モーティマー・サックラーの受難 | Souvenirs de la saison

モーティマー・サックラーの受難

名花誕生

 

オールドローズの多種多彩な香りと姿形、そしてモダンローズの四季咲き性を兼ね備えたイングリッシュローズ。

1980年代から今の今まで、世界のバラ愛好家に愛されてきました。

もしイングリッシュローズの中から好きなものを3つ挙げろ、と言われたら、

①アブラハム・ダービー

②グラハム・トーマス

そして③モーティマー・サックラーでしょうか。

 

 

 

モーティマー・サックラーは、大きな蕾から剥がれるように外側の花弁を大きくのけぞらせ、

中心へ咲き進むうちに八重の花弁はふわりふわりと、

まさに咲き「乱れる」という言葉がぴったりの風情で、ほどけていきます。

それが遠くから俯瞰して見ると、その色といい桜の花の散り際にも似て、

日本人の感性にも合っているなあ、と思うのです。

 

メアリー・ディレイニー

【旧モーティマー・サックラー】

2002年 デヴィッド・オースティン

 

ところが、このモーティマー・サックラー、

20年の時を経て「メアリー・ディレイニー」へと改名されてしまいました。

花の名前に人物の名前をつける、それも存命している人ともなると、

これが将来なかなか厄介なことになる、

そんな典型のひとつがこのバラなのです。

 

 

 

モーテイマー・サックラーの栄華

 

イングリッシュローズに限らずバラの名前には、ある人物を記念してその人の名前がつけられることが多いのですが、

御多聞に漏れずモーティマー・サックラーも、同名の人物から取られました。

イングリッシュローズの場合、通常は総帥のデヴィッド・オースティンが命名します。

しかしこのバラだけは命名権がオークションに掛けられ、それを落札した女性が夫へのプレゼントとして夫の名前をつけたのだそうです。

ナショナルトラストの基金へ寄付するために行われたこのオークション、

落札したのは「まさか」の人の、その妻でした……

 

そのまさかの人こそサックラー一族の一人、モーティマー・サックラーでした。

彼らの製薬会社、パーデューファーマの開発したオピオイド製剤のオキシコンチンという鎮痛剤は、慢性的な痛みに大きな改善効果が見られるため、痛みに苦しむ多くの人に処方されました。そして薬剤の売り上げは天文学的に伸びて、一族はたった10年ほどで巨万の富を手に入れます。

 

芸術をこよなく愛するサックラー一族は、美術館や博物館へ多額の寄付を贈り始めます。スミソニアン博物館ではサックラー家から受けた寄付金を記念して、サックラー美術館を開設したほどです。彼らは芸術の庇護者としての名声をも轟かせたのでした。

そんなサックラー一族がバラの命名権を落札した訳ですから、オークションが行われた2002年、当時はちょっとした話題にもなったのかもしれません。

 

Sackler Gallery.jpg 
スミソニアンにある「サックラー・ギャラリー」 somorphic CC 表示-継承 3.0, Link

 

 

 

モーティマー・サックラーの失墜

 

しかし、2010年代になって、以前からあった火種が燃え盛ってしまいます。鎮痛剤の効き目が、謳っている効能と違ってあまりにも早く効力が切れてしまうために、たくさんの乱用者を生んでしまったのです。

元々がモルヒネやヘロインと同成分を含むこのオキシコンチン。薬効が切れれば麻薬と同じで離脱症状が出てしまうほどの高い依存性があったのです。

医者はそれを知りつつも薬を与えておけば患者もおとなしいがために処方箋を出し続けてしまい、結果的に100万人を超える依存患者を出してしまったとされます。

同様の薬で2015年にトヨタ自動車の常務役員が、2017年にはタイガー・ウッズが運転中に逮捕されたのも記憶に新しいところです。やがてオピオイド製剤は処方箋無しに濫用され、「成功者のドラッグ」と呼ばれるようになりました。

これは世界中で大麻解禁の流れになっていることと無関係ではないように感じます。

 

そして今では多くの美術館がモーティマーらの寄付を拒絶するようになっているそうです。最初から薬の効果の持続時間を偽っていた疑いもあり、彼らの製薬会社は死の商人のように世間から指弾されるようになったのです。

今は三菱商事がサックラー美術館に所蔵される東洋美術を守るべく、巨額の寄付をするようになりました。

 

 

 

歴史から抹消されたその名前

 

Kew Gradens Sackler Crossing.jpg
キューガーデンへの寄付により誕生した「サックラー橋」  By Prl42 - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

 

当時齡90にならんとするモーティマー、妻テレサの心境はいかばかりだったでしょう。

あのアルフレッド・ノーベルもそうでした。発明したダイナマイトで、巨大土木事業は大きく前進して素晴らしい未来がやってくるはずだったのに、もっともダイナマイトが活躍したのは戦場でした。

ノーベル賞は彼の罪滅ぼしだったのかどうかは知りません。モーティマーたちの華々しい慈善、それもまた何の意味合いだったのでしょう。

 

2022年、オースティン・ローゼスはサックラー一族の名前を冠するバラを残すことは無理だと断じたのでしょう、

その名を銅版画家だったメアリー・ディレイニーに改めてしまいました。

歴史上悪名高きアン・ブーリンやルイ14世であっても、その名のバラがいまだにあるのにも関わらず、これは珍しいことではないでしょうか。

 

 
すでに鬼籍に入ったモーティマーと妻テレサの住んだイギリスの邸宅には、著名な作庭家アラベラ・レノックス・ボイド氏に依頼した2万4000坪の大庭園も存在します。おそらくそこにもたくさんのイングリッシュローズ、そしてたくさんの「モーティマー・サックラー」がピンクの花をたわわにつけているものと想像します。
 

それは作出された当時も今も、当たり前ながら、微塵も変わらぬ美しさで咲いていることでしょう。

今となっては「モーティマー・サックラー」ではなくなってしまった、その穢れ無き無数のピンクの中輪の花が。