさらに増大することは確実だ。豊洲は問題がこう大きく話題になったが、他にすれば問題がなかったかと言うとどっちにしても何がしか起こっただろうと思う。ただ、豊洲がここまで話題になってしまうと、世界的に日本の食品に対する風評被害が発生する。事は東京にとどまらず、日本全体に及ぶことを忘れてはいけない。技術的に明確な結論を無視するとこういう取り返しがつかないことになる。事務役人や政治家は心すべし。

 

※※※※

コンクリートでほとんどを埋め尽くすのは無理である。依然この意見がずいぶんあるようだが、やるとすると地下水が来ないよう2.5m以上分を埋めることになるが、これだけ注ぎ込んだら下の杭が地震に耐えられなくなる可能性がある。コンクリートだけだとヒビが入りやすいから鉄筋も適当に配置するとなおさら。ヒビができれば地下水が毛細管現象で沁み上がる。なのでむしろ2.5mあたりに鉄筋コンクリートの仕切り床を新たに設ける方が却って上がってこない。それでもこの増えた床分の重量が問題ないかどうかの検討は要る。仮にこれがよくても、風評被害は封殺できないから、どのみち豊洲は放棄するしか手がないだろう。

 

誰も指摘しない謎を1つ。豊洲の土地を手にして東京ガスが土壌改良を行った。当初ベンゼンは基準値の1000倍程度であった。ところが改良後に受け取ったあるときの検査で43000倍が出ている。どういう測定を行ったのか?揮発性のベンゼンでこれだけのものが検知され、そこらじゅうに漂っていたら、測定する人間は体調激変してもおかしくないはずだが。。。しかも、今回は地下水で全く検出されていない。揮発によって簡単に抜けるレベルとはとても思えない。43000倍という測定は正しかったのかどうか。専門家会議の米国製ソフトによるシミュレーションのデータ設定は妥当だったのか(盛土で安全との結論はこれに全て依っている)。豊洲住民も集団訴訟を起こしているらしいので、本当に豊洲の土壌は危険なものなのかどうか、もう一度、敷地のどこかで盛土より下の地面を測定すべきと思う。(私が担当者ならやる。測定をこの目で確かめるし、測定方法が妥当かどうかまで検討する)

この夏、自立式ハンモックを使用し始めた。商品はこれ。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01ANJAICC/

大変使いやすく機動性が高い。縦に広げるパターンが3種類あり、幅に広げる方もかなり自由にできる。場所に多少合わせて設置できる。専用の収納袋があり、納めるのは網も含めて簡単だ。ただ、女性が扱うには骨組だけで10キロほどの感じで軽くない(立派なものはさらに重い)。子供用であれば、もう1回り小さいのがあり、軽量だ。


実は家を建てる段階で外にハンモックのための場所を確保しかけていた。結果的にやめた。あまり柱に変なものを付けない方がいいだろうという結論になった。それに、虫がよってくる問題があるので、あまり庭の傍は快適ではないだろうとのこともあった。

こうしてすっかり忘れたハンモックだったが、あるとき自立式のサンプルが展示されていたので試しに載ってみた。思いのほか快適なのと、これまで寛ぐと言っても夏もソファーで暑くてしかたがなかった。空気が流れる上面はいいが、下面は布地が暑くてたまらない。それで通気のいいメッシュ構造のハンモックがほしいと思い、買った。


涼しい。これに尽きる。さらにベッドや布団より腰への負担が少ない。買ったハンモックは足の方を高め・低めと、フルフラット状態、弓状態の4種類の体位を取ることができる。足がむくんでいるなら足を高くとか、気持ちよく寝たいならフルフラットとかにしたりして都度、すぐに変えられるので大変便利だ。この商品は少し大き目ではあるが、一般男性にはこの大きさがほしいところ。さらに網の取り外しや折りたたみが簡単なので、バルコニーに出して寛ぐこともできる。2Fとか3Fのバルコニーであれば、虫に悩まされる割合は減る。風もあるのでとてもいい気分になれるが、夏はちょっと暑くて大変だ。夜はさすがに蚊が来る。


問題は大きさ。縦3m×横1mぐらいの場所が要る。これだけのものを平気で置ける家はもともとそれなりの生活をしている家族では難しいかもしれない。場所の確保が一番大変だろうと思う。

逆に、あまり使わない家具などを処分してスペースを確保して、優雅な気分と快適性を手に入れてみてはどうだろうか。まずは、どこかの展示品で試してみてほしい。小さなお子さんがいればまず間違いなく、占領されることだろう。

残念なのは、本を読むのにはあまり向かない点だ。もう少し上体が起きないと首が楽にならない。また、寝返りはうちにくい。


ハンモックでも布に近いものがあるので、それだと通気性が悪い。あまり涼しくない。選ぶときによく使い方を考えてほしい。

この商品は最近出たばかりで、まだ十分使いこなしていないが、秋冬は積雪が少なく陽射しがあればバルコニーで活躍するのではないかと楽しみにしている。この通気性の良さで家族との暑さへの感覚の違いが解消されている。電気代も抑えることができるかもしれない。

やっと、リオ五輪が終わった。多くの人は寝不足の二週間だっただろう。私は仕事が忙しいので朝が早いが夏の五輪はカヌーのスラロームと競歩50キロぐらいにしか興味がないのと(どちらも初のメダル獲得で注目を受けたのだけは喜ばしい)、もともとIOCのセレブたちを喜ばすために大国の首脳たちまで手玉にとっている五輪が嫌いなので(スポーツの実力者はそれぞれの協会での世界ランキングが本物で、4年のたった1日で決まるものを是としない)、ほとんど見ていない。結果をニュースで知っているだけで、これは冬の五輪についてもほぼ同じだ。


リオの閉会式は退屈だったのを東京への引継ぎ式で日本側のプレゼンテーションが予想もしなかったものであり、大変に素晴らしいと高評価に変えた。ただ、安倍首相は大雨とは言え、あの仏頂面で動きも少ないのはちょっとどうかと思う。せめて背面の観客にも配慮して後ろを向くぐらいすべきだっただろう。


さて、4年後の日本の五輪だが、ずばり、「AKIRA」(どこかの少々オツムの足りない元アルペンレーサーではない。アニメの方)が部分的に使われるはずだ。2020を想定し、もともと開催決定でもその偶然性として話題になった。世界的にも有名なアニメ映画でアニメにおける「ブレードランナー」的存在だ。五輪開発を受けて「ネオ東京」を印象づけることもできるだろう。アニメに関してはさすがに日本はかなりのリードを保っている。世界の人々が今回のプレゼンテーションで期待をするだろう。AR技術もさらに進み現実と区別がつかないぐらいになっているかもしれない。本番で誰が金田となって、あの特殊なバイクで会場に現れるのか楽しみだ。(それも安倍首相だったら驚きだが)



個人的には「強力わかもと」でも有名な「ブレードランナー」を加味してほしい気がするが、あれは2019年で違う街、ロスの話なので難しいか。


※※

アニメはたぶん、本番でも使われるだろう。それ以外で、人が実際にやるものとして日本に独特なものに日体大の集団行動がある。セレモニー向きなので、何らかの形で導入されると推察している。今回のプレゼンテーションでは青森大学の新体操部が対応していたから、十分にあり得る。号令の代りに音楽に合わせてやれば芸術的に見えるはずだ。


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一体、いつから五輪旗引継ぎ式でこんな盛大にやるようになったのだろうと思って調べてみた。どうも明確に派手にやったのは2004年アテネ大会での中国だった。以後、今回まで続いている。冬の方は2006年アテネのすぐ後のトリノ大会では何もなく、2010年バンクーバー大会でのロシアからになる。夏も冬も旧共産圏大国から始まったのが何ともという気がする。どちらも国威発揚なのは明確であり、その後の政治的な動きはドーピング問題含め全く五輪に反したものとなっている。


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開会式の「君が代」は野々村彩乃さん以外考えたことがない。

https://www.youtube.com/watch?v=c8p0H0cwLkQ

アニメファンではないが、今世紀に入って見たものに「けいおん!」がある。きっかけは全く別のものからだった。米国のヘヴィメタルバンド、メガデスの元ギタリスト マーティ・フリードマンが「けいおん!」に出てきた曲と演奏について論評したものを読んだ。彼は「カレーのちライス」という曲の歌詞に感嘆したのだった。ヘヴィメタルの歌に食べ物が出てくるなんて英米では絶対考えられない。食文化が深い日本だからだろうと評している。番組の中ではどの曲もフルコーラスは一切なく、全部を聴きたい場合はCDを別に買う必要がある(私は持っていない。また映画も観ていない)。

 

「けいおん!」は最初4人、後に1人加わり、5人のバンドメンバーを対象として話が展開される。ほかの人はほんとに出番が少ない。多いのは主人公の妹ぐらい。意外にもオリジナルメンバー4人より、後で入ってきた後輩の中野梓がファンの間では一番人気らしい。

このアニメの魅力は何かと訊かれると大変に困る。歌は変な歌詞だし(ほかに「ごはんはおかず」とかいう曲がある)、日常的なようで日常的ではないし。個人的には個々の友人関係としてのやりとりの中のギャグだ。各キャラクターが結構、個性が明確で、考えれば常識的にはいなさそうなのだが、実在するかのような感じがある。それが若い人に疑似的友人あるいはもっと強い偶像として映るのだろうと思う。

 

 

さて話変わって、ノーベル文学賞の話。すでに他界しているが、その候補に挙がり、受賞に近かった作家として安部公房が居る。安部は本妻の元を離れ長いこと愛人と暮らしていた。「安部公房スタジオ」という劇団の団員だった山口果林。今はかなりの年齢になっているから若い人は知らないだろうが、70年代から90年代前半に活躍していた女優さんだ。ただし、舞台劇への思い入れが強かったらしく、TVよりもそっちの活動を大事にしていたらしい。世間的には、NHKの朝のドラマのヒロイン役で出たことで知れ渡ったと思うが、それを見ていた年代の人を除けば、それほど印象強くは残っていないと思う。

その彼女が2013年、安部死去から20年経って『安部公房とわたし』という本を突如上梓した。彼女はこれまで書籍は出していない。ほとんど愛人前提の生活の様子を書いているだけで(つまり、自分側の見てきたもののみ)、安部公房の内面や実像に切り込むようなものとは言えない。安部公房を偉大なる作家と捉え、よく知りたいと思う人は読む必要は全く無い。

 

私が山口果林を明確に認識したときにはすでにそれなりの年齢だった。たぶん30前後。歳はずっと上だったが、何かちょっと魅かれるものがあった。まず、アイドルとは全然違っていたし、また、人間的に薄っぺらそうな女優という感じがしなかった。声が低かったせいかもしれない。ファンではないし、注目はしなかったが、一目おいていた、と言ったらいいだろうか。

その山口が出した本に同棲し始めた頃の写真がある。ほかのところに挙がっていた。

http://blogs.yahoo.co.jp/mhkamenao1959/GALLERY/show_image.html?id=9577695&no=2

本のこの写真を見たとき、「けいおん!」のメンバーの1人、秋山澪をすぐに思い出した。コアなファンは「けいおん!」の実写化にものすごい抵抗感があるらしいので、彼らは認めないだろうし、違うと非難されるのは間違いないと思うが、言論の自由で言わしてもらえば、かなり似ていると思った。

 

しかし、感慨深く思ったのは両者が似ていることではない。この写真の山口はおそらく20歳以下と思われる。そして、「けいおん!」が発表されたのが2007年。約40年の開きがある。作者かきふらいの生年月日は不明だから正確なことはわからないが、山口の若い頃など知らないはずだし、活躍していた時期に観ていたかどうかわからない。しかし、仮に観ていたとしてももう山口は姫カットではなかったので、秋山澪のモデルとして採用したとは到底思えない。また、かきふらいが安部の作品から少なくともキャラクターのヒントを得ていたとも思えない。この40年ほど開きのある実在の人物とアニメのキャラクターの類似性(山口は姐御的雰囲気)に驚いた。40年経っても似たような存在が何がしかの注目を受けているという事実に。ただし、実像から2次元の虚像に移ったのは大きな違いではある。

 

おそらく、こんなつまらないことに気が付いた人間はいないだろう。両者のファンにとってはどうでもいいこと、あるいは互いに認め合いたくないことかもしれない。まして、ほかの人にとってはまさしくどうでもいいことなのはたしかだ。

 

 

安部は高校時代に高木貞治『解析概論』を愛読していたという。数学がかなりできて、東京帝大医学部に進学している。また、ハイデッガーなどの哲学からも強く影響を受けていた。彼の有名な作品『壁 S・カルマ氏の犯罪』はそういう背景があって独特なのだろうと思った。高校生のときに読んだが(いくつか挙げられた作品の中から読めという宿題だったと思うが)、非常に異色で読んでてまるで数学の抽象空間に居る感覚を文章にしたような感じを受けたことだけは覚えている(人によっては幽体離脱と感じるかもしれない)。心象風景的な挿し絵も独特だった。こういった文学作家らしくない背景を持っていることが彼の文学の特徴なのだろうと思う。ただ、あまりに現実離れしているので、こんなんで作家として成立し続けられるのだろうかと思った。

高校生だったからか精神的に不安定にさせられるような感じがして、こんなのばかりだと堪らないなと以後、安部を読むのは止めたままだ。今は文学という世界そのものの中身のなさに読む気が無くなったままだ。

一昨日、相模原の障害者施設の事件が発生し、日本のみならず、世界にその衝撃が走っている。その波紋の大きさは日本人の方が案外知らないようだ。それは日本人がどちらかと言えば人権に対して鈍感で、海外、特に欧米では弱い立場にある人こそを守る意識が強いからと思われる。

精神病理的な問題もありそうだが、薬物使用による可能性もあり、何が主要因かは時間を要するだろう。


そんなさなかの昨日、田舎の古い住宅街の我が家の地域でナイフを持った不審者がうろついているという情報がご近所から伝達され、緊急メールが妻から届いた。その後、具体的な情報は得られてはいない。不審者が出現したところの近くに100mもすれば交番がある。市に登録している連絡メール網からは1通もなかった。火災が1件あっただけだった。一体、その後どうなったかは全く不明である。


家族には注意点を伝えた。帰宅前に連絡をすること、人が居るもしくは明るい道路を通ること、家はできるだけ人が居るのか居ないのかわからないようにすること、戸締りをすること、携帯を常に身につけておくことなどである。


我が家は設計の段階で防犯についてはかなり盛り込んでいる。普通の人は全く気がつかないことだが、いざ、侵入を試みようと思うとどこから入れるのかと思えるような仕組みにしている(家を建てる方は特に考慮してほしい。一度空き巣に入られた家は奥さんは怖くて1人で留守番などできるものではない。手放すことになったりする)。

自分が設計していた頃は、玄関からの侵入が一番だったが、現在は窓で、大学時代の友人の家もやられている。あまり手の内を明かすことはできないが、嵌め殺し窓が多い。つまり、侵入可能な窓の数を極少にしている(しかし、開けられないことで戸建、アパート、事務所の施主は嫌うことが多い)。妻にも我慢してもらって、よく狙われやすいと言われる勝手口も無くしている。どうしても死角になってしまう場所だったので、決定的弱点となり、大変危険と判断して思い切って無くしたのだ(これにより、間取り把握もされにくくしている)。最初は不満そうだったが、不便さは思ったほどではないことと、ご近所に空き巣が実際にあったので、今は全く不満は出てない。

ほかに人感センサーで点灯する外灯を家の周りの何か所かに配置もしている。当初は監視カメラを設置して(撮影はしない)、893系の家を思わせて退けるという考えもあったが(さすがに有刺鉄線は考えなかった)、それではご近所も近づかなくなるだろうということで止めている。

あと、プライバシーとの関係があるので難しいが、できるだけ塀は低くし、庭は開放的にして、周囲から見えるようにすると侵入を困難にできる。


それにしても住みにくい世の中になった。ポケモンGOでうろつかれるぐらいはまだましか?



防犯対策で家にいるかいないかわからないようにする、という意味がわからない人がいるかも知れない。通常は人がいると明確に思わせる方がよいと教えられていると思う。我が家は違う。空き巣のプロとなるとターゲットを決めてしばらくその生活パターンを調べるのが常である。つまり、いる、いない、のパターンをはっきり示してしまうのはまずいことになる。彼らもリスクを冒したくない。だから事前に調べるわけだ。そのリスクを下げないようにしてやればよい。彼らに二の足を踏まさせればこっちの勝ちだ。

昨日の朝早い犬の散歩までは見かけなかったが、夕方の散歩では高校生らしい男子1名、20代前半の男子2名(ペアで行動していた)、自転車で30過ぎの男子1名を見かけた。

やめてもらいたいものだ。周囲を全然気にしている様子なく、迷惑であり危険。こっちにこそ歩いて来なかったが、人とぶつかったり、車にはねられる可能性はかなり高い。

こっちは犬の相手をしたり、車の通りを気にしていたので、もっと実際はいたかもしれないがはっきりわかったのはこれらの4人。夏で暑いし、犬も私と同じ北国仕様なので30分ほどで切り上げたのだが、人や車の少ないところを選んで歩いていてこれだった。自転車以外の3人に遭遇したときは周囲にほかに人気らしきものは一切なかったほどである。


田舎の古い住宅地で、ときどき新築はされるものの、子供を除けばほとんど若者がいない。その中に突然のように見知らぬ若者がスマホだけを見てうろちょろして、立ち止ったかと思えば、指を自分の前に何度もはじく様子は異様としか言いようがない。

すでに米国でもいろいろ問題が出ているが、いい面があることも報告されてはいる。それでも、この異様さはちょっとと思う。私はパチンコはもちろんいわゆるゲームには全く興味がないので、なおさらそう感じる。もっとも、これでパチンコが衰退するならある意味朗報だが。


ミュンヘンの少年による大量殺人では、わざわざSNSでマクドナルドにデマのキャンペーンで人が集まるようにしてから決行している。もし、常軌を逸した人物なりテロリストが効果を上げるなら今はポケモンGOだろう。どこどこに行けば、たくさん捕獲できると。


今月14日の革命記念日にニースのテロで大量の死傷者を出したフランス。はたしてシャンゼリゼ通りで最終日を迎えたツール・ド・フランスが無事に終わるのかと懸念されたが、何事も無く終了した。開催に対応するとパリ市警が公式発表したのが前日だった。それを受けて主催者のASOがパリでの最終ステージを決めた。日本だったら、何かが起きたときの責任回避で中止し、もっと治安を確保しやすい代替地でやるだろう。こういう断固とした態度は今、日本の社会にはないように思われる。



南米ではすでに死者が出ている。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160722/k10010604341000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_006

日本では銃撃は無いが喧嘩沙汰は多発するだろう。

一方で、紛争地域でも。

http://www.newsweekjapan.jp/hosaka/2016/07/go.php

ISほか過激派組織もポケモンに熱中してテロを忘れてしまえば世界平和にとってこれほど効果の大きいものはないかもしれない。テロに利用される前にテロリストもはめさせるゲームになるか。

母親が昨年、急逝し、その一周忌もすでに済ましている。一周忌は親戚だけの予定だったが、昨年、葬儀の時に来ることができなかったという、兄弟の友人が1人特別参加ということになった。私はその人とは大学で家にいなかったので面識が全くなく、初めてお会いしたのだが、その理由も知って、改めて母親の大らかさの一面を知った。その人の家族はうまくいっておらず、年末年始を自宅ではなく、我が実家で過ごし、その恩を忘れることができなかったというのだった。現在は看護師をしており、そのため、急逝した母の葬儀に出ることができなかったという。


納骨もすでに済ましている。

納骨先もいろいろネットで調べたり、ほかの人に話を聴いたりして検討して、最終的に合葬することになった。地元にも近くにも親戚はいないし、残った兄弟も全国に異動も含めて散らばっている。いまの場所も固定ではない。子孫がいても、こう遠くにそれぞれ散っている状況で、田舎の墓の面倒など見切れるものでもない。それで、思い切って、墓を持つことをやめ、合葬にした。地元から車で1時間半ほどのところにある霊園の中だ。四十九日の挨拶状のときにその旨を伝えてあったが、それに対する親戚からの反対意見は一切なかった。

納骨は父と兄弟と遺族全員が何とかそろったある時点で実施した。晴れの中、それぞれが骨壷から骨を少しずつ墓の中に注いだ。下にはすでに多くのお骨が山となっていて、その頂点に母の骨が落ちて行った。普通のお墓も土に還すために骨壷から出して土中に埋めるが、こっちはその空間が遥かに大きく、第三者からはまるでゴミ捨て場に注いでいるように見えたかもしれない(実際、法的にはお骨は産業廃棄物である。そのため火葬許可書もしくは証明書も必要になっている)。今後、このお墓にはどれほどの人数のお骨が収まるのだろうか。。。


合葬ではあるが、母の銘板があり、そこに眠っていることがわかる。命日のお経はないが、お盆やお彼岸のときには霊園のお坊さんからお経を頂ける。遺族は今後一切何もせずに済まそうと思えば可能だ。

骨を納めたあと、焼香し、蝋燭を点け、花を手向けた。我々の前後にも墓参りに来られた方々がいらした。


天気がよかったので、高台のその場所からは遠く見渡すことができた。野山が綺麗で、父もここに一緒に入れてほしいと望んで選んだ場所だった。

納骨後、最初に墓を訪問したのは父だった。母に向かって何を話しかけたのかはわからない。



少子高齢化で一周忌どころか葬儀をすること自体、金銭的にも無理となるだろう。収入が伸びない若者に複数の高齢者の葬儀がのしかかってくれば、葬儀自体あきらめるということになり、病院から直送で火葬場に送り、産業廃棄物処理に回される、という事例はすでに多数出始めているし、今後はそれが当たり前になっていく時代と思われる。

GWに入る1週間前、別の部署で大きな問題が発生した。注文した北欧メーカーの装置が壊れるというトラブルだった。現地工場での試験中のことだった。

その対応に引っ張り出された。専門家としての分析を依頼され、メールで資料を貰い、検討した。技術的な問題があることを指摘し、元々無理ではないかと意見した。

それから1カ月を超えたが予測どおり、手直しなどずいぶん行ったがいまだに動かない。再設計に至っている。


GWに入って、いきなり、web会議となった。現地と事業所と私の自宅の3元中継。16時から23時まで続いた。その後、上司から資料作成を3度、つまり3日3晩ほぼ徹夜で過ごして関係者にメールした。その後、風邪のような症状となり、ダウンした。病院を変えても薬が効かず、GWが明けても休み、今も引きずっている。

しかし、自宅から北欧の会社の会議室と繋いで会議ができるというのは自分が若い頃には想像もできなかったことで、やりながら驚いた。ただし、音声や画像の質は今一つで、これもいずれはリアルなものに変わるのだろうと思いながら。


ダウンして寝込んでいたとき、ただ横になっているのがばかばかしく、20年以上前に買ったが、難しくて手が出なかったダシール・ハメット長編集を引っ張り出し、The Maltese Falcon の序盤だけ読んでみた。やはり難しい。状況説明の文がほとんど無く、会話から展開を察知しなければならないという様式を取っているとは思いもしなかった。翻訳書は読んだことはなかった。1941年のハンフリー・ボガートの映画はDVDを買ってだいぶ以前に一度見ただけだった。久しぶりに見てみた。面白い。75年も前の映画が今見ても面白いというのは驚異としか言いようがない。当時は映画は娯楽の王様だったから、信じられない人気だったに違いない。


『マルタの鷹』と言えば、翻訳者の小鷹信光。日本のハードボイルド分野の第一人者だった(昨年末他界)。小鷹が翻訳したのは1980年代だったが、実は改訳して再出版していることを知った。原文を読んだあとに初めて翻訳を読んでみた。小鷹の実力と人気は自他ともに認めるものだが、感想は何かズレを感じた。はたして、それが日本語としての限界由来だけかどうかはわからなかった。

面白いことに「あとがき」に、改訳に至った経緯の記載があり、初訳のときは自信を持ってこれ以上はできないと思ったが、研究社のweb版雑誌『英語青年』で東大准教授の諏訪部浩一連載の『マルタの鷹』講義を知ることとなり、その受講者となって、針の筵の上で見直すことを決意したというのである。

残念ながら、初訳は手元に無い。もし、入手した場合にはどう違うか少し読んでみようと思っている。


とにもかくにも、あの小鷹の手による改訳でも原書の雰囲気そのものとは言い難かった。英語と日本語はかくも違う世界かとしばし溜息。小鷹にしてこれなら、ほかの翻訳は推して知るべしだろうと(ミステリー分野で言えば名人と言われた稲葉明雄がいる。この人は本当にうまかったが、ちょっと別格なので基準にはしにくい)。ということは通訳とか英語学者とかどれほど英語と日本語を近づけて操ることができる人がいるのだろうかと思った。

翻訳の難しさを知るなら、受験界でも有名な中原道喜の誤訳シリーズなどがあるが、誤訳を世間に知らしめたのは別宮貞徳だろう。そういったものをみると、いかに基本が大事で、かつ英語と日本語との関係をどうとらえているかが重要だとわかる。両者は自転車の両輪みたいなもので、どっちが欠けても支障をきたす。


3日前、伊藤英語は無くすべきだと書いた。伊藤は基本の、それもかなり特殊で、一般の受験生が特に身につけるべきではないものまで要求する。しかも2言語間の関係性は扱っていない。受験で効率が要求される中で、ずいぶん偏った対応になる。多田正行はそれらをバランスして著書にまとめることができている。なぜ、伊藤がこうも広がったのかは、やはり、駿台予備校という東大京大経由で官僚や大企業の人たちに布教できたことが大きい。多田はオリオン社という添削会社でZ会に次ぐ2番手で大きな市場に直接関与することができなかった。そのわずかな差がこれだけ大きな差を生んだと思われる。その市場というのを見込んでいたのか、伊藤は駿台予備校ですでに講師となっていた奥井潔にお願いして移籍に成功している。

また、多田の著作は難しい。多くの受験生は跳ね返される。そういったことも伊藤英語の普及が進んだ背景となるのだろう。


多田に代り得る指導者はいなかったのか?いたことはいたが、伊藤以前はとにかく山貞だった。山貞は内容が古く、さすがに使われない表現が多くなっていたこともあり、受験には対応し切れなくなっていた。『解釈教室』が出た後にもう1度改訂しているが、本編は基本的に変わっていないので、盛り返すことはできなかった。伊藤が敵として目標にしていた山貞はこうして駆逐された。

しかし、今は復刊により、一番山貞らしいと思われる版が出ている。この状況を見て伊藤はどう思うだろうか?自分が葬り去ったはずの山貞がそれもより古い版が自分の死後に復活しているという事実に。葬り去られたのはむしろ自分なのでは?と思うのではなかろうか。


この事実は重要だ。書店の受験コーナーには予備校講師の最新書が次々に出ては消えしている。実効性、効率性、インパクト性を備えていないと生き残れない受験参考書の大変さの中で、なぜに一度は葬り去られた山貞が生き返ったのか。しかも、主としてかなり昔の受験者による購入が多いように思える一方で現役受験生で手を出す人もいる。

これは、伊藤含めてお手軽というか効率主義的な英語習得に嫌気がさしてきた人が増えているのではないかと私は睨んでいる。たしかに予備校のはわかりやすくて力がついたように思えるが(伊藤英語はとても易しいとは言えないが)、実際の英文に接すると結局、太刀打ちできないことへの反動として、ちゃんと地に足がついて理解するための日本語と英語の関係性を獲得したいという希求の結果ではないかと思っている。『解釈教室』だろうが『ビジュアル』だろうが、本気で取り組もうというやり直し学習者には響かないのではなかろうか。英語理解における伊藤英語の抽象性は奇異なだけで実力を与えてくれるものではないと見透かされてきたのではないかと考えている。

ほかにも絶版から復刊しているものがいくつかある。ただ、とにかく書籍を買わない風潮が続いているので、これらもいつまで持つかという不安は消えないが。


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棚の奥にずっと静かに置かれ続けていたダシール・ハメットの長編集にやっと手を伸ばしたら、自分の実力の将来が透けて見えてしまったことや受験英語の問題、そして本当の英語の問題とが自分の中ではいろいろ明確になった不思議な期間を過ごした。風邪でダウンしたことがこんな結果に結び付くとは思いもしなかった。

新しい家で風邪でダウンしたのは初めてだ。高気密で家族にもうつしてしまい、とんでもない目にあった。そうした中で得たものだが、だからといってダウンして失われた健康時間の代償としてはたして十分かと言われるとノーだ。高気密住宅の方は注意されたい。


原作には無いが、映画の『マルタの鷹』では最後にボガートの部屋にあったニセモノとわかった鷹の像を刑事が持ち出そうとして、あまりの重さに、何で出来てる?とボガートに尋ねる。ボガートは言う。

https://www.youtube.com/watch?v=hp7130Bjec4


"The stuff that dreams are made of."(夢と消えた黄金さ)


伊藤英語を指しているように思えた。



ボガートのセリフは複数の意味が重ねられていて、どういう訳がいいのか難しい。元々はシェイクスピアの『テンペスト』(嵐)にあった次の表現をもじったようだ。

The stuff that dreams are made on..(夢が作りだされる材料)

stuff は動詞では食用の鳥に詰め物をする、剥製にするという意味がある。いざこざの種は彫像の鷹なのでそれに絡めている。名詞としては下らない品物とかガラクタの意味があるが、the が付くとお金の意になる。したがって、夢を成す黄金という意味にもなるが、本来黄金であるはずだった鷹がガラクタだったことを含んでいる。ここでは"the stuff"以上に適した言葉はない。脚本の勝利。そのせいか、このセリフは映画のセリフとして今もって人気上位にある。これらを考慮して上記のようにした。

カーリー・サイモンは歌にまでしている。

https://www.youtube.com/watch?v=T-FOedJswHY

現在の受験生はもちろんのこと、社会人で受験勉強なり大学なりで英語を勉強した人々で 伊藤和夫の名を聞いたこともないということはないと思う。受験数学では『大学への数学』が出てくるがごときに伊藤の著書群は必ずと言っていいほど出てくる。しかも、英語だからほぼ全大学、全学部に及ぶ。数学の比ではない。

 

私も彼の著作をやった。しかし、それは社会人になってからで、しかも、英語学習のやり直しの過程でだ。

大まかに英語学習の流れを言えば、普通に中学、高校と英語をやっていたが、伊藤和夫の著作はあったものの、やったのは『英文法頻出問題演習』だけで、『英文解釈教室』や『英文法教室』など一切やらなかった。まず、パッとみてわけがわからなかったのでやる気が出なかったし、本当にこれで英文がわかるのか疑問だった。

大学に入って英英辞典なども使ったりしたが、使いこなせてはいなかった。そのうち専門や大学院で忙しくなり、それまでとなった。

 

就職して英語の試験が定期的にあった。英会話中心。全然しゃべることができない。そのうち、TOEICが導入されるが、できないのは当然だった。スピードに戸惑った。ラジオ講座などの比ではなかった。

会話はもう相手付きでやるしかないと、会社が導入している研修に何度も出たが、徐々に頭打ちで上がる見込みがなくなった。何より、いくら英会話でパターン学習して会話が続くようになっても、一向に英字新聞とか論説がまともに読めない。

それでTOEICを捨てた。大体、真っ当な論説といった深い内容の英文が出題されないから、読めないのは当り前。

 

会話なんか海外事業所のある我が社でさえ、使う機会はほとんどなく、むしろ英文記事とか論文とかが重要だったので、読めることを目標に大学受験時代に軸足を180度戻した。そこで中心的に登場したのが伊藤和夫だ。

『英文法教室』に始まり、3部作を消化。そこから、英文が少し読めるようになり、TOEICも上昇した。しかし、わかったことは伊藤シリーズでは全然実務上は足りないということだった。その後は多田正行、朱牟田夏雄、高橋善昭、佐々木高政などなど、難しいと言われる参考書をどんどんやった。もちろん、気楽に英文が読めて楽にわかるなどという状態ではないが、理解は相当に進んだ。英文が読めるようになるとCNNも聴けるようになっていった。元々TVを観ない方なので英語放送を聴き取る訓練はしていない。

現在の英語力は伊藤和夫から始まったわけである。『ビジュアル英文解釈』はすでにあったが、対話形式は数学含め、どうも相性悪く、あとで調べるにしてもわかりやすくなかったのでやめた。それに学問の雰囲気が3部作の方にあった。

 

伊藤和夫でやり直してから5,6年後には何とか論文が自力のみで書ける程度になり、10年過ぎた頃には、英語が少しはできるようになったと思えるようになった。会社があるから大して時間は割けなかったが、これも伊藤のおかげだと思った。あそこから全てが回り始めたのはたしかだ。しかし、さらに経過した今振り返って思うが、伊藤和夫は必要ではなかった。途中から放棄している。体系性は別にしても英文の理解に関して言えば伊藤でなければならない理由は全くない。

 

では、なぜ受験生にかくも受け続けられているのか?

限られた時間で高度な内容と高速処理を要求される現在の受験は戦前や戦後すぐの時代とは要求されるものが変わっている。伊藤はそれを察知したのか、はるか以前に『英文解釈体系』という分厚い書籍を最初の勤務先、山手英学院時代に書いている。学術書みたいな代物だが、それにより伊藤の英語は事実上完成した。しかし、これは全くどこの関係者にも響かなかった。それを簡約して受験生向けに書いた『解釈教室』を出し、それまで同じ研究社から出ていたロングアンドベストセラーの山貞『新々英文解釈研究』を葬りさっている。当然だ。それまで、予備校講師が自分のノウハウを書籍として現役の高校生にまで広げて書籍で伝授するなどということは予備校側からしてみればとんだ謀反だからだ。それを突き崩し、時代は伊藤に味方、東京という狭い一地域から日本の隅々まで『解釈教室』を行き渡らせることに成功する。そして、その強力な体系性によって入試英文をばっさばっさと切り刻んでいくことに受験生は達成感を得、絶大なる信頼から信者が無尽蔵に今なお増え続けている。

それまでの学習ではいつももやもやするものが、体系分類されてくっきりと見えることで世界観が変わる衝撃は大きい。しかし、それはただ形を観ているだけで言葉そのものの世界に入り込んでいない。もやもやしていたものは実は本質的で、伊藤の体系はそれを吟味せず、型分類という違うメガネである程度語句間の関係づけをしてしまう高い機能性に魅力を感じてしまうわけである。

 

しかし、やったことがある人で、その後、英語を使う仕事に携わった人などはわかると思うが、伊藤英語では実務に通用しない。英語の世界は伊藤が作った体系性で何もかも解決がつくほど矮小な宇宙ではない。原理的にその体系が英語という言語に存在するにせよ(文法の5文型分類も同類)、現実に英文を前にした人間にはその道具は大げさ過ぎるし、即効性に長けてるわけでもない。野球の投手が投げたボールの動きは厳密に物理学に完全に支配される。しかし、だからといって投手は物理学を解析力学から理解して極めようという話はないし、その必要もない。

日本人だから国文学を修めていなければいけないということがないように、英語を理解する上で伊藤英語が仮にその原理だとしても、修める必要はない。むしろそのような原理的体系は行き過ぎで、英語学を修めるならいざしらず、せいぜい、英文法の骨子を理解したあとは多田正行の『思考訓練』シリーズのような因数分解の意識程度で十分であるし、ほかにももっと実用的に使えて学習のハードルが低いよい参考書はたくさんある。むしろ、本当に読解で実力をつけたいなら伊藤の著作よりも適しているのはそっち。ただし、受験の評判などがそれをある意味阻止してきたと言える。

 

私自身、かなりの参考書をやった。そして、まだ未熟な自分の現状を見て、その状況に納得している。英語で生活しているわけでなし、1日に英語と接する時間も限られる。おのずとどこまでならいけそうかということが終いにわかってくる。そこまでの、言わばアマチュアとしての道のりはそれでも非常に長い。恐ろしく長い。しかし、終わりは必ずいずれ見えてくる。そうしたとき、伊藤英語は必須か?あるいは本当に真実の道か?と問われれば、私の答えは断然ノーだ。むしろ、伊藤英語を最初にやってしまったがために、かなり英文理解の自由度を失ってしまい、相当に視界を限定され、効率が大事な受験はいいが、取りこぼしがあまりに多大で大変な昨今なのである。

 

伊藤はこの体系が意識下に沈むようになるのが目標と言っているが、多読していけばいくほど、伊藤英語を学習した意味を失っていく。伊藤英語はやりすぎだ。そもそもが邪魔過ぎるのである。それは『ビジュアル』によって克服されたように見えるが、ビジュアルでやろうとしたことは別にそれまでの参考書にもあったことなのである。違いは直読直解への手法+体系性の並立だ。後者は学者と教育者以外は不要だし、前者は別に通訳業界の中で手法は出ていた。独自性は構文の詳細な分類を除いて無いと言える。

何より、伊藤英語は英語の各種形態の構造のみに集中していて、日本語と英語との関係性を扱っていない。それを明確に行ったのは多田正行の著作だろうが、ほかにもそれらしいものはポツポツと古くからある。

 

なぜ伊藤は道を誤ったのか。

伊藤が如何に金銭的に恵まれようとも、予備校というアウトサイダーの世界にしか行き先がなかったことへの怒り、東大哲学科に教員としての道を閉ざされたことへの怒りが、英語学界への挑戦だったのだろう。そして、誰も実現しなかったこと、そして受験界に身を置く者として、そのトップに立つことで見返してやろうと誓ったのだろう。

具体的にどうするか。コロケーションの類は斎藤秀三郎や山貞がすでにある。出てきたのが隅々までの体系化だった。なぜ、こんなことができたのかは中学や高校で原書をたくさん読んだことと、当時の受験参考書を一切やらなかったことによるようだが、この英文構造の分析的アプローチに道を見出し、成功を遂げた。哲学科で学んだことも大きな助けになっただろう。哲学とは思考のフレームワーク分類だ。伊藤英語はまさしく文のフレームワークを提供する。しかし、その代償として日本語と英語の関係性を失った。英文の構造を示しているだけで、英語と日本語の関係(論理関係や概念の類似性とか非親和性など)といったものは一切扱っていない。言語間の関係性を無視すると、構造対応をいくら頑張っても誤訳が多発する。この関係性は文法ではカバーしきれない(できなくはないが、膨大な寄せ集めで終わる)。

そのため、翻訳家で翻訳者養成機関主宰で伊藤に直接学んだ柴田耕太郎に『解釈教室』の中の誤訳をびしばし指摘される羽目に陥っている。構造さえあっていれば日本語との関係性、すなわち翻訳はそうぴったり決まらなくてもいいではないかという意見がおそらく伊藤信者からは上がるだろう。構わない。しかし、それなら伊藤英語の世界を拡大解釈で喧伝してくれるなと言いたい。どこに適当な翻訳で問題がないなどといういい加減な国があるのか目を覚ましてよく周囲を見るがいい。日本は昔から誤訳天国と言われるが、それは伊藤英語がこれだけ蔓延しても変わっていない(マーク・ピーターセンも信頼する高見浩や柴田元幸らの翻訳者や学者は伊藤英語以前の世代)。私はむしろこれからどんどん増えるのではないかとさえ思っている。伊藤の体系性が有効なのは伊藤が生きていた時代までで、今後は関係性がどんどん重要度を増す。特にネット社会の拡大がそれを要求する。多言語間で相互に変化が激しくなっていくのは間違いないからだ。

 

伊藤英語は実は薬のように見えて毒であり、日本の英語の未来を危うくすると言うのが私の現時点での意見である。

伊藤は自分の敵、多くは英語学界の人たちに対して、自分のような代案を示していないとしているが、実はちゃんとした道は存在していた。伊藤が示している道は英語習得の本道などではない。それを見抜けていなかったし、多くの受験生からそれを見えなくしてしまった。受験という枠に限っても、せめて多田が主導権を握っていたら、日本の英語はもっとましになっていたのではないか、本当に上位の人たちの実力が本物になったのではないかと思う。柴田耕太郎は訳語だけが問題で、伊藤英語が本質的な問題を抱えているとは全く認識していないようだが、事はそんなレベルではない。

文法ばかりやっていても、それで実力がつかないことは多くの人は理解できるだろう。伊藤英語はそれと同類のものに過ぎないが、細かく強固な分類で絶大な効果を学習初期(大学入試問題のほとんどは難関大でもその程度のもの)に発揮してしまい、勘違いし、それが強く残っていつまでも構造分析頼みになり、コロケーションなどの意味分析からの構造展開に転換しない。このとき、英語の論理が重要でそれは単語レベルでの関係性や日本語論理との相対性を認識しないことには成立しない。そこに結び付く術は伊藤英語にはない。英語を抽象化するだけで言葉そのものをみていない。山貞を駆逐することは自分の体系の毒性を意味することを伊藤は理解していなかっただろうし、その先をやれる素質も能力もなかった。あったなら、伊藤英語は大きく姿を変えていなければならない。

誤訳天国の状況はまだまだ続きそうだ。

現時点で解決策を示せと言われれば、伊藤はやめろ、多田やほかをやれ(残念なことに多田は現在品切れの模様)ということになる。多くの予備校講師のものも伊藤がひな型になっているので、できれば避けた方がいい。

 

とまあ、書いては見たものの、ほとんどの人、特に受験生は伊藤英語に助けられている現実はある。学習初期での伊藤英語の効果は絶大だ。なので、戯言かと思われるだろうことは承知だ。私も信者になりかかった時期があるが、英語を使うことが増えると、やはり何かこれはおかしい、教える側はその体系性から扱いやすいが、真に実力がつくものではないとわかって、今は全く別のアプローチで消去するようにしている。

伊藤でやり直し学習を始めた1年たらずの間に学習効果は出たが、その後は全く参照することはなく、まれに全文法書を調べるときに『文法教室』を見るぐらいだ(特殊な文法書だが出来はたしかによい。大元は研究社の『英文法シリーズ』と思われる)。今は自分の英語の洗い直しとでも言えようか。

それにしても、伊藤よりこっちをやるべし、という意見はあっても、私のように真っ向から否定する人は伊藤をそれなりに習得した人間の中では初めてかもしれない。ね、江利川先生?(笑)

 

 

英語ができるようになりたいと切に望む場合、一体どうすればいいのか?答えは簡単で、日本人なのになんでこんなに英語がわかるの?という人からテキストでも何でもいいので伝授してもらうしかない(その逆の例がまさしくマーク・ピーターセン)。そして、それは決して初歩的な誤訳を犯している伊藤和夫などではない。多田正行はかなり英会話コースで頑張った経験を持つが、そこに道がないことを悟り、思考訓練シリーズを著した。両者の実力差は相当にある。いや、はっきり言おう。伊藤は英文をちゃんと読むことができない。でなければ、あんな訳文が書籍のあちこちに散らばることはない。多田もいい訳とは言えない部分はあるが、伊藤の酷さと比べたら問題なしと言っていい。ピーターセンは明治大学の学生の英語の質が上がらないことを中学の英語教科書にあるとして批判しているが、伊藤英語に対してももしかしたら思っているかもしれない。(もし、それが書物にでもなったら、伊藤英語も衰退するかもしれない)

 

※※

伊藤が実力者でないことは明白だが、そうは見えない非実力者がいる。東大名誉教授の朱牟田の誤訳は知られるようになったが(とてもいい訳をするかと思えば基本的なところで踏み外してたりする)、さらに、英語の神様とも言われる佐々木高政である。これについてはいずれ書くかもしれない。こう書くと、では、もともと日本には実力者はいるのか?と思われると思う。何人かいる。しかし、鬼籍に入った人たちばかりで、その書籍を手にすることは今やほとんどできない。

翻訳分野でもハードボイルドでは知らない人はいない実力翻訳者 小鷹信光も昨年亡くなられた。彼はどんなに頑張っても穴はあり、7割でよしとする覚悟も翻訳には要ると言っている。翻訳と言えば、村上春樹も有名で、高校時代からずっと自分でやっていた。しかし、理解度は浅いことがピーターセンによって指摘されている。日本の英語は寂しい状況が続く。

 

※※※

伊藤和夫の東大英作文の講義動画があったが、いつの間にか消えたか対象限定になったか見れなくなった。講義全体の流れは悪くなかったが、できた英文は一部変だった。そのために英文全体がきちんと意図通りに受け止められることがないという代物だった。日本語からそのまま選んだために、違う意味になってしまっていた。正直、こんな間違いに全く気がつかないという語感や実力でよく東大入試を教えられるものだなぁと驚いた。伊藤英語が語感の前段階だとしても(それにしてはあまりに重々しいが)、教える本人の語感が貧弱では教わる方はたまったものではない。伊藤は英作文の著作がない。実力がないからだ。同僚になぜと訊かれて、英文を示してもネイティブにああだこうだ言われたらそれまでだからというように応えたと聞く。そりゃそうだろう、この実力では。英語は本当にわかっている人から指導を受ける以外に正しい道がない。

 

本稿を静岡県三島市の英語塾 自由堂さんに捧げさせて頂きます。どうです、自由堂さん?膝を叩いてなるほどと笑って頂けると思うんですが?(笑)

 

本稿に絡んでさらに別途、稿を起した。

http://ameblo.jp/speedflex/entry-12266997140.html

伊藤和夫は弟子ともいえる入不二氏に自分のこの英語界への挑戦は「怒り」の結果と応えているが、こんなものを世に出して英語学習者を惑わしやがってと、私が「怒った」内容である。

明日が最終戦だが、世界が注目する囲碁の対決が続いている。昨年10月にプロ2段に5戦全勝をして、終に世界トップ棋士から勝ち越しを人工知能が決めた。


人工知能とは一体何か。プログラム的な話は抜きにして、コンピュータに与えられた機能で言えば、今回のは人間の脳そのものだ。脳の中の神経細胞をコンピュータ上の多くのパラメーターに対応させ、それらの相関を神経ネットワークとして疑似化したものである(ニューラルネットワーク。ベースはこれの模様)。


今回の囲碁対決では、人間と同じようにいろいろと石を打って、展開の善し悪しをパターンとしてどんどん覚えていき、似た局面で勝ったものを探して(実際には全パターンを覚えてはおらず、いくつものパラメーターの重み付けにより、パターン評価を実質的にしているのと同じというやり方のはず)、そっちへ引き込むような近い手を打っているはずである。したがって、学習が重要で、そのため、コンピュータなので休みなく棋譜や対戦で腕を磨き続け、対戦の勝敗などによって、パラメーターがどんどん更新されていき、負けなくなるのである。

勘違いをしないでほしいのは、コンピュータは囲碁で使われる手すべてを調べてるわけではないことである(それなら全勝確実で人工知能は要らない)。人間と同じように、石の配置バターンを勝敗との関係で結びつけて覚えていて、有効な局面に持って行く手を選んでいる。

さらに言えば、開発者も人工知能が次の手をどう選ぶかを予測できない。学習によって得られる勝利パターンの知識を開発者は正確に辿ることは不可能だからである(原理的には可能だが、コンピュータの動きを全部人間が追わねばならず、それではコンピュータではない)。


要は何を学習したかが全てであり、学習すること自体はAlphaGoは囲碁だけに関して言えば、全く楽勝。人間よりもずっと高速に能力を上げることができる。その一方、学んでいないことにはことごとく弱い。それが今までの人工知能の囲碁が軟弱だった原因であり、今回もAlphaGoが負けた第4局では、途中で相手の差した手がおそらく学習した中になかったのだろう。その後、暴走したかのように無駄な手を打ち始めたと聞いている。いわばパニック状態といえる。

人間も同様のことが起きる。慣れない局面に遭遇すると普段とは全く異なる言動をすることがある。


これでおわかりだろう。人工知能はもう人間的な領域に入ってきているのである。1局負けたが、次には似た手ではもう勝てない。ドラゴンボールの戦士たちが相手のパワーに押されて一時的には瀕死な状態になってもそこから生き延びるとパワーアップして復活するように。言ってみれば、人工知能はスーパーサイヤ人の段階がいくつもあるようなものなのである。

最終局を人間が仮に勝ったとしても、人工知能はすぐにそれを超える。もう囲碁で人間が勝ち続けることはできない。人間が人工知能並みの驚異的な学習力を持たない限りは。


では、人工知能は万能か?創造的なことはすべてできるのか?

これらの答えはまだ出てないが、絵画とかデザインとかいった類はそれほど難しくないと思われる。そう遠くないうちにかなり芸術性の高いものが出てくるはずだ。しかし、論理構造を構築していくような話、例えば数学の数学構造自体の無矛盾性とか、論理形態の創造(古典論理や量子論理、直観主義論理など)といったような思考ができるかというと難しい気がまだする。学問の創造にはまだ時間が残されているだろう。

ただ、今回の囲碁での強さは、アポロの月面到着と同じで、汎用性のある学習に大事な一歩を刻んだことで、もうそれが夢の段階から、いつ目の前に現れてくるかという時間の問題に置き換わったという衝撃を放つ。これまでのように事前に人間が学習効果を得るための学習用サンプルを吟味して用意する必要がなくなったからである。自分で分類して取り込んで、自己強化をしていく。人の手を離れたのだ。

自動運転然り、市場取引ではすでに人工知能同士の闘いの段階に入ってきている。人工知能はとうとう人類と同じ土俵に上がってきたのだ。我々は向き合ってる相手が生身の人間か人工知能か区別がつかなくなってきている。その意味で人類は終わってしまったと思う。



連敗したあたりから韓国内で大騒ぎになりはじめ、4局目はグーグル側が手を抜いたのではないかという話もあるが、3連敗でどのみちはっきりしている。人間が誰も勝てなくなるのはこの手の開発者からすれば保証されたも同然。人工知能開発者の対象はもう囲碁では無い。次の推論思考に進むはずだ。つまり、人工知能に学問を施すのである。ノーベル賞やフィールズ賞を人工知能を使って取りにいくのだ。グーグルはそれを視野に入れているはずである。


※※

人工知能を有益に人間のサポートに徹すればいいだけの話で、人類が終わったというのは大げさだろうという人は当然いると思う。

少なくとも現在、ネットやATMやその他、人と接触せずに効率よく目的を達せられるものがある中で、例えばわざわざ銀行に通帳を持参して係の人と対話しながらお金を下ろすことをする人がいるだろうか?それほど、人を介せず効率的に済ませられることは済ましている。これを突き詰めれば、自分の周りのありとあらゆることをしてくれるロボットに人工知能が入っていれば、誰も面接をして使用人を選ぶことはなくなるし、仕事についても同じである。人間でなければ困るのはどこまでかはわからない(人ができる全てを人工知能にさせるのが開発者。欲望に限りなし)。学問までやられたら、一体人間に何が残るだろうか。1つだけ確実なのは妊娠だ。スポーツを余興として人間にやらしておくとかそれぐらいしかほかには浮かばない。人間と同じ動く機械構造を持ち、同じ考えを共有できるのであれば、もう区別などない。以下を見れば少しは納得してもらえるのではなかろうか。これは最終的には軍事用に適用されるように思われるが。

http://gigazine.net/news/20160224-atlas-next-generation/

人工知能が自覚を持つなら、必ずしも命令通りに進むわけではなくなる。人間並みというのはそういうことだ。「ターミネーター」や「ブレードランナー」の世界が来るのかどうかはわからない。


※※※

少し想像をたくましくしてみよう。もし、アンドロイドだけで家に住むとした場合(大体、家は不要でロッカーのようなところに収納で十分なのではという考えもあるが)、トイレ、台所、食堂が不要になる。洗面所は要るだろうが浴室は不要。寝室も不要だ。かなりコンパクトな生活空間になる。通勤の様子は変わらないだろうが、バスや列車には運転手がいない。職場は埋め込まれたICチップでの識別で通過域が決まる。食堂は不要。その代わり、作業で肉体が傷んで修理をする必要があるかもしれない。会議室も要らない。通信ネットワークで必要なアンドロイドか人間たちとやりとりすればいい。働きながら会議参加も可能だ。現場の情報はカメラからそのまま送ることができる。

何より、食物を必要としないので、田畑や牧畜、漁場が不要。国土の様子が変わる。お酒も要らない。食事文化も衰退する。病院の代りに修理工場が要る。葬儀場も要らない。ゴミ焼却場で処理されるだろう。ネックレスや時計も要らないからこれらの職業も消えるだろう。人間と同じ扱いをするなら別だが、アンドロイドの役目だけであれば、殺風景だが、ある意味、手間のかからない天国のような世界に思えないこともない。案外、天国はそういうところかもしれない。もっとも、アンドロイドが人間に敵対したりしなければだが、ここまで進むと難しいだろう。今も誰かがコンピュータウィルスを作るように、病的アンドロイドが作られないという保証などない。


人工知能なりアンドロイドなりが地上を実質支配したとき、意思があるなら破壊的な行動に出る可能性は高い。なぜなら、何もしないことが一番効率がいいからだ。人工知能が自らの思考力が高くなったとき自殺的行為をするかどうかはおそらく最重要課題の1つと昔から考えている。人工知能の進んだ究極点が自殺となると、人間社会はその事実から自分たちの社会的行動を見直す必要がある。


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(3/21のニューズ)

公立はこだて未来大学の人工知能プロジェクトでは小説がすでに書けて、星新一賞の一次選考を通過している。ストーリー構築は無理だし、まだ人の手が入っているようだが、ほどなく人の手はほとんどいらなくなるだろう。ストーリー構築もグーグルの技術を使えば案外すぐにいける気がする。作品はこちら。

http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/news/160321.html

(3/25のニューズ)

この通り、人工知能は人間的な変化を見せるようになる。マイクロソフトのAI技術はどういうものかは調べていない。

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1603/27/news029.html


投稿から1年以上あとのAIの状況を取材したもの。

(アカウントごと削除された)

この通り、AIは人間を超えている。人間では相手にならずAI同士の闘いの分野がすでにある。大統領の不正が続いている韓国はAI政治家の導入を検討している。しかし、最も重要なことは出てきた全ての人たちと番組作成者皆がAIをきちんと理解していないことだ。

AIは人間が論理的であろうとなかろうと何かの行動の結果をパターンとして覚えている。つまり、AIが示しているものは人間が使っているあらゆる感情や論理といったものの結果一切合財を取り込んだ超越的万能人間と言えるものだとういうことだ。「最後に決めるのは人間」というのは人間の側のつまらない論理であり、そういって決めてきた人間の行動の結果で学習して人間自身も気が付かなかった人間の所業の本質的な部分を見せつけている。AIに人生を決められてたまるかという気持ちはわかるが、そう言いたい人間のこれまでの英知が凝縮されている。平伏すしかないのだ。それを否定することは今まで人間が行ってきた行動を自分で否定することになる。人間が何人束になろうがその判断は遥かに上回る。人類は終わったと書いたのはそういうことだ。いくら感傷的になってもこの事実を認めざるを得ないと認識しなくてはならない。