伊藤和夫という幻影(伊藤英語は毒) | An Ulterior Weblog

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現在の受験生はもちろんのこと、社会人で受験勉強なり大学なりで英語を勉強した人々で 伊藤和夫の名を聞いたこともないということはないと思う。受験数学では『大学への数学』が出てくるがごときに伊藤の著書群は必ずと言っていいほど出てくる。しかも、英語だからほぼ全大学、全学部に及ぶ。数学の比ではない。

 

私も彼の著作をやった。しかし、それは社会人になってからで、しかも、英語学習のやり直しの過程でだ。

大まかに英語学習の流れを言えば、普通に中学、高校と英語をやっていたが、伊藤和夫の著作はあったものの、やったのは『英文法頻出問題演習』だけで、『英文解釈教室』や『英文法教室』など一切やらなかった。まず、パッとみてわけがわからなかったのでやる気が出なかったし、本当にこれで英文がわかるのか疑問だった。

大学に入って英英辞典なども使ったりしたが、使いこなせてはいなかった。そのうち専門や大学院で忙しくなり、それまでとなった。

 

就職して英語の試験が定期的にあった。英会話中心。全然しゃべることができない。そのうち、TOEICが導入されるが、できないのは当然だった。スピードに戸惑った。ラジオ講座などの比ではなかった。

会話はもう相手付きでやるしかないと、会社が導入している研修に何度も出たが、徐々に頭打ちで上がる見込みがなくなった。何より、いくら英会話でパターン学習して会話が続くようになっても、一向に英字新聞とか論説がまともに読めない。

それでTOEICを捨てた。大体、真っ当な論説といった深い内容の英文が出題されないから、読めないのは当り前。

 

会話なんか海外事業所のある我が社でさえ、使う機会はほとんどなく、むしろ英文記事とか論文とかが重要だったので、読めることを目標に大学受験時代に軸足を180度戻した。そこで中心的に登場したのが伊藤和夫だ。

『英文法教室』に始まり、3部作を消化。そこから、英文が少し読めるようになり、TOEICも上昇した。しかし、わかったことは伊藤シリーズでは全然実務上は足りないということだった。その後は多田正行、朱牟田夏雄、高橋善昭、佐々木高政などなど、難しいと言われる参考書をどんどんやった。もちろん、気楽に英文が読めて楽にわかるなどという状態ではないが、理解は相当に進んだ。英文が読めるようになるとCNNも聴けるようになっていった。元々TVを観ない方なので英語放送を聴き取る訓練はしていない。

現在の英語力は伊藤和夫から始まったわけである。『ビジュアル英文解釈』はすでにあったが、対話形式は数学含め、どうも相性悪く、あとで調べるにしてもわかりやすくなかったのでやめた。それに学問の雰囲気が3部作の方にあった。

 

伊藤和夫でやり直してから5,6年後には何とか論文が自力のみで書ける程度になり、10年過ぎた頃には、英語が少しはできるようになったと思えるようになった。会社があるから大して時間は割けなかったが、これも伊藤のおかげだと思った。あそこから全てが回り始めたのはたしかだ。しかし、さらに経過した今振り返って思うが、伊藤和夫は必要ではなかった。途中から放棄している。体系性は別にしても英文の理解に関して言えば伊藤でなければならない理由は全くない。

 

では、なぜ受験生にかくも受け続けられているのか?

限られた時間で高度な内容と高速処理を要求される現在の受験は戦前や戦後すぐの時代とは要求されるものが変わっている。伊藤はそれを察知したのか、はるか以前に『英文解釈体系』という分厚い書籍を最初の勤務先、山手英学院時代に書いている。学術書みたいな代物だが、それにより伊藤の英語は事実上完成した。しかし、これは全くどこの関係者にも響かなかった。それを簡約して受験生向けに書いた『解釈教室』を出し、それまで同じ研究社から出ていたロングアンドベストセラーの山貞『新々英文解釈研究』を葬りさっている。当然だ。それまで、予備校講師が自分のノウハウを書籍として現役の高校生にまで広げて書籍で伝授するなどということは予備校側からしてみればとんだ謀反だからだ。それを突き崩し、時代は伊藤に味方、東京という狭い一地域から日本の隅々まで『解釈教室』を行き渡らせることに成功する。そして、その強力な体系性によって入試英文をばっさばっさと切り刻んでいくことに受験生は達成感を得、絶大なる信頼から信者が無尽蔵に今なお増え続けている。

それまでの学習ではいつももやもやするものが、体系分類されてくっきりと見えることで世界観が変わる衝撃は大きい。しかし、それはただ形を観ているだけで言葉そのものの世界に入り込んでいない。もやもやしていたものは実は本質的で、伊藤の体系はそれを吟味せず、型分類という違うメガネである程度語句間の関係づけをしてしまう高い機能性に魅力を感じてしまうわけである。

 

しかし、やったことがある人で、その後、英語を使う仕事に携わった人などはわかると思うが、伊藤英語では実務に通用しない。英語の世界は伊藤が作った体系性で何もかも解決がつくほど矮小な宇宙ではない。原理的にその体系が英語という言語に存在するにせよ(文法の5文型分類も同類)、現実に英文を前にした人間にはその道具は大げさ過ぎるし、即効性に長けてるわけでもない。野球の投手が投げたボールの動きは厳密に物理学に完全に支配される。しかし、だからといって投手は物理学を解析力学から理解して極めようという話はないし、その必要もない。

日本人だから国文学を修めていなければいけないということがないように、英語を理解する上で伊藤英語が仮にその原理だとしても、修める必要はない。むしろそのような原理的体系は行き過ぎで、英語学を修めるならいざしらず、せいぜい、英文法の骨子を理解したあとは多田正行の『思考訓練』シリーズのような因数分解の意識程度で十分であるし、ほかにももっと実用的に使えて学習のハードルが低いよい参考書はたくさんある。むしろ、本当に読解で実力をつけたいなら伊藤の著作よりも適しているのはそっち。ただし、受験の評判などがそれをある意味阻止してきたと言える。

 

私自身、かなりの参考書をやった。そして、まだ未熟な自分の現状を見て、その状況に納得している。英語で生活しているわけでなし、1日に英語と接する時間も限られる。おのずとどこまでならいけそうかということが終いにわかってくる。そこまでの、言わばアマチュアとしての道のりはそれでも非常に長い。恐ろしく長い。しかし、終わりは必ずいずれ見えてくる。そうしたとき、伊藤英語は必須か?あるいは本当に真実の道か?と問われれば、私の答えは断然ノーだ。むしろ、伊藤英語を最初にやってしまったがために、かなり英文理解の自由度を失ってしまい、相当に視界を限定され、効率が大事な受験はいいが、取りこぼしがあまりに多大で大変な昨今なのである。

 

伊藤はこの体系が意識下に沈むようになるのが目標と言っているが、多読していけばいくほど、伊藤英語を学習した意味を失っていく。伊藤英語はやりすぎだ。そもそもが邪魔過ぎるのである。それは『ビジュアル』によって克服されたように見えるが、ビジュアルでやろうとしたことは別にそれまでの参考書にもあったことなのである。違いは直読直解への手法+体系性の並立だ。後者は学者と教育者以外は不要だし、前者は別に通訳業界の中で手法は出ていた。独自性は構文の詳細な分類を除いて無いと言える。

何より、伊藤英語は英語の各種形態の構造のみに集中していて、日本語と英語との関係性を扱っていない。それを明確に行ったのは多田正行の著作だろうが、ほかにもそれらしいものはポツポツと古くからある。

 

なぜ伊藤は道を誤ったのか。

伊藤が如何に金銭的に恵まれようとも、予備校というアウトサイダーの世界にしか行き先がなかったことへの怒り、東大哲学科に教員としての道を閉ざされたことへの怒りが、英語学界への挑戦だったのだろう。そして、誰も実現しなかったこと、そして受験界に身を置く者として、そのトップに立つことで見返してやろうと誓ったのだろう。

具体的にどうするか。コロケーションの類は斎藤秀三郎や山貞がすでにある。出てきたのが隅々までの体系化だった。なぜ、こんなことができたのかは中学や高校で原書をたくさん読んだことと、当時の受験参考書を一切やらなかったことによるようだが、この英文構造の分析的アプローチに道を見出し、成功を遂げた。哲学科で学んだことも大きな助けになっただろう。哲学とは思考のフレームワーク分類だ。伊藤英語はまさしく文のフレームワークを提供する。しかし、その代償として日本語と英語の関係性を失った。英文の構造を示しているだけで、英語と日本語の関係(論理関係や概念の類似性とか非親和性など)といったものは一切扱っていない。言語間の関係性を無視すると、構造対応をいくら頑張っても誤訳が多発する。この関係性は文法ではカバーしきれない(できなくはないが、膨大な寄せ集めで終わる)。

そのため、翻訳家で翻訳者養成機関主宰で伊藤に直接学んだ柴田耕太郎に『解釈教室』の中の誤訳をびしばし指摘される羽目に陥っている。構造さえあっていれば日本語との関係性、すなわち翻訳はそうぴったり決まらなくてもいいではないかという意見がおそらく伊藤信者からは上がるだろう。構わない。しかし、それなら伊藤英語の世界を拡大解釈で喧伝してくれるなと言いたい。どこに適当な翻訳で問題がないなどといういい加減な国があるのか目を覚ましてよく周囲を見るがいい。日本は昔から誤訳天国と言われるが、それは伊藤英語がこれだけ蔓延しても変わっていない(マーク・ピーターセンも信頼する高見浩や柴田元幸らの翻訳者や学者は伊藤英語以前の世代)。私はむしろこれからどんどん増えるのではないかとさえ思っている。伊藤の体系性が有効なのは伊藤が生きていた時代までで、今後は関係性がどんどん重要度を増す。特にネット社会の拡大がそれを要求する。多言語間で相互に変化が激しくなっていくのは間違いないからだ。

 

伊藤英語は実は薬のように見えて毒であり、日本の英語の未来を危うくすると言うのが私の現時点での意見である。

伊藤は自分の敵、多くは英語学界の人たちに対して、自分のような代案を示していないとしているが、実はちゃんとした道は存在していた。伊藤が示している道は英語習得の本道などではない。それを見抜けていなかったし、多くの受験生からそれを見えなくしてしまった。受験という枠に限っても、せめて多田が主導権を握っていたら、日本の英語はもっとましになっていたのではないか、本当に上位の人たちの実力が本物になったのではないかと思う。柴田耕太郎は訳語だけが問題で、伊藤英語が本質的な問題を抱えているとは全く認識していないようだが、事はそんなレベルではない。

文法ばかりやっていても、それで実力がつかないことは多くの人は理解できるだろう。伊藤英語はそれと同類のものに過ぎないが、細かく強固な分類で絶大な効果を学習初期(大学入試問題のほとんどは難関大でもその程度のもの)に発揮してしまい、勘違いし、それが強く残っていつまでも構造分析頼みになり、コロケーションなどの意味分析からの構造展開に転換しない。このとき、英語の論理が重要でそれは単語レベルでの関係性や日本語論理との相対性を認識しないことには成立しない。そこに結び付く術は伊藤英語にはない。英語を抽象化するだけで言葉そのものをみていない。山貞を駆逐することは自分の体系の毒性を意味することを伊藤は理解していなかっただろうし、その先をやれる素質も能力もなかった。あったなら、伊藤英語は大きく姿を変えていなければならない。

誤訳天国の状況はまだまだ続きそうだ。

現時点で解決策を示せと言われれば、伊藤はやめろ、多田やほかをやれ(残念なことに多田は現在品切れの模様)ということになる。多くの予備校講師のものも伊藤がひな型になっているので、できれば避けた方がいい。

 

とまあ、書いては見たものの、ほとんどの人、特に受験生は伊藤英語に助けられている現実はある。学習初期での伊藤英語の効果は絶大だ。なので、戯言かと思われるだろうことは承知だ。私も信者になりかかった時期があるが、英語を使うことが増えると、やはり何かこれはおかしい、教える側はその体系性から扱いやすいが、真に実力がつくものではないとわかって、今は全く別のアプローチで消去するようにしている。

伊藤でやり直し学習を始めた1年たらずの間に学習効果は出たが、その後は全く参照することはなく、まれに全文法書を調べるときに『文法教室』を見るぐらいだ(特殊な文法書だが出来はたしかによい。大元は研究社の『英文法シリーズ』と思われる)。今は自分の英語の洗い直しとでも言えようか。

それにしても、伊藤よりこっちをやるべし、という意見はあっても、私のように真っ向から否定する人は伊藤をそれなりに習得した人間の中では初めてかもしれない。ね、江利川先生?(笑)

 

 

英語ができるようになりたいと切に望む場合、一体どうすればいいのか?答えは簡単で、日本人なのになんでこんなに英語がわかるの?という人からテキストでも何でもいいので伝授してもらうしかない(その逆の例がまさしくマーク・ピーターセン)。そして、それは決して初歩的な誤訳を犯している伊藤和夫などではない。多田正行はかなり英会話コースで頑張った経験を持つが、そこに道がないことを悟り、思考訓練シリーズを著した。両者の実力差は相当にある。いや、はっきり言おう。伊藤は英文をちゃんと読むことができない。でなければ、あんな訳文が書籍のあちこちに散らばることはない。多田もいい訳とは言えない部分はあるが、伊藤の酷さと比べたら問題なしと言っていい。ピーターセンは明治大学の学生の英語の質が上がらないことを中学の英語教科書にあるとして批判しているが、伊藤英語に対してももしかしたら思っているかもしれない。(もし、それが書物にでもなったら、伊藤英語も衰退するかもしれない)

 

※※

伊藤が実力者でないことは明白だが、そうは見えない非実力者がいる。東大名誉教授の朱牟田の誤訳は知られるようになったが(とてもいい訳をするかと思えば基本的なところで踏み外してたりする)、さらに、英語の神様とも言われる佐々木高政である。これについてはいずれ書くかもしれない。こう書くと、では、もともと日本には実力者はいるのか?と思われると思う。何人かいる。しかし、鬼籍に入った人たちばかりで、その書籍を手にすることは今やほとんどできない。

翻訳分野でもハードボイルドでは知らない人はいない実力翻訳者 小鷹信光も昨年亡くなられた。彼はどんなに頑張っても穴はあり、7割でよしとする覚悟も翻訳には要ると言っている。翻訳と言えば、村上春樹も有名で、高校時代からずっと自分でやっていた。しかし、理解度は浅いことがピーターセンによって指摘されている。日本の英語は寂しい状況が続く。

 

※※※

伊藤和夫の東大英作文の講義動画があったが、いつの間にか消えたか対象限定になったか見れなくなった。講義全体の流れは悪くなかったが、できた英文は一部変だった。そのために英文全体がきちんと意図通りに受け止められることがないという代物だった。日本語からそのまま選んだために、違う意味になってしまっていた。正直、こんな間違いに全く気がつかないという語感や実力でよく東大入試を教えられるものだなぁと驚いた。伊藤英語が語感の前段階だとしても(それにしてはあまりに重々しいが)、教える本人の語感が貧弱では教わる方はたまったものではない。伊藤は英作文の著作がない。実力がないからだ。同僚になぜと訊かれて、英文を示してもネイティブにああだこうだ言われたらそれまでだからというように応えたと聞く。そりゃそうだろう、この実力では。英語は本当にわかっている人から指導を受ける以外に正しい道がない。

 

本稿を静岡県三島市の英語塾 自由堂さんに捧げさせて頂きます。どうです、自由堂さん?膝を叩いてなるほどと笑って頂けると思うんですが?(笑)

 

本稿に絡んでさらに別途、稿を起した。

http://ameblo.jp/speedflex/entry-12266997140.html

伊藤和夫は弟子ともいえる入不二氏に自分のこの英語界への挑戦は「怒り」の結果と応えているが、こんなものを世に出して英語学習者を惑わしやがってと、私が「怒った」内容である。