世界に通用するガラケー?(スマホも飽和) | An Ulterior Weblog

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ガラケーの生産中止を控えているときに自分のガラケーが壊れてしまったわけだが、はたしてガラケーは本当に通用しないのだろうか?

 

多くの人は高齢者や小さな子供向け程度に考えているのかもしれない。そうだとしよう。すると今後、世界で、中国でさえも高齢化がどんどん進む中で、高齢者割合が増えるなら、ここでガラケーの簡素に特化した機能は世界に出せるのではないかと思う。

 

いま、スマホを使いこんでいる若年層から中堅層の年齢の人たちもいずれは高齢化するそのとき、はたして同じようにスマホを使い続けることができるだろうか?

ある程度の割合でそれは存在すると思うが、もうSNSもネットも面倒だから要らない、あのタッチが簡単にできない、アプリの入れ替えとか御免だ、ということは十分にあり得る。それは日本だけではないだろう。それに、通信設備の維持も容易でないから、あまり高性能の設備を配置できない場合、ガラケーの方が有利ということがあるのではないかという気がする。みな、自分が持つものばかりを気にするが、通信設備の維持更新も大変だ。

 

世界の隅々までネットに繋がる必要が本当にあるのだろうか?皆が皆、いつでもどこでも繋げられる必要性があるだろうか?

スマホの発展に意味があるのか、ガラケーに存在意義があるのかは上記の高齢化問題と生活におけるネットの必要度で決まるだろう。

スマホが出た当時、もっと加速して日本はスマホ化すると予測されていた。しかし、根強くガラケーは残った。それは高齢化とネットへの距離感によってだろうと思う。

1人ならTVもワンセグで構わない。しかし、家族だったら、それがワンセグ形式だろうと地上波形式だろうと大きなTVモニターを使って一緒に楽しむだろう。家庭からTVモニターが消えないのはそこだと言える。生活が違うのだ。

 

スマホの先の究極の通信形態は存在するのだろうか?

私が想像しているものは、帽子かヘアバンドのようなものを頭につけ、サングラスのようなものを使って、頭の中の言葉や映像を全てサングラスに映してそれを加工して通信するシステムだ。今、自分で観たものがそのまま画像なり動画となって送ることもできる。声も発することもないし、指先を動かすこともない。いま、電車の中でスマホをいじり続けているようにヘアバンドとサングラスで何かをしているわけだ。頭の中で「メール」と言って、文章をつぶやけば、サングラスにそれが映しだされ、「誰々に送付」と心で言えば送られる。頭の中同士でチャットを誰かとあるいはグループでできる。通信型コミュニケーションの行きつく先はこういうものだろうと思う。このシステムはAIが入っていて、難しいことは全部やってくれる。細かな設定など何も要らない。

もし、これができたら、高齢者だろうがなかろうが関係ないから普及すると思う。しかし、そこまで行きつくのはまだまだ先だし、本当にこういう方向にいくかどうかわからない。そんなものを始終頭につけてるのはかなわないと思うかもしれないし、ネットで繋がることがとにかく大事だからと付け続けたままかもしれない。今の歩きスマホの人たちからすれば後者だろう。いまだに運転しながらいじっている人も消えない。

 

高齢化は世界共通の問題であり、ネットの必要性も世界の人々の関心度による。その中にいる人間がはたして何を望むか。

パソコンが実質、マイクロソフトに牛耳られたように、個人通信がアップルに牛耳られるのかもしれないし、車は自動運転をGoogleやTESLAなどの誰かが完成させたときに世界支配が決まるだろう。

そう考えたとき、はたしてガラケーに居場所があるのか。

 

実はここでもう1つのファクターがある。識字率だ。

今でも識字率が高くない国は少なくない。米国にしても先進国では低い。そういう中で電話だけは共通に数字によって通じる。ネットを操れない人はまだまだたくさんいるが、電話通信だけは何とかなる。教育システムが改善しても国の状況が悪ければその人たちは装置を操ることが容易でない。認知力の落ちた高齢者も同じである。

ガラケーを携帯プロバイダー独自のネットインフラ専用通信機と考えると日本を飛び出すことは無理だが、機能を通話とメールを主として限定すれば市場は世界を見ると果てしなく広がる。数字とアラビア文字が打ちやすいガラケーなんてのが出たら、アラブ諸国で案外利用者を獲得できるかもしれない。

それに、失明した人は音声認識技術は上がったとは言え、現時点ではスマホよりガラケーの方がまだまだ有意義のはずだ。

 

スマホが本当に世界の高齢者や子供、文盲や失明の人々にとって易しい道具かどうか考えてみる必要はあると思っている。

1つだけ確実に言えるのは、SNSをしていて、神経質な人はスマホは止めた方がよい。いつも回答が来たら即答しないといけないと完全に1日中振り回されること間違いないからだ。その意味で、スマホはネットやゲームの中毒者か他人をあまり気にしないずぶとい人向きと言えなくもない。

 

 

スマホも飽和したようだ。http://iphone-mania.jp/news-95969/

あのグーグルも最近グーグルフォンを出し、アップルへとうとう反旗を翻した。なおさら、ソニーや京セラは別の道として逆転の発想でガラケーを考えてみるべきではないだろうか。日本で依然4割以上もあるというのは、何か大事なものがあることを意味している。何より、PCを広めたビル・ゲイツもスマホを広めたスティーブ・ジョブズも、自分たちの子供にはそれらを制約していたという。人には売りつけておきながら。

 

※※

携帯し易さとデザインで言うと、昔、ほかの人が持っていたIDOの小さく薄いアンテナ付きストレートが一番美しいと思った。初代INFOBAR(これも時々みせてくれと言われたことがある。外人にも言われた)よりもずっと美しかった。INFOBARと違い、目立たない美しさだった。W63Kは少々おもちゃっぽいのを除けば一番近い。そのときは個人で携帯はまだ高くて持てない頃だった。iPhoneのような簡素だがのっぺりしたつまらなさと違い、最低限の機能が調和して織り込まれているのがわかるようなデザインだった。その後、実物を見かけることはなかった。もちろん、ネット接続はできなかったと思う。画像検索をしてみたが、該当するものが見つからなかった。

周囲では仕事に活用している人ほど、ガラケー+タブレットが多い感じだ。