生活の保護か、社会の安定か?
お金は大事である。
お金が大事だと言う意味が、裕福になるための手段として大事というのではない。
お金とはいとも簡単に出てゆくものだが、得るのには大変困難を伴うものである。
ひとたび収入の口が途絶えたら、別の収入源を切り開くのが大変なのは、失業したことのある人なら痛いほど分るはずで、お金とは、なめて掛かってはならないもの、そんなものに縛られてる恐ろしさに対して大事だと思うのである。
であるなら、一気に法外な金額を得ようとする行為も、いかに安いものを得ようかと安物買いの銭失いに走ることも本質的には同じで、どちらもお金が簡単に出てゆくものであり、得るのには大変困難を伴うものということが忘れられてしまってる感覚なのである。
お金は価値の基準となっているので、全てのものには価格が付けられる。
スーパーのあらゆる商品にはそれに見合った価格が付けられ、あなたの労働にも給料という価格が付けられている。
「金で買えないものはない」ということであり、自分の時間を切り売りする以外に生活する術がないということである。
つまり人は、易々とお金の呪縛にはまらざるを得ない環境にいるのであり、そこからどう距離を取るかが大事ということである。
本来、価格とはモノの価値が適正かどうかを表わす指標であるのならば、広い意味では社会の価値基準が適正なものかという感覚が根本的に関わってくるのです。
適正な社会の価値基準とは、何が正義で、どうあれば人はまっとうなのかということなので、「公正さはどうあるべきか」という感覚が問われてくるのです。
社会はその運行を首尾よく進めるために、公正な感覚を頼りに安定させてゆかなければならないのです。
本当の意味でのお金が大事という感覚を忘れてしまい、楽して一気に法外な金を得ようとしたり、いかに安いものを買って得しようとすると、どういうことになるのか?
ひとつの例として、テレビ芸人の親族が生活保護をもらっていたという報道が象徴的である。
誤解しないで欲しいのが、芸人の親族が生活保護をもらうことが良いか悪いかを判定したいのではない。
誰が生活保護をもらうべきかの議論でなく、生活保護というものは社会の運行上、どういう役割を持つものか理解しなければならない。
誰が生活保護をもらうべきかの議論は、誰に施しを恵むか、個別に指名することが前提の議論で、結局「恵まれない人」のためになる。
そしてそこに群がるのが、楽してもらおうとする者や収入が少ないのを装ってもらおうとする者が現れるのは至極当然なのです。
社会は公正な感覚で安定させてゆくことが目的ならば、不運な目に会った人を極力少なくする使命を少なからず帯びているのです。
そしたら、生活保護というものは「恵まれない人」に配るのは当然ではあるのだが、社会を安定させるために配るという役割があるのも理解できる。
社会を安定とは?
お金に困ってる人の中には、出来る限りの努力をしたにもかかわらず不運にも落伍者となった人も少なからずいる。
そういう人たちは、生活保護という社会の施しを簡単に受けることにもプライドが傷つくのです。
できるならば仕事が欲しい、仕事で稼いで生活を立て直したい。そんな思いです。
社会の安定とは、恵まれない人に配ればおしまいと簡単にはゆかず、人が生きる糧を実感できたりすることが達成されて始めて安定と呼べるのであり、勤労のありがたみというのはそういう意味が込められているのでしょう。
そういう思いを巡らせれば、お金は大事なんて簡単に締めくくれないものなのです。
お金が大事だと言う意味が、裕福になるための手段として大事というのではない。
お金とはいとも簡単に出てゆくものだが、得るのには大変困難を伴うものである。
ひとたび収入の口が途絶えたら、別の収入源を切り開くのが大変なのは、失業したことのある人なら痛いほど分るはずで、お金とは、なめて掛かってはならないもの、そんなものに縛られてる恐ろしさに対して大事だと思うのである。
であるなら、一気に法外な金額を得ようとする行為も、いかに安いものを得ようかと安物買いの銭失いに走ることも本質的には同じで、どちらもお金が簡単に出てゆくものであり、得るのには大変困難を伴うものということが忘れられてしまってる感覚なのである。
お金は価値の基準となっているので、全てのものには価格が付けられる。
スーパーのあらゆる商品にはそれに見合った価格が付けられ、あなたの労働にも給料という価格が付けられている。
「金で買えないものはない」ということであり、自分の時間を切り売りする以外に生活する術がないということである。
つまり人は、易々とお金の呪縛にはまらざるを得ない環境にいるのであり、そこからどう距離を取るかが大事ということである。
本来、価格とはモノの価値が適正かどうかを表わす指標であるのならば、広い意味では社会の価値基準が適正なものかという感覚が根本的に関わってくるのです。
適正な社会の価値基準とは、何が正義で、どうあれば人はまっとうなのかということなので、「公正さはどうあるべきか」という感覚が問われてくるのです。
社会はその運行を首尾よく進めるために、公正な感覚を頼りに安定させてゆかなければならないのです。
本当の意味でのお金が大事という感覚を忘れてしまい、楽して一気に法外な金を得ようとしたり、いかに安いものを買って得しようとすると、どういうことになるのか?
ひとつの例として、テレビ芸人の親族が生活保護をもらっていたという報道が象徴的である。
誤解しないで欲しいのが、芸人の親族が生活保護をもらうことが良いか悪いかを判定したいのではない。
誰が生活保護をもらうべきかの議論でなく、生活保護というものは社会の運行上、どういう役割を持つものか理解しなければならない。
誰が生活保護をもらうべきかの議論は、誰に施しを恵むか、個別に指名することが前提の議論で、結局「恵まれない人」のためになる。
そしてそこに群がるのが、楽してもらおうとする者や収入が少ないのを装ってもらおうとする者が現れるのは至極当然なのです。
社会は公正な感覚で安定させてゆくことが目的ならば、不運な目に会った人を極力少なくする使命を少なからず帯びているのです。
そしたら、生活保護というものは「恵まれない人」に配るのは当然ではあるのだが、社会を安定させるために配るという役割があるのも理解できる。
社会を安定とは?
お金に困ってる人の中には、出来る限りの努力をしたにもかかわらず不運にも落伍者となった人も少なからずいる。
そういう人たちは、生活保護という社会の施しを簡単に受けることにもプライドが傷つくのです。
できるならば仕事が欲しい、仕事で稼いで生活を立て直したい。そんな思いです。
社会の安定とは、恵まれない人に配ればおしまいと簡単にはゆかず、人が生きる糧を実感できたりすることが達成されて始めて安定と呼べるのであり、勤労のありがたみというのはそういう意味が込められているのでしょう。
そういう思いを巡らせれば、お金は大事なんて簡単に締めくくれないものなのです。
「経世済民」としての経済
お金儲けを成功させるには?
「儲かってる人のそばに集まること」と経営者、とりわけ起業家と呼ばれる人たちはよく言う。
本当だろうか?
テクニックとしての「金儲け」のノウハウを仕入れたり、実際に彼らも儲かる人に近づくことによって成功させてきたという点ではあながち嘘ではないのだろう。
より多くの額をいかに稼ぐか、いかに貯め込むかに関心が高まるにつれ、「私の夢」は「経済的に豊かになること」と思ってる人は少なくないはず。
そして大衆のお金に対する執着を端的に表わすものとしては、「幸せにとって何が一番大事か」の命題に対し、やぱり「お金」に行き着いてしまう現実がそれを物語ってしまってる。
果たして、お金は大事か?
大事ではある。
いくら綺麗事を言っても、食べ物や住まいを得るにはお金がいるし、お金に余裕があれば心に余裕も生まれるものです。
だからお金をより多く得る方法に関心が集まるのは自然です。
ここまでは良しとしよう。
「お金儲けをして、世の中の役に立ちたい」と取って付けたようにお茶を濁してる人はまだマシな方だが、大半は「幸せ=お金、お金を儲ける方法はコレです」それで話はおしまい。
でも彼らはそれでいいじゃないか、悪いことをしてる訳でないし、そうやってお金に対する抵抗感を示すことはしょせん稼げない人の負け犬根性だというのです。
中には「私は毎日30分しか仕事をしていません。効率よく仕事をする知識を身につけるべきです。」といって、これを「成功」と呼んでいる始末です。
果たして彼らの言ってることや考え方は正しいのか、理にかなっているのか、健全なのか?
あんたはそれでいいかも知れないが、例えばお巡りさんが30分しか仕事しなければ、治安はどうなるとか世の中が全く見えてない奴が、エラそうに私の成功術として本を出版してたりするのです。
こういう人のやってることを本当に成功と呼べるのか?
成功とは?
描いた夢(経済的に豊かになること)が現実になることと解釈されるが、法外の金銭収入を得るようなことと取り違えてることに気づきなさい。
本当の成功とは「サクシード」と言う語源から分かるように「上首尾にゆく」ことなのです。
「与えられた諸条件下でうまく事を進行させる」という含意であり、無から有を生じさせる類の奇跡めいた話とはかけ離れているのです。(※1)
また世の中では「経済的に豊かになること」が単純に幸せの具体的なものと解釈されるが、この「経済的」とは金銭(マネー)を集める手段やたくさん蓄積することと取り違えていることにも違和感を感じざるを得ない。
「経済」とは「経世済民」のことで、これは「世を治め、民を救う」というのが本来の意味です。
世の中で自分の人生や家族を含めて、いかに上首尾に運ぶか。その政治的な家政術をことを指すもので、金銭獲得に特化した意味とは程遠いのです。
世の中をうまく運んでゆく、このことに成功することが本当の「成功」であり、本来の「経済」は、マネーゲームの意味ではなく、政治的な意味があるのです。
今の経済学では、世の中は救えません。
経世済民と言う発想は、古代の哲学者も同じく持っていたものです。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」で、いかに奴隷を治め、国の家「国家」をうまく切り盛りしてゆくかを幸福論として説いているように、経世済民の思想が根底にあったのです。
奴隷制がいいか悪いかはここではひとまず置いておいて、仮に弱い立場の我々一般市民が古代でいうところの奴隷(統治される側)の位置にあるならば、それを含め国家をいかに運営してゆくかを考えられる政治家、知識人、エリートが発言権を持つべきで、ちょっとしたビジネスで成功した人とか、近代経済学で政治を、世の中を救えるという知識人が表舞台に立たれては困るのです。
※1 西部邁著「昔、言葉は思想であった」より一部拝借
「儲かってる人のそばに集まること」と経営者、とりわけ起業家と呼ばれる人たちはよく言う。
本当だろうか?
テクニックとしての「金儲け」のノウハウを仕入れたり、実際に彼らも儲かる人に近づくことによって成功させてきたという点ではあながち嘘ではないのだろう。
より多くの額をいかに稼ぐか、いかに貯め込むかに関心が高まるにつれ、「私の夢」は「経済的に豊かになること」と思ってる人は少なくないはず。
そして大衆のお金に対する執着を端的に表わすものとしては、「幸せにとって何が一番大事か」の命題に対し、やぱり「お金」に行き着いてしまう現実がそれを物語ってしまってる。
果たして、お金は大事か?
大事ではある。
いくら綺麗事を言っても、食べ物や住まいを得るにはお金がいるし、お金に余裕があれば心に余裕も生まれるものです。
だからお金をより多く得る方法に関心が集まるのは自然です。
ここまでは良しとしよう。
「お金儲けをして、世の中の役に立ちたい」と取って付けたようにお茶を濁してる人はまだマシな方だが、大半は「幸せ=お金、お金を儲ける方法はコレです」それで話はおしまい。
でも彼らはそれでいいじゃないか、悪いことをしてる訳でないし、そうやってお金に対する抵抗感を示すことはしょせん稼げない人の負け犬根性だというのです。
中には「私は毎日30分しか仕事をしていません。効率よく仕事をする知識を身につけるべきです。」といって、これを「成功」と呼んでいる始末です。
果たして彼らの言ってることや考え方は正しいのか、理にかなっているのか、健全なのか?
あんたはそれでいいかも知れないが、例えばお巡りさんが30分しか仕事しなければ、治安はどうなるとか世の中が全く見えてない奴が、エラそうに私の成功術として本を出版してたりするのです。
こういう人のやってることを本当に成功と呼べるのか?
成功とは?
描いた夢(経済的に豊かになること)が現実になることと解釈されるが、法外の金銭収入を得るようなことと取り違えてることに気づきなさい。
本当の成功とは「サクシード」と言う語源から分かるように「上首尾にゆく」ことなのです。
「与えられた諸条件下でうまく事を進行させる」という含意であり、無から有を生じさせる類の奇跡めいた話とはかけ離れているのです。(※1)
また世の中では「経済的に豊かになること」が単純に幸せの具体的なものと解釈されるが、この「経済的」とは金銭(マネー)を集める手段やたくさん蓄積することと取り違えていることにも違和感を感じざるを得ない。
「経済」とは「経世済民」のことで、これは「世を治め、民を救う」というのが本来の意味です。
世の中で自分の人生や家族を含めて、いかに上首尾に運ぶか。その政治的な家政術をことを指すもので、金銭獲得に特化した意味とは程遠いのです。
世の中をうまく運んでゆく、このことに成功することが本当の「成功」であり、本来の「経済」は、マネーゲームの意味ではなく、政治的な意味があるのです。
今の経済学では、世の中は救えません。
経世済民と言う発想は、古代の哲学者も同じく持っていたものです。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」で、いかに奴隷を治め、国の家「国家」をうまく切り盛りしてゆくかを幸福論として説いているように、経世済民の思想が根底にあったのです。
奴隷制がいいか悪いかはここではひとまず置いておいて、仮に弱い立場の我々一般市民が古代でいうところの奴隷(統治される側)の位置にあるならば、それを含め国家をいかに運営してゆくかを考えられる政治家、知識人、エリートが発言権を持つべきで、ちょっとしたビジネスで成功した人とか、近代経済学で政治を、世の中を救えるという知識人が表舞台に立たれては困るのです。
※1 西部邁著「昔、言葉は思想であった」より一部拝借
未来に対する前のめり
ここにロマンチストな質問がある。
「君はなぜ明日を生きられるのか?」
少なからず誰もが昨日より今日、今日より明日の方が状況が良くなって欲しいと、明日の展望を何となく抱けているから生きる活力が湧いてくるものであろう。
もちろんはっきり意識されるものではない。
もし仮に明日になれば持ち金が尽き、1年後には周りから全ての人が自分の元から去ってゆくのを自覚されてしまえば、それは生きる活力も失われるだろう。
しかしそんな都合よく全ての未来に希望を持てるほど、簡単にゆかないことは現実生活で誰もが感じてもいる。
そこに誰もがおちいる罠(トラップ)がある。
「未来に対する前のめり」である。
簡単な例だと、安易な儲け話に乗ったり、今の苦しさに「救い」を求めな何かに飛びついた結果、おかしな宗教にハマったりすることです。
これらはごく一部の人だけだろうが、我々は簡単に言えば「幸せ」という漠然としたイメージに近づくよう先を生きている。
では幸せとは具体的に言うと、経済的に豊かになることやたくさんの人と関わることだったりするわけで、逆に東日本大地震で被災したり、観光バスや自動車事故で被害に合うようなことを一般的に不幸と呼ぶ。
つまり「心地よさ」を幸せと呼び、そうでないことを不幸と呼んでいて、これが行き過ぎると快楽主義になる。
もちろん天災や事故で身内を亡くしたとしたら計り知れない辛さがあるのは事実で、そのような危機を避けようと生きるてるのも事実です。
が、この幸と不幸を快楽主義だけにスポットを当ててしまうと、どうしても未来は効率的なもので、(快楽主義としての)不幸が起こりにくい社会でなければならなくなり、行き着く先は技術信仰やいつまでも長生きできることに価値が置かれてくるのです。
つまり、絶対に幸せや安全が約束される未来を要求してしまうのです。
未来に期待しすぎるがゆえに、次々と新しいものを求め、非効率を排除、合理性を追求することが習慣化してしまうのです。当然、過去の知恵や習慣は劣ったものとして軽んじられることになる。
こういう思考回路を「進歩主義」と呼ぶ。
この進歩主義への軽信に対して決定的に欠けているものがある。
それは今生きている者が信じることや考え方は、もしかしたら全員ヤバいことに片足をつっこんでるかも知れないという疑いを持たないことです。
それでも「幸せとは何か」と問うことが、「人のあり方はどうあるべきか」の問いに近い意味であることは、誰もが薄々感じているはずです。
であるならば、たまさか浮かんだアナタの意見やちょっとした専門家や有名人の意見で、ものの道理や公正なものを決められるなんて、危なっかしくて採用できっこない。
進歩主義に染まった意見に耳を傾けるのを止めるなら、何に問い合わせればよいか?
人間とは何か?尊重される人間とは誰か?
今生きてる人間だけが、「人間」ではないのです。
未来に生まれるものも、過去に生きたものもいて、人間が生きる上でよき知恵を残し、その知恵が未来へ運ぶものに値するかを吟味するものが「人間」であるならば、過去に問合せることがひとつ大事なことです。
これを「伝統主義」と呼ぶ。
「伝統」の中には過去人が長い歴史という時間をかけて道理の何たるかを考えを重ね時には争い、道徳とは何か、美意識はどうか、何が真理かなどを慣習や暮し方や精神のあり方の中にすべり込ませて来たのです。
つまり過去からの伝統には我々が生きるために必要な知恵がつまってるはずなのです。
これを無視して壊し、進歩主義に期待をかけ過ぎているから、おかしな政治やおかしな事件が起こるのでないでしょうか。一面の真理があると思います。
「君はなぜ明日を生きられるのか?」
少なからず誰もが昨日より今日、今日より明日の方が状況が良くなって欲しいと、明日の展望を何となく抱けているから生きる活力が湧いてくるものであろう。
もちろんはっきり意識されるものではない。
もし仮に明日になれば持ち金が尽き、1年後には周りから全ての人が自分の元から去ってゆくのを自覚されてしまえば、それは生きる活力も失われるだろう。
しかしそんな都合よく全ての未来に希望を持てるほど、簡単にゆかないことは現実生活で誰もが感じてもいる。
そこに誰もがおちいる罠(トラップ)がある。
「未来に対する前のめり」である。
簡単な例だと、安易な儲け話に乗ったり、今の苦しさに「救い」を求めな何かに飛びついた結果、おかしな宗教にハマったりすることです。
これらはごく一部の人だけだろうが、我々は簡単に言えば「幸せ」という漠然としたイメージに近づくよう先を生きている。
では幸せとは具体的に言うと、経済的に豊かになることやたくさんの人と関わることだったりするわけで、逆に東日本大地震で被災したり、観光バスや自動車事故で被害に合うようなことを一般的に不幸と呼ぶ。
つまり「心地よさ」を幸せと呼び、そうでないことを不幸と呼んでいて、これが行き過ぎると快楽主義になる。
もちろん天災や事故で身内を亡くしたとしたら計り知れない辛さがあるのは事実で、そのような危機を避けようと生きるてるのも事実です。
が、この幸と不幸を快楽主義だけにスポットを当ててしまうと、どうしても未来は効率的なもので、(快楽主義としての)不幸が起こりにくい社会でなければならなくなり、行き着く先は技術信仰やいつまでも長生きできることに価値が置かれてくるのです。
つまり、絶対に幸せや安全が約束される未来を要求してしまうのです。
未来に期待しすぎるがゆえに、次々と新しいものを求め、非効率を排除、合理性を追求することが習慣化してしまうのです。当然、過去の知恵や習慣は劣ったものとして軽んじられることになる。
こういう思考回路を「進歩主義」と呼ぶ。
この進歩主義への軽信に対して決定的に欠けているものがある。
それは今生きている者が信じることや考え方は、もしかしたら全員ヤバいことに片足をつっこんでるかも知れないという疑いを持たないことです。
それでも「幸せとは何か」と問うことが、「人のあり方はどうあるべきか」の問いに近い意味であることは、誰もが薄々感じているはずです。
であるならば、たまさか浮かんだアナタの意見やちょっとした専門家や有名人の意見で、ものの道理や公正なものを決められるなんて、危なっかしくて採用できっこない。
進歩主義に染まった意見に耳を傾けるのを止めるなら、何に問い合わせればよいか?
人間とは何か?尊重される人間とは誰か?
今生きてる人間だけが、「人間」ではないのです。
未来に生まれるものも、過去に生きたものもいて、人間が生きる上でよき知恵を残し、その知恵が未来へ運ぶものに値するかを吟味するものが「人間」であるならば、過去に問合せることがひとつ大事なことです。
これを「伝統主義」と呼ぶ。
「伝統」の中には過去人が長い歴史という時間をかけて道理の何たるかを考えを重ね時には争い、道徳とは何か、美意識はどうか、何が真理かなどを慣習や暮し方や精神のあり方の中にすべり込ませて来たのです。
つまり過去からの伝統には我々が生きるために必要な知恵がつまってるはずなのです。
これを無視して壊し、進歩主義に期待をかけ過ぎているから、おかしな政治やおかしな事件が起こるのでないでしょうか。一面の真理があると思います。
売国奴に告ぐ
中野剛志氏、三橋貴明氏の共著「売国奴に告ぐ」
今の日本の経済状況や問題の本質を鋭く指摘している本である。
今の日本はデフレです。
この本を読むにあたっては、デフレの本当の意味を知らなくても問題ありません。
だが、政策のことなど分からないオレのような一般人も、この人たちの客観的な意見を理解すれば、どうあるべきかがおのずと見えてくる。
デフレで苦労せずに済んでる人がいます。
公務員、学者、日銀、小金を貯め込んでる年寄り、そして日本の外で稼ぐ企業「グローバル企業」とこの本では言う。
デフレの影響を受けない立場と言っていいかも知れない。
この人たちが悪いという訳ではなく、この人たちはデフレの深刻さを分かりようがないということです。
中でもグローバル企業というのは、資本(お金)がグローバル(国際的)に動けば儲かる。
どういうことか?
より安いコストを求めて安い賃金で済む外国人を雇う。当然現地でだ。
結論から言えば、グローバル企業が儲かれば、日本人の失業者が増える、あるいは低賃金や不安定な立場の人が増えるわけです。
では何故、グローバル企業のやり方がまかり通るのか?
それはグローバル企業の意見が採用されてきたからに他ならない。グローバル企業は日本経済を下支えする重要な産業を担ってる企業が多い。
だから企業利益を優先する「新自由主義路線」を国をあげて率先してきたのです。
ではでは何故、「企業の自由な活動を政府は邪魔をしてはならない」という新自由主義路線は躍進してきたのか?
トリクルダウン理論を信じてきたからである。
トリクルダウン理論とは「金持ちが儲かれば、貧乏人もおこぼれにあずかれる」というアメリカ発の理屈です。
経済成長する前のつい最近まで、日本は皆ある程度似たような貧富の差だったわけだが、経済で競争することを、つまりアメリカ型の格差を受け入れさせるために用いられた理屈だったが、ふたを開けてみれば金持ちは貧乏人に恵むどころか、もっと稼ごうと一人勝ちをもくろみ、敢え無くこの理論は破綻してしまったのは、リーマンショックの顛末を見ればお分かりになるでしょう。
さて、長いデフレ不況で人々は貧しい生活を強いられてる。
貧しい生活とは具体的には戦争直後のような物が足りない状態なのだろうか。
いや、その逆で食料品、日用品など国内に物は有り余っている。
何なのか?
このデフレという危機下では食料不足のような危機でなく、目の前に物があっても買わない、あるいはお金を使いたくならない。
デフレとはある側面、物が有り余る「供給」が多すぎて、「需要」が追いつかないバランスが崩れてることで、売れなくて損をするから一旦作るのを止める。すると作る人手がいらなくなる。
企業が人を減らしたり、雇うとしても安い労働者を探すのは、そういう悪循環の流れです。
こうしてデフレの今、大きく経済全体が停滞しているのです。
大きく経済が停滞してるときにこの悪循環を止め、お金の流れを回すにはある一企業が人を少し雇ってもインパクトとしては小さい。大きく流れを変えるには?
そこで政府の公共投資という大きな経済介入で、たくさんの雇用を意図的に創り出す。
すっかり世論では公共投資というと、汚職や族議員による利権の温床として悪い意味として定着している。
しかし極論すればだが、中野剛志氏、三橋貴明氏ともこれでいいと言う。
経済というのは、市場の競争原理だけに任せ、自由な競争が理想だとするのは景気の波に乗ってるときはそれでいいのだが、本当の危機として経済が停滞するようはときは、トリクルダウン理論などのように絵空事ではなく、しっかり政府が監督しなければ、とんでもない格差を生んでしまうということです。
中野剛志氏、三橋貴明氏が言わんとすることは、デフレのような緊急事態のときに政府が経済をしっかり監督することは、煩わしい「規制」などではなく、公正さを保つための「調整」機能のことなのです。
こういうことを分からない知識人、ビジネス人をはじめとする自由主義者が本当に多い世の中になってしまったのです。
オレはズルをして儲ける奴、おいしい思いをしてる奴がいるからと言って、そのひとり一人をつるし上げたいなど思わない。
しかし、度を越した富(グローバル資本)の集中はまともじゃないと思う。
そういう風潮や政治を後押しする者は、容赦なくこう言っても差し支えないだろう。
「売国奴」と。
今の日本の経済状況や問題の本質を鋭く指摘している本である。
今の日本はデフレです。
この本を読むにあたっては、デフレの本当の意味を知らなくても問題ありません。
だが、政策のことなど分からないオレのような一般人も、この人たちの客観的な意見を理解すれば、どうあるべきかがおのずと見えてくる。
デフレで苦労せずに済んでる人がいます。
公務員、学者、日銀、小金を貯め込んでる年寄り、そして日本の外で稼ぐ企業「グローバル企業」とこの本では言う。
デフレの影響を受けない立場と言っていいかも知れない。
この人たちが悪いという訳ではなく、この人たちはデフレの深刻さを分かりようがないということです。
中でもグローバル企業というのは、資本(お金)がグローバル(国際的)に動けば儲かる。
どういうことか?
より安いコストを求めて安い賃金で済む外国人を雇う。当然現地でだ。
結論から言えば、グローバル企業が儲かれば、日本人の失業者が増える、あるいは低賃金や不安定な立場の人が増えるわけです。
では何故、グローバル企業のやり方がまかり通るのか?
それはグローバル企業の意見が採用されてきたからに他ならない。グローバル企業は日本経済を下支えする重要な産業を担ってる企業が多い。
だから企業利益を優先する「新自由主義路線」を国をあげて率先してきたのです。
ではでは何故、「企業の自由な活動を政府は邪魔をしてはならない」という新自由主義路線は躍進してきたのか?
トリクルダウン理論を信じてきたからである。
トリクルダウン理論とは「金持ちが儲かれば、貧乏人もおこぼれにあずかれる」というアメリカ発の理屈です。
経済成長する前のつい最近まで、日本は皆ある程度似たような貧富の差だったわけだが、経済で競争することを、つまりアメリカ型の格差を受け入れさせるために用いられた理屈だったが、ふたを開けてみれば金持ちは貧乏人に恵むどころか、もっと稼ごうと一人勝ちをもくろみ、敢え無くこの理論は破綻してしまったのは、リーマンショックの顛末を見ればお分かりになるでしょう。
さて、長いデフレ不況で人々は貧しい生活を強いられてる。
貧しい生活とは具体的には戦争直後のような物が足りない状態なのだろうか。
いや、その逆で食料品、日用品など国内に物は有り余っている。
何なのか?
このデフレという危機下では食料不足のような危機でなく、目の前に物があっても買わない、あるいはお金を使いたくならない。
デフレとはある側面、物が有り余る「供給」が多すぎて、「需要」が追いつかないバランスが崩れてることで、売れなくて損をするから一旦作るのを止める。すると作る人手がいらなくなる。
企業が人を減らしたり、雇うとしても安い労働者を探すのは、そういう悪循環の流れです。
こうしてデフレの今、大きく経済全体が停滞しているのです。
大きく経済が停滞してるときにこの悪循環を止め、お金の流れを回すにはある一企業が人を少し雇ってもインパクトとしては小さい。大きく流れを変えるには?
そこで政府の公共投資という大きな経済介入で、たくさんの雇用を意図的に創り出す。
すっかり世論では公共投資というと、汚職や族議員による利権の温床として悪い意味として定着している。
しかし極論すればだが、中野剛志氏、三橋貴明氏ともこれでいいと言う。
経済というのは、市場の競争原理だけに任せ、自由な競争が理想だとするのは景気の波に乗ってるときはそれでいいのだが、本当の危機として経済が停滞するようはときは、トリクルダウン理論などのように絵空事ではなく、しっかり政府が監督しなければ、とんでもない格差を生んでしまうということです。
中野剛志氏、三橋貴明氏が言わんとすることは、デフレのような緊急事態のときに政府が経済をしっかり監督することは、煩わしい「規制」などではなく、公正さを保つための「調整」機能のことなのです。
こういうことを分からない知識人、ビジネス人をはじめとする自由主義者が本当に多い世の中になってしまったのです。
オレはズルをして儲ける奴、おいしい思いをしてる奴がいるからと言って、そのひとり一人をつるし上げたいなど思わない。
しかし、度を越した富(グローバル資本)の集中はまともじゃないと思う。
そういう風潮や政治を後押しする者は、容赦なくこう言っても差し支えないだろう。
「売国奴」と。
タンパク質の塊
世の中には色んな人がいる。
レイプされた女性がそのまま妊娠してしまい生まれてきた子供、昔なら貧しい事情などで娼婦となり売春してできた子供。当然ながら彼らは望まれず愛されず、ひっそりと生まれ、生きている。
また、子供を身ごもった女は母性本能で必ず子供を愛せる保証などどこにもなく、現代ではよく聞かされる「子供を愛せない」母親も当然ありえる話で、彼女らは「子供を愛しなさい」と命令されても自然な形では愛せないのはある意味仕方がない話である。
「愛」の定義は非常にあいまいで難しいが、ひとまず「人から大切にされること」とするなら、「愛されない子供」たちの存在が意味することは、人にとって「愛は大事」ということが破綻しているということなのだろうか?
そうではない。
まずこう答えたい。
人間なんて多かれ少なかれ、そんな風に生まれてくるものだと。
たまたま大切に育てられる人とそうでない人。そのことが決定的に大事なのではない。
だから愛されなかったとしても、ふて腐れる必要もなく、子供を愛せないからといってストレスを感じる必要もない。
そんなことで絶望してるのは、自分を無条件で価値ある存在だと思い込んでるからである。
だが、人間など価値のない低俗な生き物だという意味とはまた違う。
低俗な生き物、そんな程度の存在でいられるほど我々は強くもないし、人間は賢いから犬猫のようにただ生存する生き物としてでなく、自分の存在する意味、自分の人生を意味あるものにしたい願望を持ち、必要な存在でいたいと願うのです。
つまり「人間」と「タンパク質の塊」とを決定的に区別する何かを必要としてるのである。
それは何か?
獣でも、単なる物質でもない、人としての道、「人の道」というと大袈裟かも知れないが、そんなものを抱かずにはおれない。
たまたま悲運な環境に立たされストレスの多い人生だったとする。そしてそのせいで自分の子供を虐待して挙句の果てに死なせて捕まり、誰かが決めた法律で裁かれ、牢屋に何年も入れられてしまったとすれば、そのように運命にただ翻弄されることこそが、本当の悲運なのです。
運よく愛される環境にいれればなおいいのだが、例え愛されない運命の下に生まれたとしても、人間と「タンパク質の塊」である人体とをはっきり区別するものがないと人格も崩壊するわけで、そこに「人の道」というものがあるはずなのです。
たまたま生まれてしまった子供を虐待し、自分のストレスの帳尻を合わせて生体のバランスを取ってるに過ぎないのだが、もしも「タンパク質の塊」から何とか逃れ、自分が生きた証として何かを成し遂げようと企てるなら、目の前のかわいいと思えない子供を義務感だけで立派に育てようとすることも人生なのです。
ミルクを欲しがり泣く子供を、うるさいなと思いながらエサを与えることは、あなたの存在する意味をその赤ん坊が教えてくれてるのです。
「愛が大事」なのは間違いではない。しかし、何らかの事情で「愛」が欠落した場合、子供への八つ当たりやお金による満足など何かで代償を支払わねばならないのなら、それは単に欲望の裏返しなのです。
人間の命は無条件で尊いというヒューマニズムは、時に人をタンパク質の塊へとおとしめる。
自分はタンパク質の塊で終わらないと人の道を歩みだしたとき、親に捨てられていようが、愛されてなかろうが、その人に価値が生まれ、魅力ある人間になるのではなかろうか?
しかし「人の道」などそう簡単に理解でき、実践できるものでもない。
日本人が1億2千8百万人いて、その内何人がそれを成し遂げられるか、おそらく少ないだろう。
だからこそ、「人の道」は目指す甲斐のある取り組みなのかも知れない。
レイプされた女性がそのまま妊娠してしまい生まれてきた子供、昔なら貧しい事情などで娼婦となり売春してできた子供。当然ながら彼らは望まれず愛されず、ひっそりと生まれ、生きている。
また、子供を身ごもった女は母性本能で必ず子供を愛せる保証などどこにもなく、現代ではよく聞かされる「子供を愛せない」母親も当然ありえる話で、彼女らは「子供を愛しなさい」と命令されても自然な形では愛せないのはある意味仕方がない話である。
「愛」の定義は非常にあいまいで難しいが、ひとまず「人から大切にされること」とするなら、「愛されない子供」たちの存在が意味することは、人にとって「愛は大事」ということが破綻しているということなのだろうか?
そうではない。
まずこう答えたい。
人間なんて多かれ少なかれ、そんな風に生まれてくるものだと。
たまたま大切に育てられる人とそうでない人。そのことが決定的に大事なのではない。
だから愛されなかったとしても、ふて腐れる必要もなく、子供を愛せないからといってストレスを感じる必要もない。
そんなことで絶望してるのは、自分を無条件で価値ある存在だと思い込んでるからである。
だが、人間など価値のない低俗な生き物だという意味とはまた違う。
低俗な生き物、そんな程度の存在でいられるほど我々は強くもないし、人間は賢いから犬猫のようにただ生存する生き物としてでなく、自分の存在する意味、自分の人生を意味あるものにしたい願望を持ち、必要な存在でいたいと願うのです。
つまり「人間」と「タンパク質の塊」とを決定的に区別する何かを必要としてるのである。
それは何か?
獣でも、単なる物質でもない、人としての道、「人の道」というと大袈裟かも知れないが、そんなものを抱かずにはおれない。
たまたま悲運な環境に立たされストレスの多い人生だったとする。そしてそのせいで自分の子供を虐待して挙句の果てに死なせて捕まり、誰かが決めた法律で裁かれ、牢屋に何年も入れられてしまったとすれば、そのように運命にただ翻弄されることこそが、本当の悲運なのです。
運よく愛される環境にいれればなおいいのだが、例え愛されない運命の下に生まれたとしても、人間と「タンパク質の塊」である人体とをはっきり区別するものがないと人格も崩壊するわけで、そこに「人の道」というものがあるはずなのです。
たまたま生まれてしまった子供を虐待し、自分のストレスの帳尻を合わせて生体のバランスを取ってるに過ぎないのだが、もしも「タンパク質の塊」から何とか逃れ、自分が生きた証として何かを成し遂げようと企てるなら、目の前のかわいいと思えない子供を義務感だけで立派に育てようとすることも人生なのです。
ミルクを欲しがり泣く子供を、うるさいなと思いながらエサを与えることは、あなたの存在する意味をその赤ん坊が教えてくれてるのです。
「愛が大事」なのは間違いではない。しかし、何らかの事情で「愛」が欠落した場合、子供への八つ当たりやお金による満足など何かで代償を支払わねばならないのなら、それは単に欲望の裏返しなのです。
人間の命は無条件で尊いというヒューマニズムは、時に人をタンパク質の塊へとおとしめる。
自分はタンパク質の塊で終わらないと人の道を歩みだしたとき、親に捨てられていようが、愛されてなかろうが、その人に価値が生まれ、魅力ある人間になるのではなかろうか?
しかし「人の道」などそう簡単に理解でき、実践できるものでもない。
日本人が1億2千8百万人いて、その内何人がそれを成し遂げられるか、おそらく少ないだろう。
だからこそ、「人の道」は目指す甲斐のある取り組みなのかも知れない。