ドル85円割れ、昨年11月以来
日本はデフレ不況が慢性的に続く中、追い討ちを掛けるかのごとく円高が深刻化している。昨年暮れあたりにどこかのエコノミストが景気は底を打ったと楽観視していたのは何だったのだろうか。
円高だから具体的にどうなるのかについておさらいしておくが、円高だと輸出産業が打撃を被る。日本はここ10年で国内需要が飽和状態になり、外需(輸出)に大きくシフトしてきた。そこに円高が直撃した格好で株安と円高の二重不況となってるわけです。市場で円は80円台をさまよってるが、輸出産業にとっては大変厳しい数字で結局雇用にも大きな影響を与えるわけです。つまり不況や日本の株安はまだまだ続くということです。
ここで不思議なのが日本経済が右肩上がりで盛り返しの期待を寄せられて円高なのかと思うとどうやらそうでないようだ。今、欧米も当然不況なのだが、片やドル安、ユーロ安である。そして欧米にとっての輸出はドル安、ユーロ安=円高であると都合がいいわけである。もちろん欧米にとっての輸出とはアジア向けで、今言えるのは円高がドル安、ユーロ安に連動したもの、つまり戦略的ドル安、ユーロ安に席巻されてしまってるのだ。
この状況をしっかり保護防衛する金融政策を、政府と日銀は取っていない。これこそが、今最も指摘しなければならないことです。
2010年の戦没者平和記念式典
小学生のとき夏休みの宿題で戦争反対の絵を描かされ、終戦記念日あたりの集団登校日に一斉に生徒達の作品が張り出されたものだ。
このようにひと昔前までは戦争=悲劇=平和=非核三原則という構図で、日本は戦争という悲劇を犯してしまったという定義、二度と起こさぬよう非武装や戦争放棄を唱えることが一般国民としての心情とされてきたような気がする。
しかし、ここに来てひとつの動きがあった。
これまでアメリカからは日本の非戦闘員に対する空爆に対して、それらしい謝罪をしてこなかったがオバマ政権が2010年の広島平和記念式典にルース駐日大使を派遣し無言の謝罪めいた行動が実現した。
これは日本が悲劇を犯したという論調と正反対で、アメリカ側は日本に対する空爆という間違いを犯したことを認める姿勢とも受け取れる。今まで表向きにならなかった戦争観だ。またそれを裏付けるかのごとく、広島に原爆を投下したエノラゲイ(B-29)の機長の息子はオバマ政権の行動を批判する形でアメリカ側の論調が別れる形となった。
しかしここで対米外交でいつも気をつけなければならないのが、オバマ政権の行動の真の目的がアメリカの国益にあるということである。反米の意見としてではなく、アメリカは国益を省みない行動をわざわざ取るような甘い国ではないということである。
第一、日本に対する攻撃を謝罪するなら、これまでアメリカが行ってきた戦闘を否定することにならないだろうか。それはアメリカの掲げる自由・民主主義の理念を否定することにもなりかねない。
更に9日の長崎の式典に駐日大使は欠席した。もしかしたら、エノラゲイ機長の息子の論調のようにアメリカ国内の世論からの圧力があったのかもしれない。
先般、オバマ政権は米国内において国民皆保険の政策などで大きく支持率を落としている。巻き返しを図るため、対日外交で何らかの成果を上げたいとも考えられる。沖縄の米軍基地移設問題。これもオバマ政権にとっては一定の成果を上げたい課題であるだろう。
このようにアメリカの戦略的な平和式典出席の意図は表ざたに語られることはないだろう。しかしNPT(核拡散防止条約)、いわゆる軍縮会議で日本やドイツなどの旧枢軸国に対する再軍備や日本の核武装を事実上、封じ込めたような狙いも視野に入れて論じねばならないのではなかろうか。
ネグレクト~大阪で起きた育児放棄事件
しかし逮捕翌日に「風俗店の仕事がしんどくて、育児もいやになった」と供述していたらしく、下村容疑者は、長女、桜子ちゃん(3)が生まれた当初は、真剣に子供の面倒をみており、子供との充実した生活を自身のブログにもつづっていたという。
遺体発見時、玄関やベランダは閉め切られ、熱気と異臭が鼻をついたという。室内はごみが散乱し、冷蔵庫に食べ物は入っていなかった。幼児2人は全裸で部屋の床に、寄り添うようにT字形であおむけに倒れていた。遺体の一部は白骨化し、周囲はごみが散乱していた。幼児は暑さのあまり、自分で服を脱いだ可能性もある。
幼い子供が親の愛着を受けられず、飢えと渇きと孤独の中で死んでいった日々を思うと絶望でしかなかったのではなかろうか。運良く救出されたとしても、危機的状況に置かれたトラウマ、母は何故見捨てたかと言う喪失感がこの子供たちに一生つきまとうことも含めて考えると、「生きていればいいことがあるよ」という言葉もむなしく聞こえてこないだろうか。
当然のことだが、多くの意見は残忍で卑劣な母親という意見や、通報したにもかかわらず救出できなかった周りの住民達や児童相談所の無力さなどが批判にさらされている。
そしてこの母親への憎しみの感情がこみ上げてくるのを押さえつつ、もう一歩踏み込み、何故悲劇が起こったか、深く洞察してみたい。
◆母親について
全ての始まりは子育てが嫌になったことに端を発する。
結婚生活から一転して離婚、ファッションヘルスの仕事へ転職のギャップ、
そしてブログに子育て日記を記していた生活から死んだ子供の遺体を「茶色くなっていた」と供述したギャップ。
「ホスト遊びが楽しくなって、自分の時間が欲しかった」と育児放棄の理由を語っている。
離婚→生活難→育児放棄という転落の経緯である。
しかし子育てが嫌になってしまうことは誰にでもあることでなかろうか。
離婚、夫の無理解、育児ノイローゼ、自己卑下。この母親と同じように悩む母は多いはず。
この事件と時を同じくして、テレビアナウンサーの山本真純氏が産後うつで飛び降り自殺を図った。一言で片付けるのは大変気の毒であるが、彼女の場合、自殺と言う最悪の形で育児を放棄した形となった。
更に離婚による影響も育児には当然大きな影響がある。
東京の離婚率はおおよそ50%に達したらしく、それだけ母子家庭は多いはずで、表面化してないが育児や生活に苦しむ母は想像以上にいるはずだ。
下村容疑者を鬼畜と評し、母性のない奴は産む資格はないといっても、母性を持てない者はどうすればよいか。不幸にもそんな親の元に産まれてしまった子供はどうすればよいのだろうか。
そして児童相談所や子供手当てなどはセーフティネットであって、これらの福祉が前に出過ぎて国家が子供を育てるという発想は遠回りに親の育児放棄を助長する要因にならないだろうか。
◆父親、祖父母、友人は何をしてたのか
できちゃった婚に対する自己責任論(「育てられないなら産むな」)や、お金があったらこんな悲惨な事件は起きなかったとかでは本質的な解決を導くことにならない。もちろん鬼畜と批判することだけや、この母親だけが罰せられるだけでは第二、第三の犠牲をなくすことにはならない。
児童相談所のあり方を問うのも長期的に必要だが、一家族の秩序が児童相談所に頼らざるを得ない程、家族関係がおかしくなっている。異常な事態なのだ。
そして異常な事態とは父親(元夫)や元夫と妻の親(祖父母)は何をしてたのか。子供を育てるのがいやになったと友人宅を転々としていたとき、友人は何をしてたのか。周りの大人たちも同罪とだけいいたいのではなく、この母親が育児放棄したくなる状況に陥るおそれを感じ取ることもできなかった身内(離婚しているが、亡くなった子供たちにとっては身内)、幼い子供を置き去りにしてるのに何かを感じとる力がない友人ら、身内や友人という人間関係が全く意味のない関係になってしまってる。他人と変わらない。
他人なら困って助けなくても誰に責められることもなく、死んでもそんなに悲しくない。他人の関係とそうでない関係の境界線がなくなりつつあるようにも思う。だから子供をほったらかしにしても自分は生きているからまあよしとする発想も生まれてくるのでないだろうか。
また児童相談所の権限強化や法制度の変更だけで解決を求めようとする声もあるが、つまるところ親に対する監視を強化するだけで、残念ながらこれだけでは根本的な親の子育てに対する悩みや育児負担を軽くすることにならない。