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An Ulterior Weblog

更新は全く不定期です。広告は勝手に付き、外す費用も馬鹿らしく、アメーバからも一切頂いておりません(コメント・読者登録もアフィリエイト狙い多く、受けておりません。ご容赦下さい)
Read-only, not set communicative and periodical updating, sorry.

とうとうお隣の大統領が条件付き辞任を表明したが、長い政治的社会的混乱が影響したのか、鳥インフルエンザの対策が不十分のせいと思えるが、青森や新潟に飛び火した可能性がある。被害がもっと出るだろう。特に九州北部から中国北部、北陸の養鶏関係者は気が気でないはずだ。いつ当事者になってもおかしくない。

 

自分のことは省みずに人には難癖つける傍迷惑この上ない韓国だが、日本のスマホユーザーでLINEを使っている人は関係がある。日本での株式上場も遂げているが基本は韓国の会社だ(本国ではすでに別のアプリ支配が先行して、利用者は少ないらしい)。多くのサーバーなども韓国が主体で多く抱えているはずだし、そこに多くの朝鮮人が働いていることだろう。

 

さて、韓国における朝鮮人たち(国と民族それぞれを正確にわけることとする)の振る舞いはこれまでどうだったか。特に言うまでもないところで、ことに日本人に対しての理不尽な行動と主張を続けている。また、愚かにもそれに加担してきた純粋日本人でありながら、頭だけ夢想状態の人たちが社会的上層に居て日本国民を間違った方向に引っ張ってもきた。北朝鮮の拉致への社会党の対応のいい加減さと酷さは同じ日本人とは思えないほどだ。

 

そういうことを平気でしてきた人たちの一部が日本人のスマホ利用者の多くの個人情報をその気になれば自由に扱うことができるという事実に、利用者の誰も疑念を持たないのはどういうことか。プライバシーとか気にする癖に、通話無料なら、朝鮮人にいかように世界のネット上に自分の情報を扱われてもいいとでもいうのだろうか。

 

LINE従事者からすれば、すぐに歴史問題化して、日本人は我々に酷いことをしたのだから(それも根拠がどこまでかはっきりしないものまで含めて)、日本人の個人情報などどう扱おうが構わないし、晒し者になって様見ろと思うだけだろう。そういう意識がLINEのサーバーやシステム管理者の中に絶対に無いという風に捉えること自体無理だろう。もし、それで自分がネット世界に晒されても後の祭りなのだ、ということをなぜ多くの利用者は思わないのか私は不思議で仕方がない。韓国や北朝鮮が法治国家だと思ったことなど一瞬たりともないし(韓国が民主主義国家に本当になったのは1997年金大中大統領当選からで、20年と経っていない。それでここまで発展したのは日本の支援によるが、それを国民からして絶対認めようとしない)、仕事に対する忠誠心などなおさら期待できないからだ。

この前も、韓国の大学受験で受験生がタクシーとか知合いらしき人のバイクとかで会場に着く様子をBBCまでが取材していたが、何年経ってもこうなのは直前まで試験会場が明かされないためで、その理由がカンニング防止だからだ。京大受験生がスマホでネットの質問箱に問題を投稿した程度の話ではない。そういうお国柄であり民族性なのだ。

 

私がスマホに替えないのは必要性がないし、被害時に使えない可能性が高いからだが、スマホはLINEを前提にしているところがあり、特に中高生の日々の対話道具と化してしまっている。それによるいじめほかの社会問題まで起きている。Facebook以上に簡単にアカウント乗っ取りできてしまうのだから当然のことなのだが。利用者が多くなればなるほど、悪用の対象となる。

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1611/25/news146.html

LINEでのアカウント乗っ取りはビジネス上でも問題を起こしている。

http://businessnetwork.jp/Detail/tabid/65/artid/4322/Default.aspx

いい加減、日本人も頭を冷やすべきだろう。スマホを使うにしても費用が嵩んでもLINEは避けることが必要だろう。利便性はその裏返しとして何らかの負の要因を含むのが常だ。ネットに繋がるということは常に危険なことで、それをどこまで低減できるかだ。

ガラケーで安全性を売りにするという方向性があっていいと思うのだが。。。

 

 

以前に北朝鮮に対して「経済制裁よりパチンコ全廃」とエントリーをあげたが、もしかしたら、LINEというのはパチンコの代りに韓国人のみならず日本人からネット中毒にしてお金をくすね続けようという考えも同時にあったのではないかと思うくらいである。韓国人パチンコ経営者に限らず見かけてきた在日の家族を見ているとそう思えてしまう。

 

※※

日本人の利用が圧倒的に多いはずだから、韓国資本を丸ごと買い取って日本ブランドとし、韓国部分を清算売却したなら、まだ安心して使えるが、そういう事態はグローバル戦略の中では実現は無理だろう。ただ、今の状態で世界戦略は危険な気がする。日本のインフラの安心性とデジタル+アニメ文化への関心は高いから、YouTubeが日本人利用によって世界標準化したように、日本人が多いコミュニティ媒体に海外からたくさん加入希望が出てLINEも拡大するはずだ。そのときに、韓国部隊を抱えていることがはたして負にならないかどうかはかなり重要な因子だと考える。ある種、時限爆弾になりかねない。あるいはそんな心配などなく、本国では振るわないLINEがガラケーのように日本だけでガラパゴスアプリとして発達して、また縮小していくことになるのか。

 

※※※

ノート7の爆発問題。朝鮮人の製品はソフト含めてこういう印象しかない(欧米人や日本のだって全てが褒められるわけではないが)。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161205-00014453-forbes-bus_all

いづれ、LINE韓国が何か問題となる気がする。

ガラケーの生産中止を控えているときに自分のガラケーが壊れてしまったわけだが、はたしてガラケーは本当に通用しないのだろうか?

 

多くの人は高齢者や小さな子供向け程度に考えているのかもしれない。そうだとしよう。すると今後、世界で、中国でさえも高齢化がどんどん進む中で、高齢者割合が増えるなら、ここでガラケーの簡素に特化した機能は世界に出せるのではないかと思う。

 

いま、スマホを使いこんでいる若年層から中堅層の年齢の人たちもいずれは高齢化するそのとき、はたして同じようにスマホを使い続けることができるだろうか?

ある程度の割合でそれは存在すると思うが、もうSNSもネットも面倒だから要らない、あのタッチが簡単にできない、アプリの入れ替えとか御免だ、ということは十分にあり得る。それは日本だけではないだろう。それに、通信設備の維持も容易でないから、あまり高性能の設備を配置できない場合、ガラケーの方が有利ということがあるのではないかという気がする。みな、自分が持つものばかりを気にするが、通信設備の維持更新も大変だ。

 

世界の隅々までネットに繋がる必要が本当にあるのだろうか?皆が皆、いつでもどこでも繋げられる必要性があるだろうか?

スマホの発展に意味があるのか、ガラケーに存在意義があるのかは上記の高齢化問題と生活におけるネットの必要度で決まるだろう。

スマホが出た当時、もっと加速して日本はスマホ化すると予測されていた。しかし、根強くガラケーは残った。それは高齢化とネットへの距離感によってだろうと思う。

1人ならTVもワンセグで構わない。しかし、家族だったら、それがワンセグ形式だろうと地上波形式だろうと大きなTVモニターを使って一緒に楽しむだろう。家庭からTVモニターが消えないのはそこだと言える。生活が違うのだ。

 

スマホの先の究極の通信形態は存在するのだろうか?

私が想像しているものは、帽子かヘアバンドのようなものを頭につけ、サングラスのようなものを使って、頭の中の言葉や映像を全てサングラスに映してそれを加工して通信するシステムだ。今、自分で観たものがそのまま画像なり動画となって送ることもできる。声も発することもないし、指先を動かすこともない。いま、電車の中でスマホをいじり続けているようにヘアバンドとサングラスで何かをしているわけだ。頭の中で「メール」と言って、文章をつぶやけば、サングラスにそれが映しだされ、「誰々に送付」と心で言えば送られる。頭の中同士でチャットを誰かとあるいはグループでできる。通信型コミュニケーションの行きつく先はこういうものだろうと思う。このシステムはAIが入っていて、難しいことは全部やってくれる。細かな設定など何も要らない。

もし、これができたら、高齢者だろうがなかろうが関係ないから普及すると思う。しかし、そこまで行きつくのはまだまだ先だし、本当にこういう方向にいくかどうかわからない。そんなものを始終頭につけてるのはかなわないと思うかもしれないし、ネットで繋がることがとにかく大事だからと付け続けたままかもしれない。今の歩きスマホの人たちからすれば後者だろう。いまだに運転しながらいじっている人も消えない。

 

高齢化は世界共通の問題であり、ネットの必要性も世界の人々の関心度による。その中にいる人間がはたして何を望むか。

パソコンが実質、マイクロソフトに牛耳られたように、個人通信がアップルに牛耳られるのかもしれないし、車は自動運転をGoogleやTESLAなどの誰かが完成させたときに世界支配が決まるだろう。

そう考えたとき、はたしてガラケーに居場所があるのか。

 

実はここでもう1つのファクターがある。識字率だ。

今でも識字率が高くない国は少なくない。米国にしても先進国では低い。そういう中で電話だけは共通に数字によって通じる。ネットを操れない人はまだまだたくさんいるが、電話通信だけは何とかなる。教育システムが改善しても国の状況が悪ければその人たちは装置を操ることが容易でない。認知力の落ちた高齢者も同じである。

ガラケーを携帯プロバイダー独自のネットインフラ専用通信機と考えると日本を飛び出すことは無理だが、機能を通話とメールを主として限定すれば市場は世界を見ると果てしなく広がる。数字とアラビア文字が打ちやすいガラケーなんてのが出たら、アラブ諸国で案外利用者を獲得できるかもしれない。

それに、失明した人は音声認識技術は上がったとは言え、現時点ではスマホよりガラケーの方がまだまだ有意義のはずだ。

 

スマホが本当に世界の高齢者や子供、文盲や失明の人々にとって易しい道具かどうか考えてみる必要はあると思っている。

1つだけ確実に言えるのは、SNSをしていて、神経質な人はスマホは止めた方がよい。いつも回答が来たら即答しないといけないと完全に1日中振り回されること間違いないからだ。その意味で、スマホはネットやゲームの中毒者か他人をあまり気にしないずぶとい人向きと言えなくもない。

 

 

スマホも飽和したようだ。http://iphone-mania.jp/news-95969/

あのグーグルも最近グーグルフォンを出し、アップルへとうとう反旗を翻した。なおさら、ソニーや京セラは別の道として逆転の発想でガラケーを考えてみるべきではないだろうか。日本で依然4割以上もあるというのは、何か大事なものがあることを意味している。何より、PCを広めたビル・ゲイツもスマホを広めたスティーブ・ジョブズも、自分たちの子供にはそれらを制約していたという。人には売りつけておきながら。

 

※※

携帯し易さとデザインで言うと、昔、ほかの人が持っていたIDOの小さく薄いアンテナ付きストレートが一番美しいと思った。初代INFOBAR(これも時々みせてくれと言われたことがある。外人にも言われた)よりもずっと美しかった。INFOBARと違い、目立たない美しさだった。W63Kは少々おもちゃっぽいのを除けば一番近い。そのときは個人で携帯はまだ高くて持てない頃だった。iPhoneのような簡素だがのっぺりしたつまらなさと違い、最低限の機能が調和して織り込まれているのがわかるようなデザインだった。その後、実物を見かけることはなかった。もちろん、ネット接続はできなかったと思う。画像検索をしてみたが、該当するものが見つからなかった。

周囲では仕事に活用している人ほど、ガラケー+タブレットが多い感じだ。

少し前に手持ちのガラケーがお陀仏になった話を書いた。

結局、復活する兆しは全くなく、いつまでも携帯無しというわけにもいかず、ショップに行ってみた。ずっとガラケーを使ってきて、とうとう年貢の納め時かと暗い気持ちで入った。

 

ガラケーはほとんどなく(1種はガラホ)、スマホとタブレットが所狭しと並んでいた。いくつか触ってみた。小さく簡素なものが欲しいのだが、小さいとなると iPhone7 しかなく、あとはデカい。通話で耳に当てるという気にならない。操作してみても、自分の大きな指ではなかなかうまくいかない(後で他の人に具体的にやらしてもらったが、使おうという気にならなかった)。メールを打つのさえ大変な感じ。タブレットになるとそのあたりは少し楽だが、ポケットに入らない。

 

何より、違いは大きさしか無く、どれも似たりよったりのスマホとタブレットを見て溜息が出た。

携帯を個人で持ち始めることが広がり出した頃の携帯電話たちのあの多様さはどこに行ったのか?

作っているところが違っても、これだけ外観に差が無いと費用で比べられるだけだろう。機能の差と言っても基本的にアプリの問題で、入れてしまえばどれも同じにしかならない。

 

所有しているガラケーはW63Kというものだが、会議などで机上においておく(地震アラーム以外は音を出さないようにしている)と、時々、新型のスマホかと思われて見せてくれと言われることがある。ガラケーも圧倒的に折り畳みなので、ストレートなためにガラケーとして認識されにくいというのがある。そしてその軽さにも驚かれる。薄過ぎもせず、手に使いやすい大きさでスマホより小さく軽いので、スマホが当然の彼らには却って新鮮に映るという。

ネットにも繋がるが、ソフト開発がほとんど止まっているので、見れないサイトが多い。YouTubeなんか全く見れないし、大抵の画像が張られたサイトは容量オーバーで途中までしか表示されなかったりする。Wikipediaもセキュリティー仕様の違いなのか見れない。

 

それでも、スマホは使う気にならないし、ネットは半分どうでもいいので(本気でやるならタブレットPC)、これからもガラケーで行くことにした。機種を変えるとまたお金を取られるので、遠くのお店がネットに出していた中古を購入して、再度ショップを訪ねてロック解除してもらい使えるようにした。その後は消えたアドレス帳の作り直しや設定の再現などを続けている。驚いたのは以前ダウンロードできた成田空港の着メロがネットソフトのバージョンに合わせて変化してしまい、落とせなくなったこと。諦めて有料サイトに登録していくつか音源をダウンロードした。内臓音源は昔も今も好きになれない。

 

ショップの話では修理も2年半以上前にメーカーが対応しなくなっていること、部品が無い旨を伝えられているという。スマホというある意味高度化を図った結果、ガラケーとはいいながら、それなりの技術や手間がかかるものはコスト的にメーカーに足枷となる。技術全体が高度になればなるほど、そこから外れたものを維持することは困難になる。現在、携帯電話契約ユーザーにおける4割がまだガラケーだという。これだけ居るのにメーカーは厳しいグローバル競争に晒されている関係でコストカットのためにガラケーからの撤退を決めている。

グローバリゼーションは必ずしも多様性を保証しない。むしろ統一的になっていき、多様性を潰す方向にある。実際、アップルによってスマホとタブレットに集約させられたも同然だ。違うタイプのスマホやタブレットは見かけない( iPhone が出るまではスマートフォンは下方にキーボードが着いたちょっとゴツイものだった)。出しても、アップル方式に染まった利用者は乗り換えないだろう。人の多様性などと言ってもその程度だ。

 

ガラケーあるいはガラホにまだ未来があるかどうかはわからないが、通話とメールだけなら昔のガラケーでも通信規格上は十分。本質的違いは無い。それにガラケーでもこれだけ現状回復に苦労している。スマホだともっと大変だろう。アプリが多いほど、自分の中身がその中に盛り込まれ、自分の分身みたいになっているだろう。いや、スマホが本体で人間が分身かもしれない。スティーブ・ジョブズは開発した製品こそ自分そのものと思っているような人物だった。それは構わないが、押し付けられるのは御免だし、これほどのネットやSNS中毒者という社会的負の遺産を急激に増やしたという汚点は見逃せない。ネット中毒者はそれまでは基本的に家の中だけだったのが、一挙に街中に増殖した。

今回は元々中古だけにまたダメになる可能性は高い。その場合はもっと古い別メーカーのガラケーにしようと思っている。機能をもっと制限して操作頻度を落とし、さらに長持ちさせるためだ。事前に買い込むつもりだ。気分は、さらばスマホ、である。

今はガラケーの方が却って斬新かもしれない。伊藤和夫が葬り去った山貞が復刊したように、これほどガラケーを追いやったアップル式スマホが不評の iPhone7 を契機に逆にガラケーに苦しめられることにならないという保証は無い。

 

 

最近の記事でこんなのがあった。この多様性は今のケータイショップには無い。

http://feelthevip.blogo.jp/archives/11956113.html

ガラケーを所有する理由は前にも書いたとおり災害時用だが、それを抜きにしても今のスマホは持つ気にならない。別に大きな不便は感じないし、ネットやSNSに振り回されるつもりはない。auサイトから何度か、懐古趣味的なものでも十分うけるのではないか、特に年配の人たちには使いやすいストレートガラケーも今後も継続して出してほしいと意見したが、体の良い返事が帰ってくるだけだった。特にアンテナは耳から入って頭蓋骨内部で共鳴して脳を発熱化してほしくないので、引っ張り出せる方式にしてほしいと思っているのだが。電磁波で頭が直接おかしくなることはないが、発熱はさせるので、アンテナでできるだけ耳から離した方がよい。

 

※※

企業では固定電話をやめてガラケーを社員に渡しているところもだいぶ増えてきた。スマホを渡してる例は見たことがない。となると、大口契約でガラケーの対応数としてはかなりのものになるはずなのだが、やはり、庶民にはスマホを押しつけて高い料金で自分たちの給与を高値安定にしたいということなのだろう。チップ開発に対して、自社の給与を下げて対応しようとまではしないということだから。

英語そのものを生業としていない一般人としてどこまで英語に関わったらいいのか、どこまでやればいいのか、という指標はなかなか難しい。TOEIC、TOEFLは英語の理解という点ではほとんど役立たない(これらの対策だけを考えて英語学習しているなら、結局、英語を理解はできない)。いつまで経っても英語がわかった気がしないのが私を含めほとんどの人のはずだ。ピーターセン教授はあれほど日本語が達者でも、いつもノンネイティブのもどかしさを持っているという。まして我々はなおさらだ。

だらだらといつまでも続く英語学習は人生にとってマイナス面が多い。ほかにやるべきことがある。そんな中で一応、やるとしたらここまでで止めておいてはどうかという指標を示しておこうと思う。

 

英文法については最近書いた。英文解釈や英作文、リスニングとかというのも細かにはいろいろあるが、今はこれらの詳細については触れずに英文法同様、重要な目標値をあげる。

 

辞書を2冊読み切ることである。

(第一段階:英英中辞典1冊)

まず、英文法がだいぶ身について、短文が読めるようになったら、英文解釈に弾みがつき、多くが読めるようになり、また読むようにしていく。読むものは何でも構わない。新聞、小説、歌詞、何でもいい。ただし、全てを完全に理解できるまでと踏ん張らないこと。できっこないので。それらをある程度の量をこなして英文に馴染んだ頃、英英辞典に抵抗感がさほど無いとなったら1冊読み切る(途中でダメにしたときのために中古でいいので同じものをもう1冊揃えると安心)。語義説明と例文を読む。語源などは飛ばしてよい。読みながら面白い表現だなと思った例文に下線を引いておくと後で活用できる。例文が極力多いものを選ぶ。最初は英和を参照するだろうが、200~300頁を過ぎれば頻度はぐっと落ちる。これによって相当のものが読めるようになる。世界一変。どんどん読めることが嬉しくて仕方がなくなるはずだ。ライティングも俄然楽。語彙拡大の破壊力も凄まじいことを実感できる。語彙増強の教材も不要だ。

(第二段階:英和中辞典1冊)

さらに続けて行くといずれ馴れて、英文を読むこと自体また英英を引くこと自体も特別楽しみで無くなってくる時期になったら、今度は2000頁級のやはり例文の多い英和辞典を読む。そうすると今度は日本語と英語との距離感が急激に縮まり、世界がまた変わる。こうして、貴方の脳の中では英語と日本語の関係が比較的バランス良く関係付けられる。このとき、英和辞典の訳に不満を持ち始めるはずだ。間違い探しでモチベーションを維持してもいい。その後しばらく、TVなり読書なりで英語に触れて行くと英語と日本語が共存するようになってくる。

大学入試は帰国子女対応のを除けば第一段階に入る準備程度に過ぎない。スタートに立っただけ。

 

英語で食べて行くのでなければ、ここまで!

それでも、驚異的に周囲より正しい英語が使える人物になっているはずだ。そして、見える世界がここで終点となる。2冊は多いように思うだろうが、あの文法書だ英文解釈書だ、小説だ哲学書だと延々と読み続けることに比べたら大した量ではない。一般には平積みで自分の身長以上あるいは2倍以上の原書を読まないと英語は身につかないとも言われる。たった辞書2冊で大丈夫なのかと思うぐらいでないと困る。辞書はどのみち買うだろうから費用はとても安くつくこと請け合いだ。

ここから先は翻訳家とか通訳者の道、さらにその先に英文で作家となるような道が残るのみで、とても一般人が踏み込める世界ではない。人生=英語の覚悟がいる。ただ、踏み込めるだけの下地は十分に着く。あとは適当に英文と触れ合って余生を楽しく過ごせばよい。辞書読みは面白みに欠けるかもしれないが(やってみると意外に面白いのだが)、小説などの代りに読んで、時間短縮とその後の驚異的活用度をできるだけ早く身につけようというものだ。

 

英和が先で英英があとはダメか?英英は絶対に要る。英語だけを頼りに概念を知ろうとする努力が必須なためだ。その後に日本語との関係を見直すのが現時点では望ましいとの印象を持っている。感覚的だが、逆は得られる言語世界観が小さく今一つの結果になる気がする。どちらか1冊でというのも実力が中途半端に終わる。

並行して読むのはダメ。英文だけで脳内を埋め尽くす段階を必ず作ること。できれば2冊の間には期間を少し置くこと。理想は英語漬けの状態から日本語に少し戻りたいと思うような時期がいい。

辞書をよく引くからわざわざ読む必要はないと思う人はいるだろう。やってみるとすぐ違いがわかる。どんなに辞書を引いていても、読んでいった場合とでは感覚が桁違いだとわかるはずだ。辞書を最大限に活用するには引くではなく読む。

難しい文章は読めるようになるかだが、ならない。文脈も無理で、英文解釈の参考書で補うことになる。ただ、辞書読みによって参考書の消化は早いし、比較的すぐに体得できる。そのときに『解釈教室』などの予備校系参考書のような素直に整理されていた頭を混乱させるようなものはやってはいけない。伊藤などの構文主義は脳が語彙から獲得しかけようとするネイティブ語感を無視する代物だからだ。

英和の代りに和英は?不可。日本語に引きずられ過ぎる。最初に英英をやり、英和は同じものを日本語付きで見直すのであって、関連性のない和語の群を脳に忍び込ますのは折角やった英英を台無しにしかねない。3冊目としてやるのは構わない。私はやったことはない。翻訳者などのプロになるなら必須だろう。

 

リスニング、スピーキングは上達するのかと疑問に思うだろう。スピーキングはライティングが楽になるとできるようになる。もちろん、決まりパターンの会話の練習はまた別にできるが、基本的にここでの方法で下地は作れる。リスニングも効果はあるが、日本人の耳には限界があるから、ニューズなり映画なりを見てとにかくどんな音でもいいので馴れていくしかない(映画はまず観ないが、CNNやBBCなどはよく視てる。私はBBCの方が耳が受け留め易い傾向。カジュアルな会話については映画やTVぐらいしか手段がないだろうが、あまり俗っぽくないものの選択が難しい)。読解力が高いほど容易なのは間違いない。辞書での例文は典型的なものが多いので、効果はかなりある。読めてこそ聴けて話せて書ける。

 

英語を真に身につけるには原書の多読とよく言われる。多読だけで似た習得状況は得られるかもしれない。社会人レベルまでとなると500冊から1000冊だろうか。こうなると長続きしにくい。何より、日本語との関係がつかない人がほとんどで英語はわかってもそれを適切な日本語にできない人が多い(英英を読み切ると体感できる)。その意味で原書のみの多読には反対だ。上の辞書読みでさえ、普通の人はまずやる気が萎える。しかし、ここまでやって出来ないなら仕方がないではないかという諦めのつくレベルをできるだけ低コスト短時間で到達するには上記が一番だと思う。小説など読まずにいきなり辞書読みでも構わない。進行のスタイルは各自で工夫してほしい。

2冊読んだが、ネイティブのような感じになれずがっかり、もう英語やらない、ということもあるだろう。それで構わない。ネイティブみたいには決してなれないことを実感できるからだ。それに早く気付くことが重要で、何か別のことに人生を回せるメリットは絶大。それどころか英英の段階さえうまくいかない人もいるだろう。それでも、伊藤和夫などやるよりも楽なはずである。何とか踏ん張って英英の山だけでも越えてほしい。面倒だからいっそのこと翻訳ソフトに期待して、別のことに人生をかける。それもよい。

 

そして、これが私の真骨頂だが、「強く暗記しようとしないこと」。外人ながらに日本語が達者な人たちの学習法を訊いても、彼らは日本人と同じく、我武者羅に固定的に次々に記憶していくことをするし、そう薦めている。私はこれには大反対である。

辞書にしろ参考書にしろ、訳語が英語と直結して対応などあり得ないし、ネイティブによっても言うことが結構違う。ネイティブでも間違いが少なくない。誰かの正しいことが必ずしもいつも当てはまらない。むしろ、柔軟に徐々に修正していくような意識であまり暗記に重心を置かない方がよい、というのが自分の経験である。今になって間違いだと言われても、ということがもの凄く多い。辞書読みはその回避に向いていて思いついたものだ。したがって、例文を記憶しようと頑張り過ぎてはいけない。読み流すに少し近づけておくことが望ましい。記憶したら頁を破っていくなんて先人のようなことはしてはいけない。気楽目に。これを間違えないこと。

伊藤和夫批判を何度かしているが、英語習得という側面からもよろしくないからだ。下手に英文がぐんと読める時期が来てしまうがためにこれで英語が身に着くはずと大勘違いをして、伊藤の著書を穴のあくほど読み返すのは愚の骨頂。言語はそんな硬直したものではない。伊藤が全3000頁の『英文法シリーズ』を読破して学生の質問に漏れなく答えることができる自信を作ったなら、我々はそんな読みにくい教育者にしか役立たないものは捨て、代わりに英英と英和で同程度の頁数を読んで英語と日本語の関係づけを行い、彼らよりずっとましな語感を養えばいいだけだ。それはできる。

 

英語をものにしたいと血眼の人はタイトルは羊頭狗肉だと言うかも知れないが(それでも学習法的要素はほとんど無いので学習法とはしていない)、ネイティブのように理解できる可能性はまず無いという多くの事実から、一般人として困らないレベルを難しくない手段で達成するにはどうしたらいいか、というのが本回答だ。大事なことは、全体としてやろうとしていることに個人に関わる書籍とか手法とかに依存していないことだ。言語を身につける手段が一個人の編み出した何かによって達成されるなどということはあり得ない。これをやれば偏差値や点数が上がるというのはあるが、英語が身に付くことにはほとんど直結しない。あくまで、ある人々にとって受け入れやすいものを提示しているに過ぎない。この回答にしてもそうだ。汎用性はあるとは言え、やりたくない人はそれでいい。自分が悪戦苦闘した結果として、楽ではないが、かといって巷のまやかし物はもう御免だ、直球でいくという物を示してみただけである。ここでの方法を実践すれば、高校教員はもとより、多くの大学教員より運用実力がつくはずだし、言語の世界は広く、辞書といってもごく一部に触れているに過ぎないというのが実感できるはずだ(流石にOEDは該当しない。全20巻21730頁をたった1年で読み切った人が本を出している)。これが本方法をやって一番意義ある目標になる。広大な英語の世界が見えて、まだ続くのかとうんざりするのか、逆に血湧き肉踊るかは貴方次第だ。

 

 

再学習しようとした頃、TOEIC対策関係に突き進むか伊藤和夫らに頼るかといった感じだった。結局、どっちもやって失敗で、自分が述べてきたようなことは誰も言っておらず、いろいろと苦労した挙句にわかったことだ。ずいぶん道草を食った。あの時点で誰かこんな話をしてくれていたらこれほど時間とお金を無駄にせずに済んだものをと悔やまれる。皆さんも時間を無駄にしないようにしてほしい。受験生は英英を手にするぐらいまでにはなっていてほしいし、大学卒業までには全て終えておいてほしい。なお、辞書は活字が大きく見やすい目に優しいものに。1日2頁で3年かかる(大学生なら5、6頁は読んでほしい)。長期で使うから疲れずにやる気が継続するものがいい。

 

※※

一般の人は英語学者になる必要はないので、どうしてこういう言い方はできて、こういう言い方はしないのか?という疑問に納得できる語学的説明がつけられるようになる必要もないし、できない。本方法はあくまで英語と日本語をできるだけ正しい関係で運用するための下地を身につけることであって、語学的説明ができるようになるためのものではない。最終的にはいろいろな表現を蓄えて、このときはこう言うがこのときはこうとしか言わないとネイティブの回答と同じことしかできない。それは日本語について我々が何かの説明を求められても同じことになる。だから、疑問すべてが論理的にすっきりと解決されることはネイティブ語感に近い話であればあるほど無い。概して学習者は完璧な学習法を要求するがそれは無理な話。完璧は終わりを意味し、人類に終わりがない限り言語に終わりはない。

どうしてもそれがいやだという場合は、頑張って『英文法シリーズ』を探してやり切ってみるか、OEDを読み切るかしかないだろうが、人生をかなり無駄にすることを覚悟することだ。いっそのこと英語学者になるなら多いに賛成する。文筆家になるなら、西脇順三郎、石川欣一、逆の例としてリービ英雄やロビン・ギルが参考になるだろう。しかし、天賦の才が無いとこのレベルは無理だ。日本語でも作品を書けない凡人はあくまで凡人と観念することも重要だ。

 

※※※

永く英語に触れていくのであれば、一生ものの原書を見つけることをお勧めする。それが貴方の英語の原点となり続けるだろう。辞書よりずっと大事だ。母語でないだけに芯となる何かを持っておくといろいろ助けになる。女性だと Anne of Green Gables、The Little Prince なんかが多いのではないだろうか。

どうしても英語をネイティブ級にしたいなら、1つだけ方法がある。ネイティブと結婚すること。そして英米に行って日本に戻らないつもりで精進すれば、10年か20年でほぼなれるだろうと思う。逆の例では奥さんが日本人のピーター・バラカンなどが有名だし、次のような一般人の例もある。左からブラジル人、ドイツ人、ミュージーランド人だが、完全ににっぽんのおっかさん状態だ。

https://www.youtube.com/watch?v=xI_KRoQ_OXU

 

日本語母語者が英語を身に付けるのがいかに大変かを医学的説明も加え、養老猛司が以下で述べている。同意する。英語習得は生業にしない人間にとって人生の無駄以外の何物でもない。彼は論文という論文から例文を探して博士論文を書いている。辞書読みはこれと同じ。世の中にある例文をたくさん読んであらゆる場面に対応しようというものである。自力でいろいろ探すより、辞書編纂者が人生をかけて選んでくれたものを活用しない手はない。しかし、多くの人にとって大事なことは、習得ばかりに突き進むのではなく、どこを終点とするかだ。その意味で彼の記事は示唆的だ。私が今もちまちま続けているのは、特許にしろ論文にしろ自分以外に面倒を見てくれる人がいないからだ。

https://www.enago.jp/dryoro/

先週末から携帯が死んだままだ。うんともすんとも言わない。

以前に一度、トイレの水の中に落としてしまい、瀕死になった。このとき、ショートすると思ったが自動的に電源がOFFになることを図らずも身を持って知った(それを”うん”とは思わないが)。取り出して水を切り、電池、SIMカードなど全て引き出せるものは出して、回路部含めてドライヤーで乾燥させた。

一旦、復活したが、すぐに不安定になり、落ちたり勝手に復帰したりだったが、1ヶ月ほどで安定、1年ほど経った今までは問題なかった。それが、突然死してしまったようだ。どうも復活は望めそうもない。

 

さて、次はどうするか。またガラケーか、それともいよいよスマホか。

ガラケーからスマホに変える判断を示している記事がある。

http://manetatsu.com/2015/09/50704/

金銭的な面を最重視してどっちが得かと判断している。

スマホからガラケー(+タブレット)に戻した人の話もある。

http://www.ccore.co.jp/plus/smartphone/

まあ、これはわかる。みな、ひっきりなしにスマホしか見ていない人が多い。

 

これらの中には全く触れられていないガラケー保有の私の理由がある。

災害、遭難に俄然強いことである。まず、電池の持ちが違う。特に雪国では気温低下でただでさえ電池の持ちが悪い。金属量が少ないガラケーは冷えにくい。そして、目の前に無くても指でキーを探りながら、通話やメールを打つことができる。雪崩や猛吹雪で埋まってしまうとか、地震で瓦礫の中に埋もれたとかいうときに手先だけ動けば何とかなる。もっとも、携帯を手にできればだが、何より、生きていなければ話にならない。

 

手持ちのはストレートの大変扱いやすい機動性のあるもので、スマホにはこの軽快さは無い。ガラケーと言っても、折りたたみは使いずらく嫌いだ。古い機種をわざわざ探さなくてはならない。スマホは通話料無料のために韓国資本のLINEに繋ぐのも気に沿わないし、LINEのあのやりとりに参加する気もしない。インターネットは基本的にはこちらが能動的に関わらないと機能しないが、LINEは結果的に無理矢理引きずり出されるので、ネットというかSNSの洪水の中に手段なく飛び込みたくはない。

さて、LINEを使わないにしても、どうしたものか...

ネットの隅の本ブログだが、英語と数学、そして有名大出身者に関する記事への関心がいつもとても高い。そこで、一番多い英語に関して少し書いてみることにした。

 

表題の英文法についてだが、「英文法なんか要らない。そんなものをやろうとするから日本人はいつまでたっても英語ができないんだ。とにかく、英語だけで読んで書いて話してということを続けていけばいいんだ」という主張をする人はそのまま行けばよい。別に悪くない。しないより絶対いい。その代わり、まともなネイティブからは相手にされなくなるだけだ。仕事にも活用できない。メールでもビジネスにはビジネスライティングというものがちゃんとあり、いくら簡素化してきているとはいえ、礼節を求められるし、しっかりとした内容と展開にしないとバカにされるのが落ちだ。まず、返信が来ない。表現が変でも文法に則っていればまだ読んで貰える可能性が残るが、支離滅裂な文章はすぐにゴミ箱行きだ。留学経験者でもそういう英文を書く人は結構いる。

 

英文法が一番役立つのは何といってもライティングだが、もちろん、最初はリーディングで発揮される。

英文法は何のためにやるかと言えば、日本語とあまりに違うその言語形態を知るためだ。主語の省略はほとんどできないし、修飾の順序も逆、時系列の事象の捉え方には日本語にない概念もあり、何もかもが違う。日本人が英米人がなかなか互いの言語になじめないのはそれに尽きる(ノーベル物理学賞受賞者のリチャード・ファインマンは一時、日本語に興味を示したが、これは自分の言語にはならないと学習初期に諦めている)。言語が違うということは文化やものの考え方が違うことでもある。だから、こういうことを原点に考えていない文科省の改革は愚かとすぐにわかる。

 

英文法と言っても、実はいろいろな種類のものがあり、生成文法とか談話文法とかかなり見た目に違うアプローチがとられているが、それらを一通りやることは英語学者を除けば文法オタクに任せておくに限る。英語学界(英文学界ではない)のある種の派閥の関係でできているような面もあるので、いちいちそれらに付き合うよりは、どんどん読んだり書いたりした方がましだ。

 

では、具体的にどんな英文法を?となると、学校とあまり離れたものは脳を混乱させるのでよろしくない。学校で教える伝統的文法はたしかに問題点はあるが、実際に読んでいくときにはそれが障害となって理解できないということはほとんどない。それに、実力がつくと気になる問題は徐々に解消されていく。

自分が見てきた100冊以上(全て読破したわけではない)の文法書の中でよかったと思うのは以下。

 

  (1)『ルイちゃんの英文法 英語の言語感覚』 岩垣守彦著 玉川大学出版部

  (2)『表現のための実践ロイヤル英文法』 綿貫/ピーターセン著 旺文社

  (3)『英語広文典』 田中菊雄著 白水社

  (4)『英文法シリーズ合本全3巻+総索引』 研究社

 

残念なことに絶版がほとんど。(3)、(4)は古いので仕方がないにしても(1)までも。しかも、オンデマンドまで止まっている状況。

(1)は学校での英文法の力点がおかしいと、ネイティブの言語学者の協力を得て作られた著者渾身の作で、対話形式で大変わかりやすく書かれている。多くは中学生からでも十分わかるようになっていて、実用視点でさらに描出話法とか情報構造なんてのもちゃんと入っている。ネイティブ感覚がかなりわかる目から鱗が落ちる内容で、英文法の中の骨格的なところはほとんどこの1冊で済む。高価だったからかもしれないが、ピーターセン教授の人気を考えると、よりまとまっているこっちが絶版に追い込まれたことには驚いている。読了後は現在、手にすることはほとんどなくなった。

細かなところは足りないし、特にライティングで出てくる多くの悩みには応えきれない。それに対応して使っているのが(2)である。もし、たった1冊となれば本書が一番かもしれないが、内容はこれでもかと詰め込んでいて、かつ700ページを超える大著なので、読みやすいが一通りやるのが大変かもしれない。本書にはピーターセン教授がネイティブ感覚を随所に盛り込んでいるので正しい英語を身につける上でとても有益だ。本書はまだ全体の方向性として(1)などと比べて不十分だが、やっと日本人にちゃんと英語を感覚レベルで理解させようという流れが受験英語界で市民権を得始めたことに喜んだことを覚えている(一番手は岩垣教授のはず)。

 

(3)は知る人ぞ知る英語学者が書いたもので、著者の恩師の斎藤秀三郎が書いたスタンフォード大学の教科書にもなったことがある『実用英文典』(現在、原著が和訳再刊されている)よりも出来がいいと思う。本書より自分に合った英文法書は見つかっていない。内容的には(2)よりも少ないが、(2)はむしろ細か過ぎで、座右に置いてすぐに確認して使おうというときにとても整理されている本書の方を参照する。著者は聖書やシェークスピアから例文をとってきたりもしているが、何よりOEDを読み込んで英和辞典を作ったほどの実力者で、かつ高校や大学での教育経験が長く、なぜ、こういうものになったかというのも歴史的にわかるということと、古い本なのに文語と口語の使い分けなど現代でも通用する指摘が多く、体系と実用のバランスが優れていて使い勝手が一番よい。文構造の解剖の仕方、修辞法全般を簡潔に教示してもいるし、発音やアクセントも細かく触れていて、小型版の500ページちょっとでよくここまで過不足無くまとめられるものだと感動さえ覚える(古英語の文章を載せている学習者向け英文法書なんてほかにあるだろうか)。例文が古いので現在では教材として使いにくいというのはあるが、質的にはこれを超えるものを私は知らない。読めば読むほど広い英語の世界が少しずつ眼前に現れてくる感じがする英文法書なんて初めてだ。さらっとした筆致だが、その背後に大きな世界が背負われていることがわかる。本書をやると予備校の文法関係の書籍を読む気など起きない。

(4)は言うことはないだろう。今後、おそらく作られることはないであろう、研究社が英語関係の専門出版社としての威信をかけた全3000頁を超える文法大系である。(3)まで見て困ったときはこれになるという最後の砦だ。使ってみると、専門的あるいは細か過ぎでちょっと一般人にはどうかと思う内容ではあるので、教育者以外にはお勧めしないし、入手も容易ではない。伊藤和夫と山口俊治が湯河原で合宿したとき、このシリーズを読破していることを互いに前提にしていたという代物でもある。

 

ほかに、Practical English Grammar とか英語で書かれたものも有意義なものがあるが、和書との違いの多くは語法に関することが主で、なかなか日本人として抜け出せないとか勘違いがあるとかいう根本的な指摘は分厚い割に多くないので、特に読解力もない段階では読むことは薦めない。まして、Quirk et al. とかCGEL(ケンブリッジの方)などは科学的手法も取り入れた研究者レベルのもので、一般人が手を出すべきものではない。私はランダムに数ページを読んでみたが、とてもやり遂げようという気にならなかった。用語が大変というのもあったが、何でこれを問題にして詰める必要があるのかという項目が多かった。英語学者や教育者になる気はなかった。

もし、たった1冊((4)も1冊とみなす)しか英文法書を持てないとしたら田中菊雄になる。

 

さて、最も大事なことを指摘しておく。

中高と「日本語より論理的な英語(これは大勘違いなのだが...)では英文法が威力を発揮するはずだ。だから、何より英文法を身につければほとんど理解できるだろう」と思いこんでいた。そして、今もそう思い込んでいる人は少なくないようだ。たしかに、英文法は基本で大事だが、家で言えば基礎と骨格部で壁も屋根もない状態のものだ。少し下がれば家らしい形はしているが雨宿りできず、家として全く機能しないのと同様、英語を使う上ではそれだけでは役に立たない。なので、『英文法シリーズ』も済ませたからと言って、それで英文は何でもわかるということにはならない。それは保証できる。

読んだり書いたり話したりも言語習得の活動として、屋根や壁や内装や外構を備えていくことと同様に避けて通ることはできない。

 

 

文法書を100冊以上も触れることになったのは、どういう文法がいいだろうかという探索をしていたことと(談話文法と伝統的文法の融合が学習者向けに思える)、自分に合った文法書がなかなか見つからなかったという事情による。でなければ、一般社会人が『英文法シリーズ』だとか認知文法とか記述文法とかにまで手を伸ばそうとしたりしない(笑)。普通の学習者なら下から上のレベルまで10冊ぐらいまでやれば多様に使えるようにはなるだろう。参照用は別にして、段階的に3冊は最低でも読破する必要がある。そういう意図で上の例をあげた。

 

※※

『英文法解説』『総解英文法』などの有名文法書が無いのに驚く人もいると思う。使い勝手が悪い。辞書的で頭の整理がしにくいことと、バックボーンの違いを感じる。実用習得としては総合的に(2)の方がいい。多くの英文法書はある意味学閥的な傾向の下で纏められたものが多い。また、文法学者は原書を多くは読んでおらず、例文はどこからか探して切り取ってきたというものが多い。著者創作の場合もある。田中教授や岩垣教授はもともとそういった範疇の学者ではなかったので、ほかとは一線を画した書を提示できた。ただし、それが仇にもなって(教授の採用方法の変化が大きいか?)、続く人たちが出てきていない。

既存のやり方を批判するのは簡単。対案を示すのは難しい。例外は斎藤秀三郎だろう。100年も前の彼の辞典は今も翻訳家らが使っている。そんな辞書は誰も実現したことがない。彼は学校を開き、後進を育て、山崎貞や田中菊雄が継ぐが(OALD編纂のホーンビーもこの系列)、今は途絶えて極僅かな書籍が残るのみ。それとは別に旺文社が受験事業を起こし、小川芳男、J.B.ハリス、長谷川潔らを中心として受験英語の柱を形成したが、難関校に対応できず、駿台を頂点とした予備校群に座を譲る。すでに奥井潔や伊藤和夫がその先陣を切っていた。人によっては斎藤の役目をしているのが伊藤だという。冗談はよしてほしい。何も無いところから辞典や教科書、教育体制までを自力で作った斎藤と、『英文法シリーズ』を参照してコンパクトな文法を作った程度の伊藤では話にならない(直読直解は斎藤が既に取り入れている)。英語習得や教育の改革を唱えるなら、(1)や(2)といった日本語と英語のセンスの関係に深く切り込んだものを核とすべきだった(伊藤の実力からは無理)。今は各出版社からいろいろと所謂ネイティブものが出ているが、本格的に体系立ったものはまだ無い。しかし、学界はこの方向は手掛けないだろう。そのあたりが日本の英語教育が貧弱な状態が続いている原因だと思っている。使える英語などと騒がずともやれることはあった。なので、江利川先生のように、昔の受験参考書の良さを正当に評価するのは理解できるが(山貞の復刊を裏付けている)、伊藤の方向に希望を見出しているのは日本人の真の英語教育を考えると的外れで後退的と私は確信している。むしろ、何で同じ大学関係者の岩垣教授の方針を推さないのか理解に苦しむ。

英語を通して文法のエッセンスを突き詰めると次のようになるだろう(言語と思想形態の関係をも示唆する意欲作)。こういうのを独自に構築したとして、予備校で成功するかというと微妙な気はするし、言語機能を抽象化したものを一般人が学習する意味はないだろう。抽象化は教える側はいいが使う側からすると却ってよくない。バランスは難しい。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/487472194X/

 

伊藤和夫が大学に残ることができず予備校に移った頃、日本の英語学なり英文学は固定化されたような状況だった。学界で名を成すには教育は顧みず内輪の中での評価を上げることが中心で、出版社はその名声を利用して専門書と学習商品を出していた。戦後の教育商業システムが確立してきた頃だ。予備校は日陰者扱いで今とは比べ物にならない。収入はよかったが。そんなときに一番に信頼がおけるものはたしかに『英文法シリーズ』ぐらいだっただろう。(1)の大元を岩垣教授が始めたのはまだ先のこと。だから、それを要求すること自体難しいことではある。が、そこまででなくても学界と別に既に斎藤の流れがあり、山貞が君臨していた。その意義を知らずか、伊藤は反旗を翻し、山貞を追放宣言し、結果的に逆行的な方向に進んだ。駿台に移り、日本の秀才たちだけを相手にし、東大京大合格を目標とする中で、日本人が独習して英語を身につける上で何が必要かという主題は優先されなかった。あくまで教壇から「教えてやる」という意識しかなかったせいか(『ビジュアル』『解釈教室』からは強く感じる。田中菊雄とは真逆)、中高といった下のレベルの教育にもほとんど目がいかなかった。秀才だった自分の体験と秀才たちとの授業からは生れようがなかった。それがある意味いびつな伊藤英語の構築に繋がったし、本人も英語が身に付くことはなかった。日本人としての英語学習としては適さない。所詮、受験生向けであり、独習しようという人には薦められないし、後で結局戻ってまた出直したのが私の体験なわけである。信者になりかけたが、一歩手前で正気に戻った。教育する側には便利だろうが学習側は迷惑と言っていい。

TOEIC、TOEFL対策が日本人の英語教育を苦しめこそすれ助けるとは到底思えないし、伊藤英語はこれらや入試のような英文に対して有効性を示すこともあって勘違いされるが、日本人の英語習得としては最終的には却って後戻りを要求するので、最初から立ち位置を見直した教育体系と手段の確立が望まれる。

現代の吟遊詩人(a mistrel)と言われるボブ・ディランが、ノーベル文学賞受賞発表後、コンサートを続けているのに、ノーベル委員会からの電話に応じていない。とうとう委員会は連絡を取ることを諦めている。おそらく、ディランは自分から連絡することも授賞式に出ることもないだろう。

 

ディランの受賞は至極もっともだと思った。歌手という意外性から一瞬は驚いたが、とても納得した。村上春樹なんかよりずっと意義がある。

私はディランファンではない。彼の代表曲というと『風に吹かれて』や『天国への扉』が何よりあがるのだろうが、自分は違う。これらの曲を全く聞いたことがなかったわけではないが、特に感銘を受けたとかそういうことがない。それはビートルズなどとも同じで、レコードを買うとかそういうことがなかった。

 

では、なぜディランを知ってるかと言えば、たった1つの曲『ハリケーン』を聴いたからだ。ディランファンにとってこの曲の評価が高いのかどうか知らないが、ディランと言うと自分にはこの曲しかない。ほかにない。タイトルから最初、カリブ海に発生するハリケーンが猛威をふるって人々が苦しむような話かと思った。全く違った。

冤罪を受けた(と思われる)ボクサーの話を詩にしている。ハリケーンとはある実在した黒人ボクサーの異名。米国での黒人問題は昔も今も何ら変わっていないことはこれでよくわかる。

 

曲も独特なのもあるが、何より、歌詞がえらく長い。ディラン自身、延々と口を動かし続けて歌っている。しかも何分も歌い続ける。よくカバー曲というのがあるが、これを誰かがカバーした話は聞いたことがない(あるのかもしれないが)。そんな気を起させない歌である。大体、日本では、こんな赤裸々な歌を作ろうという歌手も出ないだろうし、まして商品として提供しようというレコード会社がありそうにはとても思えない。少なくともこれほど現実の歌をあまりに若かった自分は聞いたことがなく、衝撃が凄まじかった。この曲は自分のリストの中では何十年も孤立的に別ページにポツンと存在している。

訳詞までしている人のがあった。歌の動画もついている。なぜかYouTubeにはこのバージョンが見当たらなかった。短いかライブかだ。

http://mongahouse.blog119.fc2.com/blog-entry-490.html

 

さて、本題はここから。

現代の音楽市場の歌で歌詞でここまで細かなストーリー展開をした曲をほかに知らないが、歌ではなく、英詩としては実は珍しいことではない。

英文学で散文というと小説を思い描くのが普通だと思うが小説の歴史は長くないし、もともとは長い詩があってそこにストーリーが展開されたことから発展した。つまり、英文学の原点は詩と言っていい。

 

英語をいろいろ勉強している人でも英詩を読んでいる人はまずいないだろう。少なくとも受験までの段階ではいないと思う。英詩を理解するためには一般の学習とは毛色の違う知識が要求されるからだ。文法にしても背景知識にしても違う。もちろん、そういうのが無くてもわかる詩はあるが、多くないし、理解が十分にできない。現代の歌詞とも毛色は違う。そういう中でこの『ハリケーン』は逆行して昔の英詩の世界を示しているように見える。本人はキーツとかの詩を読むべきとか言っているそうなので、なるほどと思う。

各ラインの末尾に注目すると、town-around-crown-down、flame-name-game-him-blame、nigger-trigger といった韻を各パッセージで統一して踏んでいるのがわかる。また、1つのラインの中でも、Just like the time before and the time before that と同音の繰り返しを入れている。いかにも”詩”という作り。

 

俳句や和歌も同じだが、英詩も短い文の中に言葉の世界を凝縮する。難しい。中学はもちろん高校でも教えているところはないだろう。大学の英文科でも授業は多くないのではと思う。しかし、英文学というものを味わおうとしたら、英詩までいかないとその神髄に触れたとは言えないだろう。小説だけでは片手落ちだし、むしろ英詩の方を重視してもいいぐらいだ。少なくとも英文科はそうあるべきではないか。どの道シェークスピアに向かうだろうから、この偉大なる詩人の作品を理解するために。英語学は別だが、英文学についてはそう思う。

 

前に、伊藤和夫を批判的に書いたが、実はこういう点からも思うわけである。受験という世界では仕方のないことかもしれない。しかし、伊藤は英語の世界を示すことはしなかった。誤訳も少なくない彼の実力からすると英詩を理解する力も不足していたと思う。同じ駿台で言えば、伊藤を本人の希望通りに呼び込んだ奥井潔がわずかながら英語の世界を見せていたと言える。ただ、奥井は英語学方面は得意ではないようだ。受講生も奥井ファンと伊藤信者は分かれているように聞いた。伊藤信者は伊藤英語を武器に現代社会に溢れる情報伝達を主軸とする英文のネットワークをそれなりにうまく渡れるだろう。しかし、結局のところ英語という世界を全く知らないままなのは今も変わっていない。

 

無論、皆がシェークスピアを読む必要はないし、簡単に読めるようなものでもない。そこまではいかないにしても、近現代詩にいくらかでも触れる必要性は多いにあると思う。そう思わせる今回のノーベル文学賞だった。

 

 

日本人ではどうだろうか?日本ではあまり詩に対する文化的評価は高くないように思えるが、歌として実現している1人は中島みゆきと思う。

 

※※

以前にも触れた明治大学のマーク・ピーターセン教授は大学時代に英文学を学んでいるが、その頃、詩ばかり読んでいて詩人になろうと思っていたという。こんな感じで、英米人において詩はとても身近で、小説はダラダラと説明ばかりで研ぎ澄まされた詩と比べようもないと見下すような意見も少なくない。日本ではちょっと考えられないと思う。

 

※※※

冤罪の歌というと、実話ではないが、こちらのエリック・クラプトンの I shot the scheriff. (原作はボブ・マーリィ)が一番知られているだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=jooqtlN1Wz8

歌詞として独特なものがほかにあるかと言われると、もちろんたくさんあるが、大ヒットしたものとして今も時々話題にあがるのはイーグルスの Hotel California だろう。この歌詞の背景は深くてなかなかわかった気にならない。1969年にはたぶん、人類が月面着陸したことも含意されているのだろうが。。。

https://www.youtube.com/watch?v=G0ATsOXSPBw

 

ディランの受賞講演が掲載された。いつものように盗作疑惑がある。ハリケーンに関しては元々が実話だけに盗作という範疇には入らないだろう。彼の他の歌に興味が湧かないのは、この現実感とはかけ離れた抽象的抒情性バリバリの表現が甘っちょろく見えて好きになれないからだろう。

https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2016/dylan-lecture.html

91歳の男性が山で遭難したが、同行の犬2匹と寄り添って生きながらえたという。

 

http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51974053.html

(朝日の記事はすぐに消える可能性が高いのでこちらにした)

 

これを聞いてすぐに思ったのが昔あったバンド、Three-Dog Night。どういう意味かは調べてみてほしい。彼らの代表曲が何かは世代的にずれていたので確信は持てないが、たぶんこれだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=BkkgYjazSkk

 

お爺ちゃんは a three-dog night を two dogs で乗り切ったわけである。山に入る人はこういう乗り切り方があることを覚えておいて損はない。

 

 

TDNはとっくに消えてしまっていると思っていたら、今でも活動していることを知って驚いた。

マッチ製造最大手が撤退するらしい。

http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1609/28/news086.html

 

ちょっと驚いた。もっとも、これで日本からマッチが消えるわけではない。ほかの会社の製造は続く。

しかし、仏事が増えたのでわかるが、線香とかにライターで火を灯そうとすることほど情けなく感じるのはいかんともしがたいので、こんな状態になるとは思いもしなかった。

それに、マッチは意外に万能で、その点で本格登山をしている人には知られているから、登山人気の昨今で需要が落ちるとは信じがたいものがある。

http://www.soraironote.com/archives/2896

 

使い勝手のいいサイズのをまとめ買いしようと思っている。

連日、豊洲市場移転問題でメディアは賑わっているが、もう1つの大規模プロジェクト、2020東京五輪の新国立競技場は大丈夫なのだろうか。

 

競技場だから、豊洲のように食の安全のような厳しさはないが、とにかく今回の豊洲市場問題でわかったことは東京都は大規模プロジェクトの監理実施が全くできていないこと、責任を誰も取ろうとしないことがはっきりしたことで、きちんとうまく進まないのではないかということである。

 

設計者の隈研吾は自分の設計の変更については納得しない場合はかなり頑固との印象を持っている。まあ、特に有名な建築家は皆そんな感じだが、中でも隈はこういう大きな案件では筋が通らないことに対しては頑として受け入れないだろう。

実は他の建築家でそういう事例がある。前回の東京五輪が終わったあとの1968年、皇居の新宮殿の設計を任された、当時、日本を代表する建築家 吉村順三が自分の設計を進めていく段階で宮内庁から茶々を入れられて、自分の建築哲学に合わないため、自ら辞任している。

 

天皇陛下御一家の家(正月の一般参賀で一族揃われて挨拶をされるあの建物)がその新宮殿だと言えば、興味が湧くだろう。実施設計に近いところまで図面はできていたらしいが、最終的に宮内庁で変更されたものが現在の姿だ。といってもセキュリティの関係だろうが、皇族および宮内庁関係者以外は入ることが基本的に許されていない。なので、TVで見ている部分しか我々にはわからない代物だ。

 

天皇陛下御一族の家の設計を任されるというのは建築家としては国内でも最高の名誉であるし、その機会も滅多にない。これは建築家として最大の幸運であり、未来永劫に輝く栄誉なのである。それを自ら降りるというのは一般的な人間の感覚としてはちょっと考えられないものである。しかし、侍魂にも近い武骨な頑固者 吉村順三はそうはしなかった。吉村順三としては別にそれで建築家として困ることはないからでもあるが、最高の権威を得るチャンスを建築家の誇りと引換えに自ら手放した。

 

隈研吾の設計案も採用決定後もいろいろ言われている。今回の豊洲市場の建設問題と絡んで都側からの締め付けは反動として大きくなる可能性がある。あまりにそれが強くなると、隈も吉村同様に降りてしまうかも知れない。隈はたしか北京やパリにも設計事務所を抱えていたと思うが、仕事はほかにいくらでもある。これほどの巨大プロジェクトを失うのはたしかに大きな損失になるが、ほかにも多くの巨大プロジェクトのコンペには必ず出てくるから挽回は可能だろう。

 

都の無能さ加減はわかった。はたして、隈はその相手とどう渡り歩いて実現するか。こちらも是非注視してもらいたい。こっちの方が豊洲よりも未来の夢に絡む話で面白いと思う。